唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(28)

2012-02-29 23:07:48 | 心の構造について

 前に戻りますが、法我見相応は、一切の異生と声聞・独覚と一切の菩薩が、法空智と、その果とを現前しない時に通じて存在する、と述べられていますが、その第一の補特伽羅我見相応と第二の法我見相応とに共通して存在するのが、一切の異生です。一切の異生、すべての生き物は補特伽羅我見相応、すべての生き物は本来的に我執をもっているということ、そして法我見相応位においても、一切の異生は法に執らわれている。我に執らわれ、法に執らわれているのが一切の異生なのです。我執を離れても、なお法執が有る、しかし法我見相応は異熟識を対象とする。補特伽羅我見相応は阿頼耶識を対象として働くのですが、第二は異熟識を対象として末那識が働くのです。善悪業果位として私は今存在しているのですね。しかし善悪業果としての自己に執着していく、それが異熟識と呼ばれるのです。今、現に、生きている私を対象として末那識が働く時に法我見相応位と呼ばれるのです。

 因は善か悪ですが果は無記であると説かれます(因善悪果是無記)。この果は無記というところに唯識が説く人間観の素晴らしさが伺えます。生まれてきたという果は善でも、悪でもないということです。生まれながらの善人・悪人はいないということですね。存在の根底にあるのは無覆無記なのです。今、私が存在しているのは過去の業果であるのでしょうが、この今、現に生きていることは無記の存在として生かされているということになります。金子大栄先生が「人生はやり直しはできないが、見直すことはできる」と教えてくださいました意味も、果は無記であるからこそ、「人生とは何ぞや」と問い、「自己とは何ぞや」と問う機縁となるのではないでしょうか。

 「述して曰く、四の無記有り。此れはなにれの無記には摂ぬる。是れ異熟生に摂するなり。異熟識の性に従って、恒時に生ずるが故に。異熟生と名づけ、是れ善悪の異熟の業に従って生ぜざるを以て異熟生と名づけるに非ず。異熟生無記と云う名は通ぜる故に此れに摂めたり。」(『述記』第五末・十一左)

 異熟生とは異熟果である阿頼耶識を指しているのではないと述べているのです。法執と倶である末那識は、無覆無記である異熟識に従って生じるものではあるが、無覆無記の中でも異熟無記であることを異熟生というのであると述べているのです。善悪業果の阿頼耶識を指すのではなく、善悪業果としての異熟識は無記であることを異熟生といい、末那識が、異熟識である阿頼耶識に従って生じるから異熟生といっているわけです。


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(27)

2012-02-28 23:22:37 | 心の構造について

 「論に法執倶意於二乗等と云う。凡夫に等取す。即ち二乗と凡夫なり。西明等の云く、菩薩の生空智を等取す。彼の智を障えざるを以て、亦た不染に名づくと云う。要集に云く、後の説を勝と為す。若し凡夫を等すと云はば、菩薩にも亦た有り。何故か等せずと云う。今謂く、前勝れたり。論に諸菩薩に於て云う。即ち凡・聖に通ず。若し菩薩の生空に望めて不染ならば、生空を起こす時には菩薩にあらざるべし。又亦た応に諸の菩薩に於て生空智を除いて亦た名づけて染と為すと言うべし。前の句は総じて説けり。文に復た除かず。故に知りぬ、総じて望めて菩薩の生空を起こす時をば等せず。然るに菩薩に於て等と言はずと云うは、諸言に摂むるが故に。前を以て後を影せる故に。倶に過有ること無し。」(『了義燈』第五本・六左)

 法執による染・不染の意味を問い、答えている科段になります。二乗等の視点か菩薩の視点かによってその意味の違うことを述べています。菩薩においては、法執と倶である末那識は染とする。法執は菩薩においては法空智を妨げるからである。二乗等は生空智を得ることが目的になりますから、法空智は問題とはならないというのです。従って二乗等においては法執と倶である末那識は無覆無記になりますが、菩薩においては法執は法空智を障碍するわけですから有覆無記の存在となるのです。

 その第二は、四無記の中では、異熟生に摂めることを述べる。

 「是れ異熟生に摂む。異熟識に従って、恒時に生するが故に異熟生と名づく。異熟果には非ず。此の名は通ぜるが故に。」(『論』第五・八右)

 (此れ(末那識)を四無記の中では異熟生に摂める。異熟識に従って、恒時に生じるから異熟生という。異熟果ではない。この名は、通じるからである。)

