「何の義を以てか十と説く」(『述記』)
十遍染を会通する。
「十遍という言を説けることは、義いい前に説くが如し。」(『論』第四・三十四右)
(十遍染という言葉が文献に説かれている、その意味は前に説かれていた通りである。)
「述して曰く、初の家の説くが如し。二義に遍せるが故に」(『述記』第五本・五十六左)
十遍染を説く文献は『瑜伽論』巻第五十八を指します。巻第五十八に「随煩悩の放逸、掉挙、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散乱、不正知此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起こり、一切処三界の所繋に通ず」と。
(10月24日の項を参照して下さい。)十遍染との会通は五遍染師が会通した通りである。その意味は二義に遍在することから会通される、と説明されます。二義とは四義中の第三義の「解が麤と細に通じること」と第四義の「二性に通じること」という二つの条件を満たしていることから十遍染が説かれているということになります。
六遍染師の結論は
「然も此の意と倶なる心所は十九なり、謂く、前の九の法と、六の随煩悩と、並に念と定と慧と、及び惛沈を加うるとぞ。」(『論』第四・三十四右)
(以上述べてきたように、この第七識と倶なる心所は十九である。十九とは、前の九つの法と、六つの遍染の随煩悩と、念と定と慧と、そして惛沈を加えたものである。)
- 九つの法 - 四煩悩と五遍行
- 六つの遍染の随煩悩 - 不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知
- 別境の念と定と慧
- 随煩悩の惛沈 を加えた十九が第七識と倶であるという。
九つの法と六つの遍染の随煩悩については既に説かれており、又慧については五遍染師も第七識と相応すると認めており、既に説かれている通りである(10月11日の項を参照)。まだ説明がされていないのは、念と定と惛沈であり、次の科段で説明がされます。