他学派の説を論破
初めは正理師(『阿毘達磨順正理論』による学説)の説・ 後に経量部の説を挙げ、護法が論破し、自らの説を述べる。
「有るが説かく、爾の時にも亦定の起こること有り、但し相微隠(そうみおん)なりという。応に誠言を説くべし」(『論』第五・三十左)
「述して曰く。(正理師等なり) 乱心等の時にも、また定の起こることあり、但し相は微隠なるを以て、相は知り難しといえば、いま彼を詰して曰く、誠言を説くべしと。誠とは謂く、誠諦なり。言虚を以て有と説かば、理いまだ通ずべからず。実言を説いて我に有りと知らしむべし」(『述記』第六本上・十四左)
正理師等はこのように説いている。心が散乱している時にも定が起こることがある。ただし、その相は微隠であって、定が起こっていても知り難いのである、と。誠言は真実を明らかにする言葉ですね。今、まさに真実を明らかにする正しい説を述べる。
正理師等の説はどのような状態であっても(心を繋し境に専注していない状態の時)、相微隠ながら定は存在するから遍行であると主張している。それに対し護法は、その説は誤りであると否定し、誠言をもって論破する、と宣言しています。
次に「言虚を以て有と説かば、理いまだ通ずべからず」と、理にかなわないことを論破します。第一段が和合救・第二段が不易縁救・第三段が取所縁救と称され、それぞれにわたって、論破します。(新導本『成唯識論』による。傍注に「これは転救を破す」と記されています。-『述記』には有義と護法とによる問答が述べられ、正義が示されていますが、その折、有義、即ち護法以外の異説の主張者が、護法に論破された場合、その反論として、自説が正しいと防御的補足説明をしています。この反論を「救」という、とされます。)
第一段 和合救
「若し定いい能く心等を和合して同じく一境に趣か令むるが故に、是れ遍行なりといわば、理亦然らず、是は触の用なるが故に」(『論』第五・三十左)
「述して曰く。若し彼が救して、定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしめ、心が起こる時に、みな有り、故に是れ遍行なりと言わば、理い、また然らず、これは触の用なるが故に。触は能く心心所法を和合して離別せしめず。同一所縁なるが故に」(『述記』第六本上・十五右)
もし、正理師等が救して(自説を防御・救援するために、新たに論理主張を述べる、補足的説明)定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしめ、心が起こる時に、みな有り、故に是れ遍行なりと言うのであれば、これは理に適わない。何故なら、認識主観である心王は、さらに心の働きである触の働きによって、認識対象に触れさせられるといわれ、触は心王が起こる時には必ず働く遍行であるとされますから、正理師等が主張する説は理にかなわず、同一所縁は触の働きに他ならないのです。よって定は遍行ではないと論破しています。触と定とを混乱して理解しているのです。ここはきちんと整理をしていかなければならないところです。
第二段 不易縁救(此定令刹那頃心不易縁)
「若し謂く、此の定は刹那の頃(あいだ)に心に縁を易(か)えざら令む。故に遍行に摂むといわば、亦理に応ぜず。一刹那の心は、自ら所縁の於(うえ)に易うる義無きが故に」(『論』第五・三十一右)
「述して曰く。(理に応ぜず)一刹那の心は自然に一境において改易する義なし。何ぞ定を須いて爾らんや。」(『述記』)
もし、正理師等が主張する、この定は、刹那の間に心に所縁をかえさせない働きをもつ。よって、定は遍行に摂められるというのであれば、これもまた誤りである。何故なら一刹那の心は、自ら所縁をかえることがないからである。ここにですね。(救)といわれる論法をもってくるわけです。和合救で、それは触だといわれて、それならば、不易所縁であるというわけですが、最初の一刹那については、どのような意識であっても所縁をかえないのですから、あえて定を待つ必要はない、と。
第三段 取所縁救(由定心取所縁)
「若し言く、定に由って心に所縁を取ら令むるが故に遍行に摂むといわば彼は亦理に非ず。作意いい心に所縁を取ら令むるが故に」(『論』第五・三十一右)
これが駄目なら、つぎはこれという論法です。ここは、定に由って、心に所縁を認識させるのであるから、定は遍行であるというのは、亦誤りである。何故ならば、その働きは作意の心所だからである。心に認識対象(所縁)を取らせるのは、定の働きではなく、作意の働きである、と論破しています。
「述して曰く。彼復た救して言く。心に境を取らしむ、之を名づけて定と為すと言はば、復た彼を難じて言く、心をして境を取らしむるは作意の功なり。定の力に由るに非ずという。前に已に説くが如し。順正理第十一の如し。救の言、大いに広し。」(『述記』第六本上・十六右)
次科段は、経量部の説を挙げ、論破します。