唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (25)

2013-11-30 23:09:47 | 心の構造について

 『観経』に極楽国土についての記述がされています。

 「爾時世尊、告韋提希。汝今知不、阿彌陀佛、去此不遠。汝當繫念、諦觀彼國 淨業成者。我今爲汝、廣説衆譬。亦令未來世 一切凡夫 欲修淨業者、得生西方 極樂國土。」

 (その時、世尊、韋提希に告げたまわく、「汝今知れりや不や、阿弥陀仏此を去ること遠からず、汝当に念を繫けて諦に彼の国の浄業成者を観ずべし。我今汝が為に広く衆の譬を説き、亦未来世の一切凡夫の浄業を修せんと欲わん者をして、西方極楽国土に生るることを得しめん。)(真聖p94)

 極楽世界は、無憂悩処とも、清浄業処ともいわれています。閻浮提・濁悪世を翻じた世界を表しているのですね。閻浮提・濁悪世は、苦界を明し、器世間の有り様を明きらかにしているのです。善導の『観経疏』から、親鸞聖人は「亦是れ衆生の依報処なり、亦衆生の所依処と名づくなり。「地獄」等と言うは、三品の悪果最も重ければなり」(『観無量寿経集註』全集巻第七・p36)

 と注釈をほどこされています。

 衆生の依報処が所依処であるということに於て地獄・餓鬼・畜生という世界を造りだしている、造りだしている世界を所依としている限り、自分も不善の聚から免れることはできない。

 韋提希は「佛世尊を見たてまつり」、即ち、佛法に出遇ったことを機縁とし、「真心徹到 して苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣う、永く常楽に帰することを明かす」と善導は『観経疏』序文義・欣浄縁に、欣求浄土の意味を明らかにされています。

 そして韋提希は「我今極楽世界の阿弥陀仏の所に生れんと楽う」と表白されるのですが、衆生が所依処とする世界は「他者を損悩し、大乗の勝因である悲を妨害する」、常楽を妨害する働きをもった世界なのですね。この世界を所依とする限り、地獄・餓鬼・畜生を経巡り、惑・業・苦の循環から超えることは出来ないと教えています。

 教えは、佛日という喩をもって、「日出でて、衆闇盡く除るが如く、佛智光りを輝かして無明の夜日朗らかなり」と示されています。

 ここを以て、韋提希は、極楽世界の阿弥陀仏のみもとに生れんと楽う、と願生心を述べられています。極楽世界は、本願に酬いた国土であり、悲は智慧の門を開き、悲・智相応し、その世界は無為真如、弥陀の本国四十八願を背景として、この濁悪処に生まれてきたことを明らかにしているのでしょう。

 清浄業処という言葉に、識の本質が述べられていると思います。阿頼耶識の世界ですね。阿頼耶識は蔵識と云われていますが、善悪業果を無記として蔵している識なのです。そして、阿頼耶識を背景として「識の所縁は識の所現」とし、苦因を造りだしているのです。いうなれば、種子・現行・熏習を同時因果とし、その背景に阿頼耶識が具体的に働いている、現象としての自己は、本願酬報の識としての阿頼耶識が苦を通して私に迫っていると思うのは妄想であろうか。

 世尊別選の密意は

 「此れ弥陀本国四十八願なることを明かす。願願みな増上の勝因を発せり。因に依って勝行を起せり。行に依って勝果を感ず。果に依って勝報を感成せり。報に依って極楽を感成せり。楽に依って悲化を顕通す。悲化に依って智慧も門を顕開せり。然るに悲心無尽にして、智また無窮なり。悲・智雙べ行じて、即ち広く甘露を開けり。茲に因って法潤普く群生を摂し下ふなり。」(『全集』巻七・p40)

 と、善導の教示を、親鸞聖人は注釈を施されて、極楽世界の意味を明らかにされました。諸仏の浄土は「清浄にして皆光明有りと雖も」、本願酬報の土ではなく、韋提希を通して、密かに別選せしめた密意を示しているのでしょう。

 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (24)

2013-11-28 22:18:28 | 心の構造について

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 不害が善の心所の十一の中に入れられる理由を述べる。

 「害も亦然なりと雖も、而も數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗(大乗)の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが為に、翻じて不害を立てたり。」(『論』第六・九左) 

 害も亦、第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起し、他を損悩する為に、無上乗の勝因である悲を妨害する為に、彼(害)の増上の過失を了知させる為に、害を翻じたものを不害として立てたのである。

