唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (48) 触等相応門 (30)

2011-11-09 20:38:31 | 心の構造について

 第二説・第二師の説(六遍染説)は第七識と十九の心所が相応すると述べています。そしてこの中、不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知は遍染の随煩悩であることが明らかにされていますが、それでは何故、掉挙・惛沈の二の法は遍染の随煩悩ではないといえるのか、という問題がでてきます。次の科段に於いて、その問題に答えています。また五遍染説及び十遍染説の文献を会通しています。(尚、十随煩悩の忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍の行相は麤でしかなく細に通じないから遍染とはいえない。)

 「惛沈と掉挙とは、行相互に違えり、諸の染心に皆能く遍して起こるものには非ず。」(『論』第四・三十三左)

 (惛沈と掉挙とは行相が互いに相違しているからである。このために諸々の染心にすべてよく遍く起こるものではない。)

 惛沈と掉挙が遍染の随煩悩ではないことの所以を説明します。惛沈とは「惛昧沈重の義」といわれています。惛沈の行相は「内相なり下って起こす」と。内面に向かい、沈むように重い働きがある。それに対して、掉挙の行相は「外相なり、高く生ず」といわれ、外に対するものであり高く挙がる、と説明されます。

 「行相違せるを以て一を起こす時は一無し。諸の染心に皆能く遍く起こすものには非ず。掉挙は外相なり高く生ず。惛沈は内相なり下りて起こる。」(『述記』第五本・五十五左)

 このように、惛沈と掉挙は内と外、下と上というように行相が相反するわけです。「一を起こす時は一無し」といわれますように、惛沈が生起すれば掉挙は生起せず、掉挙が生起すれば惛沈は生起しないと。そのために「諸の染心に皆能く遍して起こるものには非ず。」といい、ともに遍染の随煩悩ではないというのである。

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 惛沈と掉挙については2010年2月14日・15日の項を参照してください。尚、まとめに次のように記述をしていましたので再記載します。

 掉挙(じょうこ)は「行捨と奢摩他を障ふる」といわれ、精進と無貪・無瞋・無癡の三善根の上に「心を平等正直無功用ならしむる作用」(行捨ーぎょうしゃ)と奢摩他(しゃまたー止・寂静)「心を摂して縁に住し、散乱を離るる」といいますが、その行捨と奢摩他を妨害するのが掉挙という煩悩ですね。この煩悩は貪の一分や瞋の一分というのではなく単独で、独自に働く煩悩なのです。

 惛沈(こんじん)は惛昧沈重(こんまいじんじゅう)の義で、惛も昧も暗いという意味で、沈重は怠惰・頑迷にさせる精神作用になります。「軽安と毘鉢舎那を障ふるを業と為す」といわれます。

 「奢摩他毘鉢舎那という止観は仏教の大切な行ですが、親鸞聖人は『教行信証』信巻・証巻に『浄土論』『論註』を引用され還相回向の教証とされました。「奢摩他毘鉢舎那方便力成就をすることを得て、生死の稠林(ちゅうりん)に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。」と、衆生の救済です。救済という事の内実は「生死海を度す」ということですね。「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」という眼差しが、死して悔いのない人生を歩ませるのではないでしょうか。善導大師は「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなはち階うべからず。苦脳の娑婆、輙然(ちょうねん)として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。」と生死の元を絶つことが永く常楽に帰することであると教えています。生死の元は我執ですね。法に背いている自己です。そしてですね。法に背いている自己に目覚めるには「回向為首得成就大悲心故」(回向を首として大悲心を成就することを得たまえるが故に)という如来の願心に触れることが必要不可欠であるといわれているのです。それでなければ「親(まのあた)り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの長き歎きを勉(まぬか)れん」と、苦脳の娑婆に生きていることを曇らせて微細に生死の元を覆い隠してしまうのです。それによって私たちは迷い乱れていることの自覚がもてないのではないでしょうか。」