唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『自己に背くもの』 安田理深述 (16) 業道の超越 (Ⅱ)

2011-11-27 22:17:40 | 『自己に背くもの』 安田理深述

 今日業といわれてきたものは行為ということである。業、行為ということを深く考えた行為は人間が考える限り必ず結びついたものである。人間が問題ににされるところ必ず行為、自由意志が問題である。仏教でも行為を深く考えたところに業の問題があるようである。親鸞は信巻において論註並びに善導の散善義の解釈と共に、五逆というものについて小乗の五逆とか大乗の五逆とかいうことを述べておられる。一般の五逆について五逆というのは世間の恩田・福田に背くという意味である。一、故(ことさら)に思うて父を殺す、二、故に思うて母を殺す、三、故に思うて羅漢を殺す・・・・・・と「故に思うて」とある。思うというのはここでは俗語ではない。日本語の思うというものではない。仏教の熟語の場合は心所有法の謂である。心所有法、心は意識、即ち意識に属する法である。心に属する法、心法ともいう、心的な存在である。意識的な存在感情とか意志とか表象とか、意志、心的存在である。これは現代語では意志 Will をあらわす。業というのは行為であるが、その本質は意志である。ただ運動というものではない。立ったり座ったりは意志ではない。無記の業である。意志のいかんにかかわらず転ぶ、そこでは行為ということは成り立たない。自由な意志を以て、意志決定を以て断行するところに行為がある。行為は自由を前提としている。しかし自由を前提としているそれのみで行為は成り立つか。それは必要な条件ではあるが十分な条件ではない。 「旅の恥はかきすて」 ということがあるが、そういうことはできない。なぜ行為が大事であるか、それは為すことは自由であるが為したということを捨てることはできぬ。行為にはちょっと待ってくれということができない。あるときにおける、あるところにおける、誰かの自由意志決定である。行為には保留ができない。判断を中止することができない。猶予・躊躇が出来ぬ、猶予すれば猶予したということになる。そういうところに行為のもつ非常に厳粛な事実がある。キリスト教では信仰は決断であるという。決定的な信仰は二十願の信仰である。二十願は決断的信仰である。一心一向ということはそういうことをあらわしている。決断の信仰を語る言葉である。それだから自分を殺すも阿鼻地獄の運命を決するのも、その全権が自分の上にある。自由は行為の欠くべからざる契機であるが、それのみでは十分な条件でない。行為は意志、意志の体験である。意志の経験が行為である。ものがあることは現在である。あるということが現在している。過去はないということ、未来はないということ、現在は刹那という。為したということは時を貫いて残る。することは自由であるが、したことは時と共に消えない。ここに責任ということがついてまわる。この責任ということがなかったら行為ということは成り立たない。この契機が必然である。自由と必然、なすことによって縛られる。為したことは為した昔を限定する。逆に限定される。逆限定である。逆限定ということが行為の本質である。本当に敵を知らんと欲せば自己を知れというが、なるほど逆限定を語る西田哲学の偉いところだと思う。逆限定ということが歴史の論理の原理となる。大体いうと、行為ということと業ということと、言葉の感じが違う。行為という言葉は外国の用語からきている。業というのは仏教でいう。日本語はその両方ともに翻訳されたものである。行為というときは自由な感じがする。創造的行為などといって明るい感じである。業というと暗い感じがする。そこに行為の把握の方法が違う。暗く問題にしているところに東洋人がある。明るく問題にしているところにキリスト教の伝統がある。仏教では行為における責任ということを強くいい、そこに重点をおく。西洋の方は創るという方に重点をおいている。仏教では後を引き受けるという風に重点をおく。そこに行為をいかに把握するかの問題がある。行為の責任というものを誰が引き受けるか。意志か、肉体か、そこに阿頼耶識の問題が出てくる。行為の主体、行為の責任を荷負するものを世間では我という。ヨーロッパでは自我が行為の主体である。仏教では無我、無我というところにはじめて行為が成り立つ。だから業とは責任感という自覚をおさえていっている。つまり人間は自分自ら行為して自らを縛っている。これを自業自得といっている。自己の主体は何か。自己と自我とを区別しなければならない。仏教の区別では自我と自己、自我が行為であるというときは自己を見てない。本当の自己は法蔵菩薩的構造をしている。人間存在そのものが法蔵菩薩的構造をしている。一切を荷負する。重担を荷負するという構造をもっている。自我は嫌いなものは拒否する。好きなものは取り入れる。自己は好悪を離れてそれらを無心に自己としている。自我にはそれができない。行為する自己即意志と引き受ける自己とは段階がある。悪党息子を外にみると自他の対立、相対があるが、一度内観すると意志的な(意志は行為を作るが)行為を引き受けてくれる。一切衆生は悪をつくるが、それを引き受けるのが法蔵菩薩、そういうところに全体責任ということがある。業、そういうことが行為を厳粛に考えた問題である。(つづく)

                     次週はその(Ⅲ)を配信します。