唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

友との会話 続編

2015-04-06 23:55:02 | 友との会話
 
 朋との会話
  N 「今の自分自身が存在しているのは確かな事実、真実でしょう。しかし思った事はないですか?今自分自身は寝ている、いや死の間際で夢をみているのではないかと。現実と想像の世界の区別がついていないのかなと。思うようにいかないのが人生でしょう。理想の人生を生きていけず、今の自分自身を受け入れず苦しんでいる。趣味を持ち人生を楽しんでいるように見えても、自分自身と格闘しているのでしょう。目の前に理想的な異性がいます。しかし自分自身の現実を認めたくない。こんなはずではなかった。と思えば思うほど底なし沼にハマってしまう。悪は外にあるのではなく、内、自分自身にあると考えないのでしょう。外に問題があると考えるのは自分自身にとっては非常に楽です。言い訳をして生きて行けるからですしょう。しかし底なし沼にはまる事になるでしょう。努力しなかったからだ。前向きに考えなかったからだ。と説教じみたことは思いません。努力しても、前向きに考えても上手くいくとは限らないでしょう。僕自身は努力家ではありませんし、悲観的な人間です。しかしそのお陰で他人に頼るということは出来ます。何でも人並以上に出来る人間を知ってはいますが、羨ましくもあり、可哀想とも思います。何故なら自身よりも悩みは深いであろうと。他人から羨ましがれ妬みも多いであろうと。妬み、羨ましく思う。悩みの種ですね。種まきをしているのは自分自身であり、自分自身の色でしか把握出来ないからでしょうね。自分自身が見ているものは自分自身が色ずけしており、他人とは共有出来ない。争いが絶えないのは当たり前ですね。どうすればよいのか?相手を認める。当たり前のことですね。その前にしなければならないのは自分自身でしょうね。今の自分自身を認める。前にも書きましたかも。ただ自分自身が今までしてきたことを許せるのか?自分自身を許せるのか?まだ当分許せないと思います。過去の自分自身が、現在の自分自身を作っていて、今の自分自身の縁は過去の自分自身が運んできてくれたのなら感謝しなければなりません。まあ努力して、思いどうりの人生を歩んでいたらどうでしょう?多分つまらないでしょうね。悩む事は人生における財産でしょうから。ただ悩む事は財産と言いましたが、悩みと愚痴は同じように捉えている事があると思います。どうにもならないこと、死ぬということからは逃げられないです。しかし死ねるということは有り難いことでしょう。死ねなければ永遠に苦しみますから。自分自身は臆病過ぎるのかなと。死に対する臆病ではなく、生きていくのに臆病かなと。いつも何かに臆病になっている。人と同じでなければならない。世間に合わせなければならない。という臆病、恐怖なのでしょう。僕自身の一番の恐怖は、今の自分自身で良いのだ。と思う事です。思ってしまえば成長は止まってしまう。自分自身の存在は他人が証明してくれている。と以前言いましたが、他人という存在も自分自身が造り出しているに過ぎません。物事の本質はどこにあるのでしょうか?解りません。死の間際まで追求することになるのでしょう。素直に生きることをしなければなりません。過去を許す勇気を持たなければ。前会社の方で自殺された方がいました。自殺という行為は許されるものではないと思います。しかし自殺した人間を責める事は出来ません。本当に悩み抜いて自殺という行為を選択されたのですから。僕にとっては一生涯忘れる事のない出来事でしょう。」
河内 「成る程ね。怯えは自分自身。自分自身の怯えが、怯えを覆い隠すように他に向かうのでしょうね。その方が確かに楽なんです。一時的にはね。ただ、真理に反していることですから、必ず、自分自身が其の責を負うことになります。そのことがなかなか解らないんですね。自分自身の存在を証明する者は他者なんです。他者によって、実は自分自身が証明されているんですね。ですから昨日、共命鳥の話をしたのですが、私の陰で泣き、苦しみ、叫んでおられる方が居るということなのです。そのことに気づきを得ることが出来るのかが私の問題なんでしょうね。悩みや苦しみは生きるエネルギーなんですね。悩みは悩みのない世界を欲するということであり、苦しみは苦しみのない世界を欲するという欲望なんです。この欲望が煩悩の正体なんですが、欲望の正体を知ってみれば、清浄世界を願っている欲と同一なんですね。