唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 起滅分位門 五位無心 重睡・悶について(2)

2010-12-28 21:33:46 | 五位無心

Default  Hongwanji03               本願寺聖人伝絵第六段

「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。」(『御伝鈔』真聖p729・『歎異抄』p639)

         ー   ・   ー

      第三能変  起滅分位門

      ー  重睡・悶 (2)  ー

 極睡眠というのは、私たちが日頃、夢を見たりするような睡眠を指すのではなく、夢も見ない、起こらない極重の睡眠を指し,亦悶絶も極重の悶絶を指すのですね。

 「疲極(ひごくー身疲労し疲極す、といわれるように、つかれきっていること)等の縁あって睡をして有ることを得しむ。有心のときを名づけて睡眠となす。これを無心ならしむるが故に極重の睡と名づく。」(『述記』第七・八十六左)

と云われますように、疲労ということが縁となっているのです。「身疲労し」といわれていますね。心が疲労し、とはいわれていません。心が疲労しているときは、睡眠も、うとうとだったり、夢心地だったりするわけです。「心が」という場合は不定の心所の一つで、眠(めん)といわれています。「眠とは、謂く心をして昧略ならしむを以て性と為す。」と。この時は、煩悩が種子として潜在している状態で、眠っている心ですね。

 ですから、無心の睡眠には不定の心所である眠の心所はないのです。身の分位であると。ただ眠に似たものであるので、仮に立てたといわれています。『述記』に問いを立てて答えています。

 「此の睡眠の時には、彼の体なしと雖も而も彼に由って、彼に似る、故に仮に彼の名を説く」(『論』第七・十五左)

 「問う、此に既に心所の眠なし。何を名づけて眠となし、而も論の中と大論の無心地等に説いて眠となすや、

 「(答え)これに二解あり。一に由、二に似なり。この眠の時には彼の心所の眠の体は無しと雖も、而も彼の加行の眠の引くに由る。あるいは沈重にして不自在なることは、彼の眠の心所ある時に似る。二義を以っての故に、無心なる身の分位を仮説して眠と名づく。実に眠にあらざるなり。」(『述記』第七本・八十八右)

 次に悶絶ですが、これも睡眠と同じように、身の分位になります。

 「大論の第一に、悶絶はこれ意の不共業なりと説けり。即ち悶の時に、ただ意識のみあるによる。悶は心所法にあらず。末摩(まつま・marmanの音写で死穴、死節ともいう。)に触するを以って悶が生ずること有るが故に。悶は即ち触処の悶なり。」

 「末摩というは梵言なり。此には死穴と云い、或いは死節と云う。順正理論の第三十に云わく、末摩は別物無し。身に異の支節ありて触する時は便ち死を致すといえり。」(『演秘』第六本・十九右)

 断末の叫びですね。悶絶とはそのような身の上に起こることなのです。風熱等の縁なくして、悶絶を起こすならば、これは心所であるけれども、風熱等の縁によって、身の分位を引くのである、と云われています。

 「二無心定と無想天と及び睡と悶との二と、この五の時と除き、第六の意は恒に起こる。縁が恒に具せるが故に。」(『述記』第七本・八十九右)

 (意訳)無想定と滅尽定と生無想天と睡眠と悶絶の五位を除いては第六意識は恒に起こるのである、何故ならば、第六意識が起こる縁が恒に起こっているからである。

 


第三能変 起滅分位門 重睡・悶について(1)

2010-12-24 23:03:33 | 五位無心

04_img01  熊谷堂 「信不退行不退」の図・熊谷堂 HPより

 「聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 よって、これをかきのせたまう。」 (『御伝鈔』 真聖p728)

        ー    ・   ー

   第三能変 起滅分位門 五位無心

   ー 第三解 重睡・悶について ー

 無想定・滅尽定は修行を通じて起こる無心ですが、次の睡眠(すいめん)・悶絶は自然に起こってくる無心の二定というのですね。

ただの睡眠・悶絶ではなく、極重の睡眠・悶絶といわれています。この位においては前六識は現行しないといわれています。

 「無心の睡眠と悶絶とは、謂く有る極重の睡眠・悶絶とには前の六識を皆な現行せざらしむ。」(『論』第七・十五左)と。 (未完)


