唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(15) 別境 ・欲について

2013-02-28 22:37:43 | 心の構造について

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 今週は、桃の節句ですね。お雛様きらびやかです。

 月替わり、3月1日より、坊主バー二代目店主、日野 妙さん登場です。一代目店主、萌ちゃん同様皆さんの暖かい応援よろしくお願いします。先日来よりNHKの報道番組の収録が行われていました。3月6日放映だと伺っています。坊主バーが広域での市民の中に浸透し、「内観の道」が、様々な問題解決のメッセージとなりますよう切に願っています。

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 『述記』の記述。

 難(有部の経典理解)に答える。

 「論。如説諸法至皆由愛生 述曰。此即難言。經亦説愛爲諸法本。豈一切心皆由愛有若言如愛非遍生心。如何説欲爲諸法本順正理第十廣引此經。乃至未云解脱堅固究竟涅槃」(『述記』第六上・八左。大正43・429a)

 (「述して曰く。此れ即ち難じて言く。経に亦愛を説いて諸法の本と為り、豈に一切の心皆愛に由って有りや。若し言はく、愛の如く遍ぜるに心を生ずるに非ず。如何ぞ、欲を諸法の本と為すと説くや。順正理の第十に広く此の経を引きて、乃至末に云く、解脱堅固なり、究竟は涅槃なり。」)

 有部が依り所とする経典を会通する一段です。根拠は「欲を諸法の本と為す」という文言です。この経典理解を、護法は論破しています。

 その理由が次の科段になります。

 「論。故説欲爲至勤依爲業 述曰。經中所説。説欲所起一切事業。由欲爲彼本。通三性法皆有勤故。由此文知。入法初首。由善法欲能發精進。由精進故。助成於欲一切善事。此即説欲爲諸善法本。如説信爲法本但是善因。欲爲法本理應如是。對法十五。謂一切法欲爲根本。乃至出離爲後邊等。故對法・顯揚皆説勤依爲業。欲通縁三世。欲作意觀故非唯未來。以前三師一一三世辨對可知。」(『述記』第六上・八左。大正43・429a~b)

 (「述して曰く。経の中の所説は、欲が所起の一切の事業を説く。欲は彼の本と為すに由って、三性の法に通じて、皆勤有るが故に。此の文に由って知る、法の入る初首は善法欲に由って、能く精進を発す。故に、欲の一切の善事を助成す。此れは即ち欲を説いて諸の善法の本と為るを以てなり。信を法の本と為すと説くは、但だ是え善因なりと云うが如し。欲を法の本と為すということ理まさに是の如くなるべし。対法の十五に謂く、一切の法は欲を根本と為り、乃至出離を後辺と為す等と云えり。故に対法・顕揚に皆勤の依たるを業と為すと説く。欲は通じて三世を縁ず。作意して観ぜんと欲するが故に。唯だ未来のみには非ず、以前の三師の一々に、三世に弁ぜんこと対して知るべし。」)

  •  善法欲 - 法(真理・真実)を獲得しようとする善い欲。 


第三能変  受倶門・重解六位心所(14) 別境 ・欲について

2013-02-27 23:20:28 | 心の構造について

 有部の説との相違を会通する

 「諸法は愛をもって根本と為すと説けるが如し。豈心心所皆愛に由って生ぜんや」(『論』第五・二十九右)

 「これは即ち難なり。言く、経にまた(愛をもって)諸法の(根本と為すと説く)。豈、一切の心みな愛に由ってあらんや。もし愛の如く遍く心を生ずるにあらずと言わば、如何ぞ欲をもって諸法の本となすと説くや。・・・」(『述記』)

 本文にある「愛」は貪欲の事を指します。

 先に『中阿含経』を教証として有部は「欲を諸法の根本とする」と主張したが、他の経典には「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれているようなものである。そうであるならば、一切の心は皆、愛という貪欲に由って成り立ってしまう。そうではないであろう、「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれてはいても、諸法が愛に由って生じるのではない。どうして、心・心所が、皆、愛によって生じていようか。そうではないのである。経典にいう愛が心・心所を生じるといった理解ではないからであり、これによって、有部の主張は誤りであることがわかるのである。

 これだけでは、わかりにくいですが、次にその説明が述べられています。此れが二つの部分に分かれ、初めは欲が三性に通じることを説き、後、善の欲(善法欲)を説明する。

 「故に、欲を諸法の本と為すと説けるは、欲に起さるる一切の事業(じごう)を説くことぞ」(『論』第五・二十九右)

 「欲を彼の本と為すに由って、三性の法に通じてみな勤あるが故に、この文に由って知る。」(『述記』)

 護法が有部の説くところ、「欲を諸法の本と為す」と云う意味は、すべての存在するものが、欲に由って引き起こされたり、あるいは認識されたりするようなものではなく、欲によって引き起こされるすべての行為(事業)を説くことである。即ち、「一切の事業」・善・悪・無記の三性を含む行為が欲に由って引き起こされるという意味であるのです。欲は三性に通じることをも明らかにされています。

         後、善法欲を説明する

 「或いは説かく、善の欲は能く正勤を発す。彼に由って一切の善事を助成す。故に論に、此れ勤が依たるをもって業と為すと説けり」(『論』第五・二十九右)

