唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  別境 ・ 念について、その(4) 体境・類境

2010-08-31 23:11:48 | 心の構造について

     別境 ・ 念の心所について、その(4) 

 体境・類境のニ義について、『述記』の記述を読みながら、考えています。「むかし、受けしところの境」、過去に直接的に認識した対象を体境(念の中に、すでにかの体を受けしことあり)といい、或いはそうでないもの、直接的に認識するものではなく、間接的に、その対象を認識するものを類境と。間接的にという意味は、「無漏を縁ずる染汚心等の如し」といわれ、無漏という認識対象の名前を縁じるということが、類境といわれるのです。私たちの染汚心をもって、無漏の教えを念じられるのか、真如を認識するというということはどういうことなのか、「真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく」といわれていますように、真如という名前を尋ねることによって、「むかし受けた認識対象」になるというのです。名前を聞くことに於いて、仏法が憶念されるということです。私もHPで書き込みしていますが、かって二十代の頃、少しばかり仏法に触れる機会を与えられました。しかし、いつの間にか、世間の荒波に翻弄され、自己中心の生活を送っておりました、今もその流れは断ち切れてはいませんが、それから、四十年経て、仏法が我が身の中にしみ込んでいるのを覚えます。かって訓覇先生が「仏法は毛穴の中に染みいるものだ」と教えられていましたが、その事の意味が、今の私には本当に「ありがたい」という意味をもって、私を迎え入れてくれています。無漏の教え、真如という言葉、仏を念ずるということなど、その名で真実を尋ねる場合、それが「曾習の境」となり、念の対象となり得るといわれています。「曾受にあらずといえども、曾し名を受けしが故に・・・名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく」と。直接的に仏を観たこともなく、無分別智の真如も観じたことがなく、涅槃も証してはいないので、体境としては念の境にはならないけれども、その名を縁じることにおいて、類境として念の境として成り立つといわれるのです。教えを聞くことの大切さが教えられています。聞法を通して、我執を縁として必至滅度の道が開かれるのですね。我執は染汚心ですが、この染汚心が、類境として、無漏を縁じることが出来ると説かれています。また、「他界縁の使等を並にかの類に摂す」ともいわれています。他界の縁の使いなども類境に摂める、と。これは三界のなかの上界ですね。私たちは欲界でうごめいているわけですが、その欲界のなかで、上界(浄土)の事を名で尋ねて縁じる事であると説明されています。聞法が念の対象になり、心に明記して忘れないこと、という意義を持ち、聞いたことは、必ず身についているというになるのですね。そのことが、私をして願生浄土の道を歩ませるのです。


第三能変 別境 念 その(3) ・ 釈尊伝(92)

2010-08-30 22:48:07 | 心の構造について

          釈尊伝 (92) 縁起の法  

            - 不苦不楽 ー

 苦因苦果、楽因楽果というのですが、この場合の楽ということは、世間でいう快楽のことではありません。世間の快楽をすてて、苦行を修している者に対しての言葉でありますから、それで苦行は決してさとりに至る道でないのだといえます。それでは、世間の快楽はということに対して、世間の快楽もそうではないのだというので、不楽といわれるのです。で、不苦不楽の中道と。この中道という表現、よくわれわれが考える中道は、どっちつかずのことになってしまいますけれども、これは縁起の法をいうのであります。

 一応こういうわけで、釈尊のさとりは縁起の法として表現せられたが、そういう言葉にくくられるものではないということであります。ですから五人の比丘に最初に説かれるときには、「不苦不楽の中道」ということをお説きになったと。そうして、正しく道を修する、中道を修するというときには、八聖道をお説きになったといわれております。

        - 表現されないもの -

 この不苦不楽の中道ということでなにを注意せねばならないかといいますと、釈尊のさとりは、表現せられた言葉だけでとどまるものでないということであります。

 したがってまた、この不苦不楽の中道ということだけでとどまるものではない。そこに眼を注いだのが、真実に仏の教えというものを行証するという立場でありまして、そこから仏教の歴史が人びとの生活を通じて流れてきたということであります。

 こういう意味で、親鸞の教えた道も同じく、この釈尊のさとりというものを基礎として、生まれてきたといえるのでありまして、別な証拠をもってこなくても、この意義を十分に了解できますならば、そのことが自ら認識されますので、はじめに申し上げましたように、あの歎異抄という短い物語の中にも、その片鱗があらわれているといえるのであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

             - ・ -

 第三能変 別境 念の心所 その(3)業用をさらに説く

 「謂く、数(しばしば)曾(むかし)受けし所の境を憶持して亡失せざら令め、能く定を引くが故に」(『論』)

 (意訳) 念の働きをさらに詳しく説明します。つまり、しばしば、むかし受けた所の認識対象を憶持(記憶して維持すること)して忘れないようにし、よく定を引き起こすからである。

 「重ねて業用を釈す。「曾し受けし所の境」というは、念の中に、或いはすでにかのを受けしことあり。或いは未だ体を得せず、ただかのをうくるなり。無漏を縁ずる染汚心等の如し。即ち近く親取するを、かの体を縁ずとなづく。もし遠く取って着せざるを総じてこの類となづく。他界縁の使等を並びにかの類に摂す。後得智の有漏無漏を縁ずる等は、かの体を念ずとなづく。真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく。無分別智の真如を縁ずる時は、かの体を縁ずとなづく。初起の一念は、かの類を縁ずとなづく。曾受にあらずといえども、曾し(真如の)名を受けしが故に。加行道のうちに、かの観を作せしが故に、名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく。心をして明記せしめ、此れが定を生ずというは多く増せるによるが故なり。定は専注なるが故なり即ちただ善の念が正定を生ずるが故なり。もし散心の念ならば、必ずしも定を生ずるに非ず」(『述記』)

 『述記』には、念は、心に対象を明記せしめて、定を生起するのは、多増(多くは念の力によって増進するという)するからであり、定に専注(せんしゅ)するからであるという。すなわち、善の念が正定を生じるのであって、散心の念は定を生じるものではないという。