第三能変 起滅分位門 五位無心 ・ 滅尽定について

2010-12-23 22:24:09 | 五位無心

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  画像は 『選択本願念仏集』 標挙の文  goo提供

 「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。」(真聖p399)教行信証後序・p727『御伝鈔』上末)

       ―    ・    ―

 第三能変 起滅分位門 滅尽定について

    滅尽定 第一段 第五 釈名

 「偏に受と想とを厭するに由って、亦彼の滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)

 (意訳) 偏に受と想とを厭うことによって、七転識を滅する定と名づける。

 七転識の心・心所を滅するを滅定と名づける。その理由は恒行の染汚の心等が滅するからである。また、滅受想定とも名づけられる。滅受想定と云われるのは、遍行の中の受と想とを滅した定で、心所の中で特に心を悩ます感受作用である受と、言葉による概念的思考を引き起こして心を騒がす想とを嫌ってそれら二つを滅するから、滅受想定といわれる。

 二乗と七地以前の菩薩には、色界の四禅と無色界の四地(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)とを修して、受と想とを厭うことがあれば,滅受想定と名づける。「恒行の染汚の心等を滅する」といわれていますが、これは末那識を表しているのです。ですから、末那を滅するといっても、第七識を滅するのではないということです。末那識の滅尽定において学びましたが、人執は滅しても法執は残る、さらに法執を滅したとしても末那を滅したことではないのです。末那は平等智に転ずる識ですね。八地以上の自在の菩薩と如来とには有漏の第六識はないので、阿頼耶とはいわず、阿陀名といい、人執を起こすから阿頼耶というわけです。また法執を縁ずることで異熟識といわれていました。

 次には第二段から第六段の概略です。

  •  第二段 ・ 義の第六 「三品の修を弁ずる」
  •  第三段 ・ 義の第七 「初に修する依地を云う」、二乗と及び七地以前で未自在と名づく。(後に少し述べたいと思いますが、世親菩薩の課題は未自在の菩薩が自在の菩薩と違わないでいられるのかです。)
  •  第三段 ・ 義の第八 「無漏に於いて分別す」
  •  第四段 ・ 義の第九 「三学に於いて分別す」
  •  第五段 ・ 義の第十 「初起と後起との界地を云う」(初起の位は必ず人中にあり。後には上二界にも現前することを得)
  •  第六段 ・ 義の第十一 「一に見惑を明かす。二に修惑を明かす。」

 以上で滅尽定についての概略を記しました。まとめますと『論』の記述から要旨を伺いますと、

 「謂く有る無学、或いは有学の聖の、無所有までの貪を、已に伏し、或いは離る。上の貪は不定なり。止息想の作意を先と為すに由って、不恒行と恒行の汚心との心・心所を滅せしめて滅尽という名を立つ、身を安和ならしむる故に亦た定と名づく、偏に受と想とを厭いしに由って、亦た彼を滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)

 の文につきるのではないかと思います。「有無学」というのは二乗の倶解脱で、「二乗の倶解脱に非ざる者を簡ぶ、入るを得ざるが故に」と、また独覚の中にも滅定を得ざる有り、部行独覚を簡んで有る無学と云われています。「有学の聖」とは、初二果を除くと。有学の中には異生あるを以って聖と簡び、第三の不還果中の身証不還の者がこの定を得るという。以下『論』の説明は12月3日・4日の項を参照してください。

