「述して曰く。第六識の中の倶生の法執をば、其の十地に於いて道を数数に修して、地地に別に断ず。地を障ゆるを以ての故に。第七識の者は、十地の中に於て数数修し、要ず金剛に至って方に能く除断す。此れが中には若しは道、若しは断を合説せり。故に数数に方に能く除断すと言えり。此れは唯菩薩のみなり、二乗の者(ヒト)には非ず。若し数数に断ずることは習と種とを倶に然(シカ)ず。又除滅に二有り。一には伏、二には断なり。六識をば伏し亦断ず。第七をば伏のみにして断ぜず。故に皆数数と言えり。此れが中に細と言うは品を以て而も論ず。説いて断じ難しと為すことは、道に約して而も説く。勝道を以て方に除す。劣道に非ざるが故に。若し見道を以て云はば、三心の中おいて、品に由って中と名づけ、第三をば上と名づく。彼は難・易に約して(初の)断じ易きを細と名づく。(初の)麤品も亦細と名づけたり。下道を以て能く除く。品を以て道に従えて初を名づけて細と為す。道は下品なるが故に。今は道を以て品に従へて断じ難きを細と名づけたるを以て亦相違せず。我執に説けるに准ずべし。又我執の断じ難きを修道に除すと言うことは、三乗に通ずるが故に。
此に十地と言うは唯菩薩のみなるが故に。然るに初地の中に入と住と出と別なり。故に十地の中に皆修道に有り。勝れたる法空と言うは、法空観に於て遊観の心を簡び唯だ無間の法執を断ずる道を取ると云うことを顕す。
此れが中は執を説くを以て五識をば言わず。若し所知障ならば五識も亦十地の中に通じて断ずるぞ。」)
また、『了義燈』(第三・二十九右)には、
「此二法執細故難斷。要集三解。一云六・七法執從無始來。與彼我見唯同種起。離我見外無別法執。彼説此正。云由此法執唯有一百二十八種。與煩惱同 今謂不爾。從無始來執法爲有。即執爲我。可如所説。涅槃見等雖執法有。不執作我。豈非法執。此等既法執。豈恒我執倶。又小無學我執已斷。豈不起法執。法執若起。許熏種不。若不熏種。何闕不能。若許熏種。可不生現。此既生現。豈與我執恒同種耶。雖説頭數百二十八。不説各各與惑同種。問斷第六識倶生法執。有於漸頓次及超不 答唯漸斷次第不超。無頓得果及超地故 若爾何故二乘斷惑障。先伏後成超。菩薩斷所知。後超先亦伏 答二乘得果易。先伏後成超。大乘證地難。無超可得伏 問大乘難得果。唯次不言超。飼虎及掩泥。如何説超劫答大乘無超地。據此不言超。由精進促生。何妨得超劫。」
(「『此の二の法執は細なるが故に断じ難し』とは、要集に三の解有り。
一に云く、六・七の法執は無始従り来た彼の我見の與に唯、同種より起し、我見に離れて外に別の法執無し。彼(要集)此を説いて正として、此由って法執は唯、一百二十八種有って煩悩と同なりと云へり。
今謂く爾らず。無始従り来、法を執して有と為し、即ち執して我と為る。所説の如くなる可し。涅槃の見等は法有と執すと雖も、執して我とは作さず。豈に法執なるに非ずや。此等既に法執なり。豈に恒に我執と倶ならむや。又、小乗の無学は我執已に断ぜり。豈に法執を起こさざらむや。法執若し起こらば種を熏ずと許や不や。若し種を熏ぜずんば何の闕くることあればか能はざる。若し種を熏ずと許さば(法執の)現を生ぜざる可きや。此れ既に現を生ぜば豈に我執と恒に同種ならむや。頭数は百二十八と説くと雖も、各々惑(我見)と同種なりとは説かず。
問。第六識の倶生の法執を断ずるに、漸と、頓と、次と、及び超と有りや不や。
答。唯、漸断と次第なり。超には不ず。頓に得果し及び地を超えること無きが故に。
若し爾らば何が故ぞ二乗の惑障を断ずるは、先(凡位)に伏し、後に(入見位)に超と成り、菩薩の所知を断ずるに後に超えんとして先ず亦伏するや。