 体(境)と類(境)について - 念の対象は、曾習の境です。串習の境ともいいます。「数曾受けし所の境」のことです。この念の境が体境と類境の二つに大別されます。この体境と類境に二通りの考え方があるといわれています。

  1. 直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。
  2. 過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの。

 ここに述べられています体境・類境は私たちの聞法や念仏と大きく関わっている問題が提起されています。『述記』の記述が大きく物語っていますので、意訳を通して考えてみたいと思います。(1)で述べられていますことは、「曾し、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」ということです。すなわち、直接的に経験し認識したこと(体境)がなく、名を聞いた(類境)ことさえないものにおいては、すべてにおいて念はおこらないという。名を聞いた、ということは仏の名号や涅槃等の名を聞くということです。名を聞くということ、聞名です。これが人生のキーワードになるということを教えています。(未完)

 


第三能変 別境 念ーその(2) ・ 釈尊伝(91)

2010-08-29 22:33:05 | 心の構造について

 釈尊伝 (91) 縁起の法 その(6) - 取によって -

 取り着くということは、どうしておこるか、なんによってあるかと。おこるでも、生ずるでも同じことで、因果論になりやすいのだけれども、そこに出てきますのが、愛によってあると。愛によって取着がおこり、取着によって有がおこり、有によって生がおこり、生によって老死がおこり、老死によって種々の苦悩がおこると。老死も苦しみですが、老死以外の苦しみもみなおこってくると。こういう表現をとりますが、この表現は、仏陀のさとりの表現であります。

 したがって、われわれが聞たところでは、なんらの解決も見い出せないわけです。

           - われわれの解釈 -

 しかし、仏陀は、ここに解決を見い出した。ここにわれわれをつなぎとめておったところの主、“汝”が見い出されたと。こういわしめるものがあったわけです。つまり自由になったと。本当に主体を得たということです。そういうことがあったという表現であります。

 一応、そういう意味で、縁起ということについては、仏陀のさとった立場からの表現に対して、われわれはわれわれの立場からの解釈でありますから、そこに実に大きなひらきがあるということをまず知っておく必要があるのであります。そのひらき、その差別を知ること、これがポイントであります。

 それでありますから、五人の比丘に教えられたときには、縁起の教えを説かれたわけではないのです。いつでも一律に縁起の法を説かれたわけではありません。

 縁起の法は、なにも老病死といわねばならないことはないのです。これは、われわれの現実におけるあり方をいうのです。主体的にありえないで、どこまでも造られたものとしてしかありえないということを、生老病死ということでいわれたのであります。だから、五人の比丘にも、縁起の法を縁起の法として説かないで、「不苦不楽の中道」とお説きになったと伝えられています。

             - 苦行 -

 これがこのまま、やはり縁起の法であります。われわれは、言葉がかわると別のことのように思ってしまいますが、「不苦不楽の中道」ということをお説きになったのは、五人の比丘が鹿野苑において苦行を修していたからであります。苦行をやめた釈尊を堕落したとみて、自分たちは、釈尊のように激しい苦行は堕落するから、それで自分たちにふさわしい苦行というものを依然として続けていた。だから今度は、そこに説かれた教えが「不苦不楽の中道」ということであります。苦行はけっして涅槃に至る道ではない。ここでは苦しみによって、苦しみの結果を得るということであります。単なる苦しみです。苦しむということは、苦しむ結果を得るということであります。

 それでは、世間の生活、世間でいう快楽は、さとりに至るかというと、世間の快楽は、これまた決して快楽ではない。世間の快楽は、老病死に至る道であると、真の涅槃の楽しみに至る道は、やはり涅槃の楽しみに至るべき道でなくてはならない。それを「中道」というのであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

 (解説) 初期仏教の思想的特徴と十二縁起説

 「初転法輪」の内容は、三法印(四法印)と四諦の教えであるといわれています。

  •  三法印  「諸行無常」・「諸法無我」・「一切皆苦」
  •  四法印  三法印に「涅槃寂静」を加えた法の旗印
  •  四諦の教え 「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」で四つの真理と教えられています。仏陀の教えの出発点は、人間存在の根幹にある苦の認識です。「形成されて存在するものは、すべて苦をもたらすものである」と阿含経典には、多くの事例を挙げて説かれています。四苦八苦と数えられています。生老病死という四苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦です。苦の認識から出発し(苦諦)、では何故、苦は起こってくるのかという、苦の原因を探るわけです。それは誤解と執着に由るといわれます(集諦)。「人間存在の在り方が苦であるのは、本来的にいって“我でないもの”をあたかも我であると考え、誤解してしまい、しかもそれに執着するわれわれの無知に原因する」と。このように苦の原因を見極めて、人間をふくめてのすべてのもののあり方について、真実相の理解が生まれた時、苦を滅ぼし、苦に打ち勝つことができる。そのような状態をニッバーナ(涅槃)という、これが苦の滅却で、滅道といわれます(滅諦)。そして苦の滅却に至る道として八正道が提示されました。正しい見解(正見)・正しい思惟(正思)・正しいことば(正語)・正し行為(正業)・正しい生活(正命)・正しい努力(正精進)・正しい念(正念)・正しい精神統一(正定)の修道法である。この修道法の正しい実践によって、苦を滅却した平安の境地に到達できる。また、実践法として戒律の実践(戒学)・瞑想による精神統一(定学)・正しい智慧の修養(慧学)の三学として、説かれることもあった。
  •  縁起説 縁起とは、「縁って起きる」・「なにかとの関係に依処して、もの・ことが成立している」、あるいは「他との関係が縁となって生起すること。(Aに)縁って(Bが)起こること。現象的存在が相互に依存しあって生じていること、をいう。縁起説はわれわれの現実の生存が老病死などの苦に纏綿されている事実を直視して、このような苦としての人間のあり方が何故現れるのか、その原因を明らかにする。そしてその原因が生まれる根本条件を滅することによって、われわれの苦を滅し、迷いの生存からの離脱を図ることを教える教理です。十二縁起説が、もっとも整備された形式として伝えられています。無明(人生の真実相についての無知・根本無明ともいう) - 行(無知に基づく心身の行為とその潜在的影響力) - 識(認識主観) - 名色(名称と形態をもつもの・対象) - 六入(六種の認識の領域) - 触(認識主観と対象との接触) -受(感受作用) - 愛(欲望) - 取(執着行動) - 有(迷いの存在) -生(出生) - 老死(老いと死をもつ存在)のことで、順観・逆観・並観の三方向の観想を経て、縁起の理法の正しい納得に悟入するとされた。

