唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

10月度テキスト(2)

2019-10-06 09:55:30 | 第三能変
「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五)
(この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そうなると境に随って名をたてると相濫ずることになり、六識の名はただ根に随うべきである。根に随って名を立てるならば、相濫ずる過失はないのである。)
 「荘厳論に、如来の五根は一一皆な五境の於に転ずと説けるは、且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」(『論』第五)
 (『荘厳論』(大正31・605a)に、「如来の五根は、一々すべて五境に対して転じる」と説かれるのは、しばらく麤顕(そけん)と同類の境によって説くのである。)
 「仏地経に説かく、成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の化を起こし、四記の等きを作すという。若し遍縁ならずんば、此の能無からんが故に。」(『論』第五)
 (『仏地経』(大正26・318b)には、次のように説かれている。成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の教化を起こして、四記などを行う。もし遍縁がないならば、この力はないであろう。)
•成所作智 - 成所作は、なすべきことをなしおいえること。行為を完成させること、成所作智はその作すべきことを成就する智慧。一切の衆生を救済するために、あらゆる場所に変化身を現じる智慧。
•心行 - 有情の心のはたらき。
•三業の化 - 三業の教化である身化・語化・意化のこと。
•四記 - 質問に対する四つの答え方。一向記・分別記・反問記・捨置記の四つ。
1.一向記 - 問いに対しそのまま肯定し答える方法。
2.分別記 - ある質問に対していくつかの観点から分けて(分析判断して認否を行う)答えること。
3.反問記 - 相手の質問に対して、まず問いかえして、その後に答える方法。
4.捨置記(しゃちき) - 答えるに足らない問い、答えるべきではない問いに対しての対応で、答えないことで対応するもの。
•遍縁 - 遍く一切の対象を縁じること。
 「然れども、六転識の所依と所縁とは、麤顕なり、極成せり、故に此には説かず。」(『論』第五)
 (しかし、六転識の所依と所縁は麤顕であり、極成のことである、。そのために、此処(本頌)には説かない。根と境は、麤顕であるから説かれていない、と。
•麤顕(そけん) - はっきりと認識されるあり方。唯識では沈隠(ちんおん)の対としての麤顕である。阿頼耶識にある種子がはっきりと認識されえない深層的なありようを沈隠というのに対して、種子より生じた表層的な識がはっきり認識されうるありようを麤顕といいあらわしています。
 六根・六境はだれにでもよくわかることなので麤顕といい、これは大・小乗共に認めている共許のことなので極成と言い表しているのです。改めて説く必要はない、と。
 「前に義の便(びん)に随って、已に所依を説いて、此の所縁の境をば義の便に当に説くべし。」(『論』第五)
 (前に、「義の便に随って」(内容をわかりやすく説明するために)、すでに所依について説いた。ここでもこの所縁の境についても、義の便に随って、まさに説くのである。)
 「前」とは - 巻第四の所論と、巻第五の所論を指す。巻第四の所論は所依について述べられる。「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処なり。(p83)」と「此の理趣に由って、極成の意識は、眼等の識の如く、必ず不共なり、自の名処を顕し等無間に摂められず、増上なる生所依有るべし、極成の六識の随一に摂めらるるが故に。(p103)」
•「当に説くべし」とは - 「契経に説けるが如し、眼識というは云何ぞ。謂く、眼根に依って諸の色を了別するぞ。広く説く、乃至意識というは云何ぞ、謂く、意根に依って諸法を了別するぞ。(p108)」
 能変差別門を閉じるについて整理をしておきます。
 「謂く本頌の中に初能変の識は、唯所縁を明かし(不可知の執受処)、所依を明かさず。第二能変には倶にニ種ながらを明かせり(彼に依って転じて彼を縁ず)。此の六識は共の所依を明かして(根本識に依止す)所縁をば明かさず。麤にして而も且つ顕なり、又復極成するを以って頌の文に略して説かず」(『述記』)
•初能変 第三頌(不可知執受処)で所縁を明らかにしています。
•第二能変 第五頌(依彼転縁彼)で所依と所縁を明らかにしています。第八識を所依として転じて第八識を所縁とする、ということです。
•第三能変 第十五頌(依止根本識) 六識すべては根本識(阿頼耶識)を所依として働いている。
 「前に義の便に随いて已に所依を説いて、此の所縁の境をば義の便に當に説くべし」(『論』)
 前に(『論』巻四 依・所依の文p83・『論』巻五 六ニ縁証の文 p103)(義の便に随って)已に所依を説いたので、ここでは此の所縁の境についても(第三能変の別名についての経典の会通の所論を指す。p108)義の便(意義内容をわかりやすく)のために当に説くのである。これはこの後に論議されます。

