唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(15)界を弁ず (2)

2017-08-01 22:11:08 | 初能変 第一 熏習の義
 
 後の三食について述べます。
 「触と意と思との食は三界に遍せりと雖も、而も識に依って転ずるを以て、識に随って有無なり。」(『論』第四・二右)
 (触食と意思食は三界に存在するとはいっても、しかし、この触食や意思食は識に依って、識を依り所として働いているものであるので、識に随ってその有無がある。)
 少し論題から離れますが、地獄・極楽を死後の世界と捉えると、死後の世界なんて信じられへんという返事が返ってきますね。地獄・極楽は両極端のように聞こえますが、そうではないですね。三悪道は言葉の通じない世界だと、よくいわれます。では何故言葉が通じないのでしょう。それは自分の思いが強いからでしょうね。物差しと云うか、自己中心の天秤が、それこそ、自然に出てきてしまうのでしょう。その事を知ることに由って開かれた世界に自己を開放するのでしょうが、自分の都合に叶うか叶わないかを重要視しているのが私の姿です。
 ここで問題です。聞法の落とし穴です。結論からいいますと、自分は分かったつもりで、分かったつもりを物差しとすることです。往々にしてこのような間違いを起してしまいます。聞法をしているのだけれども、悶々としているのは何故なんだというわけです。
 外界は自己の心の投影 
 他者は自分を映し出す鏡
 他者は自分の影像
 ということが分からんですね。
 自分では気づきを得ないのですが、平気で差別をし、批判をしています。そのことを思う時、自分は世界の宰相になりたいのでしょうね。バーチャルでも自分が宰相として、世界をぶったぎっているのではありませんか。
 食とあまり関係がなさそうですが、食の本質は、阿頼耶識に触れることにあるのですね。阿頼耶識は自己を超えて、自己を成り立たしめている原理だと思います。阿頼耶識がある日突然起こってくるのではありません。生と共に、死と共に存在するものです。生死を超えて、自己を成り立たしめている原理、それが阿頼耶識ですね。
 順観では触が最初です。触の心所は有漏法です。(?)が隠されていますが、(種子)ですね。無漏法という教えに触れなかったなら、有漏を依り所としてしか生きる術はないわけです。その折の食は段食になると思います。自己の依り所が分からない中での食の事ですね。何を食しても飽食になります。千と千尋のお父さん、お母さんを思い出してみてください。あの姿です。本人は、自分の姿に気づいてはいませんね。あれが私の姿なのです。此の私の姿が、言葉を生み出し、思想を生み出してくるのです。元は、有漏の種子に依ります。
 有漏の種子が問題なわけです。そこに食の意味がある。癡に関わってくる事柄ですね。
 本科段の意味はこういう事ではないのですが、食するということは、どういう意味があるのか、私論を差し挟みました。

十二月度 講義内容概略

2014-12-17 11:39:54 | 初能変 第一 熏習の義
 
『法相二巻鈔』(大正71・115a~c)より、種子について学びます。
 次種子ノ事ヲロ
T2314_.71.0115a22: 申候ベシ。先種子ト云フ物ハ。何ナル物ゾ。ナ
T2314_.71.0115a23: ニトシテ出キ。何樣ニ物ヲ生ズルゾ。種子
T2314_.71.0115a24: ト申物ハ。色心ノ諸法ノ氣分。色ニモ心ニ
T2314_.71.0115a25: モ。各々8實法アリ假法アリ。其中ニ實法
T2314_.71.0115a26: ハ皆種子ヨリ生ジテ種ヲ熏ズ。熏ト申ハ。
T2314_.71.0115a27: 己ガ氣分ヲ留メ置ク也。留メ置ク樣ハ。先*暫ク
T2314_.71.0115a28: 眼識起リテ。色ヲ見ルカトスレバ。軈テ滅
T2314_.71.0115a29: ス。滅スルカトスレバ。軈テ生ズ。生ト申
T2314_.71.0115b01: 候ハ。ヤガテ色ヲ見ナリ。如是念々生滅
T2314_.71.0115b02: スル間。其ニシラルル色モ見ル眼識モ。生
T2314_.71.0115b03: ル時ハ必9各ガ氣10分ヲノコス。ノコス所
T2314_.71.0115b04: ノ氣分ハ。色ノモ心ノモ皆カクレシヅミ
T2314_.71.0115b05: テ。其ノ形チ見ガタシ。併阿頼耶識ノ中
T2314_.71.0115b06: ニ落チ聚ル11氣分ヲ。種子ト名テ。此種子ヨ
T2314_.71.0115b07: リ色心ノ生ズルヲバ。現行ト名ク。色ハ
T2314_.71.0115b08: 色ノ種子ヨリ現行ス。必ズヲノレガ氣分
T2314_.71.0115b09: ヨリ現行シテ。他ノ氣分ヨリハ不現行。
T2314_.71.0115b10: 現行ト申ハ。種子ニテアル時ハ。カクレシ
T2314_.71.0115b11: ヅミタルガ。顯レ起リタルヲ申候也。眼
