前に戻りますが、法我見相応は、一切の異生と声聞・独覚と一切の菩薩が、法空智と、その果とを現前しない時に通じて存在する、と述べられていますが、その第一の補特伽羅我見相応と第二の法我見相応とに共通して存在するのが、一切の異生です。一切の異生、すべての生き物は補特伽羅我見相応、すべての生き物は本来的に我執をもっているということ、そして法我見相応位においても、一切の異生は法に執らわれている。我に執らわれ、法に執らわれているのが一切の異生なのです。我執を離れても、なお法執が有る、しかし法我見相応は異熟識を対象とする。補特伽羅我見相応は阿頼耶識を対象として働くのですが、第二は異熟識を対象として末那識が働くのです。善悪業果位として私は今存在しているのですね。しかし善悪業果としての自己に執着していく、それが異熟識と呼ばれるのです。今、現に、生きている私を対象として末那識が働く時に法我見相応位と呼ばれるのです。
因は善か悪ですが果は無記であると説かれます(因善悪果是無記)。この果は無記というところに唯識が説く人間観の素晴らしさが伺えます。生まれてきたという果は善でも、悪でもないということです。生まれながらの善人・悪人はいないということですね。存在の根底にあるのは無覆無記なのです。今、私が存在しているのは過去の業果であるのでしょうが、この今、現に生きていることは無記の存在として生かされているということになります。金子大栄先生が「人生はやり直しはできないが、見直すことはできる」と教えてくださいました意味も、果は無記であるからこそ、「人生とは何ぞや」と問い、「自己とは何ぞや」と問う機縁となるのではないでしょうか。
「述して曰く、四の無記有り。此れはなにれの無記には摂ぬる。是れ異熟生に摂するなり。異熟識の性に従って、恒時に生ずるが故に。異熟生と名づけ、是れ善悪の異熟の業に従って生ぜざるを以て異熟生と名づけるに非ず。異熟生無記と云う名は通ぜる故に此れに摂めたり。」(『述記』第五末・十一左)
異熟生とは異熟果である阿頼耶識を指しているのではないと述べているのです。法執と倶である末那識は、無覆無記である異熟識に従って生じるものではあるが、無覆無記の中でも異熟無記であることを異熟生というのであると述べているのです。善悪業果の阿頼耶識を指すのではなく、善悪業果としての異熟識は無記であることを異熟生といい、末那識が、異熟識である阿頼耶識に従って生じるから異熟生といっているわけです。