10月度テキスト

2019-10-05 17:00:45 | 第三能変
 「唯識性」について
『述記』には「唯識性というは、略して二種あり。
       一つには虚妄、即ち偏計所執なり。
       二つには真実、即ち円成実なり。・・・・・
      又二種あり。
       一つには世俗、即ち依他起なり。
       二つには勝義、即ち円成実なり。・・・・・
 又言わく、唯識に於いて相と性と不同なり。相とは即ち依他
なり。唯是れ有為なり。有・無漏に通ず。唯識即相なるを以っ
て唯識相と名づく。・・・・・性とは即ち是れ識が円成の自体なり。唯是れ真如なり。無為無漏なり。唯識が性なるを以って唯識性と名づく。・・・・・」と記述されています。
 ここには真実・勝義というものは虚妄・世俗と離れてはありえないことをあらわしています。私たちは何故迷っているのか、ただたんに無意味に迷っているのでしょうか。そうではないはずです。迷っていること自体、真実に触れているのです。真実に触れているからこそ迷ったり、悩んだりするのです。如来の催促とはこのようなことを指すのではないでしょうか。
 虚妄-遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
 世俗-依他起性(えたきしょう)       }三性
 真実-円成実性(えんじょうじつしょう)
 円成実を障碍するものが遍計所執。世俗は依他起に由って成り立っていますが、その自覚がありませんので円成実を障碍する。 二つの重障=煩悩障・所知障(我執・法執)です。この二つが転じると二空になるわけです。人・法空(人無我・法無我) と。「我と法との執に由って二の障、具に生ず。」といわれています。障の根本に執がある。
 『三十頌』の分化。境・行・果、相・性・位、初・中・後について。『唯識三十頌』の組織になります。
 境・行・果 
境は対象、行は方法、果は結果です。何を対象にするのか、その方法は如何にするのか、そしてどのような結果が生まれるのか、ということです。
 境=第一頌から第二十五頌まで
 行=第二十六頌から第二十九頌まで
 果=第三十頌
 『唯識三十頌』は教理に重点がおかれています。実践問題は、第二十五頌の終わりのほうで「如是所成唯識相性。誰於幾位如何悟入。」(是のごとく成ぜられたる唯識の相と性とを、誰か幾ばくの位に於いて、如何が悟入するや。)これが実践問題になります。
   相             行 
     }境       位{
   性             果
『述記』によりますと「前の二十四頌は宗として識の相を明かす。即ちこれ依他なり。第二十五頌は唯識の性を明かす。即ち円成実なり。後の五頌は唯識の位を明かす。」
 相=前二十四頌
 性=第二十五頌
 位=後五頌
『成唯識論』最後、釈結施願分に「此論三分成立唯識。是故説為成唯識論」(この論は三分として唯識を成立す。是の故に説いて成唯識論と為す」と述べられています。三分ということが初・中・後ということです。
『述記』によりますと「此の三十頌を初・中・後に分かつ。初めの一頌半は略して心に離れて別の我・法無しと標して、以って論旨を彰して唯識の相を弁ず。次に有る二十三行頌半は、広く唯識の若しは相若しは性を明かして諸々の妨難を釈す。後の五頌は唯識の行位を明かす。」と
 初=初一頌半
 中=次二十三頌半
 後=最後の五頌
 第三能変
 第三能変は了別境識としての、眼識・鼻識・耳識・舌識・身識・意識の六つをまとめて説明される。
 『唯識三十頌』本文では、第八頌~第十六頌の合計九頌で説明され、古来第三能変は三段九義によって説明される。
 第八頌を第一段、第九頌より第十四頌を第二段、第十五頌より第十六頌を第三段とし、三段を九門(九義)に分けられ詳細に説明されます。
 九門(九義)とは、
 1. 能変差別門(p106)
 2. 自性門(p107)
 3. 行相門(p107)     1~4門 - 第一段
 4. 三性門(p107)
 5. 心所相応門(p109)
 6. 受倶門(p109)     5~6門 - 第二段
 7. 所依門(依止門)(p154)
 8. 倶転門(p154)      7~9門 - 第三段
 9. 起滅分位門(p154)
 「是の如く、已に第二の能変をば説きつ、第三の能変其の相云何。」(『論』第五)
 (第二能変の終わりを告げ、第三能変の説明のための論端を興す(結前生後)。  以上のように、すでに第二能変の説明を述べ終わった。だは第三の能変のその相はどうであろうか。)