T2314_.71.0115b12: 識ノ如ク。耳識ノ起リテ聲ヲ聞キ。乃至
T2314_.71.0115b13: 末那識ガ阿頼耶識ノ見分ヲ縁スルモ。皆
T2314_.71.0115b14: 如ク是種子ヲ熏ズル也。凡ソ有爲ノ諸法ハ
T2314_.71.0115b15: 皆刹那刹那ニ生滅ス。刹那ト申候ハ。時ノ
T2314_.71.0115b16: 至テ短キ也。髮12筋切ルヨリモ猶速ニ。電ノ
T2314_.71.0115b17: 光ヨリ猶迅ン。時ノ次第ニ過キ行ヲ以テ御
T2314_.71.0115b18: 心ヘアルベク候。過ルハ則滅スル也。是ヲ
T2314_.71.0115b19: 過去ト名ク。來ルハ則生ズル也。是ヲ現在
T2314_.71.0115b20: ト名ク。未ダ來ラザル13後ヲバ。未來ト名
T2314_.71.0115b21: ク。何レノ物カサアラヌ事カ候。暫クモユラ
T2314_.71.0115b22: ヱテ過ヌホドト云物ナシ。^^^^^^^
 
 種子の六義が終わりまして、熏習について学んでいます。前回は熏習される処、所熏処について考究しました。所謂所熏の四義です。今回は、所熏するもの、能動的に種子を投げ入れていく方面ですね。能熏といいます。それに相前後するのですが、種子についておさらいをしておきたいと思います。『二巻鈔』を読んでいただきますと、解り易く説明がされています。少し読んでみます。
 種子の六義を学びましたが、一番目に刹那滅、三番目に恒随転これが積極的に種子を規定していますが、刹那生滅を繰り返しながら仏果まで至る、これが種子の積極的な意義であるということです。種子生現行は「併阿頼耶識ノ中ニ落チ聚ル氣分ヲ。種子ト名テ。此種子ヨリ色心ノ生ズルヲバ。現行ト名ク。色ハ色ノ種子ヨリ現行ス。必ズヲノレガ氣分ヨリ現行シテ。他ノ氣分ヨリハ不現行。現行ト申ハ。種子ニテアル時ハ。カクレシヅミタルガ。顯レ起リタルヲ申候也。」と釈され、阿頼耶識が所熏の法であることを明らかにしています。
 それとですね、阿頼耶識の三相を学びました。第八識の自相は阿頼耶識である。開いて、阿頼耶識の果相は異熟、因相が一切種であるということでした。自相がさらに阿頼耶識の三義として現され、阿頼耶識の三相に依って三位を立てるといわれているところです。三義の中の能蔵と所蔵が、能熏と所熏の四義に開かれてくるのですね。能蔵・所蔵は「謂く、雑染のために互に縁となるが故に、有情に執せられて自の内我とせらるるが故に、此れは即ち初能変の識に所有せらるる自相を顕示す。因と果とを摂持して自相となるが故に。」と。ここを受けてですね、どういう条件を具えているのが所熏となるのか、またどういう条件を具えているものが能熏となるのかが展開されてくるのです。おして前回は所熏の四義について説明をしてきました。所熏の四義は、一つには竪住性でなければならない。変化するものは所熏にはならない。その上に無記性でなければならない。性質の変わらないもの、選別をするものは所熏にはならない。すべてを受け入れるものでなかればならない。そして熏習を受け入れる、すべての経験を受けとめる力をもっているものでなければならない。最後は能・所和合性です。熏習を受け入れる処と、熏習を植え付けるものが和合していなければならないと結論していました。阿頼耶識が所熏の法であるということは、阿頼耶識は阿頼耶識そのものの中に種子を受け入れるものであって、阿頼耶識そのものは種子を熏習することはないのですね。
 そして問題となるのは、阿頼耶識が所熏の法であり、能熏は必ず阿頼耶識以外の七つの転識、現行法といわれていますが、能熏は七転識であるということですね。問題は、阿頼耶識そのものの種子を熏習するものは何かということです。これは阿頼耶識そのものの種子を熏習するものは第六意識と第七末那識である。そうしますと、第六意識と第七末那識はどこが違うのかです。第七末那識は「恒審思量」と定義されていますように、第七末那識と同時に働く有身見は、任運である・一類である・恒相続である。しかし第六意識は考えられたものですから、任運ではない、変化しますから一類ではない、そして間断がありますから恒相続ではないということになります。
 八識という、すべての識にいえることです。それぞれの識を生ずる自らの種子というのは「見分の種子」なのです。阿頼耶識を生ずる種子は見分の種子ということになります。そうしますと、阿頼耶識の見分を対象としているのは第六意識と第七末那識ですから、阿頼耶識の種子を熏ずるのはこの二識に限られるということになります。「末那識ガ阿頼耶識ノ見分ヲ縁スルモ。皆如ク是種子ヲ熏ズル也。」と、阿頼耶識の見分を所縁として自我と執したことが種子として熏習されることになります。意識はさまざまな縁を伴って阿頼耶識の見分に働きかけます、それが種子として阿頼耶識の中に熏習していくことになります。