過去を背負った自分は、欲望に翻弄されたされた結果として、今を頂いている。今を頂いて未来に向かおうとしている。そしたら過去を引きずったままでよいのかということにないますね。過去からの決別と言うのか、決着をつけなければならない、その時が、「今」なんです。面白いことなんですが、これでよかったんだ、すべては無駄ではなかったんだ、「今」自分自身に会えることができたのは、悠久の歴史を超えて、すべては無駄ではなかったと手を合わせることが出来るということでしょう。自殺という、自らが自らを葬り去るという自死は、あまりにも悲しすぎる出来事です。僕たちは何も気に留めることなく過ぎ去っていく事柄として処理していますが、本来は他人の自死ではないのですね。そこに貴方が生涯わすれることのない出来事として受け取っておられることは貴重であると思います。「何故」という問いが貴方をして歩ませる原動力になっているからですね。物事の本質はわかりません。有るともないともいえません。河の流れのようにです。流れを止めようと堰を作るとヘドロが出来ます。堰が煩悩ですし、ヘドロは苦悩です。理屈は自己肯定をしようとするあがきでしょうね。僕は一生懸命自己肯定をしようとしてあがいているんです。これはよくわかります。なんとかして自分を納得させたいんです。その為には屁理屈が必要なんです。屁理屈が屁理屈であると知れという働きのあることも事実です。そこの耳を傾ける作業が必要だと思います。悩みや苦しみは生きる原動力。原動力が「何故」という問いを生み出し、その中で、もがき、苦しみながら出会っていける世界が有る。それが僕に言えることは、親鸞の世界であると確信していることなのです。」
 N 「会議あったら疲れてます。人間関係の嫌な所が見えて。勉強と捉えるようにしてますが。会社をよくしよう。ではなく、自分自身の保身がよく見えました。若い人間も年寄も。自分自身の情報は出さず、他人の事ばかり知りたがる。そんなかんじでした。昔から思っているのですが、全く違う世界の人間と会話するのは重要でしょう。お坊さんとサラリーマン。普段接点がないと思います。接点のない、違う世界の人間と会話することにより、世間は広がるのでしょう。会社なんて、仕事なんて成るようにしかならん。と思って生きていこうかと。案外楽観視してるのかと。僕自身の違う、全く触れる事のない世界を見たいという欲が唯識に出会う元なのかもしれませんね。」
 河内 「貴方の見方は大切なものだと思います。僕は他人のことをとやかくいえるような生き方をしてきませんでしたので、自ずと自分を振り返って、他を反面教師として見てしまうのですが、徹底して保身の為ですね。どんなに会社人間になっても、骨までずずず~いっと尽くしても、保身なんです。保身=我愛=末那識。実体のないものです。実体のないものにしがみついている、外から見れば滑稽です。鉄棒がないのに、ぶらさがろうと一生懸命汗をかいてもがいているようなものです。想像してみてください。面白いでしょう。それが私の姿です。保身は別に悪いわけではないですが、自分を失っている、人間性を喪失している点についていえば、悪ですね。僕は思うんです。最近特に思うようになりましたが、妄想の域を出ませんが、どうなってもいい、無一文になっても、「これでいいんだ」と胸を張って生きられるような生き方をしたい。思い込みが自分を縛るね。縛ると動けないからね。」
 河内「どうしたら、呪縛から解放されるか。簡単なことは、思い込みを捨てることなんやが、簡単なことが、一番難しいことなんや。そう簡単には開かれないと思う。僕自身今でも、思い込みで生きてるもんな。ここは、思い込みで生きてるという思い込みがあるんやね。本当は違うんや!アラヤ識からのメッセージなんや。アラヤ識の声を聞く。難しいけどな!でもこれが一番近道なんや。」