 四無記 - (無覆無記には詳しくは四つの無記がある)。

  •  (1) 異熟生(いじゅくしょう) - 前世の善悪業によって生じたもの。異熟無記。
  •  (2) 威儀路(いぎろ) - 行・住・坐・臥 、歩くこと、立つこと、座ること、横になることの四種の身体的動作をする時の心。
  •  (3) 工巧処(くぎょうしょ) - 技術・知識に基づく仕事や営みをする時の心。
  •  (4) 変化(へんげ) - 仏・菩薩が神通力を得て人々を導き救済するための種々の有り方。種々のものを作り出すときの心。

 法執と倶である末那識は、無覆無記である異熟識に従って生じるものであるから、無覆無記の中でも異熟無記であると述べているのです。異類熟であり、真異熟であるから異熟生といわれているのです。 次回は、異熟について若干の説明をします。(未完)


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(26)

2012-02-27 22:23:41 | 心の構造について

 第三は、重ねて法執の染・不染の意味を説明します。

 「自下は第三に重ねて法執の染と不染の義を解す。問、何が故にか上に二乗と異生と言うて全に有りと言うや。」(『述記』第五末・十一右)

 「疏に「問何故上言至全言有也」とは下の論を生起するなり。」(『演秘』第四末・三十右)

 「法執は倶なる意をば、二乗等に於ては不染と名づくと雖も、諸の菩薩に於ては亦名づけて染と為す。彼が智を障うるが故に。此れに由って亦有覆無記と名づけ、二乗等に於ては説きて無覆と名づく。彼が智を障えざるが故に。」(『論』第五・七左)

 (法執と倶である末那識を、二乗等(二乗と異生)においては不染と名づける。とはいっても諸々の菩薩においては、また染と名づけるのである。諸々の菩薩の智を障碍するからである。これに由ってまた有覆無記と名づける。しかし二乗等においては無覆無記と名づける。二乗等の智を障碍しないからである。)

 二乗や凡夫において、法執と倶である末那識は不染とする、と。何故なら法執は、二乗や凡夫において菩薩の智を障碍するものではないからである、と述べています。従って無覆無記であると。法執が問題となることは、利他行ですね。利他が問題となる時には、法執が利他を妨げるからですね。二乗には問題とはならないのです。自利のみの問題だからです。煩悩障を断じて二乗の無漏智を得て、人執を断じて阿羅漢となっても仏には成れないと云うことになりますね。煩悩障は麤であり、所知障は細執であるといわれる所以です。

 「述して曰く、二乗等と云うに於て諸の異生を等す。不染と名くと雖も、菩薩に於て名づけて染と為す。菩薩の智を障うるが故に。此れに由って法執は二の無記に通ず。二乗に望めては是れ無覆と云う。菩薩に望めては亦た有覆無記と名づけたり。二乗をば障へざるが故に。」(『述記』第五末・十一右)

 「所知障の中には縦い不善も二乗を覆はざるを以て無覆と名づく。菩薩を障うるを以て有覆と名づく。又解す、不善心の中にも亦た唯だ無記なり、煩悩障と相違せざるなり。問、(所)知障は二乗を障えざるを以て、即ち無覆と名づけば、惑障は菩薩を障えず。応に無覆と名づくべきや。答、声聞は唯だ一果を求むるを以て智を障えざるが故に無覆と名づく。菩薩は雙べて一果を求むるを以て、惑を障えざるが故に無覆に非ず。問、智障は菩薩を障ゆるを以て、即ち唯だ有覆と名づけば、惑障は三乗を障ゆるを以て、応に是れ不善に非ざるべきや。答、知障は唯だ真見を障ゆるを以て。但だ有覆と名づけ、惑障は生死に処せしむるを以て。故に不善に通ず。又自ら損し他を損うが故に。(『樞要』巻下本・二十四左)


「下総たより」 『感の教学』 安田理深述 (1)

2012-02-26 19:38:27 | 『感の教学』 安田理深述

       『感の教学』 - ものがちがう -

                  安田理深述   (1)

