唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「他力にたすけられる」とは。安田理深師に聞く。

2015-01-02 12:11:56 | 他力にたすけられる

 昨日、三経一論の会に投稿しましたのを再録します。 
 安田理深師述 『正信偈序講 本願の歴史』より (Ⅴ 他力にたすけられる P70~72)
 「曇鸞大師は仏本願力を他力という。大行大信はそれに対して廻向という。廻向ということで大の字が付けられる。他力が機の上に、われら衆生を成就して、他力仏力が衆生として成立つ。それが行信である。他力にすくわれると言っても教えとしては間違いないけれども、ハッキリしない。抽象的である。「他力の救済」と言っても、これは宗教心そのものを言い換えたことばで、キリスト教にも言えることと思う。禅宗は自力というが、自他の概念を、一般概念でいうからにすぎない。われわれの自力他力は独特の意義がある。独特の意義を与えたのは曇鸞大師である。俗論は不明確から来て、混乱する。内なるもの自力ならば、外なるものを他力という。これは天親菩薩の浄土論にも出ていることで、真宗では自力とは主観の妄想、他力とは真の客観、因縁の力を示す。分別の力ではない。分別の力を自力という。一般用語から言えば、自力は因、他力は縁。然し、他力とは決して神秘的な力を言うのではない。因縁の力を言う。また因縁の力のみが真の力である。或は因縁の道理とも言うが。だから世界も亦、因縁によって「せしめられ」ている。それが諸法実相である。ところが人間は、「する」とか「せぬ」とかという。それは人間の解釈したもので、どういう風に解釈しようが、解釈を超えたものは「せしめられている」ということである。これは決して神秘的な力をいうのではない。自力とは分別であり、解釈であり、つまり妄想である。理性とは無制限なる妄想で、ただそう思っているだけであって、絶対的なものではない。それが証拠には、理性がゆきづまると自殺する。事実は何も生きづまらんのに、自殺するのは妄想の罰である。仏の罰ではない。兎に角、浄土真宗で自力他力とは独特な意義がある。それを忘れて禅宗は自力というが、それも一般概念から言うことである。むしろ自力が依頼心で、頼むとは立場をたのむのではなく、依頼心の頼の学。本願の場は「慿む」という。字が第一違う。本願他力をたのむとは、「依慿」で、真に立ち得る所に立つ。思いを超えて、思いの外に立つ。人に依頼などはしない。自力・他力が殊にそうであるが、俗論は概念の不明確さから来る。
 ところで他力にたすけられるとは、間違いではないが、行信にたすけられる。それは直接の自覚を言うので、行信という方法でたすけるのではない。信じたことが、たすかったということ。この行信というものに、広大無辺なる浄土真宗が要約される。浄土真宗はわれらの行信にありと言える。」

 参考
 「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人は、ときをへず、日をへだてずして正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海をやすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義なきをもって義とすと、本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。このゆえに、おのおのはからうこころをもったるほどをば自力というなり。よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。
 正嘉二歳戊午六月廿八日書之
   愚禿親鸞八十六歳」 『尊号真像銘文』より


 『高僧和讃』 善導章より
 「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなわち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」
 
 『正像末和讃』・愚禿悲歎述懐より二首
 「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ 如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき」
 「罪業もとよりかたちなし 妄想顚倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」
                        以上

 「心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」このところをどう読みこなせるのかが課題に残りました。