唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

釈尊伝 (87) 梵天勧請 初転法輪

2010-08-24 23:10:04 | 釈尊伝

    釈尊伝  (87) 梵天の勧請 その(9) 初転法輪
釈尊はその梵天の勧請によって法を説くために座を立って、まず最初に法を伝えられたのが、釈尊が苦行を止めて菩提樹下に座られた姿をみて、堕落したと釈尊をすてさった五人の比丘です。もとは家臣であったけれども、出家してともに修行をつづけておった五人の比丘です。五人は依然として鹿野苑におって修行をつづけていたのです。
釈尊についての歴史的な研究によれば、その鹿野苑までの距離、釈尊のさとられた場所を示すブッダガヤから相当の距離があるわけで、その間に摂せられた人がいろいろあったということも伝えられていますが、ともかくも鹿野苑に来られて五人の比丘を教えられたということが、正式に釈尊のはじめての教化と、昔から名づけら
れています。つまり中国をとおして伝わった仏教においては、五人の比丘を済度したということを初転法輪と名づけています。
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                    その (10) 法輪
 法輪は法の輪であって、輪はいわゆる車の輪です。この車は
戦争のための車で、昔の戦車です。牛がひきましたか、馬がひきましたか、象がひきましたかしりませんが、とにかく戦争に引いて走った車です。鉄の輪で、なんでも踏みくだいてしまう、物をつぶしてしまうような車です。法輪の形が船の舵輪に似ていますが、もともと戦争につかった道具だそうです。あるいはああいうものを飛ばして戦ったのかもしれません。

 なぜそういうものを印としたかといえば、この世のいろいろな道はみな人びとをして死に落とし入れる道のほかない。いわゆる、すべてこれ魔の所説であるということです。その所説を踏み破る。砕き破って、そして正しく人びとをして苦しみの滅した涅槃に至る道を開く。こういう意味で法を説くことを法輪を転ずると名づけられたのです。転ずるとはころがすことです。車がクルクルところがってゆくことです。回っていくことであります。

 で、五人の比丘を救われたことをもって初転法輪と名づけられていて、以下涅槃に至るまで、つまり釈尊の生涯の終りに至るまで、この法輪は転ぜられたのであると伝えられています。

 鹿野苑の比丘に教えられたことをなぜ初転法輪というのか。原始仏教の研究家からいえば、それ以前に商人なり在家の人なりを教化せられたということがあったということですが、仏教が正しく行として、それを信ずるところの道として伝わった中国、日本の伝統においては、鹿野苑の説法を初転法輪というのです。

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        その(11) 教化ということ

 その意味は、五人の比丘を済度されたことによって仏陀ははじめて三宝を備えられた、ということになるので、それでこれを初転法輪として伝えたのです。三宝というのは、つまり仏と法と僧です。人を導かれた、人を単に教化せられたということだけでは、仏教が行じられたというわけにはいかないのです。道すがら人びとを教化せられていったことはあるでしょう。しかし教化を受けた人は、まことによい教えをいただいた、よいご注意をうけた、お蔭さまでさしあたっての自分の方針がたった、これで自分は間違いなく家に帰れるというようなことです。そうでなければさまよわねばならぬのに、幸せに自分の家庭にもどれます、ということにすぎないわけです。