 前科段に於て述べられていましたように、六識中第六意識にのみ存在する煩悩・随煩悩は勝れたのもではないから、これらを翻じて立てられた善の心所
  煩悩 - 不慢・不疑・正見
  随煩悩 - 不忿・不恨・不覆・不悩・不嫉・不慳・不誑・不諂・不憍 (これらの煩悩・随煩悩は、第八阿頼耶識・第七末那識・前五識には存在しない。)
 は、善の十一の心所には入れられないという。これと同意にして、害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが本科段になりますね。
 

 答えは、害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。

 『述記』には、三つの理由を挙げています。 

 ① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。
 ② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
 ③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。

 この三義が、他の心所より、障礙する力が勝れている。その為に、害を翻じた不害を善の心所に入れられるのである。 

 不害については、不害の心所を述べる項を参照してください。(2013年10月17~21日)アヒンサーという非暴力は、悲の心所から生み出されてくるものなのですね。害はいかに人間生活の営みにとっておおきな障碍をもたらすのかが知られます。

 非暴力は暴力を否定しているのでなないのです。暴力ー非暴力という構図ではないということです。
 
不害は、無瞋の一分(無瞋の作用の一部)に依って仮立されたもの。これは、無瞋の働きの一部である抜苦を不害という一つの心所として仮立した心所であるということを述べています。

 では何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのかということですが、 
 「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」

 無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。

 如来の願心は大悲心であるということが思いだされます。南無阿弥陀仏は法であると聞いて、理解していたんですね。感覚的にですが。しかし、はっきりと法であるということがどうも解らなかったんです。法というと無為法ですね。無為法というと真如。真如というと、虚空の如く、幻事のごとく、有にも非ず、無にも非ずということで、働きが見えてこなかったんです。はっと思いましたね、ああこれだ、と。迷いが大悲なんだと。苦しいことが大悲に預かっているんだと。教法を聞いていますと、教えの外に苦悩の原因を求めているような、教えを阻害している自分が有る、と。しかしそんな存在はないんですね。いうなれば法に迷っている、苦しんでいるということになりましょうかね。この苦悩が法の働きなんですね。法の中で苦悩しているんだな、と。疑惑とは胎宮というのは法を実体化している罪なんですね。法を実体化している罪を遍計所執性と表わしているんですね。気づきは、依他起性なんでしょう。それを包んで、まろやかな光の形をもったものが円成実性、南無阿弥陀仏なんですね。それが大悲として表現されているんではないかと思いました。大悲と倶にあるものが我が身、「大悲無倦常照我身」、大悲の働きに於て我が身が照らされている、「すでにして道有り」と。

 

 『述記』の記述は明日紹介します。
 

 

 

 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (23)

2013-11-26 22:38:04 | 心の構造について

 「論。慢等忿等唯意識倶 述曰。根本中慢等七。隨惑之中忿等九法。唯意識起流滿識少。所以不翻別立善法。不約一一功能増勝。不嫉即是喜無量故。亦應別翻。但以流滿識非多故。無此妨也。然不障餘翻爲善法問若爾者害唯在意。應不翻之。」(『述記』第六本下・三十四左。大正43・440c)

 (「述して曰く。根本の中の慢等の七(慢・疑・薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)と、随惑の中の忿等の九法(忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・憍)とは唯だ意識のみに起こり、識に流満すること少なし。所以に翻じて別に善法と立てず。一々の功能増勝なるに約せられず。」)

 本科段は、第六意識のみに存在する煩悩・随煩悩について述べられ、これらは、善の心所に入れられない理由を述べています。

 「慢等と、忿等とは、唯だ意識のみと倶なるを以てなり。」(『論』第六・九左)

 慢等の七と、忿等の九は、第六意識のみと相応する、他の五識とは相応しないということです。その為に、功能増勝ではなく、これらの心所を翻じて立てられる善の心所は、設え、善の心所ではあったとしても、善の心所として立てられている十一の心所には入れられないのである、と説明されています。

 (「不嫉は即ち是れ喜無量なるが故に、亦別に翻ずべけれども、但だ流満の識、多にあらざるを以ての故に。此の妨げ無きなり。然るに余も翻じて善法と為ること障えず。
 問う、若し爾らば害は唯だ意にみに在り之に翻ぜざるべし。」)

 問いが立てられます。害も唯だ第六意識にのみ存在する随煩悩の心所である。しかしこの害を翻じた不害は(十一の)善の心所には入られないのではないか。

 そして不害が善の心所に入れられる理由が示されます。

 

 


質疑からの応答 (続) 依他起性と円成実性の関係

2013-11-25 23:03:03 | 唯識入門

 人間は関係性を生きる存在であり、現象も関係性の中から生じてくるといわれます。「ありがとう」もこのような関係性の中から発生される言葉のように思われます。しかし、ここには深い問題が潜んでいるようです。本来関係性は「無」において成り立つものです。無によって成り立つとはどのようなことなのでしょう。