        ―  雑感  ー

 仏道の課題は自利利他成就であることを述べています。二乗及び七地以前の菩薩には人執は滅することはできるが、法執は残るといわれています。二乗地に堕するを菩薩の死と名づく、といわれ、声聞は自利にして大慈悲を障える、ともいわれていますが、このことは何を意味するのかですね。生死解脱を目指して仏道修行をするのですが、その仏道が問題にされているのではないかと思うわけです。いうなれば、七地を超える課題です。『浄土論註』・不虚作住持功徳成就に二つの喩えを出して宿業を生きる凡夫の相が見つめられています。「人、飡(さん)を輟(とど) 止也貞劣反 めて士を養い、或は舟の中に?起(つみおこ)すこと有り、金を積みて庫に盈てれども餓死を免れず。」この初の喩えは『呉越春秋』巻二・巻四と『魯子春秋』第十に出る故事ですが、飼い犬に手を噛まれるということをいっています。即ち、呉の公子である慶忌が敵の臣下、要離を誤って信じ、食事や給与を与えて養っていたが、要離は有るとき船の中で、隙を見て謀略をめぐらし、公子である慶忌を討ったという裏切りの記事が載っている。また次には『前漢書』第九十二・三にでる故事が引用されています。登通という者が、漢の文帝に可愛がられ、大金を貯めるほどの幸せの境涯にあずかったが、逆にこの幸せを受けたことが仇となって次の帝、景帝の時には、この大金は没収され遂に餓死してしまうという、この二つの故事を引き合いにだして、宿業を生きるをえない人間がみつめられているのですね。虚作の相を示しています。凡夫の虚作の相は「虚妄の業をして作して住持すること能わざるに由ってなり」といわれています。このことは、人間の能力の上には利他は成立しないことを示唆しているのでしょうか。自利利他円満成就という大乗仏教の面目は「菩薩は出第五門の回向利益の行成就したまえると」、説かれ、成就は「回向の因を以って教化地の果を証す」と。この因と果は不虚作の相として、「本、法蔵菩薩の四十八願と今日の阿弥陀如来の自在神力とに依るなり」と。この願と力に由って未証浄心の菩薩が上地の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得ることができるのであると、いわれるわけです。ここにですね。自利利他が円満成就する道が開示されたわけです。大乗仏教に於いて自利と利他の限界が七地として説かれています。修道は第六地(現前地)において般若が現前してくるところで完成するのですが、最後の作心が残るのですね。「菩薩七地の中に於して大寂滅を得ば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず、仏道を捨てて実際を証せんと欲す。」 真如のみを欲して仏道の目的を失い作心を以っての故に菩薩の願心である下化衆生を忘れ、七地の中に埋没してしまうのです。古来、七地沈空の難といわれ、自力の作願・回向では超えることができない、といわれているわけです。(前編・完)


第三能変 起滅分位門 五位無心 (末那識に学ぶ)

2010-12-22 22:45:05 | 五位無心

10myouonakimhonensoron_250    親鸞聖人伝絵より

  吉水門下 信心争論の図

 「聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 よって、これをかきのせたまう』(真聖p728)

             ー    ・   ー

 法我見と相応する末那識の所縁の境はなにかについて

 「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり。」(『論』第五・六左)

 (意訳) 彼(法我見と相応する末那識)は、異熟識を認識して法我見を起こすのである。

 「述曰。此の法執の心は異熟識を縁じて、法我見を起こす。法我見の位は既に長し。異熟の心も亦爾なり。」

 法執は無始より金剛喩定(こんごうゆじょう)まで存在するといわれています。法我見と相応する末那識は法執と相応する末那識ですから、「法我見の位は既に長し」と説かれているわけです。

 金剛喩定(金剛心) - 有頂天(非想非非想天)で最後の第九品の惑を断じる無間道で起こす定。最後の最後まで残った煩悩を断じ、次の瞬間に仏陀になる禅定。

 この位の名を善悪業果位といい、異熟の名があるわけです。

  •  無始より七地以前、二乗の有学までの第八識は - 阿頼耶・異熟・阿陀那の三つの名を持つ。
  •  菩薩の八地以上、仏果未満、二乗の無学の第八識は - 阿頼耶の名はなくなり、異熟と阿陀那の名で称されます。
  •  仏果と成った以降は阿陀那と称されることになる。

 第三能変に於ける五位無心を学ぶ中で、滅尽定について末那識の記述から学びました。我執を伏しても法執は残るということですね。我執は必ず法執によって起こるということ。そして二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位に有る時と、有学の漸悟の菩薩の生空智とその果の現在前する時とには、みなただ法執のみを起こすのである、それはすでに我執を伏しているからである、と。 この科段は末那識を述べるところで詳しく読んでいこうと思います。

 第三能変 起滅分位門 ・ 五位無心 ・ 滅尽定に戻ります。滅尽定についても無想定と同じく六段十一義をもって説明されています。ここまでは第一段五義を説明しました。

 