 N「本当の自分自身、解りませんが、他人に結婚しろといわれて反抗する。何故だろう?自由が無くなる、金銭的にも時間的にも、それだけであろうか?責任が増える。そうであろうか?結婚という事を考えると、両親が一番の見本です。自分自身の親を見て結婚が幸せであると感じるなら結婚を望むのかもしれませんね。しかし言葉では結婚したいと思っていても、過去の両親が歩んで来た道、聞いてきた言葉からは結婚したいとは思いません。金銭的にきつかった時期がありました。親が失業したりしましたから。その時周りはとやかくいうものです。やれ離婚しろや田舎帰ってこいなど。子供であった僕は非常に嫌な想いをしました。僕も結婚して失業しないとは限りません。そうなれば嫁に迷惑がかかります。言葉では言わなくとも、結婚しなければ良かったと思っていることでしょう。僕は親に全く不満がないと言えば嘘になりますが、感謝はしています。しかし結婚はする気にはなりません。相手を幸せにすることが出来る自信はないからです。母を見て幸せな人生だったとは思えないからです。相手をつまり他人を幸せにしなければならない。というのは思い上がりかもしれません。自分自身が幸せであるから相手も幸せなんだ。と思うほうが正しいのかもしれません。自分自身の幸せはなんだ?と考えた場合、他人を不幸にしない。と言うのが僕自身の考えです。周りの人間は僕に結婚しろと言います。それは僕自身を幸せになる権利があると思ってくれているからなんでしょう。また両親を安心させてあげなさい。と言うことなんでしょう。でも収入的には無理でしょう。共働きならいけるやろ。とは言われますが。それにいつも出会うのが学のある方ばかりで、僕は学はありません。学のある人は学のある方と結婚したほうがいいです。結局自分自身の固定観念に囚われているだけだとは思いますし、独りは楽だと思います。僕みたいに頑張らない人間は一生涯独りでいないと他人に迷惑がかかる気がします。愚痴みたいになってすいません。ただ僕と一緒になっても不幸だよ。と言った思い込みが酷いです。まあ相手もいませんが。そう思っているうちは相手がいるのに、縁があるのに気がついていないでしょう。」
 河内 「一生懸命、自分を納得させようとしているように思えますが、納得できますか?やっぱり結婚にこだわっているんだと思いますよ。だとしたら、素直に前を向いて、自分をさらけ出すんですね。そこでです、さらけ出せん自分が問題やと思う。こんな自分でないと駄目という方程式はありませんよ。自分らしく、ですね。」

友との対話 S君の感話

2015-02-09 22:56:21 | 友との会話
 

 S  感想としては、何が目的で講座を聞いているのか?考えていました。別に講座を聞く以外に時間の使い道はあるわけですし。相変わらず言葉の意味は解りませんが、解らないものはとりあえず解らなくてよい。と思う事にしました。以前からずっと思っていたのですが、今見てるものは本当に存在しているのか?と考えてしまいます。自分自身は存在するのか?本当は夢の中いや、死の間際で意識がないのではないか?と考えてしまいます。考える理由として、現在の自分自身を認めたくない。と考えているのかもしれません。 しかし自分自身は存在しています。他人が証明してくれています。このコメントを書けば、返信があるからです。他人が生きている事を証明してくれています。しかし他人と見ている世界が同じではありません。自分自身が色づけをしているからです。自分自身に都合のみたいなよいように色をつけています。100人いれば100人の世界があるわけです。しかし人間には色に染まらない心も存在するとされています。染まらない心、分別をしない心となるのでしょうか?僕自身が考えたのは、身と心は付かず離れず、つまり身の中に心はない。心とは自身が写し出した世界。心が写し出した世界を見る事は出来ても、自分自身を見る事は出来ない。しかし見ている世界が自分自身の心ならば、他人を認める事は出来るのではないのかと。他人には他人の世界があり、侵攻は不可能なはずでしょう。それを忘れて自らの世界に引き込もうとする。だから争いは絶えないのかもしれません。会話してるように見えて、実は自分自身の意見を言っているだけではないかと。ただ自分自身の利害が一致した場合、派閥が生まれ、意見が一致しない人間を排除しようとします。セクトと呼ばれるものなのでしょうか?人のふりみて見て、我が振り直せ。と言った姿勢が重要なのでしょう。前にも言ったと思いますが、人と人との間に存在するものは何か?他人との世界が自分自身の持っている世界は交わる事はあるのか?国境で言えば非武装地帯があるのかもしれませんね。自分自身を認めて欲しいが為に、他人の国土を攻める。 自我と言ったものが他者を攻撃するのでしょうか?くだくだと長い文章になってしまいましたが、非武装地帯が人間関係にとってなんであるか?ある意味一番平和な土地と言った事になるのでないかと。相手を認める、よりまずしなければならないのは、自分自身には自我があり、自分自身を知る。と言ったところかなと。自分自身が見ている世界は自分自身が責任を持たなければなりませんね。妄想で生きている。妄想で生きているならいくらでも変化は可能かと。