    参考史料 ・ 『インドの思想』 川崎信定著 ・ 仏教

             語大辞典(中村 元編)

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     第三能変 別境 念について、その(2)

 念が、定の依り所であると述べてきましたが、ただ念は善の認識対象を心に明記するときには、定の依り所となるのです。しかし念も三性に通じているわけですので、悪や無記の認識対象をも心に明記するのです。念は善法に関係するものですが、染汚心の場合は失念という、念を失するということです。善の認識対象を心に明記することが出来ないということで、正念を妨げるものとなります。また失念ということは心が散乱していることになりますから、正定を妨げることになります。ですから、失念という念が過去から現在に至るまで明記不忘であるという、この念が迷妄をもたらしてくるのでしょうね。経験や記憶が私にとっての最大の武器になって、人生を構築していますから、清浄意欲も成り立たず、はっきりとした人生の目的も見い出せず、過去からの経験を人生の依り所として、今の私が成り立っているという、偏った見解が、私を支配しているといわざるを得ません。

 『泉抄』に次のような問答が出ていました。「問ふ。染汚心の中に分明に誤らずして過去を憶念するは妄念か。正念か。答ふ。妄念の妄は妄(いつわり)なり。忘にあらず。只、染汚心の追憶をば妄念と云ふなり。妄は染汚を顕す。追憶の過失を表するに非らずと云々。此の義の様ならば正しく追憶するとも染汚心ならば妄念と云ふべしと見えたり。若し爾らば「明記を性となす」は必ずしも正念に限るべからず、三性の念に通ずべきか云々」と。

 (意訳) 染汚心という汚れた心を以って「明記して忘れず」という過去の記憶を憶念していることは妄念なのか、それとも正念なのか。という問いに答えているのですが、それは不忘ではなく、いつわり、であると。いつわりは染汚をいうのであって、追憶の過失を表すものではない。正しく追憶したとしても、染汚心ならば妄念というのである。よって念は三性に通じていわれるので、必ずしも正念に限るものではない。

 次回は「念」の働きについて更に詳しく説明されます。

             - 雑感 -

 昨日と今日にかけて24時間テレビが「愛は地球を救う」というテーマのもとに、障害を持った人たちが健常者以上にたくましく、そして輝いて、人が人として生きていくあり様は、人とのかけがいのない助け合いの中から生まれてくるのだということを、体全体を通して表現されている姿に心をうたれましたのは私だけではないと思います。夕方になって家内に24時間テレビに行ってみるかということになり、京橋にある松下ツインタワーまででかけました。特設ステージでライブが行われていて、その中で「サライ」を熱唱していたのですね。そうしましたら家内が「迷いながら、いつか帰る、愛の故郷、サクラ吹雪の、サライの空へ、いつか帰る、その時まで、夢はすてない」という歌詞に、ポツリと「故郷に帰りたいね」ともらしました。存在の故郷に帰りたいという、心の本音が出たのですね。私たちの本音は迷いの生存を翻して、真の仏弟子として、浄土に生を願ずる生き方を望んでいるのでしょう。ポツリと出てきた本音に生きる方向性を見たような気がしました。最後に、はるな愛さん、見事にゴールしました。感動をいただきましたね。お見事でした。ありがとう。


別境 念の心所について ・ 釈尊伝(90)