第三能変 起滅分位門 滅尽定について(末那識に学ぶ)

2010-12-21 22:44:50 | 五位無心

           Godenne01 親鸞聖人御絵伝・第一の巻 

                               Google 提供

「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。」(真聖p724.『御伝鈔』)

ー 末那識・分位行相について ―

 第二、法我見と相応する位について

 「次のは、一切の異生と声聞と独覚とに相続せると、一切の菩薩の法空智と果との現前せざる位とに通ず。」(『論』第五・六右)

 (意訳) 次に法我見と相応する位について説明する。法我見と相応する末那識は、一切の異生と声聞と独覚とに相続するのと、一切の菩薩の中の法空智とその果との現前しない位とに通じて存在するのである。

 末那識が滅する状態は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ることなし」と。無漏智が具体的に生起した位です。この位を聖者で、それ以前が凡夫。十地でいえば、七地以前が凡夫で、我執は無始より見道通達位まで存在するといわれています。・八地以上が聖者です。そして無漏智に生空智と法空智の二つがあります。生空智とは人空智ともいわれ、実体としての自己はいないという智慧・我見によって執着するような実体としての自我は存在しないという智慧です。この真理を観ずることを人空観といいます。そしてその智慧をさらにつきつめて、全ては存在しないという智慧に到達したのが法空智といわれています。

 「法空智とは、謂く無分別智、法空観に入るの時なり。果と云うは、即ち是れ此の正智が果なり。謂く法空の後得智と及び法空の後得智に依って滅定に入る位となり。無分別智に引起せられたるが故に法空智が果と名づく。此の時に第七識は必ず平等智を起こす。第六の法空心は細なれば、第七の法執、彼の法空智を障えり。法空智起こるが故に平等智生ず。」(『述記』第五末・二左)

 法空智とは、無分別智が法空観に入る時をいう。その果とは、この法空智による後得智と、この後得智による滅尽定に入る位を指す。この説明は、法空智と、その後得智と、後得智にによる滅尽定の三つを述べています。そしてこの位には必ず平等性智を起こすと述べられています。「法空智起こるが故に平等智生ず。」といわれる所以です。第六識が人空観を起こすなら、人執は断じられるが、法執は残り、法空智を障える、と。

 ですから、法我見と相応する末那識は、上に述べた三つの位を除いた状態が「現前しない位」になるわけですね。すべての異生と二乗と、「一切の菩薩の中で法空智と、その果との現前しない位」の菩薩が執着を起こす位になるのですね。

 所縁の境は、「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり」と説かれます。 (所縁の境については次回に述べます。)                           


第三能変 起滅分位門 少し脱線しています。末那識の分位行相

2010-12-18 22:52:20 | 五位無心

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法然上人と吉水草庵

 それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。」(総結三選の文・『定本 親鸞聖人全集』第六巻・p173 ・ 『行巻』真聖p189・『浄土真要鈔』真聖p697)

                 ―   ・   ―

 分位行相の種類は並存的に一人に並び立つという意味ではなく、修行の階位に応じてその範囲に相違があるということになります。

 (一に補特伽羅我見と相応する) - 人我見の末那識といわれますが、特に補特伽羅(ふとがら)と云われる意味は、生死をくりかえす存在、生命的存在を指し、人と限定されないという意味があります。『瑜伽論』巻八十三に「補特伽羅とは、謂く能く数数(しばしば)諸趣(五趣のこと)に往収して厭足(おんそく)すること無きが故なり。」と。

 補特伽羅我見と相応する位を説明しますが、ここが二つに分かれ、初は執と相応する末那識の位を説き、後半は所縁の境が説明されます。

 「初のは、一切の異生に相続すると、二乗の有学と、七地以前の一類の菩薩との有漏心の位とに通ず。」(『論』第五・六右)

 (意訳) 最初に説かれる「補特伽羅我見と相応する」末那識は、すべての異生に相続し、二乗の有学と、七地以前の一類の菩薩との有漏心の位とに通じて存在する。

 『述記』にも、人我見と相応するということは、「正しくは補特伽羅と云うは五趣に通じて摂したり。唯、人のみには非ざるが故に」と説明されています。

 二に所縁の境が説明されます。

 「彼は阿頼耶識を縁じて補特伽羅我見を起こす」(『論』第五・六左)