 釈尊の教えにしたがって、生涯その教えのもとに生きて、涅槃に至るということではないわけです。仏の教えが人生の良い指針になり。幸福な生活ができるというのでは、仏教が行じられたというわけにはいかないのです。たまたま通り道に、暗いところに常夜燈がともっていたというにすぎない。暗夜の航海をしているときに灯台の光がみえて、そして暗礁にかからずそこを通りすぎることができたというにすぎない。なるほどその光がなかったなら船は暗礁にぶつかって沈んでしまったかもしれない。しかし、そこを無事に通りすぎて、灯台のお蔭で無事に通りすぎたのだとしても、それで人間の暗礁がなくなったわけではない。人間がぶつかる暗礁は、人間のいたるところ常に存在する。一時的に外に出あったところのものをのがれたという意味において仏教が理解せられてきたのが、いわゆる近代における仏教というものの特質です。したがって、そこに行証ということがないわけです。中国、日本においては、仏教というのは行証ということが中心でありました。その意味で初転法輪をこの鹿野苑の五人の比丘の教化というところにおいたわけです。いわゆる仏教というものの特色です。特色をあらわしたのが五人の比丘の教化でありまして、単なる釈尊の一生涯の物語の歴史的事実の一コマではないということであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 初転法輪の意味においてですね。仏教の教化ということが、単なる幸福教では無いということを示唆されています。現在、仏教という名のもとに、幸福教を売り物にしている新興仏教教団が横行していますが、彼らの語り口は「信仰すれば、必ず幸福になりますよ。共に祈りましょう」というものです。また「冬は必ず春に成る、祈りは必ず叶う」というものです。この語り口にころっと騙されてしまうのですが、これは仏教は何を語り、何を伝えてきたのか、を知らなさすぎることからくるところなのでしょう。これからいよいよ「法」について語られますので、仏教とは何かを共に学んでゆければいいと思います。


仏陀 釈尊伝 (84)

2010-08-19 23:06:05 | 釈尊伝

  釈尊伝 (84)転法輪・梵天の勧請(5) 客体と受けとる

 で、そのさとりを仏陀が説かれるときには、受けとる人びとはこれを客体的にしか受けとれないわけですから、仏陀は法を説くことが無益なことではないぁ。したがってこれを説かずに涅槃に入ろうと考えられたという一つのエピソードが、この菩提樹下のさとりというなかにつたえられています。ここのことは歴史的にも、今日われわれがみている世界においてもうなづける事実でして、仏教のさとりというもの、法というもの、老病死というもの、すべてが客観的な事実として考えられているということ。つまりこの世界にいろいろなことがあるうちの一つとして解釈せられているという、そういう事実です。事実としていかにもとうなづけるのです。

            - この世界 -

 ところがこの世界の主である梵天が勧請したと。この世界といいますのは、今日では宇宙といいますけれども、抽象的な意味においては宇宙ですが、具体的には娑婆世界です。いわゆる娑婆は、堪忍です。耐え忍ばねばばらない世界という意味です。それを娑婆世界といわれています。この世界は娑婆世界といわれる。どこもかしこも、月の世界も火星の世界も娑婆世界といわれる。なぜかといいますと、月の世界には生物はおらなかったということです。火星の世界には生物がおるかもしれない、窒素がたくさんあるということです。そういうことが科学の雑誌などの出ているというと、われわれは宇宙というものにはいろんなものがあると思いますが、しかし一面、そのままが耐え忍ばねばならない世界であるといわれるのです。月に生物がおらないというのは、生きるに耐えられない世界だからです。その世界には人間も耐え忍ぶことができない。地球は耐え忍ぶことのできる世界、しかし公害が増えてくると、これも限界があって、また生きるに耐えられない世界になりつつあるところがあります。そういう意味で、この世界というものを娑婆世界と名づけてきたことは、決して、今日になって意味のなくなったことではありません。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

 この講義録は1971年 東本願寺本廟において開催された青年研修会の筆録ですが、蓬茨先生は、娑婆世界の在り方を鋭くえぐりだされています。「耐え忍ぶことの世界」であると。しかし今夏の猛烈な暑さには耐え忍ぶことが出来ない状況を生み出しています。それもほとんどが人為的なものと言わざるを得ません。そうすれば、この娑婆世界に光り輝いて生きると言う事はどういうことなのでしょうか。またその意味は、なにを指しているのでしょう。「また生きるに耐えられない世界になりつつある」と、今日の世界を見透かしたように指摘されているのですが、この世界を生きるに耐えられない世界にしてもいいのでしょうか。ではどうしたら娑婆世界が娑婆世界とて機能することができるのでしょう。それには「耐え忍ぶことの世界」という自覚と、この世界を成り立たしめている存在は、他でもない私であるという目覚めだと思います。清沢先生の言葉を借りれば、有限の存在は無限につつまれて初めて有限の存在であることが自覚できるという眼差しではないでしょうか。その無限は「無量寿・無量光」といわれる南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞き開くことなのですね。