 所熏の四義は、『摂大乗論』にも同じ定義が述べられていますが、能熏の四義につきましては、護法菩薩独自の見解になります。能ですから、熏習する方の働きの定義になります。
 所熏は受け入れる方、能熏は能動的に種子を受け入れさせる方になります。しかし、この法則は同時同処で和合しているのですから不即不離と云う関係になりますね。
 能熏の四義の概略を述べますと、
1.  有生滅(ウショウメツ)。有為法は常住ではありませんから作用があり、作用があるから能く種子を熏習することが出来る。
2.  有勝用(ウショウユウ)。 (1) 能縁の勢用(セイユウ) (2) 強盛(ゴウジョウ)の勢用の二つがあります。
3.  有増減(ウゾウゲン)。能く種子を熏習するものは勝れた作用があって、その上に増減するべき性質のものでなければならない、とされます。
4.  所熏と和合して転ず。所熏と能熏は不即不離の関係でなければ種子を熏習することは出来ない。
 能熏となり得るものは七転識であると明らかにしているのです。七転識の心王と心所有法には能熏の勢力(セイリキ)がある、ということになります。
 これは、因位の第八識(所熏処)と果位の諸識及び因位業果の前六識は能熏の四義を備えていないので能熏とはならないということです
 詳細を述べますと、。
能熏の四義、その (1) 有生滅(ウショウメツ)
 「一(ヒトツ)には有生滅、若し法の常に非ずして能く作用(サユウ)有て習気(ジッケ)を生長(ショウジョウ)する乃ち是れ能熏なり。」
 「此は無為は前後不変にして生長の用無きが故に能熏に非ずと遮す。」(『論』)
 有為法と無為法を対比させ、有為法は常住ではなく作用がある、作用あるものは能熏となり得るが、作用の無い常住無生滅のものは能熏とはなり得ないと遮しているのです。
 宗 - 「作用有るを以ての故に方に能熏なり。」
 因 - 「無為をば簡ぶ因なり。」
 喩 - 「種子の生滅の用有るが故に能く果を生ずるが如し」
                             (『述記』)
 この科段では、能熏の条件の一つとして、有生滅、生滅する性質の有るものが種子を熏習していくのである、ということ。生滅変化が有る働きがあって、習気を生長させることができるのである、これが第一の条件になっています。
 私が、今、現に、此処に命を頂いているのは、無始以来からの諸条件に依っているんですね。種子生現行という有生滅の中で、「なに一つ無駄ではなかった」と云い切れる自分に出遇っていくことが大事なことなんでしょう。現在を通すということです。迷いの境涯が縁となって如来の本願に出遇っていく。本願があるわけではないのですね。迷いが大事だと教えているのです。
 「遇」、たまたま、ということですが、出遇ったということが、たまたまの出来事であったと云うことでしょう、背景に不生不滅の無為法に触れた感動が躍動していますね。ですから、出遇ってみれば必然であった、このこと一つに出遇うことがなかったならば、流転していることさえわからないまま、因果を分断し、他因自果として迷妄の渦の中に自己を埋没させているのではないでしょうか。
 世間 - 有為有漏
                  }  有生滅
出世間 - 有為無漏
 法 - 無為無漏     -  無生滅(不生不滅)
 難しいところではありますが、法が有って出遇うということではないでしょうね。此れだと「法体恒有」になりますから、法執ですね。そうではなく、聞法を通して「仏願の生起本末を聞く」ことが熏習し、習気を生長させながら現行してくる有様が、出遇ってみれば、如来の一人働きであった、という他因ではなく、自分を通してですね、自生自果として必然の世界が現出されてくるのでしょう。種子とは「親しく自果を生ずる功能差別」と教えられていましたが、聞法を通すわけですね。聞法が増上縁となり、自生自果という因縁が生起してくるのでしょう。その背景に如来の働きがあることを知るのでしょうね。
能熏の四義、第二番目は有勝用(ウショウユウ)
 「若し生滅有り勢力増盛(セイリキゾウジョウ)にして能く習気(ジッケ)を引く乃ち是れ能熏なり。」(『論』)
 第一番目に説かれていました有生滅ですね。それと勢力が増上であるものが能熏の条件であり、有勝用と名けられる。
 七転識が持つ性質の一つであり、善・不善という強い勢力を持っているものが能熏となり得る、と説いていますから、当然、勢力贏劣のものは能熏とはなり得ないのです。
 『述記』には、勝用に二つあると説いています。
•  「一つには能縁の勢用(セイユウ・作用のいきおい)。これは諸色を簡ぶ。相分と為して熏ず。能縁として熏ずるものには非ず。」
•  「二つには強盛の勝用。謂く任運起にあらず。即ち類別の異熟心等の縁慮用有れども強盛の用無きを簡ぶ。相分と為して熏ぜらる。能縁として熏ずるものには非ず。」
 能熏でないものは、
1.  色等は強盛の用はあるが、能縁の用は無い。
2.  異熟心等は能縁の用はあるが、強盛の用は無い。