 河内 勉

 存在というのは、時と共に、時に於て在るものという言いかたが出来るかと思います。時は流れています。流れと共に在るものが存在と云う言葉の持っている概念でしょう。存在するのかと云えば、存在しない。存在しないのかと云えば、存在する。自我と云う固定化した我は実我ではないということでしょうが、自我は非我といった方がいいのではと思いますね。時の流れの中で考えて見れば、生まれてこのかた、自分に出会ったことはありますか。思い出という記憶の中には自分は存在したかもしれませんが、それは過ぎ去った過去のことに過ぎません。また未来に自分存在はしません。今という時に於ても過ぎ去った過去です。この瞬間の保証はどこにもありません。諸行無常という真理ですね。諸行無常には隠された真実があるんです。それは諸行無常に於て常に触れることなんですね。それを無量寿といっていますが、思うに、「他人が証明してくれています」その通りです。我は他に於て見出されてきた者ということが出来るのでしょう。汝と呼ばれた自己ですね。そうすると他は無量壽なんです。無量寿=常・楽・我・浄の世界です。
固定化され得ない我を固定化してしまうのが自我という執われなんですが、本来自我は我に執われることを通して執われない自己に目覚めていく目覚めなんでしょうが、私たちは自我に留まって自分に執着してしまっています。自分が自分に逆らって生きているんですね。このような生き方を正論としていますから、正論と正論がぶつかるのは必然のことです。正論と云う反逆者が自分という固定化された我ですね。反逆者が反逆者を生み出すのは理の当然のことです。
 S君はS君自体が僕という人間を作りだしたんです。また世界を作りだしているんですね。作りだした世界から自分を見つめる眼が必要になりますね。作りだした世界を我として、その我が自分と云う存在を問うことを求められてるんだと思います。
 苦しみとか悩みは、存在の根拠を知りたいと云う欲求だと思いますね。反逆はいつも苦悩と共にあります。そのことが大変な意味を持っているんですね。自分への執われは永遠になくならないことでしょうが、そのことが教えている意味は、自分への執われを依り所とはしないということだと思います。依り所にしないことは出来ると思いますね。執われている心はグーですし、グーを開いてあげる、パーです。握った手を離してあげる。それが無常に生きる永遠の存在なんでしょう。永遠と云う時が、真の存在を浮かび上がらせてくるんだと思います。その為に自我と云うフィルターを通過点として、フィルターを付けた自分を他者の眼で見つめることが必要でしょう、そのように思われてなりません。僕の方がくどくど言ってますね。でも、非常に鋭い眼差しで聞いて下さっていると思います。くじけずに精進努力あるのみです。

友との会話 続編

2015-01-15 22:42:36 | 友との会話
 S 産道から出てきて39年目。産まれた時から自分自身は成長しているのでしょうか?身体は大きくなっていますが。土曜母方の先祖の墓参り。そういやおじいさんは大工さん。おばあさんは茶碗蒸しをよく作ってくれた。寒いからと言って風邪ひかないようにしてくれたはいいが、暑すぎて僕が赤ちゃんの時逆に風邪引きしてしまったらしい。多分おじいさんが大工さん。だからサラリーマンは嫌いなのかも。口が上手いやつは実力が無くても出世するので。勿論両親にも育ててもらいました。親戚にも。まぁ周りの人間に世話になって生きてきました。母が普通の生活ほど難しいものはない。何が普通か解りませんが、人生色々あったみたいです。父が会社で整理解雇にあった事があり、自分自身にとっても大きな問題でした。今暮らしていけるのは両親が色々な問題を自分自身の問題として解決してくれたお蔭だと。母がしっかりしてくれていたからだと思います。感謝。おじいちゃんは子供の時、よく寺に連れていってくれました。今は月一回寺に行くようになりましたが。 感謝の気持ちや、自分自身の生きる方向性は自分自身の判断です。責任は持たなければなりません。しかし方向性を決定している、意思、意識と言うのは、今まで会ってきた他人との縁がかなり影響しているのではないのかと。今の自分自身を構成しているのは今まで出逢ってきた他人。これからの自分自身を構成するのはこれから出逢う他人。全ては自分自身が選んだ選択した他人の縁かなと。僕自身は変な先入観なく他人と接していかなければなりませんね。先入観から入っていたからよい縁も逃していたのかもしれません。心の赴くままに。になりたいものです。河内さんさら頂きました誕生日プレゼント。おじいちゃんおばあちゃんが好きだったお菓子です。これも何かの縁かと。