 「善法欲に由って、能く精進を発す。精進に由るが故に、欲の一切の善事を助成す。此れは即ち欲を説いて諸の善法の本と為るをもって。信を法の本と為すと説けるは但、是れ善因なりというが如し。・・・対法十五に、謂く一切法は欲を根本と為す。乃至、出離を後辺となす等といえり。故に対法・顕揚にみな「勤が依たるをもって業となす」と説けり。よくは三世を縁ず。作意して観ぜんと欲するが故に。ただ未来のみならず、以前の三師の一一において、三世を弁ぜんこと対してしるべし」『述記』)

 或いは、善の欲は、よく正勤(しょうごん)をおこす。これによってすべての善の事業を助成する。それゆえに、『論』に「此れ勤の依たるを以て業と為す」と説かれているのである。

 正勤について - (四正勤ー善への努力)

  1.  律儀断 ー 未だ行っていない悪を行わないように努力あうること。
  2.  断断 ー すでに行ってしまった悪は、それを悔い改めもうニ度としないように心がけ努力すること。
  3.  随護断 - まだ行っていない善事は、実践するように心がけ努力すること。
  4.  修断 - 善が出来ているならば、持続させ、乱れることのないように、少しの善事から大きく広大に、そして円満に増大させることが出来るように努力すること。

 欲が正勤の依り所となるわけですね。以前にも述べましたが、『述記』の記述も仏法の大海に入るには、信を欲の依り所とし、欲を正勤の依り所とする、と述べています。欲が善法因だと。善に向かわしめる入口になるということですね。善に向かわしめるという事は、「現生に涅槃の分を得る」ということに他なりません。「至心・信楽・欲生我国」と説かれていますが、本願の欲生心が私をして浄土に向かわしめる働きに成るのでしょうね。「生まれんと欲え」という頷きが、「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず」(真聖 p232 信文類)と、親鸞聖人は、はっきりと言い現わされるわけです。


第三能変  受倶門・重解六位心所(13) 別境 ・欲について

2013-02-26 23:55:32 | 心の構造について

 執を破す。

 初めに有部の説を挙げる。後に護法が論破する。

 「有るが説かく(有部)、要ず境を希望する力に由って諸の心心所いい方に所縁を取る(有部の主張)、故に(証拠を引く)経に、欲をば諸法の本と為すと説けり」(『論』第五・二十八左)

 有部が説くのは、かならず境を希望する力に由って、諸々の心・心所は、所縁(認識対象)を取る(把握する)のである。そのために、経典(中阿含経)に、「欲を諸法の根本とする」と説かれているからである。故に欲は遍行である、と有部は主張する。

 何かを求める意思によって、心・心所は対象を認識するわけですから、もし何かを求める意思がなかったならば、すなわち欲がなかったならば、心・心所は対象を認識することはないだろう、どのようにして認識するのであろうか、という主張ですね。だから心王が生起するときには、欲は必ず倶に働く心所であるので遍行であると、いうわけです。その証拠に『中阿含経』を引用して証明します。その言葉は「欲を諸法の本とする」(経説欲為諸法本)というものです。

 ここは『述記』には詳しい説明はありませんが、論破するところで詳しく説明がなされます。問題としては何故,『中阿含経』では「欲を諸法の本と為す」といわれているのか、ということです。

 「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず」(『倶舎論』) と。

 「論。有説要由至爲諸法本 述曰。自下破執。薩婆多説。要由有欲希望境力。諸心・心所方取所縁。若不希望如何取境。即欲遍諸心欲爲諸法本。證欲遍義。」(『述記』第六本上・八右)

 (「述して曰く。自下は執を破す。薩婆多の説かく、要ず欲の境を希望する力有るに由って、諸の心・心所方に所縁を取る。若し希望せざるは、如何ぞ、境を取らん。即ち欲は諸心に遍ず。欲を諸方の本と為して欲の遍の義を証するなり。」) 

 有部の説の論破(護法の論破)
 初め有部の説を論破し、後、相違を会通する。

 「彼が説くこと然らず。心等の、境を取ることは、作意に由るが故なり。諸の聖教に、作意現前して能く識を生ずと説けるが故に。曾て処として、欲に由って能く心心所を生ずと説けることは無きが故に」(『論』第五・二十九右)

「論。彼説不然至心心所故 述曰。今破不然。心等取境作意功力。警心・心所令取所縁。如前已説。聖教但言作意能生識。不言欲能生心。故知作意令心等取境。何待於欲。」(『述記』第六本上・八右。大正43・429a)

 「述して曰く。今破す。然らず、心等の境をとることは、作意の功力なり。心心所を警して所縁を取らしむるなり。前にすでに説けるが如し。(聖教に)ただ(作意はよく識を生ず)といって(欲はよく心を生ず)と言わざる(故に)、知る、作意は心等をして境を取らしむ。何ぞ欲を待たんや。(『述記』)

 彼(有部)が説いていることは、正しくない。なぜならば、心等が対象を認識することは、作意に由るからである。諸の聖教に述べられている。「作意が現前して、よく識を生じる」と。また、かって欲に由ってよく心心所を生じると説かれていることはない、よって「欲」は遍行ではない、と。