2010-08-28 22:31:22 | 心の構造について
残暑は非常に厳しいものがありますが、少し気候が変化してきたようです。大阪は猛暑日が、連日連夜で続いているのですが、風通しのなかで、少し秋の気配を感じます。そういえば、トンボが飛んでいました。自然界では秋を感じているのですね。そんな自然と一体になって秋の気配を感じる我が身でありたいです。
 釈尊伝 (90) 縁起の法 その(4) 生によって
  仏陀の縁起は、老病死、略して老死です。老死という言葉を課題としてもちいましたから、老死は、なにによってあるかとたずねて、生によってあると。この生は、普通は単に生まれると解釈するわけです。けれども、生まれるという意味もありますが、いわゆる生全般という意味をもっています。“生によって老死あり、生なければ老死なし”ということです。生がなければ、老死がない。これは抽象的には、誰だって解りきったことでありますが、しかし、いたずらな議論です。抽象的にいえば、いたずらな議論になってしまいます。
           - 有によって -
 仏陀は、生によって老死がある、その生はなにによってあるかと、有によってあるとたずねた。有はつまり、一切の存在ということであります。つまり万法です。よろずのものがあるということです。有るということにすべてはおさまる。つまり、この世界があるといってもよいわけです。この有るということは、なんによってなり立つかというと、取によってある。執着といいまして、有るということは、それに取り着くからだということです。取り着くということがある。この世界があるということは、この世界に取り着くからです。われわれが考えてもいないことでありますけれども、この世界に取り着くということがあるからだということです。 (つづく) 蓬茨祖運述より
              ー ・ -
 一月二日の記事より 「念」について
 「念」という心所は「勝解」を受けるというかたちです。境(対象)に対し善悪を明確に(はっきりと)確認し、認識をして決定する。それに応じて、「念」は認識されたものを明らかにして(記憶して)忘れない。(明認不忘)ということになります。「曾習(ぞうじゅ)の境に於いて。心をして明記して不忘ならしむるを以って性と為し。定の依たるを以って業と為す。」といわれています。曾はかって・以前にということで、過去のことです。習は経験です。よって過去に経験したことを確認し認識をして忘れないことが性質であるということになります。ここに「念」という心がはたらくのですね。はたらくことが定の依り処になる。私の経験したことのすべてが今を生み出しているということですね。それを私は忘れてはいないことに心が定まるということです。そうしますとそこに私の行き先・方向が決まってくるということになります。業は行為ですから過去の経験のすべてを依り処として明日の行動が決まるということなのですね。ですから方向転換ということはものすごいエネルギーを要するのです。しかしね。今、決定(けつじょう)することが大事なのです。なぜならこの念は善悪のどちらにもはたらきますから、選びがないのです。今が未来を決定するのです。忘れてはなりませんね。『法相二巻抄』には「経て過にし事を心のうちに明に記して忘れざる心なり」(過去に経験した事を心の中に明らかに、はっきりと記憶して忘れない心を念という)とより具体的に述べられています。この念が定をおこす因となるということなのです。欲望のままにということになりますと欲念ということになりましょうし、怨みを抱いてということですと怨念ということになりますね。仏を念ずることは念仏ということになりましょう。問題は私は何処に向かって歩いているのかということです。生きる方向です。それがはっきりしているのかが問われています。訓覇先生からお聞きしたことではありますが「火葬場一直線の人生を歩むのか」それとも「浄土という方向性をもつのか」はっきりせよと。「君たちね、何もはっきりしとらんから、のほほんとして仕事しとるんだろ。ようするに暇人なんだ。暇つぶしに仕事をしとるんだよ。本当にするべきことがはっきりしたらいてもたってもおられんよ。」と、今だ、はっきりせよときつく言われました。それでもはっきりしないのが私の業ですね。(仏かねてしろしめしてですね。お前はそんなものだ。心配することはない。そんなことはお見通しというわけです。)行き先がはっきりすると今まで覆われていたことが明らかに現れてくるのです。それを廻向というのではありませんか。如来廻向です。「一切苦脳の衆生を捨てずして心に常に作願して、廻向を首としたまいて大悲心を成就することを得たまえるが故にと」ということです。これが私にとって無碍道になるわけですね。人生が空過しない、空しく過ぎることのない人生をはからずも賜るということになりましょうか。心のうちで今何を念じているのか、この念の心所は私に人生の大切なことを教えています。」この記事は1月2日に投稿したものです。ここから、別境の心所・念について考えていくわけですが、重なる部分も多々ありますので、再掲載いたしました。尚、「定」及び「慧」についても同様の事がありますので、再掲載をしながら、もう一度考えてみたいと思います。
 「云何なるをか念と為す。曾習(ぞうじゅう)の境の於に、心を明記(みょうき)して忘れざら令むるをもって性と為し定の依たるをもって業と為す」(『論』)
 「念ノ心所ハ、経テ過ニシ事ヲ心ノウチニ明ニ記シテ忘レザル心也」(『二巻鈔』・鎌倉旧仏教所収p130)
 念の心所に於いて大切な一点は「定の依」であるということです。『述記』には「故に四法迹において念はこれ定の因なり」と説いています。
 四法迹(しほうじゃく)について - 四つの法の根本、基礎という意味。無貪法迹・無瞋法迹・正念法迹・正定法迹の四つをいう。
 即ち、念の働きが根本の基礎となって、定が成り立つわけです。そして、定を所依として慧が成り立つという連関があるわけです。 (未完ーもう少し考えてみます)
   
 

別境 (護法の論破) ・ 釈尊伝(89)

2010-08-27 23:18:37 | 心の構造について
 釈尊伝(89) 縁起の法 その(3) 固定される


 で、いまだ解放されない、束縛せられた立場から縁起を考えますと、抽象的になるか、あるいは客体的な解釈になって、固定せられるわけであります。
 仏陀は、そのさとりを縁起と名づけられたのでありまして、われわれは、その縁起という言葉が、仏陀のさとった立場から、名づけられたということを、まず考えておく必要があるわけであります。それをわれわれは、仏陀の教えは縁起の教えであるという。こう解釈して、その解釈がたとえ十分なされましても、さとったことにならないということを、よく認識をしておく必要があるわけでありまして、その認識がないところに、いつまでも仏陀の教えというものにふれられないという、うらみが残るのであります。(つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
 私たちは、仏教といえば、縁起の法であると説明をしますが、それは仏教学を学んで、少しの知識を以って説明しているにすぎないのですね。蓬茨先生はずばりと切りこんでおられます。縁起とは「仏陀のさとった立場から、名づけられた」ということを、まず自分自身に問い返す必要がありそうです。仏教を学んで、何を学んだのか、ということです。「自身は現に」という我が身を問うという姿勢、眼差しが必要なのであることを、教えられています。唯識を学ぶ上でよく“境”という言葉がでてきます。境というときには、境を認識している自己が存在しているのですね。いうなれば、自己において対象が存在しているということになります。自己を抜いて対象は存在しないということが事実なのです。「惑染の凡夫」であるという自己存在の信知を、仏は広大勝解者と讃えられているわけです。この勝解者が真の仏弟子ですね。真の仏弟子の自覚が「何事モヒシト思ヒ定ムル心也」といわれる、別境の心所、勝解になるのですね。「ただ決定の境のみ勝解を起すなり」と。
             - ・ -
   第三能変 別境 勝解について(護法の論破)
 「若し此れに由るが故に彼いい勝れて発起すといわば、此れも復余を待つ応し。便ち無窮の失(とが)有りぬ」(『論』)
 (意訳)もし、勝解によって、根と作意が勝れて心等を引き起こすというのであれば、これ(勝解)もまた、余(他)のものを待つことになる。すなわちどこまでいってもきりのない過失に陥ってしまう。これによって有部の異師の反論は誤りである、ということがわかる。
 有部の異師の再反論の想定は『述記』が述べているところでは、「(護法の主張している)根と作意との自力のみをもって、勝れて諸の心心所を発起することをなす能わず。」というものです。護法の主張している根と作意は、自らの力でもって心心所を生起させることはできないものである、と論破し、根と作意が力を発揮できるのは、勝解の力によるものであって、それによって、心心所が生起するものであるから、勝解は遍行であると再反論していることが、想定されるわけです。その再反論に対しての論破が「若由此故彼勝発起。此応復待余。便有無窮失」になるわけです。唯識は対論形式が多様ですので、ここにもいくつかの問題が提起されていますが、今は省略をしておきます。ただ「勝解」は「決定の境のみ勝解を起すなり」という金言に耳を傾け、「自分の居場所・行き場所をはっきりするということ」が大切ではないかと思います。
 