 依他起性とは、他に依って起こるもの、という意味であり、現象的存在すべては縁に依って生じたものである。依他起性は幻事のように、有るようで実には無い存在であり、仮有なるものである。

 「諸識の所縁は唯だ識の所現のみなり。依他起性は幻事の如し等と」

 認識の構造は、「識体転じて二分に似る」。識体が転じて、能縁に似る見分が、所縁に似る相分を縁ずるという構造になります。識体は能変、見分・相分は所変で、三分共に縁より生じた依他起性なのです。

 ここが問題になります。我執・法執がここで働いてくるのです。遍計所執性の問題です。すべてが依他起性に於て生起するものであれば、遍計することはないはずです。しかし私たちは日常茶飯事に苦悩しつづけています。何故なんでしょうか。

 先程、人間は関係性を生きる存在だといいましたが、ここに潜んでいる執が働いているのです。自分を中心にした関係性です。都合の良いものは善であり、都合の悪いものは悪であるという善悪二元論を以て関係性を語っても、それは遍計所執性を超えるものではありません。そして、私たちの心の構造は二元論を以て成り立っているのです。

 人間関係論は依他起性を問いとして論じなければならないのですが、人間を問いつつも、「自」を問うことは有りません。何故ならば、依他起性を問うということは、円成実性を問わなければ依他起性が明らかにならないということなのです。

 阿頼耶識の三相に於て三位を立つ、というところで語られる、現行位は我愛現行執蔵位といわれています。識が我愛によって執されているのが、現実の私の姿であると言い当てているのです。『成唯識論』には「自心の相を起こして実我・実法と為す」といわれ「無始の時より来た、虚妄に熏習せし内因力の故に」(取意)と見抜いてきました。

 人間関係論の主題は、まさにこの「無始の時よりこの来」によって、人間存在の本質を問わなければなりません。「虚妄」という所の現行が、遍計所執性なのです。依他起性の於に遍計所執性なのです。

 一言でいえば、真如の真っ只中にいながら、遮っている自分がいるということなのでしょう。真如一実功徳大宝海という、真如は依他起性と非一非異の関係にあることを物語っています。この関係性が「法」なのでしょう。南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は法ですから、私を明らかにする働きをもった法なのであり、私が利用することができないものです。法は事実を明らかにし、真実を語るものです。

 依他起性は、因縁所生の事実の世界をあらわし、その全体が空性であるというのが円成実性の世界ですね。

 今朝のFBに書き込んだのですが、ふと気づかされましたことが有ります。すごく当たり前の事なんです。煩悩が雲霧に喩えられているのですが、それは天を覆っているのが雲であり霧であるわけですから、それを喩えて云われているのであろうと、ずっと思っていました。しかし、そうではないのですね。雲霧は有るとする妄執を明らかにされていたんです。目に映る雲霧は確かに存在するわけです。しかし本当に雲霧は実体的に存在するのしょうか。掴むことができるのでしょうか。有るように見えて実体はありません。当然のことですが、これが執の問題なのですね。

 煩悩も、執するから煩悩なのです。煩悩という実体はありません。もともと煩悩は存在しないのです。事実は依他起性なのですが、縁に依って生起している私の現実を固定化してしまいます。自分は自分だ、と。この固定化が遍計所執性であり、我愛現行執蔵位になるわけでしょう。自分を中心にして判断を下していく、自分を正当化していくことが惑を生み、業となり、苦を招来してくるのですね。苦なくして苦を招くのが固定化・実体化の問題になります。

 聞法はここを聞かなければなりません。

 「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。」

 衆生からは「聞」であり、如来からは「回向」なのでしょう。聞と回向の邂逅に於て信心が開花する。回向が円成実性であり、聞が依他起性、非一非異、この邂逅が大乗仏教では空性として言語化されているのでしょう。

 『成唯識論』に「此の円成実を証見せずして而も能く彼の依他起性を見るものには非ず。」或は「俗を了することは、真を証するに由ってなり。」

 所依の転換ですね。所依の転換に於て、依他起性が見えてくる。見えた来たとき、今迄いかに遍計所執性を所依としていたのかが見えてくる。

 人間関係論もこの視点で語らなければ妄想の域をでないであろう。

 本願念仏という真如法性は何を物語っているのか。「自体満足・共同安危」という、開かれた世界を開示しているのでしょう。それを覆っているのが我執・法執という自己の問題になるわけです。執=実体化。実体化は凡夫の本性なのでしょう。