 私は話をすると何遍も繰り返すのですが、それはさまざまなことを言おうという訳ではなく、ただ一つの問題についてはっきりしたいと思う。曽我先生を通して我々はどういうことを教えられたか、端的にいってそれは感の教学というものでないかと私は思う。知るという智の教学に対して感の教学、そこに理知的には表象的にしか解らなかったものが、明証的に覚証的に始めてはっきりしてくる。これ迄遠く自己の外に対象的に捜し求めておったものが、近く自己内面の事実として見出されてくる。それもやはり知られるには違いないが、理知的に把握して知るのではなく感知する、感というのは近く内面の事実としてなるほどこれであったか、と知られることである。知るといっても主観的に構成するのではなく、ものそのものを直下に承認するまでのことである。真に直接的な最も具体的な知り方が感知、近いものも理知的に対象的に知ろうとすると却って遠くを求めることになる。

 近いが故に却って遠い、そういうところから感の教学というのは、親鸞に別に感という言葉が使用されてあるわけではないが、感情感情という現代語は如何にも新鮮な迫力をもつ。

 私では実は先生の教学を親鸞の教学と区別して思想することが出来ない。どこ迄が先生が言われたか、どこ迄が親鸞か、そういうことは区別がつかないが、先生を通して始めて親鸞の言葉が、生気溌剌たる意味が明瞭になったということが曽我先生の感の教学、曽我教学というのは他からいうのであって、先生御自身の考えを自ら曽我教学をいっておられる訳ではない。このこと関して非常に照応的であるのが道元禅師、越前といえば道元禅師を思わずにいられないのですが、言はば知の教学というものを最も純化したもの、純粋知性の教学というものが道元禅師であるのでないか、その知は勿論単に理知的の知ではない。

 却って逆の方向に於てふれられた根本的自覚としての証知である。それに対して親鸞の教学は純粋間隔であると言い得るのでないか。感覚といえば心理学の用語であるが、一般的には痛いとか熱いとか冷たいとかいう外部の感覚、そういう現代の心理学の用語をもって人間存在の自覚を表現しようというのである。

 たとえば宿業という仏教語、宿業と古典には言われておるが、その意味が思想的によくわからぬ、森厳な感銘がありつつ思想的に限定された意味がどうもはっきりしない。現代に生きておる人間にとってはっきりしないうらみがある。業というのはいわば既に死んだ過去の言葉であり、それがまた多くの誤解を含む面倒な言葉である。しかも人間の現存在の厳粛さの自覚といったものを表現する極めて重要な意義をもつ言葉である。解らぬというだけで放っておけない言葉である。人間の社会的境遇は外的な運命であると、封建的身分を基礎づける一つの教理の如く考えられるほど誤解され利用されておる。その危ない言葉に生きた意味を見出してくる、危ないものは負傷することもあるけれども、またそれは深い全体的責任感の自覚に目ざますような生きた意味を含蓄していて、他に代用語を求めてみようもない言葉である。それを感覚的自覚の内容としてみるとき、古い表現の中に新しく知られてくるものがあるのではないか。とにかく業所感というが如く、業は感と結び付く言葉であって、知的理解とは異なる意味の言葉である。(十回にわけて掲載させて頂こうと思います。次回は3月4日になります。)


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(25)

2012-02-25 23:32:01 | 心の構造について

 今は、護法正義について説かれていますが、ここには安慧と護法の対論が展開されています。護法の立場は、阿羅漢と滅尽定と出世道の三位に至るまでの間は、人我執と法執が有る染汚識としての末那識の識体は存在しているが、三位に至れば、その染汚としての末那識の用はなくなるけれども、識体は存在し、無漏の第七識として存在するという立場です。しかし安慧は識そのものが無くなるという立場と採っています。護法は安慧の説に対して九つの過失を挙げて批判していました。(2012年1月11日~1月28日の項を参照してください。)

 「何故か唯所知障のみ在りと言うや。若し(安慧の補足的説明)第六識現行の法執を起こすべきが故に。法を依と為すと言うと言はば、(八地以上の第六識の法執)此れ何の法の與にか所依と為るなる。(八地以上は人我執を起こすこと無きが故に)第六は所依には非ず。第七は是れ所依なり。又若し第六は此の染心(所知障)を起こすと許さば、何が故にか煩悩の人執をば起こさざるや。何の法が障と為して生ぜざらしむるや。余の時とは、第六意識に唯だ法執のみ有って一切の時を経て都て人執無きことをば見ざるが故に。然るに上には重ねて初と及び第二の位を諍って、平等性の位を言はざることは、彼は了し易きが故なり。」(『述記』第五末・十右)

 安慧の補足的説明を破す、『演秘』の説明。

 「 疏。説彼地地皆能斷故者。第六法執地地既斷。云何得言所知障在。若言言有據小有者。此亦不然。既法執起煩惱應行。如疏下難。」(大正43ー903a)