3.  不相応法は二の用無し。
 色法は、質礙(ゼツゲ・物の妨げる性質)であって縁慮(エンリョ・対象を認識する心の作用)ではない。所縁相分として熏ぜられる。
 異熟無記の心心所は任運起であって、その勢力は甚だ贏劣である。所縁相分として熏ぜられる。
 不相応行法は二つ共に無いから能熏とはならない。
 「此は異熟の心心所等は勢力贏劣(セイリキルイレツ)なるが故に能熏に非ずと遮す。」(『論』)
 贏(ルイ)とは弱いという意味です。贏劣は、力が弱い、虚弱であるということ。
 「因是善悪・果無記」というところに、聞法は成り立っていることを思うわけです。恒に問われ続けている自分が存在している、そこに見えてくるものが反逆者としての自分である、唯除の自覚であろうと思われます。聞法を縁として熏習が起こるということでしょう。
 七転識によって熏習が生起するわけですが、この七転識が恒に問われているということなのですね。厳密には、第七末那識の一面である染汚意(ゼンマイ)が問われていることです。一面というのは、
 「染汚末那は四煩悩と恒に相応す」という一面と、その背景にある「染汚末那を転ずるが故に平等性智を得る」という一面なのですね。転ずる契機をもつのが第七末那識ということになりますから、種子(善・悪・無記)生現行(無記)・現行(善・悪・無記)熏種子という刹那生滅の因果関係ですね。一瞬の中に目覚めを与えるのが横超の大菩提心と、親鸞聖人は押さえておいでになるのでしょう。
 尚、種子生現行の種子を熏習と押さえ、現行熏種子の熏種子を習気と押さえています。因と果の違いに由るわけです。
能熏の四義の三番目は、有増減(ウゾウゲン)になります。
 「三(ミツ)には有増減、若し勝用(ショウユウ)有りて増す可く減ず可くして習気を摂植(セツジキ)するいい、乃ち是れ能熏なり。」
 摂植 - 摂殖と同義です。この場合には、ショウショクと読ませています。セツジキと読んでますが、間違いではないようです。阿頼耶識の中に種子を植え付けることを意味します。
 ここは、現行熏種子の条件を述べています。この場合の「熏」は習気を指しますが、阿頼耶識の中に種子を熏習させるのは、勝用(勝れた作用)が有って、勝用の上に増すべく、減ずべき性質のものでなければならないと規定しています。
 増減の有るものが能熏の条件であって、増減のあるものが種子を熏習するのである、と。増減があるというのは、能動的であるということ、動いている。何が動いているのかと云うと、聞熏習によって、無漏種子が増長され、有漏種子が減ずるということなのですね。
 私たちが生きていることは、能動的ですね。能動的側面が相続して、すべての行為が選択されることなく阿頼耶識の中に蓄積されるのです。阿頼耶識の所蔵面です。七転識が能縁・阿頼耶識が所縁になります。
 生きることの厳しさが教えられています。否応なくです。「疲れたな、嫌やな」と思ったことが即時に熏習されるんですね。仏法に遇う、聞法という機縁がなければ、永遠に迷いの淵を彷徨うことになります。
 先日の定例会で教えていただいたことは、「私はどこに向かっているのか」、その方向性がはっきりしていないのではないか、ということです。はっきりしていないと、どうなるか、あるものに縛りつくんです。一番は自分です、自分に執着を起こすんですね。これは当然の帰着なんです。そして有頂天と奈落の底を往ったり来たりしながら一生を空しく過ごしてしまうのでしょう。そのことさえわからないままにです。仏陀はこのような有様を「無明」と教えて下さっています。無明に気づけ、ということなんですね。因は執着でしょう。自我分別の根本は我執と教えられています。我執によって大菩提心が障碍されていきます。我執によって所執がもたらされ、紛争の種になるんですね。善行もまた憎しみを生み、妬みを生み、怒りを生み出してくるのでしょう。
 「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」(『歎異抄』第四条)
 「聖道の慈悲というは」と巻頭言がついていますね。聖道の中身が問題になるでしょう。聖道を証するということは、自利利他円満の仏陀ではありませんから、煩悩の習気が残っているんでしょう。所知障です。(無意識の領域の中に横たわっている)根本我執ですね。これが問題でしょう。究極のところ、「我が身」可愛さが残るんですね。そうでありますから「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」という教えに出遇っていくことが絶対条件になるといっても過言ではないと思います。
 能熏が教えていることは、私は、今、何を、なすべきかと鋭く厳しく問い続けているのだと思います。そのことが問いとなって、「依」の問題が提示されるのではないでしょうか。
