第二師の説(護法正義)
護法は説く。五識にも軽安は存在する、と。何故ならば、定に引かれて善であるものは、また調暢であるからである。また成所作智と倶にあるものには、必ず軽安が存在するからである、と。
「五識にも亦軽安有り」という理由に二つ挙げています。
第一の理由は、「定に引かれて善なる者は、亦調暢なること有るが故に」(定によって引き起こされた善である五識には調暢があるからである。)
第二の理由は、「成所作智と倶なるには、必ず軽安有るが故に」(成所作智と倶にある五識<五識転じて成所作智と為る>は必ず軽安があるからである。)
第一の理由から、『述記』には、護法の解釈(善であるもの)について、「もの」の解釈に三つあると述べています。
- 「唯だ仏に在り、意の引に由るが故に、五(識)に軽安有り。又五識成事智は倶に軽安有るが故に。」(無漏の五識)
- 「定所引の善に軽安有りとは、此は因位に在る有漏の五識なり。(有漏の五識)
- 「此の中に五識の色界に在るは、彼に鼻舌無し。文の中の言は総なるも、理実には三識(眼識・耳識・身識)なり、前文(軽安無しの義)に違せず。(有漏の三識)
護法の正義は、有漏位・無漏位と通じて五識には軽安は存在すると説き、第二の釈を正義とされます。「定所引の善に軽安有り」というのは、身は欲界にありながらも、定によって引き起こされた善の有漏の五識の中には調暢があるので、そこには軽安は存在するというものです。(定によって引き起こされていない有漏の五識には軽安は存在しないということになります。)
第一の解釈は、仏果から説かれていることになります。無漏の五識は調暢であるから、そこには軽安は存在し、成所作智と倶である無漏の五識には必ず軽安は存在すると釈しています。
第二の解釈は、上記に述べた通りですが、有漏位・無漏位ともに軽安は存在するというものです。
第三の解釈は、五識の色界について述べられています。色界には鼻識及び舌識は存在しない(鼻識・舌識は欲界にのみ存在する)ことから、眼識・耳識・身識の三識を指し、この三識には軽安は存在すると述べてるのです。
「論。有義五識至必有輕安故 述曰。此有三解。一云此唯在佛。由意引故五有輕安。又此五識成事智倶有輕安故。初約他引立宗。後論自倶引證。總約佛位。此解破前佛無無漏五識身解。即順三界分別之中。欲無輕安 第二又解。定所引善有輕安者。此在因位有漏五識。身在欲界定所引善五識之中。非無調暢。即如通果天眼・天耳。善者有輕安。無記者即無。破前所説因位五無。在果許有。此據因位。若在佛果此爲正義。或初地時。成所作智倶必有輕安故 若作此解。違前所説欲無輕安中第二正義。鼻・舌二識欲界所繋。有輕安故。彼前但據一切異生。及下意識。説之爲無。據理聖者後得智引五有輕安。不相違也。前文但對彼初師説。非爲盡理 第三又解。此中五識在色者。彼無鼻舌。文中言總。理實三識。不違前文。」(『述記』第六本下・四十三左。大正43・442c)
(「述して曰く。此に三解有り。一に云く、此れは唯仏にのみ在り。定に引かるゝに由るが故に、五識に軽安有り。又此の五識の成事智と倶なるには、軽安有るが故に。初は他の引に約して宗を立つ。後は自と倶なるを論じて証を引く。総じて仏位に約す。此の解は、前の仏に無漏の五識身無しという解を破す。即ち三界分別の中に欲界に軽安なしというに順ぜり。
第二に又解す。定所引の善に軽安有りとは、此は因位(十地)の有漏の五識に在り、身が欲界に在って定所引の善の五識の中には調暢無きに非ず。即ち通果の天眼天耳の如し。善のものには軽安有り、無記のものには即ち無し。前の所説(第一解)の因位の五識には無し、果(位)に在って有りと許すを破す。此は因位(五識)に據る。若し仏果に在って此れを正義と為す。
或は初地の説きより成所作智と倶なるには、必ず軽安有るが故に。若しこの解を作さば、前の所説の欲(界)に軽安無しという中の第二、正義に違すべし。鼻舌二識の欲界所繫なるに軽安あるが故に、彼の前(五識に軽安無しの義)は唯一切の異生と及び下の意識によって之を説いて無と為す。理によっていはば、聖者の後得智に引かれたる五識に軽安あり、相違せざるなり。前の文(欲界に軽安無し)は、但だ彼の初師に対して説く。理を盡せりと為すに非ず。
第三に又解す。此の中に五識の色界に在るは、彼に鼻舌無し。文の中に言は総なるも、理実には三識なり、前文(軽安無し)に違せず。」)