 河内 誕生日のお菓子、よかったですね。こんなところにも人知の及ばない世界があるんでしょう。深いね、私自身&私自身を証明するものは、私の思考を遥かに超えて、いわば異次元でしょう。仏教では「如」、如来の如といいますね。一如来生といい、永遠の彼方から現世に来たり生まれてきたのが私の命であり貴方の命でもあるんです。そういう深いところでつながっているんでしょうね。 おじいちゃんに連れられて、お寺にいかれたことが種子となって、今ようやく蕾からゆっくりと花を咲かそうとしているんですね。おじいちゃん喜んでおられますよ。そしてね、今の君の行動が種子となって、友を選んでいくんです。だから、一瞬一瞬大事な時を与えられているですね。その大事な時を忘れた生き方を流転といいます。流転も自覚の言葉ですが、流転の中に在って流転を超えた生き方を求める。それが求道なんですね。菩提心ともいわれます。意思決定のメカニズムはいずれ解明しなくてはならない問題ですが、一番大事なことは、真理に触れることです。そうしますと、そこに作意が生れます。真理に触れることを通して、真理に触れたいという心が目覚めるといわれています。そのことが意思決定におおきな役割をもっているのでしょう。逆にです。人生投げやりでいいと思うと、それが引き金となって、どうでもいいという意志が決定されますね。いつもいうことですが、如何に、深層の心である阿頼耶識の純粋無垢の心に触れるかが、私に問われていることだと思うんです。これは私が私に出会うことでもあるんですね。「わたしはわたしになればいい」というのは阿頼耶識に触れないと実現できないことなんです。
 S テレビ見てて岸部一徳さん出てましたが、あーなりたい。優秀な俳優は自分自身の事が解っていなければ自然な演技は出来ませんね。自分自身を知ることはやはり大切だと。
 河内 主役が主役として主役を演じきれるのは脇役があって引き立ちますね。 
 S 主役だけでは舞台は成立しませんね。
 河内 そうなんですね。脇役も主役であるという視線が大事ですね。主役&脇役不一不二です。なかなか思えませんが。そうそう、思えませんと云う思いに頭が下がる時に一緒に成れるかもです。
 S 昨日の河内さんの言葉。もっと積極的にいかな。と言ってくれましたが、いかなあかんが足が前に出ません。自分自身に囚われているのか?それとも単に縁が有るのに気づいていないのか?唯識とは?何か解りませんが、自分自身を解放してくれる学問なんでしょうか?僕自身には今までとは違う角度から物事を見る必要がある。その為には自分自身をみなければならないと言っているのかなと 
 河内 自分を知ることが原点ですね。他を知らんと思えば、先ず己を知れ。自己開放というより、自己回復の学と思い他に依って自分がつくられるのではなく、自分の人生は自分の心から作り出しているのですね。厳しいです。作り出した今ですね、どのように責任を果たすのかです。明日を決定します。誤魔化しが効かない。困ったこっちゃ。底が破れると深い、深さが解る。底を作り出しているは自分という妄想や。僕は自分の思い上がりで人生を棒に振りましたが、破滅が仏に出会わせてくれました。後悔は凄くあります。しかしそれ以上の恩恵をいただいています。踏みにじってきた人には頭が上がりませんがね。
 S 学校出て彼女出来て結婚して。羨ましがられる職業について子供出来て。まぁこう言った人生なら自分自身なんて考えなかったでしょうね。アラヤシキなんて言葉を知ることもなかったでしょう。しかしクリスマスクリスマスと世間はうるさい。しかし彼女がいたらうるさいと思わないし、いないから思う。結局自分が環境を作っている訳ですね。寒いのでチャリ走行はお気をつけて。
 脳梗塞で父が倒れた時、今までの父とは違う人間になってしまうのか?と考えた事がありました。何故そう思ったのかは解りません。ぼくがしっかりしてなかったから病気したのかな?なんておもいました。ブログに脳梗塞の話出てたもので。
 河内 いろいろ感じてくれてありがとう。
 S 周りの人間に左右されるのが心、自我なのでしょうか?