 「何所依・何故依・云何依」(何の所にか依る。何の故にか依る。云何が依る、と)ですね。曇鸞大師は「何所依は修多羅に依る。何故依は如来は真実功徳の相なるを以ての故にと。云何依とは五念門を修して相応するが故に」と釈しておられます。(『論註』真聖全p284)
 ここに曇鸞大師は、天親菩薩の一心五念門を、因の五念門、果の五功徳門と開いて教えて下さっています。即ち五念門を初めの四念門を自利(入)・第五の廻向門を利他(出)とし、因として果を導き出す、それが五功徳門でしょう。礼拝門を開いて近門・讃嘆門を開いて大会衆門が正定聚に住す功徳になり、作願門を開いて宅門・観察門を開いて屋門が滅度の功徳ですね。この初めの四功徳門が果相とし、五念門と四功徳門で往相廻向を明らかにされているのではないでしょうか。そしてこの全体が如来の自利とされているのですね。そして廻向門を開いて五功徳門最後の園林遊戯門を出第五門として利他を顕し、還相廻向として如来廻向の全体像を明らかにされているのでしょう。
 天親菩薩の一心五念門と曇鸞大師のご苦労を以て、私たちは阿弥陀如来を増上縁として教えを聞いていくことが出来るのでしょう。唯識で教えられている所熏・能熏の意義が何故厳しく問われているのかをうかがい知ることができると思われます。
有増減は、何を遮すのかですが、仏果の善法のような既に円満したものを簡ぶのですね。
 「此は仏果の円満の善法は増も無く、減も無し、故に能熏に非ずと遮す。便ち円満に非ず、前後の仏果に勝劣有りぬべし。」(『論』)
 仏果は熏習することなく、円満の善法(四智品)は増もなく、減もないので能熏にはならないと遮しているわけです。
 若し、仏果に能熏があるとすれば、どのような過失があるのかですね、仏果の諸識に能熏の作用があるならば、それは円満とはいえないだろう、即ち仏果は円満にして増減がないものである。よって仏果は熏習する本体にはならないのである、と説いています。
 四智品 - 大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智
 第四番目は、所熏の四つめと同じ和合転です。この科段は、(能熏は)所熏と和合して転ず、と云われています。
 「四には、所熏と和合して転ず。若し所熏と同時同処にして不即不離なる、乃ち是れ能熏なり。」(『論』)
 「述して曰く。要ず同時処なり、方に是れ能熏なり。所熏に説くが如し」(『述記』)
 所熏に説いてきた通りである。
 「此は、他身刹那前後との和合する義無きが故に能熏に非ず。」(『論』)
 遮するものは、所熏で述べてきたのと同じになります。刹那前後でもなく、他身でもない、このようなものは熏習とはなり得ないということになります。
 総結
 「唯七転識と及び彼の心所とのみ勝れたる勢用有りて而も増減する者のみ、此の四義を具するを以て是れ能熏なる可し。」(『論』)
 「述して曰く。総結なり。
 (心心所に約す) 即ち能縁の中の七転識と心所との等きを能熏と為す。若し相分と為るは何の法が障と為さん、即ち第八識は六・七識が為の所縁なるが故に、相分と為して熏ぜらる。
 (四分に約す) 何の分をか能熏と為するや。唯だ自体分のみなり。自体分のみ唯だ熏を受くるが如くなるが故に。見分の体なるが故に。」(『述記』)
 能熏となり得るものは、七転識の心王・心所のみであると論じています。所熏は阿頼耶識。現に働いている七転識が能熏となる、という。この七転識の心心所は強い勢力を以て阿頼耶識に種子を植え込んでいくのです。
 自分が自分の種子(経験のすべて)を宿し、この種子が表に現れて現実の私の人生を構成してくるわけですね。問題にしているのは、私はどこに向かっていこうとしているのか、私の人生の指針はどこに依るのか、のよって生きる方向性が違ってきます。本当にどうなりたいのかですね。死ぬのが嫌だから、働いて生きている、という方もおいでになりましたが、これでは自分の思い、自分の考え、自分を拠所にした人生観しか生まれてきません。仏教は、これを一切皆苦と教えてきたのではないでしょうか。苦を厭うわけでしょうが、かえって縛られることになってしまいます。
 「是の如く能熏と所熏との識は、倶生・倶滅して熏習の義成ず。」(『論』)
 このように、能熏と所熏の識は、倶生倶滅という、同時に生じ同時に滅しながら阿頼耶識の中に熏習していくのである。能熏・所熏は必ず倶に生滅して種子を熏習させる。「本識中親生自果功能差別」である。そして
 「所熏の中の種子を生長せ令むること、苣勝(コショウ)に熏ずるが如し。故に熏習と名く。」(『論』)
 阿頼耶識の中に蓄積された種子を熏習し生長させるのは、恰も、苣勝に熏ずるようなものである。
 苣勝 - 苣藤(キョトウ)とおなじ。胡麻の異名。阿頼耶識に種子が熏習される喩として用いられている。
 仏法は皮膚を通して染み入ってくんだ、と教えていただいていますが、染み入るということが、ここでは熏習と説かれているのですね。
 三法展転因果同時(サンポウチンデンインガドウジ)を述べる。
