唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

依存症からの開放ー(2) 末那識の正体

2009-10-02 23:31:35 | 依存症

私たちの意識に上ってくることは、第八識の信号をうけて果として現れてくることになります。果としての意識が何かに触れたとき(見たり・聞いたり・味わったりetc)因となり、第七識の影響を受けて第八識に蓄えられることになるのです。果として現れてくることをー現行ー・第七識の色づけが種子となり、第八識に蓄積されることー薫習ーになります。。現行・種子・薫習が因が果となり、果が因となって一生涯続いていくことになります。『成唯識論』には「彼の識(第八識)の種(種子)と及び彼の現(現行)の識とを以って倶に所依と為す。」と第七識の所依を明らかにしました。ですから私たちにとってこの第七識が問題となってきます。しかしこの識は四つの煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)と常に一緒に働いていますので、私が私を否定するようなことは行いません。それどころか常に我を満たしていくように働くのです。仏陀・釈尊はこの性質を見破ったのです。我の正体は渇愛であると。いつでも渇ききった、飢えた状態にあるのが第七識であるというのです。目前の飢えを満たしたらすぐ次の飢えが現れ間断なく続くといわれるのです。釈尊はこの正体を見破って成道されました。この意味は第七識はいつでも見破られないようにその正体を隠し続けていますがいったんその正体が見破られると、もろくも崩れていく性質を持っているのではないかと私は考えています。私たちは「何が真実なのか」「苦悩はなぜ起こってくるのか」と問い、聞法を重ねていくわけですが、その聞法もややもすれば第七識の思う壺にはまって、自分の都合のよいように聞いてしまうという自性唯心に陥ってしまいます。これは徹底して正体を見破られないように抗戦しているのです。仏法をも利用していくのですね。自分の都合のよいように利用していきますから気をつけなければ成りません。聞法の主眼は第七識の正体を見破ること、この一言につながると思います。これが自我執(我執)からの開放につながるのです。ではどのようにしたら第七識の正体を見破ることができるのでしょうか。


依存症からの開放ー(1)

2009-10-01 23:59:17 | 依存症

このように見ていきますと、薬物があり、アルコールがあって依存していくのではないのですね。問題は自分の中にあったということなのです。意識の上ではまったく気づいていくことができないことなのです。意識の上でこの依存症から必ず打ち勝って見せますと頑張ってみても、問題が自分の中にあるのですから砂上の楼閣みたいなものになりますでしょう。このことを少し考えて見ましょう。意識(第六識)は何を拠り所として成り立っているのでしょう。意識を左右する形で横たわっている第七識の働きがあります。第七識は末那識とも呼ばれ、マナーの音を写したものです。この識は、自分に都合のよいように、自分を軸にして、自分の立場で、ものを見たり聞いたり考えたり、判断をくだしたりする働きの心なのです。また寝てもさめても自分のことをつねに(恒)、こまやかに(審)思い量ることから思量識とも呼ばれています。この識の特徴は自分と他人とを、はっきり選びわけ、自他をはっきりさせて、自分の得を選び取るのです。そして心の王様といわれる第八識に蓄積させていきます。第八識はすべての経験を蓄積していくところから蔵識といわれますが、普通はヒマラヤが万年雪を頂いているところから、アーラヤ識(阿頼耶識)といわれます。この識の特徴は純粋無垢で、第七識からの信号を何の批判もせずに受け入れるというところにあります。第六識・第七識・第八識の関係は第七識によって色づけされたすべての経験が第八識に蓄積され、折に触れ第六識に現れてくるのです。これを第八識からの現行(げんぎょう)といいます。第七識の自我の色づけを種子(しゅうじ)・第八識に蓄積されることを薫習(くんじゅう)といわれ、この三つの識は私の上では同時に進行してくることになります。お互いに因となり果となるのです。曽我量深という先生は「第七識は、第六意識のもう一つ深いところにあって、ねてもさめても働いていて、しかも、第六意識のよりどころになるものである。いつでも第七識というものが内にあって、そして、それがある故にそれによって、第六識というものは働いておるものである。」と、教えてくださっています。またアーラヤ識については「阿頼耶識というものが、ほんとうのわれ、・純粋のわれというものでしょう。純粋な自己というものは、阿頼耶識というものであるわけであります。その阿頼耶識を執着して、「おれが」「おれが」と自分の権利を主張して、自分に与えられておるものを「おれのものだ」とするために、結局、せっかく与えられているものを失ってしまう。「おれが」というもんだから」(『法蔵菩薩』P34~40)とお教えくださっておられます。ここに依存症からの開放につながるヒントが隠されていると思います。