 心・心所が対象を認識するのは、作意の働きによるのであって、有部が主張するような、欲の働きに由って心・心所が対象を認識するのではない、ということです。ようするに、一切の心・心所の元は作意であって、欲ではないということです。欲は対象に対して希望することが、本質的な働きであって、そのことに由り勤が所依となることは必然的な働きに成る、といわれていました。勤は勤精進といわれますように、欲に由って精進を起すわけです。精進に由って、一切の善の法がもたらされるわけです。(一切の善の法は精進に由って成り立つわけです。)その精進は欲に由って成り立つわけですから、欲によって起される限り、欲が「諸法の本とする」と説かれている、といわれるわけです。 


第三能変  受倶門・重解六位心所(12) 別境 ・欲について

2013-02-25 22:46:27 | 心の構造について

 「論。有義所樂至有希望故 述曰。其可欣境。謂漏・無漏可欣之事方生於欲。此據情可欣故通三性。非唯無漏實可欣法。於可欣事欲見・欲聞・欲覺・欲知故有希望。即是四境之中所樂境也。 

 論。於可厭事至豈非有欲 述曰。此外人問。謂苦穢事等。未得之者希彼不合。已得之者望彼別離。豈非有欲。縁可厭事欲既得生。如何唯言可欣生欲。 

 論。此但縁彼至非可厭事 述曰。論主答云。此不縁可厭事。謂此欲但求彼可厭之事未合不合。已合得離之位論。可欣自體。若自内身可欣不合。及後離位。若欲外境此位。即是縁可欣事生。非可厭事。 

 論。故於可厭至亦無欲起 述曰。可厭之處即通六識。或唯第六。其中容境八識倶通。全不起欲。不欣彼故。非可欣故。境雖可欣。若不希望亦無欲起。唯前六識。如邪見撥滅・道等時亦無有欲 有義所樂至亦無欲起 述曰。第二師。所樂者。謂所求之境。隨境體性可欣可厭。但求於彼可欣事上。未得望合。已得願不離。可厭之事。未得願不得合。已得願別離中。皆得起欲。故論但言求合離等。等取彼也。即縁此二皆得生欲。餘文可解。故體寛於第一。唯前七識。或唯第六。有此欲故。於中容境全不起欲。即通八識。或唯前六・及八。以第七識常希求故。 

 論。有義所樂至即全無欲 述曰。第三師。所樂者謂欲觀境。不但求彼若合若離。但欲作意隨何識欲觀等者。皆有欲生。唯前六識。或唯第六・七・八因中無作意欲觀。任運起故。七・八二識全。及六識異熟心等一分。但隨因・境勢力任運縁者全無欲起。餘皆欲生 論。由此理趣欲非遍行 述曰。結也。於此三中。第三最勝。境稍寛故。即七・八識無欲理生。正合前七識中第四師義。(『述記』第六上・八右。大正42・428c~429a)

 「所楽の境の於に希望(ケモウ)するを以て性と為し、勤が依たるを以て業と為す」と説かれている「欲」は「所楽の境」の解釈について異論が述べられている。一つは、「可欣の境」、次に、「可厭の境」、二には、「所求の境」、最後に、「欲観の境」であると諸師の説が述べられてあります。最後の説は護法の説ですが、これを以て正義とされています。

 「三師の解あり。このうちの所説は、第一に総意なり」

  • 第一師 - 可欣(かごん)の境であるという説。可厭の境であるという説が述べられる。    
  • 第二師 - 所求の境であるという説。         
  • 第三師 - 所観の境であるという説。(護法正義)

 内容については先回に述べています。

 可欣(カゴン)とは、望ましいこと。或は、好ましいこと。

 「述して曰く。其の、可欣の境と云うは、謂く漏・無漏の可欣の事に方に欲を生ず。此れは情に可欣なるに拠る。故に三性に通ず。唯だ無漏のみ実の可欣の方なるに非ず。可欣の事に於ては、見んと欲し、覚せんと欲し、知らんと欲す。故に、希望有り。即ち是は四境の中の所楽の境なり。」

 「述して曰く。此れは外人の問いなり。謂く、苦・穢の事等が未だ之を得ざる者は、彼に合わずと希う。已に之を得たるをば、彼に別離せんと望む。豈、欲有るに非ずや。可厭の事に縁ずとも、欲既に生ずることを得。如何ぞ唯だ可欲のみ欲を生ずと言うや。

 可厭(カオン)とは、忌みきらうべきこと。

 述して曰く。論主答えて云く。此れは可厭(カオン)の事をば厭ぜず。謂く此の欲を但だ彼の可厭の事の未だ合せざるには合せずと求め、已に合せるには離することを得んと求むるの位には、可欣の自体有り。若し、自の内身の可欣に合せじとする位と、及び後に離する位と、若し外境を欲する此の位には、即ち是れ可欣の事を縁じて生ずるなり。可厭の事には非ず。」

 「述して曰く。可厭の処は即ち六識に通ず、或は唯だ第六なり。其の中容の境には八識倶に通じて、全く欲を起こさず。彼を欣わざるが故に。可欣に非ざるが故に。境は可欣なりと雖も、若し希望せざるときには、亦欲起こること無し。唯だ前六識なり。邪見の滅道等を撥する時に、亦欲有ること無きが如し。」