 ( 疏に、彼は地地に皆能く断ずと説くが故にとは、第六の法執は地地に既に断ず。云何んぞ、所知障在りと言うことを得べし。若し有と言うは少有に拠ると言はば、此れ亦然らず。既に法執起こらば煩悩応に行ずべし。 疏の下に難ずるが如し。)

 法執が現行する時には必ず人我執は起こることを述べ、安慧の補足的説明を破斥しています。『疏』には細執は人観の起こることを障えない(細執不障麤観起故)、と述べています。 


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(24)

2012-02-24 23:06:22 | 心の構造について

 『解深密経』巻第四(大正16・707c)の文を引用して、第七識に法執が存在することを証明する。

 「契経に説くが如し。八地以上には一切の煩悩は復た現行せず。唯だ所依の所知障のみ在ること有りと云う。」(『論』第五・七左)

 (『解深密経』巻第四(大正16・707c)に説かれている通りである。「八地以上には、一切の煩悩はまた現行しない。ただ所依の所知障のみあることがある」と。)

 「謂於第八地已上。從此已去一切煩惱不復現行。唯有所知障爲依止故」の文。(謂く、第八地已上に於けるなり。此より已去、一切の煩悩復現行せず。唯所知障の依止とのみ為るが故なり。」)

 第七識相応の所知障の現行は一類微細に働き、知り難い障りであると説かれています。ここで説かれている意味は、八地以上には煩悩障(我執)は現行しないけれども、法執は現行することを明らかにする証拠として『解深密経』を引用しているのです。

 「述して曰く、八地已上には一切の煩悩は復た現行せず。唯だ所依の所知障のみ在ること有り。此れ経文なり。」

 その理由を述べる。

 「此の所知障は是れ現なり。種には非ず。爾らずんば、煩悩も亦在りと云ひぬ応きが故に。」(『論』第五・七左)

 (この所知障は、これは現行であり、種子ではない。そうでなければ、煩悩障もまたあるというべきだからである。)

 「述して曰く、八地已去にあらゆる法執は是れ現行にして種子には非ず。此れは第六識の中の法執の現種(現行と種子)には非ず。彼をば地地に皆能く断ずと説くが故に。

 (安慧の救を破す) 若し彼こには(安慧の救) 第七の惑と、余識(第六識)の中の法執との種子を説く。現行有るに非ず。現行の所知障は此の位(八地以上)に無きが故にと謂はば、(安慧の救を破す)即ち(第六の)煩悩の種子も亦応に在りと言うべし。十地の中には未だ第七及び余の修道の煩悩の種を断ぜざるが故に。応にこの位には(第六の)煩悩・所知の二障(の種子)倶に在りと言うべし。」(『述記』第五末・十右)

 安慧の反論を想定して護法が破斥する一段になります。 (未刊)


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(23)

2012-02-23 23:02:17 | 心の構造について

 『述記』第五末・九左(大正43・408b)に『論』の「八地以上~不相違故」を釈して、

 「述して曰く、重ねて八地已上の三地を諍う。彼の位には人我執皆永く行ぜず。不行に二有り。無学の漸悟は彼は已に永に断ずるを以て、名づけて不行と為す。有学の漸悟と及び頓悟の菩薩とは、此の位に永伏せるを以て名づけて不行と為す。即ち是は第八に其の名を捨すなり。能縁行ぜざるが故に。此の三地に法空智現前せずして人観のみを起こせる時には、猶、法執のみを起こす。相違せざるが故に。細執は麤観の起こることをば障えざるが故に。

 若し(八地以上法執起こること)然らずんば即ち応に法観を起こすべし。唯無漏相続して有漏心の隔つこと無きを以てなり。此れ(法観恒に行ぜず)をもって(法執有りと)証と為す。八地已去に若し彼と第六意識の(法執)有漏心を起こすことを許さば、何が故に人執の彼の位に行ぜず。人執は有漏心を障えざるが故に。設い永く彼の人執の種をば断ぜざれども、但だ是れ永伏せり。故に(第六)無漏心に常に人法の観を起すということを。

 此れは何を以てか証と為るならば、『解深密経』の如し。七十三に當る。二障(煩悩障・所知障)を三処に過ぐと云えり。」

 八地以上の菩薩にあって、無学の漸悟は人我執を永断している。有学の漸悟と及び頓悟の菩薩とは此の位に人我執を永伏しているのである。すなわちこれは第八識は阿頼耶の名を捨するのである。何故ならば、この位は我愛執蔵現行位ではないからである。そしてこの三地には法空智現前せずして人観のみを起こす時には猶、法執のみを起こすのである。細執(法執)は麤い観(人観)の起こることを障えないからである、と。