 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」

 という、深信ですね。自分と云う者が、無始以来始めてはっきりした、ということです。所依の転換において見えてきた世界です。

 ここに於いて、『選択集』総結三選の文を読める視点が与えられたのです。そして、総結三選の文を成り立たしめる法が本願念仏、真如無為が生きて働いてくる姿が本願力回向「至心・信楽・欲生」の三心として表されているのでしょう。


質疑からの応答

2013-11-24 13:13:05 | 唯識入門

FBと記事が重なりますが、FBからの転載になります。

 「昨日、住職からご質問をいただきました。「能く彼を取<wbr></wbr>る覚も亦た彼を縁ぜざるべし。是れ能取なるが故に。此を<wbr></wbr>縁ずる覚のごとし。」、ここは何を言い表しているのか、<wbr></wbr>ということでした。昨日の講義録にも書き込んでいますが、もう少し尋ねてまいりたいと思います。

 この一段は、「合して小乗・外道の所<wbr></wbr>・能取は無しと破す」という科文が施されているところに<wbr></wbr>なります。所取・能取は実法として存在するわけではない<wbr></wbr>、また、依他起性も「他に依って起こる」縁起の法、「則<wbr></wbr>ち此有るが故に彼有り。此生ずるが故に彼生ず」ですから<wbr></wbr>、実有ではなく仮有であり、まさしく幻事のようなもので<wbr></wbr>ある、といっています。

 一切の外境は、識所変であるけれども、能変の識が<wbr></wbr>実有として存在するのかというと、そうではない、識所変<wbr></wbr>の似法である。「妄りて心・心所の外に実に境有りと執す<wbr></wbr>る」、内外分断している実体化の説を破る為に、仮に「唯<wbr></wbr>識無境」と説くのである。
 「よく外境を認識する心・心所もまた、外境を認識する<wbr></wbr>ことはできない。なぜならば、「是れ能取なるが故に」、<wbr></wbr>外境は心・心所が外に投げ出されたものであり、実に外境<wbr></wbr>は無だからである。無なるものを縁じ認識することは出来<wbr></wbr>ない。喩ば、「此を縁ずる覚」のようなものである。「此<wbr></wbr>」は覚のことを指しています。 

 『述記』によりますと、「<wbr></wbr>心等を縁ずる心とは、即ち他心智等なり」。すなわち、他<wbr></wbr>人の心を自分の心とすることは出来ないようなものである、と<wbr></wbr>。外境は実法として執するものではなく、縁起によって作<wbr></wbr>り出されたもの。あるがままのものを、あるがまま<wbr></wbr>に認識しているのではなく、自分の心を経由させ、自分の<wbr></wbr>心の状態に応じて色づけされたものを実体化し執着を起こ<wbr></wbr>しているに過ぎない。
 『解深密経』に「彼の影像は唯だ是れ識なるに由るが故<wbr></wbr>に、善男子、我、識の所縁は唯識の所現なりと説くが故な<wbr></wbr>り」と説かれている。 あるがままを本質(疎所縁縁)と<wbr></wbr>し、その本質を所縁として影像(親所縁縁)を作り出して<wbr></wbr>いる。その影像を実体化し執着を起こしているのを妄執と<wbr></wbr>いい、すべては実体化の妄執を払拭する為に「唯だ識のみ<wbr></wbr>有り」と説くのでる、と。その識もまた有ると執すること<wbr></wbr>は外道と同様の過ちをおかすことにもなる。聞法のむずかし<wbr></wbr>さでもあり、聞法のエアーポケットにもなる問題提起であ<wbr></wbr>ろう、と思う。

 「ただ我が心の思いだけがある」ことを徹底したのが親鸞聖人ではなかろうか。


第十一回講義概要 「仮説我・法名」を考究する。

2013-11-23 12:35:36 | 唯識序説

 今回は、「能変体三」に入る前に、復習の意味も兼ねて「仮説我・法名」は何故説かれなければならないのかを尋ねてみます。

 

 「是の如き外道・余乗の所執の識に離れたる我・法は皆実有に非ず。故に心・心所は、決定して外の色等の法を用て所縁縁と為るものには非ず。縁の用は必ず実有の体に依るが故に。」(『論』第二・八左)

 

 ここは、識所変のみが所縁であることを明らかにしています。上来述べてきたことの結論になります。以上説いてきたように、外道及び小乗諸部派が説く諸識の所変は外境に有るというのは間違っている、諸識の所縁は唯識の所現のみであって、所執の識が我・法を実有として認識しているのは誤りである、と。
 