 第二師の説。「所楽というのは所求の境である」という。

「述して曰く。第二師なり。所楽と云うは、謂く所求の境なり。境の体性、可欣、可厭なるに随う。但だ彼の可欣の事の上に於て、未だ得ざるものに合せんと欲し、すでに得たるものに離れずと願う。可厭の事において、未だ得ざるものに、合することを得ずと願い、すでに得たるものに別離せんと願う中にみな欲を起すことを得。故に論にはただ「合せん離せん等を求む」というは、不合不離を等取するなり。即ちこの二を縁じてみな欲を生ずることを得るなり。余の文は解す可し。故に体は第一より寛なり。ただ第七識なり。あるいはただ第六識なり。この欲あるが故に。中容の境に於いては全く欲を起こさず。即ち八識に通ず。或は唯だ前の六と及び八となり。第七識の常に希求するを以ての故に。」

 第三師の説。「所楽は欲観の境なり」であるという。

 「述して曰く。第三師なり。所楽とは、謂く欲観の境なり。但、彼(一切の事)のうえに、若しは合し、若しは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七・八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり。」

 結文

 「述して曰く。結なり。此の三の中に於て、第三最も勝れたり。境稍寛きが故に。即ち七・八識には欲の理として生ずること無く、正しく前の七識の中の第四師の義に合す。」

 


第三能変  受倶門・重解六位心所(11) 別境 ・欲について

2013-02-23 12:23:38 | 心の構造について

 安慧の説と、正義である、護法の説が挙げられて説明される。

 別境 欲の対象である所楽の境とな何か

 「下に三師の解あり。此の中の所説は、第一に総意なり。」(『述記』)

  •  第一師 - 可欣(かごん)の境であるという説。(安慧等の説)    
  •  第二師 - 所求の境であるという説。
  •  第三師 - 所観の境であるという説。(護法正義)

 第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 可欣の境に対して欲を生じるということを述べる。

 「有義は、所楽とは、謂く可欣の境なり。可欣の事に於て、見聞等を欲すれば、希望有るが故に」(『論』第五・二十八右)

 第一師の説が述べられます。安慧等の説といわれています。第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 所楽というのは、可欣の境である。(可欣の境とは、自分にとって望ましい対象。)何故ならば、自分の望ましいと思っている事に対して、見聞しようと欲する時に、希望があるからである。

 「その可欣の境とは有漏と無漏となり。可欣の事のうえに方に欲を生ずるなり。これは情の可欣なるに拠るが故に、三性に通ず。ただ無漏にみ実に可欣の法なるに非ず。可欣の事において見んと欲し、聞かんと欲し、覚せんと欲し、知らんと欲す。故に希望あり。」(『述記』)

 欣は〝ねがう〟という意味でありますから、ねがうべきという意味になります。何を願うのかといいますと、自分の欲するべきことを願うということですね。自分の情に基づいて自分の欲する所に拠るのであるから、可欣の対象には有漏・無漏の両方が有り、また三性に通じるのである、と。有漏とか無漏とか三性に、見ようと欲し、聞こうと欲し、理解(覚・知)しようと欲する、そのために「希望有り」、希望することが生まれてくるという。可欣の反対は可厭ですが、次に出てきます。

 後は問いと答え

  •  問 「可厭の事に於いては。彼には合せずと希ひ、彼には別離せんと望むるに、豈に欲あるに非ずや」
  •  答 「此れは但、彼には合せずして離れんと求むるに、時には可欣の自体あり。可厭の事には非ず」(『論』第五・二十八右)

 「これは外人の問いなり。謂く、苦穢の事等のうえに、未だこれを得ざれば、彼には合せじと希い、すでに之を得れば、彼には別離せんと望む。豈、欲するにはあらずや。可厭の事を縁ずるも欲すでに生ずることを得。如何ぞ、ただ可欣の事にのみ欲を生ずというや」(『述記』)

 可欣の事だけではなく、可厭の場合にも希望を起すではないか、にもかかわらず、何故に可欣の事のみ欲を起すと云うのか、という問いです。) 外人の問い、といわれていますが、仏教以外の宗教家という人達を指します。

 「論主答して云く、これは可縁の事を縁ぜず。謂く、この欲はただ、かの自の内身の可厭に合せじとする位と、および後に離する位と、もしは外境を欲する此の位とには、即ちこれ可欣の事を縁じて生ずるなり。可厭の事にはあらず」(『述記』)

  •  問 - 可厭(いとうべきことー嫌なこと、もの)の事に対して、未だ合していないものについては、合しないでおこうと希い、すでに合していることについては、離れないでおこうと希うことは、欲ではないのであろうか。
  •  答 - これはただ、彼には合しないでおこう、あるいは、離れないでおこうと求める時には、そこには可欣の自体が働いているのみであって、可厭を願うからではないのである。厭うべき時には、必ず可欣の事を縁じて生ずるのである。従って可厭の事ではない。可欣のみを所縁とするのである。