 「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(シュ)の焰(エン)を生じ、焰(エン)生じて炷(シュ)を燋(ショウ)するが如し。亦、束蘆(ソクロ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこと理傾動(リキョウドウ)せず。」(『論』)
 本科段は、「三法の喩を挙げて三法の体に喩う」(『述記』)といわれています。
 三法とは、種子・現行・種子の循環性を現します。種子生現行・現行熏種子です。更互に因と為り、果と為る。現行は種子が表に現れた相であり、種子生現行であり、同時に表に現れた行動が種子として蓄積されていく、この面を現行熏種子いわれています。この関係が同時因果であるのです。
 黒板にも書きましたが、種子が因と為って現行が果として生じ、生じた現行が因と為り、阿頼耶識の中に果としての種子を熏ずる。
 因としての、種子・果としての現行・因としての、現行・果としての種子これら三つからなる因果の連続が同時に起こることを三法展転同時因果と云う。
     「現われた自己は隠れた自己である。」(太田久紀師)
     「諸法をば識に於て蔵す。識を法に於ても爾り。更互に果性と為り、亦常に因性と為る。」(『阿毘達磨経』)
 種子が現行を生ずる場合には、生ずる縁が介在するわけです。さまざまな縁に依って生起してくるわけですから、衆縁(生)に依る、衆縁に依らない場合には現行は起こらず、種子は種子として阿頼耶識の中に蔵せられます。種子生種子として。
  今回は、終りから七行目の後半の「唯、七転識と及び彼の心・心所といい」より「略して一切種の相を説く」までを述べていきます。
 「そうしますと、どういうものが熏習することができるのかということになります。ただ七転識と七転識の心・心所です。七転識の心王・心所有法ですね。眼・鼻・耳・舌・身・意と第七末那識(我執の心)という、私たちの具体的な心の働きです。第八識を除いて七転識、而も仏ではないもの。「仏果の円満の善法は増もなく減も無きが故に能熏に非ず」と説かれていました。勝れた勢用(セイユウ)があって、そして増減するもののみ、そういうものが七転識であって、これが能熏である。このような(能熏の)四義を具えているもの。以上が能熏の四義である。
 次は、種子と熏習する意義を釈す。このように能熏(七転識)の四義を具え、所熏(第八識)の四義を具えていることにおいて、この二つの識が倶に(いっしょに)生じ、倶に滅する。他身と刹那前後では駄目なんです。「倶生・倶滅して熏習の義を成ずる」ものでなければならないのです。所熏の種子を生長(ショウチョウ)せしめるということは、恰も苣勝(コショウ)に熏ずるようなものである。胡麻の油に花の香りを染み込ませる。その油をクリームとして体に塗るわけです。古代インドの人は肌ケア―として、そういうものを作っていたんでしょう。胡麻の油に花の香りを染み込ませるようなものを熏習というんだと。香りが胡麻の油に熏習するわけですね。それと同じように、七転識が起ると第八識の中に熏習が生起する。同一刹那に種子と現行を生ずる。種子生現行です。時間的なずれがない、「今」の一刹那に種子から現行している。今の時をおいてないわけです。熏習する時も現行が生じている。その時にですね、その時をおいてほかに熏習する時はない。因と果は同時である。これを三法展転因果同時(サンポウチンデンドウジインガ)という。(仏教の時間論)
 喩が二つ出されていました。
 次に部派の倶有因と士用果をもって説明します。倶有因というのは互いに因となるということです。因の方面から倶有因といい、果の方面から士用果(ジユウカ)といっています。部派では六因・四縁・五果を立てますが、その六因の中の倶有因と相応因によってもたらされる果を士用果といっています。
 倶有因、お互いが因となって、倶にあることにおいてお互いが因果になっている。自分の中に蓄積されたものが今の私の生き方に現れている。これが種子が現行している姿です。この方面が種子生現行。表に現れた現行は即座に種子と為って蓄積されますから、これを現行熏種子といいます。種子(本種)・現行・種子(新種)これが三法、三法はお互いに関わりあって因果同時であるということです。因が果となり、果が因となって相続していく、こういう構造です。大乗仏教では、同時因果関係のみが因縁である。四縁(因縁・等無間縁・所縁縁・増上縁)の中の因縁のみが阿頼耶識の中の種子であると唯識はいいます。
 「種子の前後して自類相生することは、同類因を以て等流果を引くと云うが如し」。
