釈尊伝 (87) 梵天の勧請 その(9) 初転法輪
釈尊はその梵天の勧請によって法を説くために座を立って、まず最初に法を伝えられたのが、釈尊が苦行を止めて菩提樹下に座られた姿をみて、堕落したと釈尊をすてさった五人の比丘です。もとは家臣であったけれども、出家してともに修行をつづけておった五人の比丘です。五人は依然として鹿野苑におって修行をつづけていたのです。
釈尊についての歴史的な研究によれば、その鹿野苑までの距離、釈尊のさとられた場所を示すブッダガヤから相当の距離があるわけで、その間に摂せられた人がいろいろあったということも伝えられていますが、ともかくも鹿野苑に来られて五人の比丘を教えられたということが、正式に釈尊のはじめての教化と、昔から名づけら
れています。つまり中国をとおして伝わった仏教においては、五人の比丘を済度したということを初転法輪と名づけています。
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その (10) 法輪
法輪は法の輪であって、輪はいわゆる車の輪です。この車は戦争のための車で、昔の戦車です。牛がひきましたか、馬がひきましたか、象がひきましたかしりませんが、とにかく戦争に引いて走った車です。鉄の輪で、なんでも踏みくだいてしまう、物をつぶしてしまうような車です。法輪の形が船の舵輪に似ていますが、もともと戦争につかった道具だそうです。あるいはああいうものを飛ばして戦ったのかもしれません。
なぜそういうものを印としたかといえば、この世のいろいろな道はみな人びとをして死に落とし入れる道のほかない。いわゆる、すべてこれ魔の所説であるということです。その所説を踏み破る。砕き破って、そして正しく人びとをして苦しみの滅した涅槃に至る道を開く。こういう意味で法を説くことを法輪を転ずると名づけられたのです。転ずるとはころがすことです。車がクルクルところがってゆくことです。回っていくことであります。
で、五人の比丘を救われたことをもって初転法輪と名づけられていて、以下涅槃に至るまで、つまり釈尊の生涯の終りに至るまで、この法輪は転ぜられたのであると伝えられています。
鹿野苑の比丘に教えられたことをなぜ初転法輪というのか。原始仏教の研究家からいえば、それ以前に商人なり在家の人なりを教化せられたということがあったということですが、仏教が正しく行として、それを信ずるところの道として伝わった中国、日本の伝統においては、鹿野苑の説法を初転法輪というのです。
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その(11) 教化ということ
その意味は、五人の比丘を済度されたことによって仏陀ははじめて三宝を備えられた、ということになるので、それでこれを初転法輪として伝えたのです。三宝というのは、つまり仏と法と僧です。人を導かれた、人を単に教化せられたということだけでは、仏教が行じられたというわけにはいかないのです。道すがら人びとを教化せられていったことはあるでしょう。しかし教化を受けた人は、まことによい教えをいただいた、よいご注意をうけた、お蔭さまでさしあたっての自分の方針がたった、これで自分は間違いなく家に帰れるというようなことです。そうでなければさまよわねばならぬのに、幸せに自分の家庭にもどれます、ということにすぎないわけです。
釈尊の教えにしたがって、生涯その教えのもとに生きて、涅槃に至るということではないわけです。仏の教えが人生の良い指針になり。幸福な生活ができるというのでは、仏教が行じられたというわけにはいかないのです。たまたま通り道に、暗いところに常夜燈がともっていたというにすぎない。暗夜の航海をしているときに灯台の光がみえて、そして暗礁にかからずそこを通りすぎることができたというにすぎない。なるほどその光がなかったなら船は暗礁にぶつかって沈んでしまったかもしれない。しかし、そこを無事に通りすぎて、灯台のお蔭で無事に通りすぎたのだとしても、それで人間の暗礁がなくなったわけではない。人間がぶつかる暗礁は、人間のいたるところ常に存在する。一時的に外に出あったところのものをのがれたという意味において仏教が理解せられてきたのが、いわゆる近代における仏教というものの特質です。したがって、そこに行証ということがないわけです。中国、日本においては、仏教というのは行証ということが中心でありました。その意味で初転法輪をこの鹿野苑の五人の比丘の教化というところにおいたわけです。いわゆる仏教というものの特色です。特色をあらわしたのが五人の比丘の教化でありまして、単なる釈尊の一生涯の物語の歴史的事実の一コマではないということであります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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初転法輪の意味においてですね。仏教の教化ということが、単なる幸福教では無いということを示唆されています。現在、仏教という名のもとに、幸福教を売り物にしている新興仏教教団が横行していますが、彼らの語り口は「信仰すれば、必ず幸福になりますよ。共に祈りましょう」というものです。また「冬は必ず春に成る、祈りは必ず叶う」というものです。この語り口にころっと騙されてしまうのですが、これは仏教は何を語り、何を伝えてきたのか、を知らなさすぎることからくるところなのでしょう。これからいよいよ「法」について語られますので、仏教とは何かを共に学んでゆければいいと思います。