従って、心・心所は、心外の色等の法を所縁縁とするものではない。心外の色等を認識対象として縁じて生起するものではなく、識の所変のみが所縁縁となるのであることを説いています。心外の法が有るとする実有は遍計所執性ですから全く無いものであり、無いものを所縁とすることは出来ない。
 
ここは非常に大事なことを教えています。私たちが苦しんだり、悩んだりしていることは、何も意味のないことではないということです。意味があって苦しみ悩んでいるのです。存在は依他起性なんですね。存在が存在そのものとして存在するものではないということ。存在を決定するのは依他起性なのですね。それが存在は存在そのものとして有るとするのは遍計所執性なのです。私たちは、遍計所執性の上に苦悩しているのではないのですね。ですから、遍計所執性を所縁とすることは出来ないのです。あくまでも、依他起性を実有として苦悩している、依他起性を実有としているのが遍計性執性で、我愛現行執蔵位と云われているのです。ですから、苦悩と目覚めは依他起性の表裏なのです。苦悩していることに意味があるというのはこのことなのです。
識に離れて外境があるわけではないのですね。外境が実体として有るとし、執着を起こし苦悩しているのは、実は依他起性の於(うえ)に妄って執着を起こしているのです。依他起性に違背していることに於いて苦悩が現行しているのです。それを我愛現行執蔵位と表わしています。
 
「問。云何ぞ応に知るべきや、実に外境無くして唯だ内識のみ有りて外境に似りて生ずということを」
 
「答。実我・実法は得可からざるが故に」
 
我・法と説くことは、仮に我・法と説く、似我・似法であることを説明しています。
                  
六無為について
 
真如について少し説明します。無為法について六つの真如が示されています。
 
法性・真如に依って六無為の一つ一つについて説明されます。虚空無為・擇滅無為・非擇滅無為<o:p></o:p>不動無為<o:p></o:p>想受滅無為・真如無為の六つです。
 
初めに虚空無為です。
 
「諸の障礙を離れたり、故に虚空と名づく。」(『論』第二・六右)        
 
真如は諸々の障礙を離れているので、この真如を虚空と名づく、と。
 
「即ち此の真如は、諸の障礙を離れたり。故に虚空と名づく。」(『述記』)
 二番目が、
擇滅無為です。
 
「簡擇の力に由って諸の雑染を滅し、究竟して證會す、故に擇滅と名づく。」(『論』)
 
簡擇(ケンチャク) - 智慧で深く思惟すること。智慧の別名。簡擇力によって獲得された滅を擇滅という。
 
「無漏の慧の簡擇の力に由るが故に、諸の雑染を滅し、雑染の言は、通じて有漏法なり。「究竟して證會す」と云うは、即ち此の真如を名づけて擇滅と為ること、即ち慧の力に由る。方に證會するが故に。」(『述記』)
 
證會(ショウエ) - 真理をさとること。 
 諸
の雑染は有漏法の異名。有漏法は、たとえ善法でも「我」が混じりこんでいるので雑染といい。滅せられるべきものなのです。真如は、無漏の慧の簡擇力に由って諸の雑染を滅して真理をさとることが出来るので、擇滅無為と云われます。

 三番目が、非擇滅無為について
 「擇力に由らずして本性清浄なり。或は縁闕(エンケツ)に顕さ所たる故に。」(『論』第二・六右)

 擇力(チャクリキ) - 簡擇力のこと。因は智慧・果は(擇)滅。 
 
縁闕(エンケツ) - ものを生じる縁(原因)が欠けていること。 
 
真如は、無漏智の簡擇力によらないでも本来は自性清浄である、或は有為法は「縁闕けて生ぜず。不生の滅に顕れたる真理なるが故に」と云われているように、有為法は縁起の法です。縁起の法は、仮に施設されたものですから、縁が闕けたら生起することはありません。縁が闕けて現象的存在が生じない時に現れてくる真如が顕されます。それが非擇滅無為という、と。
 
「述して曰く。而も此の本性いい慧の能に由らず而も性清浄なるを以て、非擇滅と名づく。或は有為法の縁闕けて生ぜず。不生の滅に顕されたる真理なるが故に、非擇滅と名づく。無漏の慧を離れて而も自を滅するが故に。」
 
上記の所論のように、非擇滅無為は、無漏知の簡擇力によらないで得られる真如をいうわけですが、此れに、本来清浄の真如と、縁闕所顕の真如が説かれています。
 
 縁闕所顕の真如、大事な命題ですね。何か、深い意味での本願が云われているようです。「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいをもすべし」という所に真如は働いているのですね。真如一実功徳大宝海、本当の幸福は、業縁真っただ中の此処に(居場所)あることを示唆しているようです。まさに、脚下照顧ですね。
 