釈尊伝

2010-08-04 22:03:52 | 釈尊伝

                           ー 釈尊伝 - (73)

 自分を縛るもの その(2) 一切智人

 「これが釈尊が仏陀になったという意味でありまして、このとき釈尊は仏になったとも、正覚を成就したとも、解脱を得たとも、それからいわゆる不死を得たという表現もするわけです。死なない者になったとは、本当に老病死から自由になったということです。それを死なない者になったというのです。それから一切智人になったという表現もあります。一切智とはあらゆることについて、知らないことがないという者になったということです。縛られるということは、知らないものがあるということです。われわれが身体を縄で縛られると困る。縛られて困っている。なぜ困るかといえば、解く方法を知らないからです。両手と両足を縛られては、誰だって方法を知らないではないかといいますけれども、誰だって知らないのだということではすまされる問題ではない。実際に縛られたときには、誰だって解く方法など知らないではないかといって平気でおれたら、それは縛られているとはいえない。それはかえって結構だともいえるでしょう。なぜならなまけているのには結構だと、とにかく動かずにいたい人にはいいわけになる。しかし、実際に縛られたらなんとか解きたい。動きたい。つまり、もがかずにおれない。もがかずにおれないという場合、なぜもがくかといえば解こうとするからでしょう。縛られて平気であれるのは縛られたのではない。縛られたら解こうとしてもがく。もがいても解けないというのは、解く方法がわからないということです。

 仏陀が一切智人になったということは、その解く方法がわかったということであります。解く方法がわかったら直ちにその縄をはずして、自由の身になることができる。また、人の縄も解いてやることができるという意味で一切智人になったという。こういうふうな表現もあるのであります。

 (つづく)         『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より


釈尊伝 (63) 釈尊伝序説 阿含経・歎異抄

2010-07-17 23:57:44 | 釈尊伝

釈尊伝 (63)              ー 阿含経 ー 

一面、仏教というものについて、いわゆる歴史的人物としてこれを客観的に研究するという方法は、言語学的、或いは物質的に研究せられ、ひじょうに細かくそれが研究せられていったわけでございます。ところがそうした面からは、必ずしも主体的な立場がでてきません。ただ一つだけそうした気運を変えさせたことがあった。阿含という経典が注意されました。しかもこれには漢訳もあるが、むしろパーリー語から訳された阿含経を紹介されたことがあります。

 阿含経は清沢満之先生も推奨された。歎異抄、阿含経、エピクテタスの三つが清沢満之の三部経といわれ推奨されていました。しかし、当時世に紹介されたのは、その方面から推奨されたのではありません。私の記憶では、昭和七、八年頃からラジオが全国的に普及して、やがてその放送の中に仏教の放送としてNHKがとりあげたのが、当時慶応大学の教授であられた友松円諦氏 ー この人はパーリー語の経典を研究していられた ー この方が阿含経の放送をされました。それが評判になりました。毎朝三十分位のお話であったが一躍友松氏の名が全国に知れわたったものです。私は放送は聞きませんが、書物になったのを読んだことがあります。それによって友松氏は、“真理運動”というものをおこして、一時は五十万人位の会員ができたということです。しかしある事件のためにその運動が挫折したようです。

          - 身近な経典 -

 その阿含経の放送によって、皆がどういうふうに受け入れたかというと、仏教というものは大変遠い世界のことであって、われわれ一般の凡人は及ばんと思っていたが、その放送を聞くと、とても身近かなものであるとうけとったようです。そういう意味ではたいへん仏教についてのあたらしい感覚をあたえたということがあったのです。やがてその運動が挫折しました。それは当然といえば当然なのです。それは、経典の内容はいかにも身近かなことをとらえての釈尊の教化ということになっていますが、立場がどこまでも原典研究という客体的な対象を向こうにおいての研究であり、阿含経が紹介されたのでありますから、一時的な人気に終わったのです。次にでてきたのが高神覚昇氏の般若心経講和でありました。これは阿含経ほどの人気はなかったようです。それに梅原真隆氏の歎異抄、大谷派からは、大須賀秀道氏の教行信証などがありました。友松円諦氏の阿含経の人気で、仏教というものは受けるものだと錯覚されて、次々と放送されたのですが、だんだん沈滞してついになくなってしまいました。いずれも主体的な立場なくして仏教が紹介されたので、一時的なものとして消えていったのであります。