 「可欣の自体あり、可厭の事には非ず」を解説します。自分自身が何を欲するのか、しないのかは、自分の欲の心所が求める対象が、自分にとって楽な状態、願わしい状態、求めるべき状態を指しているのです。可欣の自体は自分にとっての最良の状態を願うということですね。それしかないわけです。病気になって病気を厭うのは、病気を願い、求めているわけではないですね。自分を愛するが故に、病苦からの解放を願うわけです。これが元です。可欣の自体のみがあるということですね。自分は何を欲しているのかと云うと、ただ、可欣の事のみを欲しているのであって、可厭ということは成り立たないことになるのです。

 可欣の境に対して欲が起きない場合につては

 「故に、可厭と及び、中容との境においては、一向に欲無し。可欣の事を縁ずるも、若し希望せざれば、亦欲起こること無しと云う」(『論』第五・二十八右)

 その為に、可厭や中容のものに対しては、一向に欲は起こることがない。よって希望は起こらないと云う。また、可欣の事を認識しても、もし希望しない時には、また欲は起こることはないと云う。

 可厭の処は即ち六識に通ず。あるいはただ六識のみなり。その中容の境は八識に倶に通ず。全く欲を起さず。彼を欣わざるが故に。可欣の境にあらざるが故に。境は可欣なりといえども、もし希望せざるときには、また欲の起こることなきなり。ただ前六識なり。邪見の滅道を撥するときにも、また欲あることなきが如し」(『述記』)

 これが第一師の説になります。

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 第二師の説 - 所楽は所求の境であると云う説

 「有義は、所楽とは謂く所求(しょぐ)の境なり。可欣厭(かごんおん)の於に合せんと離せんとの等く求むるとき、希望すること有るが故に」(『論』第五・二十八左)

 これは第二師の説である。所楽とは、所求の境をいう。可欣に可厭をも含むと云う。「ただ、かの可欣の事を求むるうえに、未だ得ざるものに合せんと欲し、すでに得たるものに離れずと願う。可厭の事において、未だ得ざるものに、合することを得ずと願い、すでに得たるものに別離せんと願う中にみな欲を起すことを得。故に論にはただ「合せん離せん等を求む」というは、不合不離を等取するなり。即ちこの二を縁じてみな欲を生ずることを得るなり。・・・故に体は第一より寛なり。ただ第七識なり。あるいはただ第六識なり。この欲あるが故に」(『述記』)

 第ニ師の説は第一師よりも範囲がひろいです。可欣の境に対しても、可厭の境に対しても欲は起こるといいます。未だ求めて得られないものについては、それを得ようと願い、反対に得ている場合には、それを離さないでいたいと願うというように希望する。可厭の場合は、厭うべきものが有るときは、離そうと願い、無い時には合しないでいたいと願うと云うように希望する。共に欲の対象として広く解釈している。

 「中容の境の於には一向に欲なし、欣厭の事を縁ずれども、若し希求せざるときには、亦欲の起こることなしという」(『論』第五・二十八右)

 第一師と第二師に共通していえることは、中容の境に対しては欲は起きないと云う事です。正義は中容のものも、欲の対象になるという立場をとりますので、第一師・第二師の説は不正義ということになります。 『樞要』に「若し資具什物を求希する欲有りと云えり。禾稼(カカ・穀物、穀類の事)等豈に欲なからんや。故に並びに正にあらず」と、即ち資具・什物(日常の生活用具)といったものや、麦や米などといった穀類そのものは、欲の対象にならないのか。資具・什物・穀類そのものは中容であるかもしれないが、自分と関係する時には、中容の境ではなく、自分から見て欲するものであるから、中容のものも欲の対象になるはずであるという立場から批判しています。ただ欲の対象になると可欣の境ということになるので問題は出てきます。それを護法は所楽とは欲観の境であるという。

 護法正義を述べる。所楽は欲観の境なり

 「有義は、所楽とは、謂く欲観の境なり。一切の事の於に観察せんと欲するには、希望すること有るが故に。若し観ぜんと欲せずして、因と境との勢に随って任運に縁ずるには、即ち全に欲無し」(『論』第五・二十八左)

 欲観の境とは「一切の事のうえに、もしは合し、もしは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり」(『述記』)

 護法の説(正義)は、所楽とは、欲観の境である。可欣も可厭も中容も所楽となりえる。一切の事に対して、観察しようと欲するときには、希望するものであるからである。もし観察しようとは欲しないで、因と境との勢力に随って、任運に認識対象を認識する場合には、そのすべてに欲は無い。

 欲観の境とは、心を作意して境を観じようという欲の対象となる境のこと、といわれます。第七識と第八識の二識と六識の異熟心等の一分は、任運に境を認識するので、欲と倶ではないという。それは「因と境との勢力に随って」ですね。欲が起こらない、といわれます。欲が生じないことがあるので、遍行ではない、ということになります。しかし任運に生じないときは、可欣・可厭・中容のいずれであっても、観察しようとするときには、希望する心の働きである欲が生じるというのです。「見ようとする」とか「聞こうとする」、意欲が生じるときに、よくの心所があるのですね。第七識と第八識、そして、第六識の異熟においては、自然に起こってくる意識なので、欲の心所ではないということです。それで遍行ではなく別境であると。有部の大地法を批判していくわけです。

 「斯の理趣に由って、欲は遍行に非ず」(『論』第五・二十八左)

