唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (46) 触等相応門 (28)

2011-11-07 19:17:48 | 心の構造について

 問をうけて、何故に煩悩が生起こる時には必ず失念(忘念)と散乱と不正知が倶であるかを説明する。文は二つに分けられ、初に失念と不正知が倶であることを説明し、後に散乱が倶であることを説明する。これは初である。

 「要ず曾受けし境界の種類を縁じて、忘念と及び邪簡択とを発起して、方に貪等の諸の煩悩を起こすが故に。」(『論』第四三十三左)

 邪 - よこしまな。不正。 簡択(けんちゃく) - 智慧の別名。

 邪簡択 - 不正知のこと。曾受の境(曾習の境)に対して正しく理解することができない、という悪慧のこと。

 曾受の境(曾習の境) - 過去に経験したこと。「念とは曾習の境に於て心を明記して忘れざらしむるを性と為す」といわれています。

 (かならず、むかし受けた境界(認識対象)の種類を縁じて、忘念と不正知とを発起して、まさに貪等の諸々の煩悩を起こすからである。)

 「述して曰く、諸の煩悩を起こすことは要ず先時に曾て受けし境の諸の已に得たる者と、或いは未だ曾し受けずと雖も是れ曾て受けし境の種類を縁じて、忘念及び邪簡択を発起す。故に忘念と及び不正知と有り。正念を失うが故に邪に簡択するが故に染汚心を起こす。

 滅・道を縁じて邪見等を起こし或いは未来に殊勝の楽たる天上の楽等の如きありと聞くが如きも、皆先に名を聞いて邪見と及び貪等とを起こすが故に、無始より曾し得たりし境界なり。・・・・・故に染心の時には定んで此の二あり。」(『述記』第五本・五十四左)

 (凡夫は滅諦や道諦の名を聞いて対象として縁じて邪見を起こし、或いは天上界の楽果のことを聞き貪等を起こすのである、と。)

 「論言要縁曾受境類者」について、『論』に「要ず曾受けし境界の種類を縁じて」という種類に二説あると『了義燈』(第四末・三十一右)は述べています。

 「一に云く、境の類と云うは、滅・道に縁ずる時に但だ其の名を縁ずるを亦た境と為すと名づく。此の境は是れ滅・道の類なるを以てなり。

 二に云く、境の体が類なり。如ま苦・集を縁ずるに親しく其の体に符なう。亦已に曾し受けしを後に復た縁ずる時に境の類を縁ずと言う。即ち前の体が類なり。余は此の釈に准ず。

 又云く、名けて是れ名が類なり。謂く先に聞き縁ぜしを、今復た聞き縁するを。二に名の是れ体が類なる。謂く先に体を見て今復た名を縁ずるなり。三に体是れ体が類なり。四に体是れ名が類なり。前に准じて解すべし。」と。

 六遍染師は類境を以て諸々の煩悩を起こすと述べていますが、その意味するところは、失念は別境の念を体とした染のもの(念の一部)であり、不正知は別境の慧を体とした染のもの(慧の一部)として説明していますが、後に護法はこの主張は誤りであると論破します。「念と慧とを以て性と為るならば、染心に遍ぜず」。しかし「無明を以て自性と為るならば、染心に遍して起こる」と。

 念の心所について少し述べますと、『論』に「云何なるかを念と為す。曾習の境の於に、心を明記して忘れざら令むるを以て性と為し、定の依たるを以て業と為す」と。さらに「謂く、数(しばしば)曾受けし所の境を憶持して忘失せざら令め、能く定を引くが故に」と述べられています。

 念の対象は曾習の境です。曾習の境については2010年8月28日~9月3日に『論』及び『述記』の記述より考えてみましたので参照してください。尚、大事なところを抜書きにしてみますと、

 「体(境)と類(境)について - 念の対象は、曾習の境です。串習の境ともいいます。「数曾受けし所の境」のことです。この念の境が体境と類境の二つに大別されます。この体境と類境に二通りの考え方があるといわれています。

 直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。 過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの。

 ここに述べられています体境・類境は私たちの聞法や念仏と大きく関わっている問題が提起されています。『述記』の記述が大きく物語っていますので、意訳を通して考えてみたいと思います。(1)で述べられていますことは、「曾し、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」ということです。すなわち、直接的に経験し認識したこと(体境)がなく、名を聞いた(類境)ことさえないものにおいては、すべてにおいて念はおこらないという。名を聞いた、ということは仏の名号や涅槃等の名を聞くということです。名を聞くということ、聞名です。これが人生のキーワードになるということを教えています。。「むかし、受けしところの境」、過去に直接的に認識した対象を体境(念の中に、すでにかの体を受けしことあり)といい、或いはそうでないもの、直接的に認識するものではなく、間接的に、その対象を認識するものを類境と。間接的にという意味は、「無漏を縁ずる染汚心等の如し」といわれ、無漏という認識対象の名前を縁じるということが、類境といわれるのです。私たちの染汚心をもって、無漏の教えを念じられるのか、真如を認識するというということはどういうことなのか、「真如を縁ずる等は、かの類と名等を縁ずと名づく」といわれていますように、真如という名前を尋ねることによって、「むかし受けた認識対象」になるというのです。名前を聞くことに於いて、仏法が憶念されるということです。無漏の教え、真如という言葉、仏を念ずるということなど、その名で真実を尋ねる場合、それが「曾習の境」となり、念の対象となり得るといわれています。「曾受にあらずといえども、曾し名を受けしが故に・・・名づけて曾の体となす。またかの類ともなづく」と。直接的に仏を観たこともなく、無分別智の真如も観じたことがなく、涅槃も証してはいないので、体境としては念の境にはならないけれども、その名を縁じることにおいて、類境として念の境として成り立つといわれるのです。教えを聞くことの大切さが教えられています。聞法を通して、我執を縁として必至滅度の道が開かれるのですね。我執は染汚心ですが、この染汚心が、類境として、無漏を縁じることが出来ると説かれています。また、「他界縁の使等を並にかの類に摂す」ともいわれています。他界の縁の使いなども類境に摂める、と。これは三界のなかの上界ですね。私たちは欲界でうごめいているわけですが、その欲界のなかで、上界(浄土)の事を名で尋ねて縁じる事であると説明されています。聞法が念の対象になり、心に明記して忘れないこと、という意義を持ち、聞いたことは、必ず身についているというになるのですね。そのことが、私をして願生浄土の道を歩ませるのです。