             - 歎異抄 -

 しかし歎異抄のみは、そのことにかかわらず、とくべつ大きな宣伝をするわけでもなしに、多くの人々に次々と読まれていきました。それがいまだにつづいているといってよいでしょう。

 歎異抄には、なにが書いてあるのかというと、言葉からいうとわれわれが考えてわからぬ言葉しかでていません。誓願・念仏・往生・・・・・。また釈尊という言葉があっても、どういう人物かなにも書いてありません。第二章に「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教・虚言なるべからず」とありますが、釈尊についてなにも書いてないです。男であるということぐらいはうすうすわかっているでしょうが、ほかのことはなにもわかっていないのです。それだのに読まれている。歎異抄がいわるいではなく、仏教を主体的にみるということでは、歎異抄ほど大きな影響をあたえたものはなかったといってよいのです。  (つづく) 蓬茨祖運述より 


釈尊伝 (42) 現実と矛盾

2010-06-19 23:57:32 | 釈尊伝

 釈尊伝 (42)      ー 現実と矛盾 -

 今年(1969年)は今日の午前中に、交通事故で一万人が死んだという記録に達したというニュースがありました。これはあてはまらない結果なのです。あてはまる考えでやってきたところへ、あてはまらないものがどんどん作られているということです。交通事故の死者一万人のために一生懸命に道をひろげたり、自動車を造ったわけではないのでしょう。おそらくそういうことがないようにと思ってつくったのでしょう。狭ければこせ交通事故がおこるのだから、道を広げてというふうに考えたのでしょうけれども、しかしその考えにあてはまらずに、逆に交通事故がいよいよ増えていくということです。

 そういう意味で、地球という世界観にあてはまらないものは、それはもう意味がないんだというふうに考えられたために、三界というような考えはほとんどされていません。これは非常に意味のある考えです。これを世界地図的説明がしてあるものですから、それでまちがうのです。世界地図的な説明というのはその当時の人が考えるのですから、いまの地球という頭で考えるのと同じことなのです。やがてまた時が移りますと、世界地図的な考えもわかるでしょう。地球にいるのだという意識もやがてかわっていくだろうと思います。もっとバラバラとまいてある、そういう世界にいるのだということにならないともかぎりません。つまり太陽系というものに、われわれは住んでいるのだというふうにならないともかぎりません。いまは地球というものだけを中心にしてしかかんがえていませんけれども。やがて月がある。さらに遠く火星がある。金星がある。太陽系というものがあり、太陽系のほかには、まだ他のいろいろの銀河系という無数の世界があるわけですから、通念からだんだん常識化されますというと、やがて地球に住んでいるという意識はなくなってしまって、一つの太陽というような、そういうようなものの上に住んでいるという頭にかわっていくかもしれません。その場合に地球に住んでいるという考えは、まちがいだということになってもおかしなものです。

        - 三界(さんかい) 

 三界というのは、欲界・色界・無色界といいまして、これがわれわれ人間の住んでいる全領域だというのです。地球にいましょうとも、月に住むことができるようになりましょうとも、どこの太陽系に住みましょうとも、人間の住んでいる領域はこの三界にかぎられるということです。

        - 欲界 -

 欲界というのは欲望の世界。われわれは地球に住んでいると同時に欲界に住んでいるということです。欲望の世界に住んでいるということは、これはいやといえないことです。地球に住んでいることと、欲望の世界に住んでいるということとはなにも別ものじゃないのです。われわれの生活、思想、その他あらゆるものがみな欲望というものを離れてはありはしないのです。それを欲界というのです。