 (意訳) 補特伽羅我見と相応する末那識は、阿頼耶識を縁じて補特伽羅我見を起こすのである。

 阿頼耶識を認識対象とし、阿頼耶識を実体的な我であると錯誤して我執を起こしているのです。  

 


第三能変 起滅分位門 五位無心 滅尽定 (13)

2010-12-16 22:39:05 | 五位無心

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  上の太子 聖徳太子 御廟

 十七条憲法 

  「二つに曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。すなわち四生(よつのうまれ)の終わりの帰(よりどころ)、万(よろず)の国の極めの宗なり。何の世、何の人か、この法を貴(とうと)びずあらん。人、はなはだ悪しきもの鮮(すく)なし。よく教うるときは従う。其れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 

 親鸞聖人は聖徳太子を和国の教主と仰がれ、生涯、太子の恩徳を謝されていました。 今、唯識において五位無心を学んでいますが、このことは自利利他の問題だと思うわけです。そういえば曇鸞は「声聞は自利にして大慈悲を障う」といわれていました。要するに五位における問題は自利のみという、自己中心的な解脱を目指し、そこに執着するということなのでしょう。仏陀は自利利他円満の覚者といわれますね。そうすれば、私の上に自利利他円満するということは、私が仏陀にならなければ成就しないのでしょうか。大乗仏教の旗印である「上求菩提・下化衆生」は名目だけに終わってしまうのでしょうか。そうではありませんね。仏教の歴史は自利利他円満成就する道を模索してきたのではありませんか。親鸞聖人もその課題をもちつづけながら比叡山での修行に二十年の歳月を費やされたのでしょうか。六角堂から上の太子の聖徳太子の御廟に足を運ばれ、三宝に帰することの意味を尋ねられたのではないでしょうか。そして師、法然上人に邂逅されたのですね。「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と『教行信証』の結びに記されています。「本願に帰す」ることにおいてのみ、自利利他円満成就の道があるという感慨を記されたのではないでしょうか。ここに大乗仏教が大乗仏教として成就する道が、すでにして開かれていたことを開示されたのですね。そうとすれば、如来の本願は阿頼耶識と一つのものといえますね。命と共に歩み続けるものが阿頼耶識であり、そこに如来の本願が働き続けているのではないでしょうか。如来の本願は夢物語ではなく、私が生きていることの根底に働き続けている命の事実ではないかと思います。


第三能変 起滅分位門 五位無心 (12)

2010-12-15 23:18:12 | 五位無心

Imagescaccgix6               上の太子 叡福寺

 

「和国の教主聖徳皇

   広大恩徳謝しがたし

   一心に帰命したてまつり

   奉讃不退ならしめよ」 (皇太子聖徳奉讃・真聖p508)

            ―     ・     ―

     第三能変 起滅分位門 滅尽定 (12)

     ― 末那識の分位行相について ―

  末那識おけるに起滅分位門につづいて、分位行相門が説かれます。この分位の行相について、その行相の種類を述べます。

 「一には補特伽羅我見(ふとがらがけん)と相応する。二には法我見と相応する。三には平等性智と相応する。」(『論』第五・六右)

  •  一には補特伽羅我見と相応する末那識である。
  •  二には法我見と相応する末那識である。
  •  三には平等性智と相応する末那識である。

  『論』に三位(三種類の末那識の別)について、それぞれ説明がされています。  (未完)
 


第三能変 起滅分位門 五位無心 ・ 滅尽定 (11) 

2010-12-14 23:05:10 | 五位無心

Imagesca7dgz8j                        京都 六角堂

 「山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いし 。」(真聖p616・恵信尼消息)

             ―   ・   ―

     第三能変 起滅門 滅尽定 (11)

― 滅尽定について、末那識における安慧と護法の対論 ―

 「四の位に阿頼耶識無しと説けども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾る応し」(『論』第五・六右)

 (意訳) 三乗の無学位と不退の菩薩(四の位)に阿頼耶識は無いと説かれているけれども、阿頼耶識の体が存在しなくなるわけではないようなものである。したがって此処に説かれていることも亦同様のことである。つまり三位に末那識が無いと説かれている場合も、末那識の体が無くなるのではない、と説かれているのである。