別境 勝解 護法の論破 ・ 釈尊伝(88)

2010-08-26 22:24:28 | 心の構造について

   釈尊伝(88) 縁起の法 その(1) 縁起

 菩提樹下の釈尊のさとりの表現は、縁起の法といわれています。縁起は別名を因縁とよびまして、この因縁という場合は、よく因果と間違われますから、それで近代仏教学の表現で縁起というわけです。原始仏教では、主として、縁起とよぶのであります。パーり語などの語源から申しますと、さほど違いもないようにいう人もありますけれども、しかし、それは言葉の上での解釈にもとづくわけでありますから、法という意味からいえば、因果というときには、どうしても時間的に考えられやすいものがありますから、体もまた別ものとなる可能性があります。

            その(2) 因と果

 たとえば、麦の種という場合、種と麦というものは、実際は一つのものでありますが、常識上は、種は麦ではなく、麦になるべきもの、麦は種ではなくして、種が稔ったものと考えられます。そこに、因と果とが体が別ものと考えられてきますが、人間の盲分別といいますか、暗い分別であります。で、今、因果という意味という意味が一体であると。一体の上に、ある意味において因と名づけられ、ある意味において果と名づけられるという立場です。

 そこに因縁といわれ、縁起といわれる意味があるわけです。つまり、因というのも必ずしも永久的ではないわけです。果というのも永久的ではない。果に対して因という意味を持ち、因に対して果という意味を持つ。従って因といっても、その本性は一定でないわけです。つまり、一定でないということは、自由であると。果というのも、その本性は必ずしも一定でない。これといって名づくべきものがないということです。その意義をさとったなら、そうした意義を体得したなら、自ら縛られておった立場からの解放ということが得られるということです。

 その解放せられて立場から、因という意義をみ、果という意義をみるわけです。それを縁起というのであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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  第三能変 別境 ・ 勝解(護法の異義に対する論破)

 昨日の続きになります。解ったようで今一すっきりしないもどかしさを感じています。「大地法」においては、勝解は(欲・念・定・慧も遍行であるという)遍行であるといわれていますが、そうではないのだと、勝解は決定の境に対して、はっきりと何であるのかを認識内容を確定することをもって、その本質的な働きとする、と定義されていますように、自分の方向性が正しく、かつ確定していることをいいます。そうしますと、心心所が生起するときには、必ず勝解が働いているということにはならないですね。ですから有部の異師の説は不障の増上縁(何事をも妨げない縁)にあたるということであるといわれています。

 「勝れて発起するものは根と作意となるが故に」(『論』)

 有部の異師の反論が『述記』に想定され、この異義を護法が論破しているのです。「ただ勝解の増上(勝)力に由るが故に、心等を発起し所礙とならず」(心の生起を障害しないものを勝解といっているのではなく、勝れた力によって、心等を生起させ、障害とはならないことを勝解といっているのである)と。これが異義です。これに対して護法は「勝れて心等を生起させるものは、根と作意であるから、有部の異師が言う増勝力であるという指摘は勝解の働きではない、と論破しています。

 「勝れて発起する因は根とおよび作意との二法の力なり。何ぞ勝解に関せんや」(『述記』)

 また、有部の異師の反論が想定されています。「もし彼が救して、根と作意との自力のみをもって、勝れて諸の心心所を発起することをなす能わず。またこの勝解の力によるが故に、かの根と作意とは方によく発起すと言わば、」(護法の主張している根と作意は、自らの力で諸の心心所を生起させることはできないものであって、勝解の力によって、根と作意に働きかけ、はじめて、根と作意が勝れた力を発揮し、心心所を生起させるのである。これは勝解によるのであるから、勝解は遍行である)と。この異議を再反論するのが次の科段になります。 (未完)


別境 ・ 有部の説と、その論破(護法の論破)

2010-08-25 23:47:44 | インポート

 勝解を遍行とする有部の異師(雑心論師)の説を挙げ、後、護法が論破する。

 「有るが説かく、心等の、自境を取る時には、拘礙(くげ)すること無きが故に皆勝解有りという」(『論』)

 (有部の説) 有部の論師は次のように説く。心等がその認識対象を把握する時には、障碍が無い為に、すべてに勝解が存在すると主張する。

 有部のいう勝解は法相唯識でいわれる勝解とは同じ字ではあっても意味が全く違うのです。『述記』に「謂く大乗の境を印して決定するを名けて勝解となし、即ち疑心のうちに全に勝解なきが故にというに同じからず。我宗はただ物の心を拘礙することなく、心をして境において能く縁ぜしむるもの、即ちこれ勝解なりという。故に遍行に摂す」と。有部の説は心が対象を認識する時には、障碍がないので、全に勝解はあるとする説なのですが、法相唯識でいわれる勝解はは「印して決定する」働きを勝解はというのですから、全く異なるものなのです。

 (護法の論破) その(1)有部の異師の説を論破する。

 「彼が説くこと理に非ず。所以は何。能く礙せずといわば、即ち諸法なるが故に、礙せざる所をいわば即ち心等なるが故に」(『論』)

 「汝拘礙せざる者と言うは、若し是れ能不礙を勝解と名けば、心・心所を除いて以外の法は。皆是れ能不礙なり。心・心所が増上縁と為って皆、礙せざるが故に。若し是れ所不礙ならば、即ち心・心所は皆是れ所不礙なるが故に。心等と言うは、心所を等取す。何ぞ但一法ならん。若し彼れ救して但だ勝解の増勝の力に由るが故に、彼の根と作意と方に能く発起すと言わば」(『述記』