 第六意識の人空智のみ起こる時には第七識の法執は起こるのである。しかし八地以上の法執は第七識の現行であって種子ではなく、また第六識中の法執の現行と種子とでもない。何故ならば第六識中の法執の現行と種子とは地地に皆、能く断ずると説かれている。(「第六の法執は地地に既に断ず」) 以上の所論の証は次の科段より説明されます。


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(22)  

2012-02-22 23:29:56 | 心の構造について

 重ねて八地以上の三位(三地)について説明される。

 ここでいう八地以上の三位とは、生空無分別智と、その後得智と、この後得智によって引き起こされる滅尽定をいう。

 「八地以上の一切の菩薩には、有らゆる我執は皆永に行ぜず、或は已に永断せり。或は永に伏せる故に。法空智果の現前せざる時には、猶法執のみを起こせり。相違せざるが故に。」(『論』第五・七左)

 (八地以上のすべての菩薩には、あらゆる我執は永遠に起こらない。或は我執は已に永遠に断ぜられ、或は永遠に伏せられているからである。ただ、法空智とその後得智の現前しない時には、なお法執のみを起こすのである。相違しないからである。)

 八地以上の一切の菩薩の三位(生空無分別智と、その後得智と、この後得智によって引き起こされる滅尽定)には人我執は皆な永遠に起こることはない、といわれています。永遠に起こることは無いということについては二つの意義があり、一つには永断と二つには永伏である。永断は無学の漸悟の菩薩においてです。我執を永遠に断じているので、不行である。また有学の漸悟の菩薩と、頓悟の菩薩は、我執を永遠に伏している、といわれています。「法空智果の現前せざる時には、猶法執のみを起こせり。」というのは、永断と永伏との不行について説明されているのです。『述記』には「細執は麤き観の起こることをば障えざるが故に」と述べられています。八地以上(八地から十地)においては、すでに第六意識が生空観(生命的存在が実体として存在しないと観察する)に入り、その生空観により人我執は断じられたり、伏せられたりするので、第七識の我執は起こらないのですね。しかし、「法空智果の現前せざる時には」、法執は断じられていないので、法執は起こるのである、と述べています。第七識の法執は細やかな執着なのです。しかし第六識で人我執が断じられるのは麤である、と。麤であるところの生空観は細執である第七識の法執を伏し断じることはない、と説明しています。   

 生空智と法空智とは無漏智のことですが、そして生空智が麤といわれる意味は、実体としての自分というものはないという智慧であり、法空智は生空智を更に深く観察されたもので、自分を構成する五蘊さえもないという智慧を指します。一つ一つのパーツによって一つのものが作り上げられるのであるが、一つ一つの構成要素である一つのパーツは存在すると観察する智慧が生空智であり、その一つのパーツさえも存在しないと観察するのが法空智ということになります。  (つづく) 明日は『述記』の記述と、教証としての『解深密経』第四巻と『瑜伽論』巻第七十八を伺います。

 


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(21)  

2012-02-21 22:19:28 | 心の構造について

大乗仏教の課題は自利利他円満成就にありますが、小乗仏教が乗り物が小さいとして批判されるのですが、小乗仏教の中に課題があるということでしょうね。未完成だといえるのではないでしょうか。大乗仏教をもって小乗仏教が完成される、と。法我見相応位を見てみますと、二乗の問題ですね。定性二乗の有学は我執を伏し、定性二乗の無学に至って我執を断ずる、といわれているのですが、人間からの仏道は我執を断ずることが最終目的になってしまうのでしょう。自利即利他は成り立たないと言おうとしているのではないでしょうか。仏陀は自利利他円満成就された方といわれますが、これは法を明らかにされたということなのでしょうね。法によって仏陀は仏陀自身を成就された、と。自らも救われ、他をも救われる法を明らかにされた方、それが仏陀といわれるのでしょう。それが自己の上に目覚めとして明らかにされるところに、自己は他(法)によって利せられる存在であるといわれるのですね。法は南無阿弥陀仏ですね。「如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするない。」と云われる所以です。

          ―       ・       ―

 「二乗の無学と及び此れが漸悟の法空智果の現前せざる時とには、亦唯だ法執のみを起こせり。我執をば已に断ぜつ故に。」(『論』第五・七右)