 河内 左右されるのではなくて、左右される心を教えられるところに意味がある。そうすると、左右される心も大事な心なんでしょう。
 S 縁あって河内さんの勉強会に出席する事になりましたが、断るという判断もあったわけです。でも出席しているということは、偶然ではなく、必然であったのではないかと。自分自身の思っていた人生とは違っていますが、言葉の意味も解らず聴いていますが、意味も解らず聴くということは、無駄ではないと思います。いつか自分自身の人生の中で重要であったと思える日が来ると思います。有り難うございます。心の構造、心なんて何処にあるのでしょうか?身とつかず離れず、それとも一緒なのか?どうなんでしょうね?心は見えないと前に言いました。見えない物を、存在しないかもしれないものを探求する、人間とは不思議なものですね。ただ見えないから善いのかもしれないと。見えたり音がしたら面白くないのかも。人間は沢山の発明をしてきました。飛行機や船、アニメの世界ではありますが、映像としてロボットも。よくこんなに物質として、見えるものとして作ったものだと。音も。音楽ですが。これらは全て人間の欲が作ったものでしょう。飛びたい、将来ロボットに乗りたいといった欲が。欲を持つのは善いか悪いか?他人を幸せにする欲なら持っても善いのか?技術が進めば善いのか?解りません。ただ他人を幸せにする。のではなく、自分自身が幸せなのか?と考えるのは必要かなと。結婚、彼女が出来る。本当に僕と付き合って相手が幸せなのか?と考えています。しかしよく考えると他人を幸せにしたい。と言うのは自分勝手な考えではないかと。迷っているうちに時期を逃し、後悔する。僕はそうです。自分自身が悪い。と思っています。しかし自分自身が悪い、と言いながら、本当に自分自身を問う事をしていたのか?怪しいです。決断力がない。と言ってしまえばそれまでですが、今までの経験が選択の方法を決めるのでしょう。アラヤシキ、マナシキ、今まで聞いた事が全くなかった言葉を知りました。思った事は、種をまき、花が咲く。どんな花か?食べられるのか?毒なのか?食べられたとしても早く食べなければ腐ってしまう。毒であっても使い方によっては薬となる。自分自身を知るとは、経験や体験、つまり過去は消せない。しかし背負う覚悟が出来れば、自分自身にとって毒と思っていた種も良薬に変化する事が可能となるかもと、思います。また考える事も重要ではありますが、行動する事が重要ではないかと。一歩踏み出す。大切です。人間土の上に立っているのではなく、氷の上に立っているのではないかと。同じ場所に居れば解けて落ちてしまう。しかし動いていれば解けないかもしれない。今日生きていても明日は解らない。今日大切にしろと言われてもなかなか出来ませんね。いつかは氷が割れて、つまり死んでしまいます。ただ割れるのを唯待つだけの人生も空しいものでしょう。全ては自分自身の心が映し出した光景、自分自身次第でどうにでもなる。といったとこでしょうか
 河内 すごいね。聞くことは無駄か、無駄でないのかはわかりませんが、或は君は騙されているのかも知れませんね。疑いを持った方が利口かも知れません。難しいことを言うようで申し訳ないのですが、何が正しいのか(異教徒にとっては誤りかもしれませんが)を判断する材料が、経による証明・教による証明・釈文による証明が有るのかということなんです。私の解釈には裏付けが有るのかということです。若しなかったならば、自分の勝手な解釈ということになります。仏教徒は古来より裏付けを大切にしてきました。阿頼耶識も五教十裡という、五つの教えと十の道理をもって阿頼耶識の存在証明をしています。教証・理性と云います。君の問題提起は、初期の大乗仏教徒の問題意識でもありました。昨日の七心界という命題における意根の所依、識は根により境(対象)を認識するわけですが、例えば眼識は眼根に依り眼境(色境)を認識する。根は見えないですが、根がなかったら茎はのびないのと同じで、見える花が有ると言う言は、見えない根があるということですね。そうしますと、意識の根は何かと悩んでんです。簡単にいうと意根ですが、意根とは何?それで初期仏教徒は意識は常に絶え間なく働いていますから、消滅した意識を依り所として新たな意識が生まれると解釈をしたのですね。そうしますとね、睡眠から覚めた時の意識はどこからくるのかということなんです。意識は眠っている時は休んでいるのですから、意識と意識の間には隙間があるのです。それを如何に説明するのか。しかし、事実は眠りから覚めると意識が働きます。それと過去の経験がよみがえるのはどこからやってくるのか。どこかに意識をつなぎ止める働きがあるのではないかと思いいたったのでしょうね。それが阿頼耶識の発見なのです。