 以上の理由によって、「欲」の心所は遍行ではないことを証明する。


第三能変  受倶門・重解六位心所(10) 別境 ・欲について

2013-02-22 23:04:05 | 心の構造について

 「次解下三。合有二文。初以五門分別。後例餘門 論。次別境者謂欲至惠 述曰。第一列名釋別境義。解第二句上三字。以下二字及第三句全。如文別解 論。所縁事境至次初説故 述曰。釋第四句及解次言。釋別境名也。然別四境一一可知。五十五云。所樂・決定・串習・觀察四境別也 次別解五。第二出體。體中有二。初別出。後總非遍行。」(『述記』第六本上・五右。大正43・428b) 

 (「述して曰く。第一に名を列ねて別境の義を釈す。第二の句の上の三字を解く。以下の二字と及び第三の句の全とは、文に別に解するが如し。
 第四の句を釈す、及び次言を解く、別境の名を釈すなり。然るに別の四境一々に知るべし。五十五に云く、所楽と決定と串習(げんじゅう)と観察との四境別なり。次には別して五を解す。第二に体を出さば、体の中に二有り、初に別して出し、後に総じて遍行を非す。」)

 初めは五門に分けて説明する。(欲・勝解・念・定・慧)
 初の五門中の第一門は、別境の心所の名を列ねて個別に説明する(列名別義門)。
 第二門は、別境は、遍行ではないことを説明する(遮遍行門)。
 第三門は、別境の心所が生起することは不定である、単独か並び立つのかは一定していないことを説明する(独並門)
 第四門は、八識における別境の心所の有無について説明する(八識分別門)。
 第五門は、別境の心所が、いずれの受と相応するのかについて説明する(五受分別門)

 初に、欲の心所について説明する。

 「論。云何爲欲 述曰。自下各有二。初問。次答。此問也。答中有三。初解體・業。次廣前文。後破異執。此即問也 論。於所樂境至勤依爲業 述曰。然勤依者如此下説。及對法第十等皆云。信爲欲依。欲爲精進依。即入佛法次第依也。然欲既通三性。即唯善欲爲依。今又解。勤者勤劬。染法懈怠勤作諸惡亦是勤故。無記事勤即欲・勝解。若言精進。精進唯善。勤通三性。皆欲爲依。非唯善勤。下文説欲能起正勤。前解爲勝。下三師解。此中所説第一総意。」(『述記』第六本上・五右。大正43・428c)

 (「述して曰く。自下は各二有り。初は問い、次は答え。此れは問いなり。答えの中に三有り。初には体と業とを解し、次には前の文を広す、後には異執を破す、此れは即ち問いなり。然るに勤の依とは、此の下に説けるが如し、及び対法の第十等に皆云く、信を欲が依と為し、欲を精進依と為すと云えり。即ち仏法に入る次第の依なり。然るに欲は既に三性に通ず、即ち唯善の欲のみを依と為す。今又解す。勤には勤劬(ごんくー努力すること。)する、染法は懈怠あれども、勤て諸悪を作すは、またこれ勤なるが故に、無記の事において勤なるに、即ち欲と勝解となり。若し精進というときは、精進はただ善なり。勤は三性に通ず。みな欲を依となす。ただ善の勤のみにあらず。下の文に欲はよく正勤を起こすと説く。前解を勝となす。下に三師の解あり。このうちの所説は、第一に総意なり。」)


第三能変  受倶門・重解六位心所(9) 別境 ・欲について

2013-02-21 00:15:38 | 心の構造について

 欲の心所について

 「云何なるをか欲と為す。所楽(しょぎょう)の境の於(うえ)に希望(けもう)するを以って性と為し、勤(ごん)が依たるを以って業と為す」(『論』第五・二十八右)

 問いと答えです。この答えについて三つの部分に分けられる。「初めに体と業とを解す。次に前の文を広ず。後に異執を破す。(云何為欲)これは即ち問いなり」(『述記』)

  その(1) 欲の本質的な働きと(性=体)と業とについて

  その(2) 欲の対象である所楽の境とは何かについて

  その(3) 欲を遍行とする有部の説を論破する

 「然るに勤が依たることは、この下に説くが如し。及び対法の第十等に皆な云く、信を欲が依となし、欲を精進依となすといえり。即ち仏法に入る次第の依なり。然るに欲はすでに三性に通ず。即ちただ善の欲のみ依となす」(『述記』)