 先程までは、種子(因)生現行(果)・現行(因)熏種子(果)。これは同時因果であることを述べていましたが、今度はですね、種子はそれだけではないということを説明します。種子のもう一つの要素は、種子は前後相続して続いていきますから、それによって種子生種子という形で前後相続していくわけです。種子の自類相生です。善の因は善の種として、悪の因は悪の種としてつづいていくわけです。これは永遠につづいていくわけです。これが業ですね。しかし、業は果たせば消える。犯罪を犯したとすれば、罪を償うことにおいて犯した事実は消えないが、償うことに於いて業を果たしたということになるんですね。
 これは今生きているという事実を考えるとよくわかります。今私たちは過去の業を果たしているんですね。ですから現行されたものは無記なんです。その無記の現行に、善悪という新しい業を造っていくんですね。
 過去における善悪業ですが、「今」という時に、過去の業を受けながら、過去の業を果たしつつ生きている。私たちは「今」という時を得ているわけですね。どれほど大切な時を得ているか、考えたことも有りませんから、これを罪というんでしょうね。「謗法罪・五逆罪」という時の罪ですね。この罪が「唯除」だと。唯除を生きている、生きていると云う傲慢さが唯除されるんでしょう。
 種子が前後し、自類相生して永遠に残っていく、それが「同類因を以て等流果を引くと云うが如し」と、部派の言葉を以て喩えていますから「如し」(そのようなものだ)ということになります。
 「此の二は」、種子生現行と現行熏種子の同時因果と、もう一つの種子生種子、この二つのが果において因縁性である。どちらが欠けても種子にはならない。唯識は、種子生現行・現行熏種子・種子生種子だけを因縁といいます。この余の法はすべて因縁ではないのです。部派の説く六因五果は仮に説いているだけである、と。•
 

十一月度 『成唯識論』講義テキスト

2014-11-24 21:52:50 | 初能変 第一 熏習の義
 前回までに、種子の六義が終わりまして、今回は熏習について、何が所熏であり、何が能熏になるのかを学んでいこうと思います。テキストの概略につきましては以前に書き込みをしております。参照していただけたらと思います。今回はテキストの読み下し分を掲載いたしました。
  ファイル添付の方法がわかりませんので、読みにくいと思いますがお許し下さい。
  十一月度講義 十一月二十七日木曜日・午後三時より 八尾市本町 聞成坊において 
 
 (所熏(しょくん)の四(し)義(ぎ))
 何等(なんら)の義(ぎ)に依(よ)ってか熏習(くんじゅう)の名(な)を立(た)つるや。所熏(しょくん)と能熏(のうくん)と各四(かくし)義(ぎ)を具(ぐ)して、種(しゅう)を生(しょう)・長(ちょう)せ令(し)むるが故(ゆえ)に熏習(くんじゅう)と名(なづ)く。
 何等(なんら)をか名(なづ)けて所熏(しょくん)の四(し)義(ぎ)と為(な)す。
一(ひとつ)には堅(けん)住性(じゅうしょう)。若(も)し法(ほう)の始終(しじゅう)一類(いちるい)に相続(そうぞく)して能(よ)く習(じっ)気(け)を持(じ)す。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は転(てん)識(じき)と及び声(しょう)と風(ふう)等(とう)とは性(しょう)竪(けん)住(じゅう)なら不(ざる)が故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
二(ふたつ)には無記性(むきしょう)。若(も)し法(ほう)の平等(びょうどう)にして違逆(いぎゃく)する所無(ところなく)して能(よ)く習(じっ)気(け)を容(い)る。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は善(ぜん)と染(ぜん)とは勢力(せいりき)強(ごう)盛(じょう)にして容納(ゆうのう)する所(ところ)無(なき)が故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。此(これ)に由(よっ)て如来(にょらい)の第八淨(だいはちじょう)識(しき)は、唯(ただ)旧種(くしゅ)のみを帯(たい)せり。新(あたら)しく熏(くん)を受(う)くるものには非(あら)ず。
三(みつ)には可熏(かくん)性(しょう)。若(も)し法(ほう)の自在(じざい)にして、性(しょう)竪(けん)密(みつ)に非(あらず)して能(よ)く習(じっ)気(け)を受る。乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は心所と及び無為法とは他に依て竪(けん)密(みつ)なるが故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
四には能熏(のうくん)と共(とも)に和合(わごう)する性(しょう)。若(も)し能熏(のうくん)と同時(どうじ)同処(どうしょ)にして不即(ふそく)不離(ふり)なる乃(すなわ)ち是(こ)れ所熏(しょくん)なり。此(これ)は他身と刹那前後とは和合(わごう)の義無きが故(ゆえ)に所熏(しょくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