究極の依存症ー深層意識

2009-09-30 22:56:57 | 依存症

私たちが生きていくうえで私の一挙手・一投足がすべて意味を持つのです。行動を起こしことは勿論のこと、考えていることさえも無駄ではないといわれています。すべてが意味を持つということは私たちの心の深層に蓄えられるということなのです。そしてその蓄えていく働きを第八識といいます。第七識は自我愛着心とでも言ったらよろしいかと思いますが、限りなく自分を愛着していく意識なのです。「私が」「おれが」というところの「我」です。私以外の一切のものはすべて私の所有物であると思っている意識なんです。この「私が」という意識が、第八識に働きかけ第八識は何の疑いもなく、すべて蓄積していくことになります。今、秋まっさかりで紅葉が大変美しいのですが、美しいと感じたことがそのままストレートに第八識に蓄積されればよいのですが、「美しいが、私はこのように感じる」と「わたし」の感情を通して、いわば色づけされて蓄積されていくのです。そして色づけされた記憶が紅葉を見たとき、紅葉そのものを見ることができない仕組みになっているのです。私たちはこの第七識に依存して生活をいているといってよいと思います。私というメガネで色付けをしていきますから「私とあなたは違う」という分別が起こってきます。分別の心、これを迷いの心というのです。わたしたちは迷いの心に依存して生きているといってよいのでしょう。今日職場に昼前私の携帯にメールが入りました。家内からで「大変だ、博貴が新型インフルエンザにかかった。最悪だ」というものでした。自分の息子がインフルエンザにかかったら最悪なんです。世間でインフルエンザが流行していても自分のほうに災いが及ばないときは平気なんです。平気ではないにしても最悪ではないのです。そのまま受け入れることができないような仕組みになっているのですね。意識を成り立たせている深層の意識に私たちは眼を向けるべきではないでしょうか。ではどのようにして深層意識にスポットをあて、あるがままの意識に転じていくことができるのでしょうか。私たちが幸福を願い、平和な生活を望んでも「私が」という分別心を通しては儚い夢に終わってしまいます。迷いの心を、智慧の心に転じていかなければなりません。「転じる」ということをこれから考えてみたいと思います。


依存症ー(5)ー意識と無意識の領域

2009-09-28 22:07:19 | 依存症

依存症の人は依存していることは善くないとわかっているのです。しかしどうすることも出来ないのです。これにはひとつの理由があります。私たちは普段,見える世界で生活をしています。ものを見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、ものを味わったり、身体で触れたり、あらゆるものを意識したりしています。例えば見ることにしましても、見る働きがあってはじめて見ることが出来るのです。対象があって見ているのではないのですね。私この頃、老眼がひどくなってきているのですが、老眼になって教えられることがあるのです。今まではっきりと見えていたものが、ぼやけてきたり、霞んできたりします。これなどは自分の方に問題があることを如実に物語っています。意識もそうですね。依存するものがあって依存していると意識をしています。しかし、これも同じことで自分の方に問題があるということなのです。意識は何をよりどころとして起こってくるのか。ここをはっきりとしていかなければなりません。そうすることによって、依存症はなぜ起こるのかがはっきりと見えてきます。「なぜ起こるのか」がわかれば依存症から必ず立ち直れます。そしてもっとはっきりと「人生の目的」も見えてくるはずです。


依存症ー(4) 見える依存症と、見えない依存症

2009-09-27 13:18:40 | 依存症

一般に薬物依存症・アルコール依存症・パチンコ依存症・借金依存症など様々な依存症がありますが、これらの依存症は対象的依存症と呼ぶことができると思います。この対象的ということは薬物であったり、アルコールであったりと見えるものがはっきりしているのですが、それを絶つことにおいて正常な社会生活が送れるということになります。大変厳しい道のりではありますが、家族や周りの人の協力と自身の強い意志をもって依存症を克服していただきたいと思います。そして見えない依存症とは対照的と呼ばれる薬物やアルコールがあって依存するのではないということなのです。依存するのは自分の意志の弱さといいうことで片づけてしまえば事は簡単かもしれませんが、そんなに単純なことではなさそうです。なぜかといいますと、私たちの行動は過去からの積み重ねによって決定されるといわれているからです。私たちの意思決定は今、何を思い、何をして、何をしようと思っているのか、そのすべてが原因となり次の行動を起こしていくのです。「すべて」が自分の中に蓄積され、蓄積されたものが折にふれ表面にあらわれてくることになります。ですから依存症は根が深いのです。表面にあらわれていることだけを捉えて解決していこうと思ってもその解決は不可能と言わざるを得ません。これは厄介です。目に見えないですから、指摘できません。本人も自覚できませんし、サポートする側も根がどこに依処しているかわからないですから、大変難しい問題になります。


依存症ー(3)