 欲とは願い求める所の対象に対して、希望することを以って、その本質的な働きとし、勤の依り所となることを以って業とする心所である。

 『述記』の記述は仏教に入る次第、順番は信を欲の依り所とし、欲を精進の依り所とすると述べています。勤は精進のことです。同義になります。「仏法の大海はは信をもって能入と為す」、といわれますが、仏法を信ずることから信心獲得を欲しその欲からぐたいてきな精進・聞法が生まれてくるのですね。そして信心の智慧がもたらされるのでしょう。ですから信を欲の依り所とする、ということが大事なのでしょう。そして欲を精進の依り所とするのです。精進は善の心所ですね。ですから善に向かわしめる因と為るのが欲ということになります。「欲はすでに三性に通ず」といわれていますように、善・悪・無記に通じる心所なのですが、注意すべきは「ただ善の欲のみ依となす」ということ、即ち欲が善を推し進める原動力になるということを教えています。「善の欲は能く正勤を発す、彼に由って一切の善事を助成す」といわれるわけです。もう少しまとめてみますと、欲とは「所楽の境に於て」本来求めていること、楽われる対象を希望することが本性であって、そこから勤が出てくる。勤の依となるということ。良遍は「欲ノ心所ト云ハ、善ヲモ悪ヲモ無記ヲモネガイソムル心也」と三性に通ずるといっています。『述記』の記述も三性に通ずると教えていましたように、善にも、悪にも、無記にも動いていくのが欲の心所です。しかし「勤の依たるをもって業となす」といわれるところは、勤は勤精進だということですね。本願の三心でいいますと、私たちが本来求めていること(欲生)、その求めていることが今、決定した(勝解)ことから、至心・信楽が生まれ、その信が聞法(勤精進)に向かわしめ、信心の智慧を生みだしてくると云う事になりますでしょうか。安田理深先生はこのところを「欲・勝解を基礎として信が成り立つのである。『大無量寿経』の三心(至心・信楽・欲生)は、これに照らせば、心理的必然を語っているのである。論理的必然ではない。」(選集三・p275)と語っておられます。考えられたものではなく欲が起こる所に必然としてもたらされる、信心の心理ということがいえるのではないでしょうか。希望することを以って勤の依となる、ということ。ですから、欲とは希望することを直接因(本質的な働き)とし、勤精進を間接的因(二次的な働き)とする心所であるといえます。つまり、欲は勤精進の原動力になるということです。聞法の原動力になるのが欲生心ですね。

 「善の欲は」といわれていましたが、善の欲は善法欲といわれます。「欲を善法欲で語ることによって、仏道や善の達成を希求し、努力を心がけねばばらないこと、そうでなければ精進が生まれない。精進が無ければ善事も解脱も達成できない、精進努力の原動力は、欲、つまり善法欲なのであるということを明示するためであると思われる」と城福雅伸氏は語られていますが、その通りです。また「欲は三性に通ずるから不善の欲には不善の心所(勤)を起す業用がある。然し今は善の欲に約して善の勤即ち精進のみを挙げ、仏法に入るの次第を示す」と花田凌雲先生も述べられています。この間の事情については『述記』に解釈が施されています。その記述は「いま又解す。勤とは勤劬するなり。染法は懈怠なれども勤て諸悪を作すは、またこれ勤なるが故に、無記の事において勤なるに、即ち欲と勝解となり。もし精進というときは、精進はただ善なり。勤は三性に通ず。みな欲を依となす。ただ善の勤のみにあらず。下の文に欲は正勤を起すと説く。前解を勝となす。・・・」と説かれています。即ち精進は善の欲のみを依とする説と、精進はただ善であるが、勤は三性に通じるという説が挙げられていますが、最初の説が勝ると述べているのです。

     『述記」原文は後ほど記載します。


第三能変  受倶門・重解六位心所(9) 別境について

2013-02-19 21:44:37 | 心の構造について

 お知らせ
 来たる23日(土)午後3時より、八尾市本町 聞成坊さんにおいて、唯識入門講座(第4回目)を行います。
今回の講義の要点は、先日「第四回目講義骨子」としてブログに掲載させていただいています。中心課題は「唯識無境と説かれているけれども、世間と仏教経典には我・法は有ると説かれている。これをいったいどう説明するのか。」を考えてみたいと思っています。

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 別境の義を釈す。

 別境について その概略(列名釈義門)

 『唯識三十頌』 第十頌
 「初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同」
 この第十頌は第九頌を受けて述べられていますが、遍行については初能変に詳しく述べているので、ここでは省略し、別境について述べられます。ただ別境についても初能変 巻三にて述べられていますが簡略されていて、第三能変に至って詳しく述べられるているのです。
 別境という意味は、「論」と『述記』」から考えてみたいと思います。
 「次に別境とは、謂く、欲より慧に至るまでなり。所縁の境の事。多分不同にして、六位の中に於いて、初めに次いで説くが故に」 (『論』)第五・二十八右)

 「述して曰く、第一に名を列して別境の義を釈す。第二句の上の三字(次別境)を解す。以下の二字(謂欲)と第三句の全(勝解念定慧)は文に別に解するが如し。第四句(所縁事不同)を釈し、および次の言を解す。別境の名を釈すなり。一一に知るべし。五十五に、所楽と決定と串習げんじゅう)と観察との四境の別なりといえり。つぎに別に五を解す第二に出体なり。体のうちに二あり、初めに別を出す。後に総じて遍行に非ざることをいう。」(『述記』)

 『論』では所縁(認識対象)となる境の体は、それぞれがそれぞれの認識対象が異っているといい、その境は四境の別であると釈しています。所楽・決定(けつじょう)・串習を曾習(ぞうじゅう)・観察を所観の境と記されています。この境が五の別境に配されて述べられます。欲は所楽の境に対し、勝解は決定の境に対し、念は曾習の境に対し、定と慧は所観の境に対して活動するといわれています。

 次の別境とは、つまり、欲から慧に至るまでである。(別境の)認識対象となる境の体は、その多くが同じではなく、認識対象が異っているので別境という。六位の心所の中で、初めの遍行の次に述べられるから次別境といわれるのである。
尚、「多分不同」という意味は、五の別境がすべて異った境に対して活動するのであれば、不同でいいわけですが、定と慧は同じ認識対象としますから、多くは同じではない、多分不同であると述べられているのです。