        - 色界 -

 次に色界といいますのは、これは形です。形の世界、形の中には色彩も入ります。いわゆる黄色とか青とか、赤とかいうものも一つの形なのです。色という字をつかって「しき」といいます。色・形といいます。赤といったところで、いったい赤というものがあるのか、あるいはわれわれが認識したときだけです。顕微鏡にかけて、さらに拡大してみると、赤はなくなってしまってなにかの物質がうつってくるのでしょう。電子顕微鏡に赤というものをかけたら、どんな形がでてくるのでしょうか。おそらくそういう原子の粒子が入り乱れた、なにかそんなものの形がでてくるのでしょう。ですからわれわれは欲望の世界に住んでいると同時に、こんどは色界、形の世界に住んでいるわけです。

        - 無色界 -

 それから無色界といいますのは、われわれの認識の対象にならない世界です。それが禅定の世界なのです。つまり無色界とは、われわれが普通こころとよんでいるものといってもよろしいでしょう。こころにも欲望のこころ、あるいは形というものを見るこころなどがあります。こころというのは全部にかかりますけれども、そこに欲と形というものにとらわれなくなって、最後にいわゆる無色界、(この世界が)つまり対象がなくなった世界です。欲望というのは、欲望の対象というものがある。色界はいわゆる色、形という対象のある世界です。ですから色界といいましても、赤とか青とかいう、そういうものではないのです。青色の世界、赤色の世界を色界というのじゃないのです。われわれの心を引きつけるのですから青色や赤色はむしろ欲望なのです。青い色をみて美しいなぁという感じです。黄い色をみれば、なんとなく暖かいような気持ちをおこして、引きつけるのですから、欲望の対象になったときは欲界です。欲望の対象にならないところの色界はどういったらよいか、これはある意味で一種の禅定といってよいのです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より


釈尊伝 (21) 偉い方とは

2010-05-22 23:48:43 | 釈尊伝

 釈尊伝 (21) ー偉い方とはー 

 つまり、ここに、子どもと親との間にも小さな子どもだから、この子にいってもわからないから、親が亡くなっても、仏さまになったんだ。仏さまといえば、偉い方なんだと、いうよりほかになかったのだろうと思います。子どもに平生、仏さまとは偉い方なんだということを、いっていたのでしょう。そうして父親が仏になった。父は偉い方になったんだ。こういうふうに思うのは、平生そういうふうにいわれていたからでしょう。しかし、偉い方ならば、偉い方として、生きていなくてはならないわけです。それが父は死んだだけで偉い人になっていないではないか、偉い仏さまになっていないではないかということです。

            ー大人の方が

 話題そのものは、めったにないが、普通の生活の上では、こういうなんでもないことならば、いくらてもあるように思います。そこにやはり子どもだから、わからないのだから、小さいのだから、というのでは、そういう大人の方が子どもよりまだ幼いということではないかと思います。

 子どもと同じく自分も育たなくてはならない。子どもが生まれたときには、自分も子どもになったという面があるわけです。大きいけれども、世間のことをよく知っているのか、ろいわれたら、生まれてきたということの大切さをあまりしっているとはいえないのであります。むしろ、自分が自分というものを大切にするという意味が、いつの間にか、自我の想いに変わってしまっている。子どもよりまだ劣ったものになっているかもしれません。

            -本当の母

 そういう意味で、釈尊が生後七日目に母を亡くすというのは、本当に七日目に母が亡くなったというよりも、やはり一つの経典における、われわれうまれてきたということに対する大切な意味を与えるものがあります。何十年生きていても、七日で死んだのと変わりがない一面が考えられるのであります。百年生きておりましても、生まれて七日間だけ生きていたのと、値うちにおいて変わりがないのであります。

 養母、養い育ててくれた母親。この母によって子どもは育つのでありましょう。本当の母というのは、やはり養い育てるのが母であります。生んだというだけが本当の母とは必ずしもいえないのです。生んだ母親が、生んだという自分が一度死んで養い育ててゆくという母親となって、子どもの母親といえるのではないか。そういう意味も、仏陀の伝記という意味からは考えられるのであります。

 だから七日目というのも、一日、二日と数えて、一週間目と考えるが、それでいいのだろうか。何百日、何万日生きておりましても、なにをいたしましても、七日で死んだのとどこにちがいがあるのかであります。

 これまで人間は、数限りもなく生まれてきて、いろんなことをして亡くなりました。それは生まれたのと、生まれなかったのとの差が、どこにあるのであろうかということです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より