第四は、不動無為について
 
 「苦ー楽ー受滅せるを以て、故(カレ)不道と名づく。」(『論』第二・六左) 
 
不動無為は、色界第四静慮で顕れてくる真如。第四静慮では、苦受と楽受とが滅せられて、苦にも楽にも揺れ動かない不動の心(不苦不楽受)が確立される時に顕れる真如であるという。 
 
色界には、初静慮から第四静慮が有るといわれています。初静慮は、離生喜楽、生は、欲界のこと、欲界を離れて初めて静慮に入った喜びがある静慮で、(初禅天ともいう)。第二静慮は、定生喜楽。第三静慮は、離喜妙楽(リキミョウラク)という。第二静慮で受ける喜びを離れて妙なる楽を受けるありようで、離喜楽ともいう。そして、これらの楽をも離れて捨念清浄という静慮に入り、ここが不動無為になります。
 
捨念清浄 - 色界第四静慮のありよう。心が動揺してかたむきがなく平等になり、対象を明晰に記憶して忘れることが無い状態をいう。
 
色界第三静慮までは、喜や楽が有ります。三災頂(サンサイチョウ)という、三つの災害が及ぶ頂があると、『瑜伽論』(巻第二)に説かれています。所謂、火災・水災・風災の三つで、大の三災とも云われています。初静慮は、火災。第二静慮は水災。第三静慮は風災があり、その頂は火災は第二静慮。水災の頂は第三静慮。第四静慮において、すべての喜・楽を離れて捨受のみであることを以て不動、不動無為と云われているわけです。風災の頂は第四静慮になります。災は、世界を破壊する災害であると云われ、火災・水災・風災の三つが説かれています。
 
「若し第三静慮の欲を離れて一切の苦楽受の滅を得す、即ち此の真如を説いて不動と名づく。」(『述記』) 
 
不動無為は、第三静慮の欲を離れる時、一切の苦・楽・受の滅したところに顕れる真如である、と説かれています。自他分別と云う二心が真如を覆っているんでしょうね。縁起だというと、縁起に執われますし、一切の現象的存在は、執を包含し、執を自覚せしめる働きをもったものということができるのではないでしょうか。自を脅かすものは自である、ということですね、他ではないということです。外界的事象が自を脅かしているのではないのです。それよりも、外界的事象は、自らを知る縁となるという意味に於いて、外界との関わりは大切であるわけでしょう。その外界は自らが作り出したものと教えているわけです。
 
「法」と云うと、法に執われるわけですから、多方面から「有」ではない、「仮」であるということを弁証しています。
 
五番目 -->


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (22)

2013-11-23 00:06:16 | 心の構造について

 『述記』に、問いが立てられています。

 「問。若し爾らば此れ何ぞ別用ある、余は何ぞ無用なる」

 外人の問いになりますが、「若し、護法の説明によるならば、この十一の善の心所にはどのような作用があるというのか、また十一の善以外の善の心所にはどうして作用がないというのであるのか」というものです。次科段において護法が答えます。

 十一の善の心所には、明確な性用と翻対する業用があるけれども、これ以外の心所には、明確な性用が無いのですね、例えば、無貪の一分を体(相)として作用があり、そして善事を為すことを業用とすると述べられています。

 煩悩と諸識との関係について、先ず述べておきます。

 「諸識相応門」に於いて、「此の十の煩悩は、何れの識と相応する」という問いだ出され、それに対して、「蔵識には全に無し、末那に四有り、意識には十ながらを具す、五識には唯三のみあり、謂く貪と瞋と癡とぞ、分別無きが故に、称量するが等きに由って慢等を起こすが故に。」と答えられています。

 随煩悩は20、数えられるわけですが整理をしますと実の随煩悩が7・仮の随煩悩が13・悪の随煩悩が全部・有覆無記の性質をも持つ随煩悩が9、そして諸識との関係に於いてどのように働くのかという問題が述べられます。その前に随煩悩とはどのようなものかが述べられています。

 「随煩悩と云う名は、亦煩悩をも摂む。是れ前の煩悩の等流性(同類因から生ずるもの)なるが故に。煩悩の同類たる余の染汚の法をば。但だ随煩悩とのみ名づく。煩悩の摂に非ざるが故に。唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂わく煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり。此の余の染法は。此の分位なり。或いは此の等流なり。皆此に摂めらる。其の類の別なるに随って理の如く応に知るべし。」

 煩悩はすべて随煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とはいわないのです。随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢す、悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからである。

 問 ー 何が故に、此の中に唯だ二十とのみ説けるや。(『瑜伽論』などに多くの随煩悩が数えられているのですが 『成唯識論』には何故、二十なのかという問いです)