答。二乗の果を得ることは易きを以て先ず伏して後に超と成り、大乗の地を証することは難きを以て伏することを得可き無し。
問。大乗は果を得ること難きを以て、唯だ次にして(十地に次第)に超と言はず。(『金光明経』捨身品第十七の説)虎を飼い及び掩泥に如何ぞ劫を超ゆと説く。
答。大乗は地を超ゆること無し。此に據って超するとは言わず。精進に由って生を捉う。何ぞ劫を超ゆることを得んというに妨かあらむ。」)
これまでに、生空観・法空観とでてきました。我執は生空観を修習して除断し、法執は法空観を修習して除滅し、無漏無分別智を得て菩薩道を行ずると説かれているわけですが、智慧ですね、般若の智慧に三種有ると説かれています。(『成唯識論』巻第九)生空無分別慧と法空無分別慧と倶空無分別慧なんです。十地と十勝行の中で説かれていることです。十地という名前なのですが、
- 極喜地、初めて聖性を得て具に二空を証し能く自他を益して大喜を生ぜるが故に。
- 離垢地、浄尸羅(ジョウシラ・戒め、浄を付して浄戒と訳す)を具して能く微細の毀犯を起す煩悩の垢を遠離せるが故に。
- 発光地、勝定と大法の総持とを成就して能く無辺の妙慧の光を発するが故に。
- 焔慧地、最勝の菩提分法に安住して、煩悩の薪を焼く慧の焔増せるが故に。
- 極難勝地、真と俗と両の智の行相の互に違せるを合して相応せしむること極めて難勝なるが故に。
- 現前地、縁起に住せる智。無分別の最勝の般若を引て現前せしむるが故に。
- 遠行地、無相住の功用の後辺に至って、世間と二乗との道を出過せるが故に。
- 不道地、無分別智は任運に相続して相と用と煩悩とに動ぜざること能はざるが故に。
- 善慧地、微妙の四無礙解を成就して能く十方に遍して善く法を説くが故に。
- 法雲地、大法智の雲、衆徳の水を含んで、空の如くなる麤重を蔽い法身に充満せしむるが故に。
是の如く十地は総じて有為・無為の功徳を摂して以て自性と為す。所修の行の與に勝れたる依持と為って生長することを得しむるが故に名づけて地と為す。」 と『成唯識論』巻第九に説明されています。その次にですね、十勝行が説かれます。十波羅蜜多のことですね。施・戒・忍・精進・静慮・般若の三種と方便・願・力・智の二種、これが勝行になります。
この中の般若の三種が、生空無分別慧・法空無分別慧・倶空無分別慧なんですね。倶空は生空と法空の二つを兼ね備えた無分別慧と云われています。法執を破っていく智慧です。求道というものが、階位を経て純粋になっていく、その中の通達位を経て、修習位において無分別智を修習していくのです。煩悩の垢がそぎ落とされ、無分別智が任運に相続する位が第八不動地なのです。本当の意味の求道が始まっていく、ここから始まるわけです。聞法生活もここから始まるといっていいのでしょう。信を獲れば、獲た信がいよいよ求める、ということなのではないでしょうか。ここに立場の逆転が生じるのでしょう。転依と云われます。根拠が転換する、今まで自分自分とばかり思って計らってきたが、信を獲た、獲得された信が根拠に転換される、そこから逆に私自身が「汝」と語られるくる。得た智が我となり、得た我がかえって汝となる、妙用ですね。そういう意味で、智慧というものが本当ににんげんを解放させる、独立させる。人間に信の意味の独立を与えるのが智慧の働きですね、智慧を得た時に、はじめて人間が人間として独立するわけでしょう。又、時とはそういう問題を孕んでいるのではないでしょうか。
横道にそれましたが、明日からは、分別起の法執について考えます。