阿頼耶識意を心(チッタ)と表現しています。自分が生きている現実から見出されてきたもの、それが阿頼耶識なんですね。そして自分・自分と、自分に執着していくのを、汚れた意識として、そのような汚す働きをも持っている、それを末那(自分を思い量る心でマナス)であると発見したのですね。意識の根底に働いている意識を見いだしてきた。その上に私たちが日常経験をする意識が働いているのですね。意識がはたらいている事実は、事実の底に働きを成り立たせている領域があるということなのです。すべては阿頼耶識から生まれる。阿頼耶識が表にでている姿が意識です。結果から言うと、如何に阿頼耶識にいい種を植え付けるか、植え付ける時は今をおいてないということになるんですね。厳しいですね。
 S 妄想とは、自分勝手に自分を作っていることだと思います。大体あーしとけば良かった、しなければ良かった将来こうなりたい。と思って生きていますから。全てが思い通りに行っている人間はいないとおもいます。思い通りにいかそうとして苦しんでいるのですから。まあ僕自身何も努力したことがありません。しかし人を蹴落とそうともした事がありません。生きていくには働かなければなりません。資本主義、競争社会ですから人を蹴落とそうとするのは当たり前でしょう。能力を磨いて上にいくのは善いと思いますが、派閥を造り、意見の合わない人間を排除しようとします。自分自身を見失っていくのでしょうね。大概能力のない人間がくっついてしまいますが。愚痴っぽくてすいません。派閥の中で依存していれば楽でしょう。自分自身を忘れられるからです。しかし最終的には頼れるのは自分自身だけだと思います。能力と言いましたが、仕事での能力が高くても仕事を奪われれば意味はない。 何もかもなくなった時に頼れるのは自分自身だとおもいます。派閥に入ったり、排除したりするのは自分に固執しているからだとおもいます。自分自身の能力なんて大したことない。他人に生かされてるんだ。必要とされているんだ。と思えたらよいのですが。人生様々な選択をしてきます。どの会社、職種に就くか?など。最終的には自分自身にとって一番有益なものを選んでいると思います。それでいいと思っています。自分自身の人生ですから。後悔することもあります。ただあまりにこだわり過ぎると苦しみが大きくなるだけだとおもいます。僕がそうです。一つが上手くいかなければ全てが上手くいかなくなる。ではどうしたらよいのか?諦める事も重要なのかと。確かに様々な制約があって思っていた人生になっていないこともあります。ただ制約の中でどうすれば自分自身は上手く立ち回れるのかを考えなければならないでしょう。たった一つの出来事で道は変わると思います。善となるか?悪となるかは自分次第でしょう。僕の場合、考える前に行動せなあかんかなと。暖かい鍋料理があって美味しいか不味いかは食べてみなければ解りません。考えてばかりいては冷めてしまいます。
 河内 妄想とはその通りやと思います。でも妄想しかありませんから、妄想が大事になってきますね。妄想を通して、思うようにならないのが自分であることを知っていくのでしょうね。知ることがなかったなら、自分が天下でしょうね。それぞれがどんな生き方をしてもいいんです。いいんですといっても、御縁の世界を生きておりますから、どうにもならんことが多々あります。それもですね、過去を背負って、引きずっているわけです。そして今を作り上げている。過去が今の自分を作りだしてきた、ということは、今といっていますが、もうすでに過去です。そしたら今何をすべきか、これはね、自分の、人生の終着点が問われているんですね。どこにむかって歩いているんだ、と。 もう少し考えます。
 S 妄想は大事。どう解釈したらいいのか?考えます。自力だけではは自分に縛られて、本当の姿が見えない。結局は自分自身だけの世界にとじ込もってしまう。勝手な解釈、思い込みにはまってしまう。こうならなければならない、しなければならない。といった感情に支配され、自分自身の真の姿が見えない。自力に対し他力とは他人に依存することではない。勝手な解釈ですが、困った時の神頼みでいいのかと。病になったり、困った時に仏壇に手を合わす。それでいいのかと。他力とは自らの心にいる仏様であるのかと。人間皆真面目に生きていると思っています。自分自身だけが正しいと。世間にあわせているようで合わせていない。だからいざこざが起こる。他人に合わせるのではなく、他人は他人と思う事も重要なのかと。妄想が大事と言うのは、妄想の中で生きている。妄想の中で溺れないようにするにはどうしたらよいのか?それが大事なのかと。物事の捉え方は人それぞれです。常識と呼ばれているものが本当に常識なのか?と考えてしまいます。経験と言うのは自分自身を苦しめるものかとも思います。コメントの感想にはなってません。すいません。