 「頌に曰く、
次のは第三の能変、差別なること六種有り。境を了することもって性とも相とも為す。善と不善と倶非となり。」(『論』第五)
 (頌にいう。次は第三の能変である。この頌の中に四門の意義がある。(第三の能変の識には)六種(眼・耳・鼻・舌・身・意識)の区別がある、これが第一の能変差別門である。境を了別するのを、第二の自性門である。また相ともする、これが第三の行相門である。そして第三の能変の各々の識は三性のいずれにもなる、即ち善と不善と倶非であり、これが第四の三性門になる。」)
 「論に曰く、中の思量能変の識に次いで、後に了境能変の識の相を弁ずべし。」(『論』第五)
 (『論』にいう。中の思量能変の識に次いで、後に了境能変の識を説明する。)
 「此の識の差別なること総じて六種有り、」(『論』第五)
 (この識には、総じて六種の区別がある。)
 「六の根と境とに随って種類異なるが故に。」(『論』第五)
 (六つの根と境とに随って識も種類が異なるからである。)
• 根 - 六種類の根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の各根、
• 境 - 六種類の境とは、色・声・香・味・触・法の各境。
 「謂く、眼識乃至意識と名く。」(『論』第五)
 (つまり、眼識及び意識と名づけるのである。)
 「根に随って名を立てたることは五の義を具せるが故なり。」(『論』第五)
 (根に随って眼識乃至意識という名を立てたのは。根は五つの義を備えているからである。)
 「五と云うは、謂く、依と発と属と助と如根となり。」(『論』第五)
 (五というのは、つまり、依と発と属と助と如根とである。)
 五義とは
• (1) 依 (識は根に依る)
• (2) 発 (「根の発するところ」、根が識を発すること。)
• (3) 属 (「彼の根に属せり」、識が根に属すること。)
• (4) 助 (「彼の根を助けて」
• (5) 如根 (「根に故(ニタル)が故に。」、識が根に「如」ること。「如」は似るということ。根と識とは、相似したものという意味。眼根と眼識は、相似したものであるということ。)
 「六識身ながら皆意に依って転ずと雖も、然も不共なるに随って意識という名を立てたり、五識身の如く相濫ずる過無し。」(『論』第五)
 (六識身が、すべて意根に依って転じるといっても、不共という点から意識という名を立てたのである。五識身のように相い濫じる過失はない。)
 「或は唯だ意のみに依る故に、意識と名づく。」(『論』第五十六左)
 (あるいは、ただ意のみに依る為に、意識と名づけられるのである。)
 「識の得名を弁ずるに、心と意とは例に非ず。」(『論』第五)
 (識の名づけられかたを弁ずる(説明する)のに、心(阿頼耶識)と意(末那識)とは、識(六識)の例にはならない。)
 「或は色識乃至法識と名く。」(『論』第五)
 (あるいは、色識から乃至法識と名づけるのである。)
 「境に随って名を立てたるとは、識の義に順ぜるが故なり。謂く六の境の於に了別するを識と名くるをもってなり。」(『論』第五)
 (境に随って名を立てるのは、識の意味に順じるからである。つまり六つの境に対し了別するのを識と名づけるからである。)
 「色等の五の識は、唯色等のみを了す、法識は、通じて能く一切の法を了す。」(『論』第五)
 (色等の五つの識は、それぞれ、ただ色・声・香・味・触のみを了別する。法識というのは、すべてに通じて、よく一切の法を了別するのである。)
 「或能了別法独得法識名」(『論』第五)
 この科段の読み方に二通りあることが『新導本』p212に述べられています。別法の義と別識の義になります。
• (1) 別法の義 「或は能く別の法を了すれば、独り法識という名を得たり。」
• (2) 別識の義 「或は能く法を了別すれば、独り法識という名を得たり。」
 (本義は別法の義になります。別法の義というのは、第六意識は十二処中の第六の外処(第六識の認識対象は、六境中の法境であり、これは十二処中の法処であり、六外処の中の五外処と別している。即ち五外処とは別法であり、法そのものをもってその名を法処という。)のみを了するので、この別法に随って法識と名づけるのである、と。)
 「故に六識の名は、相濫ずる失(とが)無し。」(『論』第五)
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第三能変 五位の説明 その(1)遍行・別境 ・ 釈尊伝(32)