 (二乗の無学と、二乗の無学から迴心向大(小乗の位から大乗の位に入ること)した漸悟の菩薩の法空智とその果との現前しない時とには、また、ただ法執のみを起こすのである。それらの位には、既に我執を断じているからである。)

 我執を断じる位 -  二乗の無学と、二乗の無学から迴心向大した漸悟の菩薩の法空智と、その果との現前しない時。二乗の無学は我執を断じ尽くしているが、法空智と其の果が現前していないので、(法執は断じていない為に)法執を起こすのであるといわれます。

 但し、見道の全と修道の中の法空智とその果が現前する位には、もはや法執は起こらないと説かれているのです。

 「述して曰く、此の二種の人を明かすなり。謂く、此の定性の二乗の無学の全と、及び此の漸悟の菩薩の一切の位の中に、法空の智と、及び果との現前せざる時の、若し散と定との心の有漏と無漏の心に住すは、皆唯だ法執を起こせり。我執をば已に断ぜるが故に、漸悟には即ち見道の全と、及び修道の中の法空の智と、及び果の現前する位とを除きたり。此の位には法執、定んで行ぜざるが故に。余の位は除く所に非ず。皆法執有るなり。然も此れは一切の若しは是れ漸悟りの有学・無学と頓悟の菩薩との八地已去は大勢相似せり。七地已前は有漏心間はるを以て、八地には同ぜず。」(『述記』第五末・八左)


第二能変 起滅分位門 (第八段第十門) その(38) 分位行相(⑳)  

2012-02-20 23:19:42 | 心の構造について

 法我見相応位(第七識が第八異熟識を縁じて法我執を起す位)についての『述記』(第五本・八右)の記述。

 寛狭を説明する。

 「述して曰く、前の第二の法執の位を広ずるなり。 此の執は寛きが故に初の位(補特伽羅我見相応位)にも必ず此の法執有るが故に。更に一切の異生を釈することを須いざることは、理疑滞無く、具に人執有りと云うことを。」

 初の補特伽羅我見相応位には必ずこの法我見相応位が存在するけれども、この法我見相応位には初の位は必ずしも存在すると云うことは無い。何故なら、初の位は短であり、この位は寛い(長い)からである。前科段から述べられていますように、人我の位には必ず法我が存在する。人我は必ず法我によって起こるからである、と。

 「定性の二乗の有学の聖道を起こし滅定に住せる二位の現在前する時とは見・修道に通ず。此れを除きては亦人執有り。頓悟の菩薩と云うは見道の全を除くなり。此れは一心真見道に依りて説く。一向法観にして法執に違せる故に。若し三心の観ならば、即ち初念の時には唯だ人観のみなるが故に。修道の位に於て生空の智及び此の果とは、果とは即ち人空の後得智と及び人空に引かれる滅定なりと。有学漸悟の菩薩は一切の位の中に生空の智及び二の果現在前する時には、即ち皆唯だ此の識の法執を起こす。此れが人執は人空智を障えるを以ての故に。定性の二乗の聖道と滅定と頓漸菩薩の生空智と及び果の位とには我執をば已に伏す。金剛心に至って方に能く断ずるが故に。唯だ法執有り。頓漸の菩薩は、皆見道の法空の智と及び果との者を除くことは、必ず法執無きが故に。然るに唯だ法執のみを起こすが中に、定性の二乗無学と及び此の漸悟とは如何ぞ。」

 独覚姓と声聞姓はまとめて定姓の二乗といわれる。五姓各別の中で説かれる、独覚姓・声聞姓という種姓(宗教的能力)が定まっており、最終的には無余依涅槃に入ってしまう人をいう、とされます。定性の二乗の有学の聖道(生空智と後得智)と滅尽定との現在前する時、これは見道・修道の二道に通ずる。頓悟の菩薩の修道の位(生空智とその果の起こる位)にある時と、有学の漸悟の菩薩は生空智とその果の現在前する時とは我執を既に伏し、金剛心に至ってまさによく断ずるから此等の位には唯だ法執のみが起こるのである、と説明されます。ただし、頓漸の菩薩に於て、その見道の全と修道の中の法空の智と及び果とをすべて除くことは、それらには必ず法執が無いからである。     

 そして問いが出されます。「然るに唯だ法執のみを起こすが中に、定性の二乗無学と及び此の漸悟とは如何ぞ。」(我執已断の位)と。