 「唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂く煩悩に非ず。唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり」

  • 煩悩に非ず(随煩悩は煩悩とはいわない。
  • 唯だ染なり(それはただ染汚心だからである。
  • 麤なるが故に(あらあらしい煩悩であるから

 実有の随煩悩ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・散乱(無慚・無愧・不信・懈怠とは定めて是れ実有なり。教と理とをもって成ずるが故に。掉挙・惛沈・散乱との三種をば、是れ仮と云う。是れ実と云う。)
 
仮有の随煩悩ー忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知(「小の十と・大の三、失念・放逸・不正知とは定めて是れ仮有なり」)

 悪の随煩悩ー二十、すべてが悪・不善
 
有覆無記の性質も備える随煩悩ー誑・諂・憍・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱

 八識との関係でいうと、

  •  前五識ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知。
  • 第六意識ーすべての随煩悩
  • 第七末那識ー不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
  • 第八阿頼耶識ーすべて無し(第八阿頼耶識には煩悩は働かないという事)

 二十の随煩悩は倶生(生まれながらの煩悩))と分別(後天的な煩悩)とに通ず。(分別・倶生)の煩悩の勢力に随って起るからである。

 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (21)

2013-11-21 23:55:07 | 心の構造について

P1010019
 論主の答えを述べる。初は総論である。

 「相用別なる者のみを便ち別に之を立てたり、余の善は然らず、故に責む応からず。」(『論』第六・九右)

 前科段において問いが立てられていましたが、その問いに対する答えが本科段になります。

 五位百法の中で、善の心所を十一たてるのは、善の性格をもったものとして、体相と業用について固有で別なるもののみを別にたてたのである、と説明されます。

 他の善はそうではない、と。体相と業用について固有で別なるものではないので立てないのである、このような理由からこの問題はこれ以上はつきつめないのである、と。

 ちょっと解りにくい説明ですね。体相と業用が別であるか、ないかということを以て十一の善の心所に入れるのか、入れないのかということになります。独自で固有の体のもたないもの、分位仮立のものは善の心所であっても、十一の中には入れないのです。

 但し、行捨・不害・不放逸の三つは分位仮立法にも拘らず、善の心所に入れられているとう問題があります。

 行捨 → 精進・無貪・無瞋・無癡の上に分位仮立した心所である。
 

 不害 → 無瞋の分位仮立した心所
 不放逸 → 精進・無貪・無瞋・無癡の上に分位仮立した心所である。

 

 この問題に対しては、古来より異論がありますが、この三つには特に勝れた業用があるので、善の十一の心所の中に入れられていると説明されています。

 

 「論。相用別者至故不應責 述曰。論主答曰。相用別者別立爲善。餘所翻善相用不別。故不立之。汝何須責 問若爾此何別。自餘何無用。」(『述記』第六本下・三十四右。大正43・440c)

 (「述して曰く。論主答えて曰く。相用別なる者を別に立てて善と為り、余の所翻の善は相用別ならず、故に之を立てず。
 汝何んぞ責むることを須うるや。問、若し爾らば、此に何の別の用ありや。余は何ぞ無用なるや。」)

                      つづく 

 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (20)

2013-11-18 22:50:10 | 心の構造について

 『講座案内』P1010019

 来たる11月23日(土) 八尾市本町 聞成坊様にて午後三時より、 『成唯識論講義』 第11回目を開講させていただきます。
 
御住職からお話をいただきまして右往左往しながら始めさせていただいたわけです。当初は半年位つづければ十分を思っていましたが、御住職の熱意と、聞いてくださっている門徒さんの暖かい眼差しでここまでやってこられました。「ゆっくり読みましょう」という一言に随分たすけられ、また甘えさせていただいて、まだ一頌半の略説唯識がおわっていません。今年中にはなんとか読み終えたいと思っています。そして来年度から、能変の識を明らかにする、初能変から順次読めればと思っています。よろしくお願いいたします。

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 「何に縁ってか、諸染の翻ぜる所を、善の中に、有るは別に建立し有るは爾らざりぬる。」(『論』第六・九右)

 どのような理由から、諸染の翻じた所を、十一の善の心所の中に説き、或はそうではなく、仮法として立てているのは何故なのか、何の所以があって立てるのか、という外人の問いが出されています。

 「諸染」は諸の染法のことで、ここでは根本煩悩(六・或は十)と随煩悩(二十)を指します。合計二十六ですが、善の心所は十一立てられています。余の十五は分位仮立法ということになり、翻じて立てられたものになります。