2010-06-04 22:44:12 | 第三能変

 釈尊伝 (32)  -十分に見る

 また社会の向上発展とかということをいわずにおれないのです。社会は進歩して行くんだといわずにおれないのです。進歩して行くものであるならば、いわなくてもいいことです。それをどうしてもおおいに叫ばなくてはならないというのは、そうでもいわなくては、なんとなく落ちつかないからであります。

 ですから、そういう世界はあるのかどうかというよりも、とにかくここにそういう家がある。われわれとは、家というものと離れられないものではないかということです。死んでしまえば消えるなどと申していますのは、それは先ほどいった路傍の人として見ているのであって、自分が死ぬということに直面したら、そんなわけにはいかないのです。人間は一度死ぬのだからなどといってはおれないのです。やはり苦しみます。

 だから死んでしまいたいと思うこともありますけれども、これは苦しみの一種であって、死んでしまいたいと思っているのではないのです。ただ楽になるということを願っているだけであります。

 でありますから、そういう家からでるということは、そういう家を、どのようにわれわれは十分に見ることができるか。家とは、こういうようなものであるのかということを見たことがあるのか。こういう問題になります。

      -出家者

 釈尊の伝記の中には、出家者ということがでてまいりまして、やがて出家を願い、出家するわけであります。そしてこの出家ということが仏教において一番大切な問題であります。仏になるとか、さとったとかということは、後からの話であって、一番大切な問題は出家ということであります。

 われわれは家にいるのですが、どのような状態の家にいるのでしょうか。それが見つかったとき、それをでる道もみつかります。釈尊はやがて、それを見つけるわけです。「自分は家をつくるものを見つけた」。こういう言葉が経典にのこされています。「家をつくるものを自分は見つけた。もう再び家はつくらない」というような言葉があります。

 家がなくなるとはどういうことかと申しますと、それは本当に心の自由な世界とでもいいましょうか、仮にそう申しあげておきます。家というものはわれわれをしばっています。みんな家に帰るより仕方がないです。どこかへでて行こうと思いましても、いつも家へかえるよりほかありません。家に帰ってみるとやはりここしかないなぁという気分になるわけです。しかし、そこはわれわれをしばっているところ、われわれがしばられているところであります。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

 五位の説明 その(1) 遍行・別境

 「五が中に、遍行には四の一切を具す。別境には唯、初めのニの一切のみ有り」(『論』)

 ここは昨日の『瑜伽論』の文をみていただければ、よく理解されるものと思います。遍行は四つの一切を備える。別境はただ初めのニつの一切のみをそなえるのである。即ち一切性と一切地を備えるということです。何故に一切時と一切倶を備えないのかといいますと、別境はすべての境を認識しないので、一切時の一切の認識対象を認識するときに必ず起こる一切時を備える事はなく、また相続しないので、無間断である一切時を備える事はないのです。一切の心有る時には必ず起こるのが一切時でありますから、別境は心王が生起こする時に必ずしも起こることはないので、一切時を備える事はないということになります。また別境の心所が起こる時には必ずしも四つの一切が並び起こるとは限らないので、一切倶を欠き、一切倶を備える事はないのです。

 「一々彼に説くが如し。遍行には四を具す。処として無きことは無きが故に。別境には初めのニのみ有り。一切の境を縁ぜず。亦相続するもの非ず。心が有るとき即ち有るにも非ざるが故に時無きなり。又此れ未だ必ず並生するものはあらざるをもって倶なることなし」(『述記』)