 (意訳) 彼(有部の異師)の説くことは理にあてはまらない。その訳はなんであるかというならば、よく拘礙(障害)しないということは、心・心所を除いた諸法すべてにあてはまることである。即ち、すべてがよく障害しないということである。また、これ所不礙(障害されない側)ならば、心・心所は皆、所不礙になってしまい、すべての心等が勝解となり、一つの勝解がありとあらゆることに勝解が存在することになってしまうので、有部の異師の説は誤りであるという。(未完)

 


釈尊伝 (87) 梵天勧請 初転法輪

2010-08-24 23:10:04 | 釈尊伝

    釈尊伝  (87) 梵天の勧請 その(9) 初転法輪
釈尊はその梵天の勧請によって法を説くために座を立って、まず最初に法を伝えられたのが、釈尊が苦行を止めて菩提樹下に座られた姿をみて、堕落したと釈尊をすてさった五人の比丘です。もとは家臣であったけれども、出家してともに修行をつづけておった五人の比丘です。五人は依然として鹿野苑におって修行をつづけていたのです。
釈尊についての歴史的な研究によれば、その鹿野苑までの距離、釈尊のさとられた場所を示すブッダガヤから相当の距離があるわけで、その間に摂せられた人がいろいろあったということも伝えられていますが、ともかくも鹿野苑に来られて五人の比丘を教えられたということが、正式に釈尊のはじめての教化と、昔から名づけら
れています。つまり中国をとおして伝わった仏教においては、五人の比丘を済度したということを初転法輪と名づけています。
                                     ー  ・ ー
                    その (10) 法輪
 法輪は法の輪であって、輪はいわゆる車の輪です。この車は
戦争のための車で、昔の戦車です。牛がひきましたか、馬がひきましたか、象がひきましたかしりませんが、とにかく戦争に引いて走った車です。鉄の輪で、なんでも踏みくだいてしまう、物をつぶしてしまうような車です。法輪の形が船の舵輪に似ていますが、もともと戦争につかった道具だそうです。あるいはああいうものを飛ばして戦ったのかもしれません。

 なぜそういうものを印としたかといえば、この世のいろいろな道はみな人びとをして死に落とし入れる道のほかない。いわゆる、すべてこれ魔の所説であるということです。その所説を踏み破る。砕き破って、そして正しく人びとをして苦しみの滅した涅槃に至る道を開く。こういう意味で法を説くことを法輪を転ずると名づけられたのです。転ずるとはころがすことです。車がクルクルところがってゆくことです。回っていくことであります。

 で、五人の比丘を救われたことをもって初転法輪と名づけられていて、以下涅槃に至るまで、つまり釈尊の生涯の終りに至るまで、この法輪は転ぜられたのであると伝えられています。

 鹿野苑の比丘に教えられたことをなぜ初転法輪というのか。原始仏教の研究家からいえば、それ以前に商人なり在家の人なりを教化せられたということがあったということですが、仏教が正しく行として、それを信ずるところの道として伝わった中国、日本の伝統においては、鹿野苑の説法を初転法輪というのです。

              - ・ -

        その(11) 教化ということ

 その意味は、五人の比丘を済度されたことによって仏陀ははじめて三宝を備えられた、ということになるので、それでこれを初転法輪として伝えたのです。三宝というのは、つまり仏と法と僧です。人を導かれた、人を単に教化せられたということだけでは、仏教が行じられたというわけにはいかないのです。道すがら人びとを教化せられていったことはあるでしょう。しかし教化を受けた人は、まことによい教えをいただいた、よいご注意をうけた、お蔭さまでさしあたっての自分の方針がたった、これで自分は間違いなく家に帰れるというようなことです。そうでなければさまよわねばならぬのに、幸せに自分の家庭にもどれます、ということにすぎないわけです。

 釈尊の教えにしたがって、生涯その教えのもとに生きて、涅槃に至るということではないわけです。仏の教えが人生の良い指針になり。幸福な生活ができるというのでは、仏教が行じられたというわけにはいかないのです。たまたま通り道に、暗いところに常夜燈がともっていたというにすぎない。暗夜の航海をしているときに灯台の光がみえて、そして暗礁にかからずそこを通りすぎることができたというにすぎない。なるほどその光がなかったなら船は暗礁にぶつかって沈んでしまったかもしれない。しかし、そこを無事に通りすぎて、灯台のお蔭で無事に通りすぎたのだとしても、それで人間の暗礁がなくなったわけではない。人間がぶつかる暗礁は、人間のいたるところ常に存在する。一時的に外に出あったところのものをのがれたという意味において仏教が理解せられてきたのが、いわゆる近代における仏教というものの特質です。したがって、そこに行証ということがないわけです。中国、日本においては、仏教というのは行証ということが中心でありました。その意味で初転法輪をこの鹿野苑の五人の比丘の教化というところにおいたわけです。いわゆる仏教というものの特色です。特色をあらわしたのが五人の比丘の教化でありまして、単なる釈尊の一生涯の物語の歴史的事実の一コマではないということであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 初転法輪の意味においてですね。仏教の教化ということが、単なる幸福教では無いということを示唆されています。現在、仏教という名のもとに、幸福教を売り物にしている新興仏教教団が横行していますが、彼らの語り口は「信仰すれば、必ず幸福になりますよ。共に祈りましょう」というものです。また「冬は必ず春に成る、祈りは必ず叶う」というものです。この語り口にころっと騙されてしまうのですが、これは仏教は何を語り、何を伝えてきたのか、を知らなさすぎることからくるところなのでしょう。これからいよいよ「法」について語られますので、仏教とは何かを共に学んでゆければいいと思います。


第三能変 別境 勝解について ・ 釈尊伝(86)