2009-09-26 21:13:20 | 依存症

「~思っているだけかもしれない」という姿勢なのですが、社会問題として捉えたときは別に問題はないということになるでしょう。いろんな依存症のかたちがあって、依存することでしか自己表現ができないという、それなくしては生きていくことができない、という問題なのです。家内いわく「それをやめろといわれたら私に死ねといってるのと同じことになる」といっていました。ではなぜこのような依存症に陥るのでしょう。その人の歩んできた環境にも左右されるのかもしれません。生い立ちにも問題が隠されていたり、また社会との関わりがうまくいかないということもあるでしょうし、人間関係もうまくいかず、閉じこもりがちになっているということもあるでしょう。このような閉塞感が依存に走らせるのではないかと、思われてなりません。たまたま私は家内との関わりの中で依存症からの開放を解く鍵をいただきましたが、それはどのようなことかといいますと、繰り返しになりますが「自分も同じである」という視線を失ってはいけないということです。「さるべき業縁の、もよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)とは親鸞の仰せでありました。過去に於いてどのようなことがあったとしても「今」、過去のことを受け止め明日に向かって初めの一歩を踏み出していけるよう、共に歩みを進めていくことが大切なのではないでしょうか。


依存症ー (2)

2009-09-25 21:34:45 | 依存症

依存症は本人もさることながら家族も大変です。本人は依存しているものがすべてですから、こちらからの問いかけには一切耳をかしません。実は家内が随分長い間パチンコ依存症だったのです。今も完治しているとはいい難いのですが、隙あらばといったところでしようか。その家内の話によりますと「みんなといるときは依存していることは忘れているのだけど、一人になったら悪魔がでてきて、みんなのことや、生活の事は忘れてしまって、目の前にあるお金がパチンコに連れて行ってくれ、と誘惑する。そうしたら何もかも忘れてパチンコに一目散なんや、自分でどうすることも出来んし」と言っておりました。放っておいたら奈落の底にまっしぐらなのですね。実はこの依存症は私の外の問題ではないということなのです。私たちもいつ、どこで、どんな依存症になるかわかりません。たまたま今、依存症にかかっていないと思っているだけかもしれないのです。自分は大丈夫と思って、外の問題にしてしまいますと批判的になり相手は頑なになって心を開いてはくれません。大事なのは「~思っているだけかもしれない」という姿勢だと思うのですが。


依存症ー(1)

2009-09-24 23:14:42 | 依存症

先日報道番組でパチンコ依存症の問題が取り上げられていました。依存症のために多額の借金をこしらえて家庭を破壊し、自分自身をも破滅の道を歩まざるをいえないという問題です。依存症の本質は依存しているものが自分だということです。それがすべてであって、そこに閉じこもることによって自分を取り戻すことだと思っていることです。依存しているところが宮殿であって、自分はそこの主であるわけです。ですから依存していることを否定されることは、自分を否定されていることになるのです。否定されれば否定されるほど依存にのめり込んでいきます。その場所が自分にとって自分を回復することのできるところだと錯覚しています。そのためには多額の借金もしますし、家庭を破壊しても何の罪の意識もありません。この牢獄から(依存症本人は牢獄とは思っていませんが)抜け出ることは容易ではありません。本人一人では脱出不可能です。関わりのある人や家族の協力が不可欠です。気の遠くなる道のりになると思いますが、途中で投げでしますと元の木阿弥になってしまいます。ではどのようにしてこの牢獄から抜け出すことができるのでしょうか。い今、パチンコ依存症に限って話していますが、依存症はこの限りではありません。宗教の世界での依存症はあります。宗教の世界での依存症は他に迷惑をかけない分脱出不可能です。この問題を少し時間をかけて考えてみたいと思います。


酒井のり子さんの謝罪会見について

2009-09-20 20:04:47 | 依存症

覚せい剤にまみれてしまったノりピー。覚せい剤の誘惑に負けてしまったのですね。しかしこれからが大変。謝罪会見で見せた涙は本物だったと言わしめてください。これは意識と無意識の闘いになります。意識では「もうx絶対にやらない」と決めていても、心の深いところにある誘惑、この誘惑は過去の経験を蓄積し、すべて取捨選択することなく取り込んでいるのですね。ちょうど私なんかは夏のとても暑い日など仕事が終わるのを待ちわびて、のどの渇きを潤すためのビールが待ちこがれているような誘惑があるのです。まして一度覚せい剤の誘惑に負けてしまったらその魅力を知っている心の渇きが誘いをかけてくるのです。心の深いところでは私の知らない私をコントロールしている心の渇きがあるのですね。この渇きを潤したい・潤したいと誘惑してくるのです。この誘惑を断ち切るためにはこの渇きがどこから来ているのかを見極めないといけません。覚せい剤があるから手をだすのではないのです。覚せい剤に限りませんが私の心の飢え・渇きが求めるのです。酒井さんにとっては今、自分を厳しく見つめるという目が必要なのではないでしょうか。しかし自分で自分を見つめるということとは不可能です。闇を晴らすのが光であるように、酒井さんには今「光」が必要です。「光」とは「智慧」の形です。しかし光という実体的なものはありません。禅を組まれることもよいのかわかりませんが、私は親鸞の語録である『歎異抄』を熟読されることを薦めます。そしてそこから「智慧」をいただくのです。「生かされてあった命に反逆をして自分の思いだけで生きてきた私」と頭が下がったとき私という呪縛から開放されると思いますよ。