 『樞要』(巻下本・二十三右)に「護法、末那法執に通ずと立て、諍が中に十有り。」と安慧の説に対しての批判を十に配当して説明しています。「十に総結、会するなり。或いは総じて三に分かつ。一に立理引証(理を立てて証を引く)・二に総結(総じて結す)・三に会違(違いを会す)。初の中に九有り。即ち前の九是れなり。「是の故に定んで有」と云うより下は結なり。言彼無者(彼に無しと言うは)と云うより下は違いを会するなり。」と。

 『述記』には九の過失と、「是の故に、定んで無染汚の意有って」と云うより「此れも亦爾なり」を全体をまとめて会通の解釈をおこなっています。

 「述曰。故に無染の意あり。上の三の意に於いて亦、恒に現前す。二乗の三の位には、法執の無染あり。菩薩の三の位には、或いは浄無漏の無染心起こる。是れ所応に随って之が差別を思う。迴心向大せるも其の理然なり。

 論に三の位に末那無しと説けるは、三乗中何れの乗に随うも染汚の意無しと説くなり。第七識の体無きには非ず

 四の位の不退の菩薩の等に阿頼耶識無しと説くとも、第八識の体無きには非ず。染の名を捨つるが故にというが如し。

 故に人執には倶に定んで法執有り。下に自ら更に無漏に亦浄の第七識有りということを解せり。一々、皆『仏地論』(巻第三)に説くが如し。及び『樞要』にも説けり。

 諸門分別することは第十(『述記』第十末)に解するが如し。下は唯正義なり」(『述記』第五本・八十八右)

 


第三能変 起滅分位門 滅尽定 (10)

2010-12-13 23:10:30 | 五位無心

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親鸞聖人が九歳で得度され二十九歳まで仏道修行をされた、比叡山延暦寺根本中堂彩色図面

      (画像はGoogle 提供)

 「九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿 干時、従四位上前若狭守、後白河上皇近臣、聖人養父 前大僧正 慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿御息、月輪殿長兄 の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまいき。範宴少納言公と号す。自爾以来、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横河の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。」(真聖p724 『御伝鈔』)

 第三能変 起滅分位門 滅尽定 (10)

― 滅尽定について、末那識における安慧と護法の対論 

 安慧の説に対して、九の過失を挙げて護法が批判しています。第三は違瑜伽の失・第四は違顕揚の失・第五は違七八相例の失・第六は四智不斉の失・第七は第八無依の失・第八は二執不均の失・第九は五六非同の失・第十は総結として会通されています。詳細については第二能変の項において述べる事にします。今は第十の全体をまとめての会通を読んでみます。

 「是の故に、定んで無染汙(むぜんま)の意有って、上の三の位に於て恒に起こって現前す。彼には無しと言うは、染の意に依って説けり」(『論』第五・六右)

 (意訳) 以上九の過失を以て安慧の説を批判してきた。この故に、必ず無染汚の末那識が存在し、先に述べた三位(滅尽定・聖道・無漏)において、恒に起こって現前する。論等に末那識が無いというのは、染の意が三位に存在しないということに依って説かれているのである。

 護法は安慧の説を論破して、三位には染汚性が無くなるのであって、末那識の体そのものは残るのである、と。そして無染汚の末那識は存在するという。法執の残っている末那識は存在するというこなのですね。

 「安慧の解釈では、末那は人執に限られている。したがって、凡夫にはむろんあるが、聖者には否定される。しかし護法では、末那にも法執があるというのである。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在するというのである。二乗の無学にも法執が存在するというのである。人執ということは、法執を前提として成り立つのである。人執は必ず法執によるものである。法執は必ずしも人執ではないが、人執は必ず法執を前提とする。護法は、そのように徹底せしめたのであろう。」(『唯識三十頌』聴記・三 p34 安田理深述)

 二乗(声聞・縁覚)は人執は滅しているけれども、法執が残っている末那識が存在する。しかし法執は有っても、二乗の阿羅漢果は得ているので、悟りの智慧は妨げないという、これを無染汚の末那識という。