2010-08-22 23:02:57 | 心の構造について
  釈尊伝 (86) 梵天の勧請 その(8) 梵天勧請

 ですから梵天ということは、結局、自我であります。抽象的にいうならば、梵天という。いわゆる一切万物を造ったというもの。そういうものがなくて、自然が造ったんだといっても、造られたものはなんであるかというと、やはり、造られたものは自我なのです。在るものは自我です。その自我は誰が造ったかといえば、やはり自我が造った。 したがって梵天が誕生したということは、世の中の聞いてもわからない衆生が、やはり法を説くことを願っているという一面があるということです。「梵天の勧請」といえばはなはだ理解しかねるのです。けれども、聞いてもわからない、わかってもわかったことがかえって自我の立場から解釈してしまって、自分を縛る材料としてしまって解脱することができる道とはならない。それで説くのをためらわれたという一つの話です。一つのちょっとしたエピソードですかれども、これは聞いてもわからない衆生が、やはりそれにもかかわらず救いを求めているということです。で、釈尊のためらいは人間的に考えられますけれども、むしろ釈尊の教えがわれわれ助からん衆生のための教えであるということを示すための物語であるといえるかと思います。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
              - ・ -                   第三能変 別境 勝解について(遍行ではないことを説く)   「故に境を猶予するには、勝解全てに無し、審らかに決せざる心にも亦勝解なし。斯に由って勝解は、遍行に摂せらるるに非ず」(『論』)                           (意訳) 故に(従って)、認識対象が何であるかを確定できず、猶予(疑惑)する場合には、勝解は全く存在しない。また、審らかに決定しない心にも、また勝解は存在しない。これに由って、勝解は遍行ではないことがわかるのである。  (勝解が存在しない場合とは) 『述記』には「即ち疑心のうちには全く解(勝解)起こることなし。即ち染心のうちに少分なきなり。審決に非ざる心にもまた勝解なし。便ち三性の心に通ず」と記されています。整理をしますと、(1)疑惑がある心・(2)染心の一部・(3)非審決心の三つが挙げられています。 染心の一部とは、安田先生は「勝解を前提として信が成り立ち、信が欲を呼び起こす。しかしまた、煩悩の心所を見ると、不信という煩悩が算えられているが、こういうふうに煩悩にも間違って理解したり、間違って法を信ずるということもあるから、ここでも欲や勝解が認められる。だから遍行とは別であるが、善染両方の基礎になる」(『選集』巻三p291)と述べておられます。 『正信偈』に「一切善悪の凡夫人、如来の弘誓いを聞信すれば、仏、広大勝解の者と言えり」。信心とは聞信勝解ですね。信解です。自己が自己自身がはっきりする。一切善悪の凡夫人と確信する。或いは「出離の縁あることなし」と疑うことなく、自身を深信する。決定するわけです。ここに真の仏弟子という意味を表しているのです。本多弘之師の『正信偈』講義を引用させていただきますと、(第六巻p91・三重県四日市 聖典学習会編)「仏言広大勝解者、是人名分陀利華」を釈して、「信巻」の「真仏弟子釈」のところに親鸞聖人が引用になっています。・・・「広大勝解者」と「分陀利華」という言葉をお採りになって、信心の利益として賜る真の仏弟子の意味というものを表しておられるわけです。「勝解」というのは、これは『唯識論』の心所の定義では、「欲・勝解・念・定・慧」と、別境の心所のひとつに数えられています。「欲」というのは、意識が起こって何かものを判断したりするという時に深いところから起こってくる意欲のことです。わかりやすい言葉でいえば「関心」ですね。「あっ、これ何だろうな」という関心。人間の関心を「欲」という言葉で言うのです。そして、「あっ、これはこういうものだな」という了解。それを「勝解」と言うのです。唯識では「信」という心理作用(信ずるということ)を「善の心所」と押さえます。善の心所は仏法の生活を勧めるはたらきをするものです。妨げるはたらきをするものには「染」という字を使って、併せて善と染との心所」と言います。まあ悪と言ってもいいわけですね。妨げるほうが悪で、仏法の生活を勧めるほうが善です。善の心の代表として「信」ということを押さえる場合には「欲と勝解」」ということを言うのです。まず、仏法の生活を意欲するものがある。「願心」とか「菩提心」とか言われる意欲(「欲」)がある。そして、仏法に対するある意味の理解(「勝解」)がある。仏法とはそういうものであるという理解です。これら二つのことがなければ「信」はないと。まあ、仏教における「信」の基本的な定義として「欲」と「勝解」ということが言われるわけです」。と述べておられます。
                       
 

第三能変 別境・勝解について ・ 釈尊伝(85)

2010-08-21 23:49:08 | 心の構造について

 昨日は、書き込みを終了して保存をクリックしたろころ、全文がどこかへ飛んで行ってしまいました。「あれ」といった感じです。もう一度、学びなおしなさいということでしょうか。勝解について『論』・『述記』に眼を通していたのですが、「猶予」ということについて、考えさせられることがありました。猶予は疑惑なのですね。何に対して猶予せられているのかというと、人生ですね。生きていることへの疑惑が猶予せられているのですね。法律で云いますと、刑法ですね。執行猶予という判決がありますが、何年かの間は刑を猶予する。疑惑が有るのだけれども、その間何事もなければ、再犯しない限り刑を免除するということです。しかし、その間は疑惑・疑いが有るわけです。疑いが猶予なのですね。私の生き方についていうならば、「生かされて生きてある命の尊厳」に目覚める事に猶予が与えられているのでしょうね。目覚めるまでは私自身を疑っているのですね。仏智疑惑です。人生に猶予が与えられているということに、大きな意味があります。私は、私自身の本当の生き方に目覚めを待つ存在であるということです。それがはっきりし、決定し、確定し、翻らないことが勝解の心所なのでしょう。