 善の心所の十一は
 

 貪・瞋・癡の三つを翻じたもの → 無貪・無瞋・無癡
 (二十の随煩悩の中では)無慚・無愧・不信・懈怠・惛沈・掉挙・害・放逸の八つを翻じたもの → 慚・愧・信・精進・軽安・行捨・不害・不放逸

 で、それ以外は何故十一の善の心所には入れないのか、という問いです。次科段で答えられます。

 「第二問答廢立 論。何縁諸染至有不爾者 述曰。外人問曰。何縁前説除別境等體外。合根本二十六隨煩惱中。十一別翻爲善。餘者此中及諸論中不別翻之。有何所以。」(『述記』第六本下・三十四右。大正43・440c)

 (「述して曰く。外人の問うて曰く。何に縁ってか前に説て、別境等の体を除いて外に根本と随煩悩の二十六とを合して中に、十一のみ別に翻じて善と為す。余とは此の中及び諸論の中に別に之を翻ぜず。何の所以か有る。」) 


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (19) 補足説明

2013-11-17 11:47:39 | 心の構造について

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 五位百法を図式します。(参照は、『唯識学研究』下巻p126)

 法を五位に分かち、色法に対し色蘊を、心所を三蘊(受蘊・想蘊・行蘊)に別開し、心王を八識に展開し、五蘊仮和合を示し、無我であることを示しています。尚、色蘊を開いて十二処とし、十二処を開いて十八界を説いています。『倶舎論』には、凡夫の機類(上品・中品・下品)に応じて、無我であることを知らしめる為に説く、と示されています。

 また、法を有為・無為に分けられますが、「為」は為作・造作の意義を示し、因縁に依って生起し、生滅変化するものを有為法、そうでないものを無為法を示しています。

 有為はまた、有漏と無漏に分けられ、有漏は三性(善・悪・無記)に亘るけれども、無漏は善性に限るとされます。無為は無漏であり、善性であるわけです。

 蔵の三義

 阿頼耶識について、 「初能変の識を大小乗教に阿頼耶と名づく」と説かれ、阿頼耶識に具わる三面の様相を三相として示しています。所謂、自相・果相・因相ですが、第八識は阿頼耶を以て自相(自体)とし、蔵(アーラヤ)という意義を持つ。蔵にまた三つの意義があり、それぞれ能蔵・所蔵・執蔵と示しています。三蔵の意義は『論』に「雑染が與に互に縁と為るが故に(能蔵・所蔵)、有情に執せられ自の内我と為るが故に(執蔵)。」と述べられています。

 能蔵は持種の義(持種の辺是れ能蔵なり)といわれ、それに対し所蔵は受熏の義)(受熏の辺是れ所蔵なり)、執蔵は我愛に依って縁じられ、執せられたもの(我愛縁執是れ執蔵の義なり)と説明されます。

 阿頼耶識は、一切の種子を摂蔵していることから能蔵の義があり、此れに対する所蔵は種子になります。

 所蔵は、阿頼耶識は雑染法である七転識の所熏・所依と為り(所蔵は第八識)、此れに対する能蔵は、雑染法である。

 執蔵は、我愛縁執の義と説かれていますが、この識の見分は無始以来恒に第七末那識によって我と執せられてあることから能執蔵といわれ、これに対する所執蔵は第八識になります。

 以上の三義を以て阿頼耶識をいいあらわしていますが、阿頼耶という名は、執蔵の義を以ているということになります。従って、第八識の自相は執蔵ということになります。そしてこの三相に三名を立てるといわれています。

 私たちが何故苦悩しているのか、無意味に苦悩していることではないということを阿頼耶識は物語っています。煩悩について実法か分位仮立法かと考究しているわけですが、この原点が「執」ということにおいて明らかにされているのですね。今回、正厳寺様で講義させていただいた中で、帰敬式の意義を述べました。「三つの髻を切る」という、三つの髻は、名聞・利養・勝他という私たちの根本の貪・瞋・癡の現行を顕わしているわけです。これは「こわされたくない・批判されたくない」という怯えである、といえるのですが、この怯えは縁起法を無視して生起してきたものですから、遍計所執性といえます。無いものに執着しているわけですから遍計です、しかし、苦悩しているということは縁に依って生起してきますから、依他起性なのですね。煩悩を根拠とし、所依として生起してくるのが苦悩であるわけです。そしてこの苦悩の生起してくる因を知ることに於いて遍計所執性を超えることができるのですね。それが智慧の働きに依るわけでしょう。円成実性といわれていますが、真宗では本願力回向として現生不退の位をさずかるわけでしょう。またこの位を現生正定聚住不退転といい、昔から、「この身このままのお助け」と教えられてきたのではないでしょうか。