唯(ただ)異(い)熟(じゅく)識(しき)のみ此(こ)の四(し)義(ぎ)を具(ぐ)して是(こ)れ所熏(しょくん)なる可し。心所(しんじょ)等(とう)には非(あら)ず。


 (能熏(のうくん)の四(し)義(ぎ))
 何等(なんら)をか名(なづけ)て能熏(のうくん)の四(し)義(ぎ)と為(な)るや。
 一(ひとつ)には有(う)生滅(しょうめつ)。若(も)し法(ほう)の常(じょう)に非(あらず)して能(よ)く作用(さゆう)有(あり)て習(じっ)気(け)を生長(しょうじょう)する。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は無為(むい)は前後(ぜんご)不変(ふへん)にして生長(しょうじょう)の用(ゆう)無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 二(ふたつ)には有(う)勝用(しょゆう)。若(も)し生滅(しょうめつ)有(あ)り勢力増(せいりきぞう)盛(じょう)にして能(よ)く習(じっ)気(け)を引く乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は異(い)熟(じゅく)の心(しん)心所(しんじょ)等(とう)は勢力臝劣(せいりきるいれつ)なるが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 三(みつ)には有(う)増減(ぞうげん)。若(も)し勝用(しょうゆう)有(あり)て増(ぞう)す可(べ)く減(げん)ず可(べ)くして習(じっ)気(け)を摂植(せつじき)する。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は仏果(ぶっか)の円満(えんまん)の善法(ぜんほう)は増(ぞう)も無(な)く減(げん)も無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。彼若(かれも)し能熏(のうくん)ならば便(すなわ)ち円満(えんまん)に非(あら)ず。前後(ぜんご)の仏果(ぶつか)に勝劣(しょうれつ)有(あ)りぬべし。
 四(よつ)には所熏(しょくん)と和合(わごう)して転(てん)ず。若(も)し所熏と同時(どうじ)同処(どうしょ)にして不即(ふそく)不離(ふり)なる。乃(すなわ)ち是(こ)れ能熏(のうくん)なり。此(これ)は他(た)身(しん)と刹那前後(せつなぜんご)とは和合(わごう)の義(ぎ)無(な)きが故(ゆえ)に能熏(のうくん)に非(あら)ずと遮(しゃ)す。
 唯七転(ただななてん)識(じき)と及(およ)び彼(か)の心所(しんじょ)とのみ勝(すぐれ)たる勢用(せいゆう)有(あり)て而(しか)も増減(ぞうげん)するのみ。此(こ)の四(し)義(ぎ)を具(ぐ)するを以(もっ)て是(こ)れ能熏(のうくん)なる可(べ)し。


 是(かく)の如(ごと)く能熏(のうくん)と所熏(しょくん)との識(しき)は、倶生(くしょう)・倶滅(くめつ)にして熏習(くんじゅう)の義(ぎ)成(じょう)ず。所熏(しょくん)の中(なか)の種子(しゅうじ)を生長(しょうじょう)せ令(し)むること、苣(こ)勝(しょう)に熏(くん)ずるが如(ごと)し。故(ゆえ)に熏習(くんじゅう)と名(なづ)く。能熏(のうくん)の識(しき)等(とう)は種(しゅう)従(よ)り生(しょう)ずる時(とき)に、即(すなわ)ち能(よ)く因(いん)と為(なっ)て復(ま)た種(しゅう)を熏(くん)成(じょう)す。三法(さんぽう)展転(ちんでん)して同時(どうじ)因果(いんが)なること、炷(しゅ)の焔(えん)を生(しょう)じ焔(えん)生(しょう)じて炷(しゅ)を燋(しょう)するが如(ごと)し。亦束蘆(またそくろ)の更互(こうご)に依(よ)るが如(ごと)し。因果倶(いんがく)時(じ)なりと云(い)うこと理傾動(りきょうどう)せず。能熏(のうくん)が種(しゅう)を生(しょう)じ、種(しゅう)が現行(げんぎょう)を起(おこ)すことは倶(く)有因(ういん)を以て士用果(じゆうか)を得(う)と云(い)うが如(ごと)く、種子(しゅうじ)の前後(ぜんご)にして自類(じるい)相生(そうじょう)することは、同類因(どうるいいん)を以(もっ)て等流果(とうるか)を引(ひ)くと云(い)うが如(ごと)し。此(こ)の二(に)は果(か)に於(お)て是(こ)れ因縁性(いんねんしょう)なり。此(これ)を除(のぞい)て余(よ)の法(ほう)は皆(みな)因縁(いんねん)に非(あら)ず。設(たと)い因縁(いんねん)と名(づな)けたるも応(まさ)に知(し)るべし、仮説(けせつ)なりと云(い)うことを。是(こ)れ略(りゃく)して一切(いっさい)種(しゅ)の相(そう)を説(とく)と謂(い)う。」