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  釈尊伝 (85) 梵天の勧請 その(7) 造物主

 その娑婆世界の主というのが、梵天と名づけられる神様であります。最高の神です。この神が釈尊に“どうか法をこの世の衆生のために説いていただきたい”と願ったというのです。梵天の梵というのは清浄という意味なのですが、天というのは最上という意味であると解釈してよかろうと思います。つまり、一切万物は梵天より生じたというのであって今日においてはそういう梵天というものは認めないけれども、それは梵天という特殊な存在を考えるからで、意義から言えば、一体この万物を造ったものはないであるかと問われたら、いわゆる神を否定すれば、もう自然というより答えようがありません。自然が造った。あるいは自然にできたというより仕方がないです。自然というものはとくに造ろうという意志があって造ったのか、造ろうという意志があって造ったとすれば神ということになる。意志なくして造ったとならば、自然ということになる。いずれにしても造られたものからみれば同じことです。意志なくして造っても、意志があって造っても同じことで、ただ意志があって造ったものには、多少、小言がいえるということぐらいのことです。われわれが親に小言をいう場合に“誰が造れといった”というぐらいです。しかし“造る気はなかった”といわれたら、なんとpもいいようがないです。“なにもお前を造る意志はさらさらなかったのだ、大いに迷惑であった”といわれたら、これは小言のもっていくところがない。“怨むなら自然を怨んでくれ、こちらも自然に造られたのである”ということになる。造られたものという立場からいえばかわりはありません。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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     第三能変 別境 勝解の心所について

 「云何なるをか勝解という。決定(けつじょう)の境の於(うえ)に印持(いんじ)するを以て性と為し、引転す可からざるを以て業と為す。謂く、邪正等の教と理と証との力を以て、所取の境の於に審決(しんけつ)し印持す。此れに由って異縁あって引転すること能わず」(『論』)

 勝解は対象(境)がいかなるのもであるかを確認して了解する心作用で、確認するということ、断定する心作用です。勝は勝れたという意味で、殊勝な了解の意ともいわれます。対象を明了に了解し、そのいかなるものかを断定する心作用です。『瑜伽論』には信解と云い現わしていますが、審らかに決定(審決)する力が勝れて、さらに動揺しない心作用といわれています。尚、『二巻鈔』には「勝解ノ心所トハ何事モヒシト思ヒ定ル心也」と良遍は述べています。また「勝解は旧訳では解脱と云う。・・・・殊勝の領解なり。是れに違いないと決定するが、勝れた解を発した処の故なり」と説明されています。

 決定の境に対して印持する、心に刻みつけることが本質であって、その働きは引転すべからざること、動かないことである。それが勝解の心所なのです。引転しないということは、断定であり疑惑の無いことであるといわれています。その反対は引転すること、即ち疑惑することですね。その疑惑があるということは、勝解の心所は生まれてこないということになります。つまり対象に対して認識が確定しない状態です。これを疑惑というのですね。そしてはっきりするまで猶予するというととですね。はっきりさせなさいということです。疑惑があるからはっきりしないのです。それが疑惑だと。疑惑が、そのまま猶予という意味をもつのです。猶予不成の猶予がこれにあたるといわれます。対象が確定していないにもかかわらず、あたかも確定したかのように、確定因として用いて、主要命題を立てた時の過失であること、といわれます。

 「述して曰く。 謂くこの勝解は(1)邪教と邪理と邪証等の力、(2)或いは正教等の力、(3)或いは邪正に非ざる教と理と証との力、即ち汎の所縁によって、所取の境に於て、この事はかくの如し。かくの如くならざるにあらずと審決し印持す。もって勝解を生ず」(『述記』)

 『述記』には勝解は上に述べていますように、三の理由によって生ずといわれているのです。そして傍線の言葉ですが、勝解はこれだと、核心をついた言葉です。原文では次のようになります。

 「即汎所縁。於所取境審決印持此事如是非不如是」

 所取の境(客観的対象)に対して、これはよい(如是)、これは正しくない(不如是)と決定していく。はっきりとものを確認していくのが勝解であるといいます。そして次の言葉、文章も大切なことを指し示しています。

 「或いは、教とは教示なり。或いは言説なり。ただ転た習するによる。理とはこの道理あるなり。四諦、真実の理をいおうに非ざるなり。即ち一切の事と及び真理を摂す。謂く、この水(事)がこれ水の理なり等、乃至、一切の法もまた然り。証とは即ち禅定を修するなり。或いは諸識の現量等の心の能く審決するものに、みな勝解あり。この道理によって印可を生ずるが故に。さらに異縁あるも引転して、この心の中にさらに疑惑を生ぜしむること能わず」(『述記』)

 傍線の部分は「此木是木之理等(此の木は是れ木なるの理等なり)」と板木には記されているようです。

 (意訳) 勝解という心所は、邪や正等(無記を含む)の教と理と証の力によって、認識対象(所取の境)にたいし、審決し印持するものである。これに由ってその確定を翻すような揺さぶりがあったとしても(異縁)、その確定を翻すことができなくなるような確定が勝解という心所である。

 勝解の心所も欲の心所と同じように三性に通じる心の働きであることが解ります。

 (教)は教え、教示すること。そして言説のことであるとし、転習することであるという。転習は言い習わしのこと。言葉でもって教を伝えるということ。 (未完)

8月22日(日) つづき

 (理)とは四諦の理というにとどまらずに、すべての道理と真理(一切の事と真理を摂す)を含む。木の譬えがだされています。木は木としての事と理までをも含むと言う事。また水という事は水の理によって事・理不二であるということです。

 (証)とは禅定を実践すること。或いは「諸識の現量等(三量ー現量・比量・非量)の心の能く審決するものに」と云われていますように、比量(推量)であっても、非量(誤った認識)であっても、審決(審決印持ー確定する)する場合は勝解になるといいます。

 (異縁)という、「さらに異縁あるも引転して、この心の中にさらに疑惑を生ぜしむること能わず」と。教と理と証の力によって、たとえ邪悪であれ・善であれ・無記であったとしても、「如是・不如是」等と認識内容を確定し、その認識内容を変更したり、疑惑を起すことがあっても、その確定がもはや翻ったり、その内容に疑惑を生じたりすることはない。「もって勝解を生ず」と。このような心の働きが勝解という心所なのである、ということです。このことを良遍は「ヒシト定マル心也」と一言でまとめているのです。