 『唯識三十頌』聴記 安田理深先生の多分不同に関する講義を紹介します。(選集第三巻 P274)

 「別境という意味は、「所縁事不同」で語る。「所縁事不同」なるがゆえに、欲・勝解・念・定・慧を別境というのである。所縁事とは境であり、不同とは別々であるということである。 『成唯識論』では「多分不同」と「多分」を補っている。多分というのは、別境の心所は五つあるのであるから、境も五つあらねばならないが、定と慧の境は同じなので「多分」というのである。 
 欲  -  所楽の境(未来の境)
 勝解 -  決定の境(かって定まらなかったものが今、        決定した・・・・・現在の境) 
 念  -  曾習の境(過去にかって経験した境
 定     
      } -  所観の境(三世に通ずる境) 
 慧

 これは五つの作用である。作用は五つ。境は四つなので多分不同というのである。」と教えてくださっています。
巻三の記述は「欲は所楽の事を希望して転ず。・・・勝解は決定の事を印持して転ず。・・・念は唯曾習の事を明記して転ず。・・・定は能く心をして一境に専注ならしむ。・・・慧は唯徳等の事を簡擇して転ず」といわれています。

                      (つづく)


第三能変  受倶門・重解六位心所(8) 五遍行を結す。

2013-02-18 21:48:30 | 心の構造について

 「此れに由って証知す、触等の五の法は、心が起こるときに必ず有り、故に遍行なることを。余の遍行に非ざる義をば、当に至って説かん」(『論』第五・二十七左)

 以上に由って、触等の五の法は、心を生起するときには必ず存在することがわかる。故にこれらの五の法が遍行であるということが証明されたのである。以下、遍行以外の心所について説く。これにより『三十頌』第十頌の第一句の頌を説き訖(おわ)る。

 『述記』に「然るに経部等が別に心所あることなしというを破して、故らにこの五は心が起こる時、みな生ずることを顕す」と述べられ、説一切有部等が大地法として挙げている十の心所を破して、遍行と別境に分類をしたことを鮮明に打ち出しているのです。これによって法相唯識が心所の分類において、より精密に・緻密にその哲学を構築していったことが伺え、今日の私たちが心の構造を尋ねるうえでの道しるべになることは間違いのない所です。

 巻三を読みます。「此の五は既に是れ遍行の所摂なるが故に、蔵識とは決定して相応す。其の遍行の相をば後に当に広釈せん。此の触等の五は異熟識と行相異なりと雖も。而も時と・依と同にして所縁と・事と等しきが故に相応と名づく」と結ばれています。

 触・作意・受・想・思、これが五遍行です。これによって認識は成立しているのです。一ついいますと、触の心所は外界と触れる、接触をする心所なのですが、ただ受動的に触れるということはありません、そこには必ず自分の心が能動的に働き触れているわけです。これはすべての心所に共通して言えることです。一つの事柄の両面性ですね。唯識無境といいますが、外界は存在しない、ということではないのです。認識していることは、自分の心の現れであるということなのです。またいずれ初能変の四分義(相分・見分・自証分・証自証分)において詳しくみていきます。第三能変においても前六識の認識構造は、自分の主観でもってしか認識はできないということを教えているのですね。

「論。由此證知至義至當説 述曰。結上所明。第三文也。然破經部等無別有心所。故顯此五心起皆生。如顯揚第一引證説有。餘欲等五經不説有。理不遍生故別境攝。觸等五法性・業。指前第三卷説。其餘非遍行之義如下當知。此結前生後也。即是解第一句頌訖。」(『述記』第六本上・四左。大正43・428b)

 (「述して曰く。上の所明を結す。第三の文なり。然るに経部等の別に心所有ること無と云うを破するが故に。此の五は心が起こるとき皆生ずと云うことを顕す。顕揚の第一に証を引いて有と説けるが如し。余の欲等の五をば経に有と説かず。理遍じて生ぜざるが故に、別境に摂む。触等の五法の性と業とは、前の第三巻に説きしを指す。其の余の非遍行の義は、下の如くまさに知るべし。此れは前を結し後を生ず。即ち是は第一句の頌を解し訖る。」)

            次回は『演秘』の解釈に学びます。 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (22)  第一章第四節

2013-02-17 21:23:58 | 『阿毘達磨倶舎論』

 第九能造所造門、第十可積集非可積集門、第三十四頌を説く。

 「触界中有二 余九色所造 法一分亦然 十色可積集」

 (触界の中には二あり、余の九色は所造なり、法の一分も亦然なり。十色は可積集(かしゃくじゅう)なり。)

 二とは、能造と所造との二である。法一分とは、無表色のこと。

 触界五十一(四大種・滑性・渋性・軽性・重性・冷性・飢性・渇性)の中、四大種は能造、その他は所造であるから「二あり」という。五根と色・声・香・味とは所造である。法界の一分である無表色も所造である。 

 どれだけが極微の積集によって成り立つところなのか、極微所成をいい、五根五境の十界は可積集である、という。余の八界は非可積集であり、無表色も極微所造ではないから、非可積集である、と述べている。