『述記』の釈から、「此の定(滅尽定)をも無心定と名くが故に」と、経量部の末宗の転計(末計)を破斥しましたが、ここで経量部からの反論がでます。
それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。
『述記』の釈を読んでみます。
「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。
初に名に違するを難じ、
次に理に違するを難じ、
後に意趣を結す。
此れは即ち初なり。」
本科段は初の「名に違する」ことを批判してきます。つまり、
「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。此れは並びに二家の『摂論』と及び『成業論』とを對勘するに、義更に違うこと無し。而も彼救して言く、無心定と名づくとも汝は本識無きに非ずというが如し。今無心定と名づくとも何ぞ意識有りというを妨げん。解して云く、我が無心定と名づくることは麁動の識無きを無心と名づく。即ち是れ六識倶に無しという義なり。汝有心定と名づくることは何を説いてか以て無とするや。」
ここまでが経量部の末計からの反論になります。
護法の論破は、「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。」(経量部の末計の主張を表して、第六識が存在することは理にかなわないと非難しているのです。なぜならこの滅尽定は無心定と名づけられることからもわかるのである。)
これに対して「彼救して言く」と、経量部の末計からの反論として、護法自らが経量部の救済措置として、次のような反論がでるであろうと予測して、尚論破することになります。
「無心定と名づくとも汝は本識無きに非ずというが如し。今無心定と名づくとも何ぞ意識有りというを妨げん。」と。汝(護法)の主張となんら変わりはないのだというわけです。
無心定といってもそれは汝が主張されているように、本識がないということではないと云われていることと同じであって、第六意識という麁なるものではなく細なる六識が存在し、この細なる六識は大乗が掲げる第八識が存在するのと同じを述べているのと違わない。従って、我々の主張に誤りはない(瑕疵はない)のである。もし瑕疵があるというのであれば、汝の主張にも瑕疵があることになる、という反論ですね。
ここから護法の論破が出されます。「解して云く」と。
(私が無心定と云っている場合の無心とは、麁動の識が無いことを無心と述べているいう。麁動の識とは六識のことであり、六識が無いということを以て無心という。)
麁動とは、心が定まらず動揺している状態で、六識の行相は麁動であり、所縁の境(相分)に於いて必ず労慮(ろうりょ)を起こすと述べられています。境を実体化して執着を起こし心が散乱麁動するわけですね。この麁動の識が滅尽定では消滅することは大小共許の認識である。
ここで経量部からの再反論です。
「汝有心定と名づくることは何を説いてか以て無とするや。」
滅尽定でも消滅しない細なる六識が存在するなら無心定ではなく有心定となってしまうと論破されるが、滅尽定でも消滅しない第八識を立てられる主張もまた有心定なのではないのか。どのような理由で無心と云われるのか?という反論です。
次科段につづくのですが、経量部と護法の細なる六識の解釈が違うのですね。経量部は細なる第六識も六識に含めて解釈をしているのですが、六識は滅尽定では消滅するというのが共通の理解なのです。経量部の主張に矛盾が生じてきます。護法は細意識は六識以外の識でなければならないとして第八識を立てられるのです。ここが第八識が存在しなければならないという根拠になります。大切なポイントです。
それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。
『述記』の釈を読んでみます。
「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。
初に名に違するを難じ、
次に理に違するを難じ、
後に意趣を結す。
此れは即ち初なり。」
本科段は初の「名に違する」ことを批判してきます。つまり、
「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。此れは並びに二家の『摂論』と及び『成業論』とを對勘するに、義更に違うこと無し。而も彼救して言く、無心定と名づくとも汝は本識無きに非ずというが如し。今無心定と名づくとも何ぞ意識有りというを妨げん。解して云く、我が無心定と名づくることは麁動の識無きを無心と名づく。即ち是れ六識倶に無しという義なり。汝有心定と名づくることは何を説いてか以て無とするや。」
ここまでが経量部の末計からの反論になります。
護法の論破は、「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。」(経量部の末計の主張を表して、第六識が存在することは理にかなわないと非難しているのです。なぜならこの滅尽定は無心定と名づけられることからもわかるのである。)
これに対して「彼救して言く」と、経量部の末計からの反論として、護法自らが経量部の救済措置として、次のような反論がでるであろうと予測して、尚論破することになります。
「無心定と名づくとも汝は本識無きに非ずというが如し。今無心定と名づくとも何ぞ意識有りというを妨げん。」と。汝(護法)の主張となんら変わりはないのだというわけです。
無心定といってもそれは汝が主張されているように、本識がないということではないと云われていることと同じであって、第六意識という麁なるものではなく細なる六識が存在し、この細なる六識は大乗が掲げる第八識が存在するのと同じを述べているのと違わない。従って、我々の主張に誤りはない(瑕疵はない)のである。もし瑕疵があるというのであれば、汝の主張にも瑕疵があることになる、という反論ですね。
ここから護法の論破が出されます。「解して云く」と。
(私が無心定と云っている場合の無心とは、麁動の識が無いことを無心と述べているいう。麁動の識とは六識のことであり、六識が無いということを以て無心という。)
麁動とは、心が定まらず動揺している状態で、六識の行相は麁動であり、所縁の境(相分)に於いて必ず労慮(ろうりょ)を起こすと述べられています。境を実体化して執着を起こし心が散乱麁動するわけですね。この麁動の識が滅尽定では消滅することは大小共許の認識である。
ここで経量部からの再反論です。
「汝有心定と名づくることは何を説いてか以て無とするや。」
滅尽定でも消滅しない細なる六識が存在するなら無心定ではなく有心定となってしまうと論破されるが、滅尽定でも消滅しない第八識を立てられる主張もまた有心定なのではないのか。どのような理由で無心と云われるのか?という反論です。
次科段につづくのですが、経量部と護法の細なる六識の解釈が違うのですね。経量部は細なる第六識も六識に含めて解釈をしているのですが、六識は滅尽定では消滅するというのが共通の理解なのです。経量部の主張に矛盾が生じてきます。護法は細意識は六識以外の識でなければならないとして第八識を立てられるのです。ここが第八識が存在しなければならないという根拠になります。大切なポイントです。