 河内 苦しみなさい。苦しみの深さが人生を豊かにします。ひとつだけ、経験は自分自身を苦しめるものではないと思います。経験を頼りにするから問題が生じてくる、今の経験は一期一会、過去の経験と条件が違いますよ。同じなのは、自分に対するこだわりですね(^-^)v自分に執われている、これは間違いないところ。これが妄想。S君は正直やな.触れるのも、開けるのも玉手箱。開けたら現実見えるかも、でも見たくない。心は複雑極まりないデンナ。
 S 朝体調悪かったのですが、アラヤシキは全てを受け止める。人間ではあり得ない、しかし心の奥にはアラヤシキと呼ばれるものがある。凄い気付きだとおもわれます。体調悪い時、同じ出来事でも感じ方は違います。人は問題を外に原因があるとします。しかし僕の場合、体調悪いのは、いくらサービスするわ、正月やから餅食べる?と言われて食べ過ぎたからでした。他人の善意を断らなかった。結果体調悪くなった。原因は自分にあるのに他人のせいにする。自己中心でいきているのでしょうね。心の構造を知る事は、自己中心で生きている。しかし全てを受け止めてくれるアラヤシキと言われているものがある。自分自身が勝手に世界を造り、悩み、苦しんでいるだけ。アラヤシキに触れる事が出来れば、悩み苦しみは解消されるのかと。不可知の領域でしょう。世間は法律で縛らなければ、社会生活は成立しません。しかし自分自身を縛っているもの、常識と呼ばれるものでしょう。しかし常識も時代によって変化します。新婦が白の服を着る。参列者は白ドレスは着ない。最近では着ると、菊池さんは言っていた気がします。今回の講座は対話方式でした。聞いていれば勉強した。と思っている自分自身がいました。自分自身の勝手な思い込みでした。話して全く理解できていないなと思いました。後、高卒ですが、いつも知り合うのは大卒の女の子です。それは自分自身が求めているから知り合うのか?どうなのかはわかりません。 学歴社会の産まれですから学歴コンプレックスはあります。自分自身では負の財産をどうしたらよいのか?を考えなければなりません。勉強を続けていれば、新しい発見があるかもしれませんね。死を考えるより、自分はどう生きたいのかを考えなければならないのかと。人間を経済学的に言えば、予算制約の中でいかに最大の効用を得るのか?しかし僕自身無駄な時間を過ごしてきました。欲にかまけて。しかしその時間があってこそ、今の自分自身があり、勉強しようと思ったのかと。無駄な時間ではなかったと思えるようにはなってきてます。
 河内 素直に聞いてくれているとおもいます。非常に疲れる話を根気よく聞いていただいて感謝です。ありがとう。僕はずいぶん馬鹿をやってきて、自分の生命の背景を考えたことはなかったのですが、親鸞聖人の教えに触れた時に、人間は無始以来ずって悩みつづけ、いかにしたらこの悩みから脱却することが出来るのかを問うてきたということがおぼろげながら知り得ることができました。阿頼耶識に触れても悩みや苦しみは消えることは無いでしょうが、何故悩んだり、苦しんだりするのかということは解り得ると思います。残念ながら、と。いってもいいのでしょうが、悩みや苦しみを通さないと仏法に触れることができないのですね。いうならば、悩みや苦しみが有るということが仏法に触れていることなんです。仏法に触れている、真実に触れているからこそ、真実に逆らって生きている自分が問題になる。眼にみえない働きを大悲と教えていますね。そこに気づけよと。そこに気づきを得たなら、悩みや苦しみに手が合わるだろう、と。
 コンプレックスという壁はきついね。僕はまだ話していなかったけど、まあ、唯識と関係することですが、外境は無い、唯識無境ということです。すべては心を離れては無い、一切不離識である。僕は眼が悪いんです。それを知ったのは小学生のころでしたが、色盲なんですね。先天的ですからどうしようもありません。色彩に関係する仕事にはつけませんから、色彩に関係することは大嫌いでした。僕が色彩を認識する時は緑と赤の区別がつきません。時として、青を黒と勘違いします。これは外に赤・緑・青・黒という実色は無いということですね。ですから実色については想像の域を超えません。想像してもわかりませんがね。世界とはこのようなものではないですかね。想像の域を超えないが、想像してもわからないのではないですか。
 生きることはどういうことか、本当はわからない。でも死は必然、免れることはできませんね。ではどう死ぬかです。それが今問われている。人間として生まれた課題或は宿題として提起されている。いつ死を迎えるか不明です。老少不定です。「明日ありと思う心のあざざくら」ですね。