唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(22)第五・経言無属難(8)

2018-04-30 15:51:17 | 阿頼耶識の存在論証
 『述記』の釈から、「此の定(滅尽定)をも無心定と名くが故に」と、経量部の末宗の転計(末計)を破斥しましたが、ここで経量部からの反論がでます。
 それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。
 『述記』の釈を読んでみます。
 「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。
 初に名に違するを難じ、
 次に理に違するを難じ、
 後に意趣を結す。
 此れは即ち初なり。」
 本科段は初の「名に違する」ことを批判してきます。つまり、
 「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。此れは並びに二家の『摂論』と及び『成業論』とを對勘するに、義更に違うこと無し。而も彼救して言く、無心定と名づくとも汝は本識無きに非ずというが如し。今無心定と名づくとも何ぞ意識有りというを妨げん。解して云く、我が無心定と名づくることは麁動の識無きを無心と名づく。即ち是れ六識倶に無しという義なり。汝有心定と名づくることは何を説いてか以て無とするや。」 
 ここまでが経量部の末計からの反論になります。
護法の論破は、「此れは計を牒して此れは理に応ぜずと非す。此の定を亦無心定と名づくるが故に。故に知りぬ、第六識有ることを得ず。」(経量部の末計の主張を表して、第六識が存在することは理にかなわないと非難しているのです。なぜならこの滅尽定は無心定と名づけられることからもわかるのである。)
 これに対して「彼救して言く」と、経量部の末計からの反論として、護法自らが経量部の救済措置として、次のような反論がでるであろうと予測して、尚論破することになります。
「無心定と名づくとも汝は本識無きに非ずというが如し。今無心定と名づくとも何ぞ意識有りというを妨げん。」と。汝(護法)の主張となんら変わりはないのだというわけです。
 無心定といってもそれは汝が主張されているように、本識がないということではないと云われていることと同じであって、第六意識という麁なるものではなく細なる六識が存在し、この細なる六識は大乗が掲げる第八識が存在するのと同じを述べているのと違わない。従って、我々の主張に誤りはない(瑕疵はない)のである。もし瑕疵があるというのであれば、汝の主張にも瑕疵があることになる、という反論ですね。
 ここから護法の論破が出されます。「解して云く」と。
 (私が無心定と云っている場合の無心とは、麁動の識が無いことを無心と述べているいう。麁動の識とは六識のことであり、六識が無いということを以て無心という。)
 麁動とは、心が定まらず動揺している状態で、六識の行相は麁動であり、所縁の境(相分)に於いて必ず労慮(ろうりょ)を起こすと述べられています。境を実体化して執着を起こし心が散乱麁動するわけですね。この麁動の識が滅尽定では消滅することは大小共許の認識である。
 ここで経量部からの再反論です。
 「汝有心定と名づくることは何を説いてか以て無とするや。」
 滅尽定でも消滅しない細なる六識が存在するなら無心定ではなく有心定となってしまうと論破されるが、滅尽定でも消滅しない第八識を立てられる主張もまた有心定なのではないのか。どのような理由で無心と云われるのか?という反論です。
 次科段につづくのですが、経量部と護法の細なる六識の解釈が違うのですね。経量部は細なる第六識も六識に含めて解釈をしているのですが、六識は滅尽定では消滅するというのが共通の理解なのです。経量部の主張に矛盾が生じてきます。護法は細意識は六識以外の識でなければならないとして第八識を立てられるのです。ここが第八識が存在しなければならないという根拠になります。大切なポイントです。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(21)第五・経言無属難(7)

2018-04-24 22:10:22 | 阿頼耶識の存在論証
 総結の文が閉じられまして、第四に経量部が「心が有る」という主張を論破する科段になります。名に違する難。理に違する難を以て論破し、後に意趣を結びます。
 滅尽定にあって、種子を保持する識が存在しないと言うのであれば、滅尽定から出た後に識はどうして生ずることができるのかと論破された経量部が再度反論してくるのです。
 それは、滅尽定にあっても、六識は滅しているが、種子を宿している第六識が存在するので、識が身に離れず、滅尽定から出た後には識が生ずるのであると主張します。この主張に対して護法は再度論破してくるのです。
 「若し謂く、此の位には第六識有るをもって、身に離れずと名くといわば、亦理に応ぜず、此の定をも亦無心定と名くるがゆえに。』(『論』第四・五左)
 (もし言うのであれば、この滅尽定においては第六識(種子を保持する識)が存在するので、識が身に離れないというのであれば、その主張も理にかなわない。何故なら、この滅尽定は無心定とも名付けられるからである。)
 滅尽定は無心定とも云われているんですね。そうしますと、滅尽定において種子を保持する第六識が存在すると主張するのは間違っていることになります。有心定になるからです。
 一応ここまでにしておきます。多分疑問が生まれていると思います。護法正義が説かれる、種子を保持する第八識が存在するのは、有心定ではないのかと。ここは『述記』の釈に耳を傾けたいと思います。次回にします。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(20)第五・経言無属難(6)

2018-04-15 11:07:34 | 阿頼耶識の存在論証
 第四は、以量成有識難(イリョウジョウウシキナン)を説明します。
 以量は推論です。成有識は第八識が存在することを明らかにしています。つまり、第八識が存在するという推論を以て経量部の主張を論破する科段になります。
 「然も滅定等の無心の位には、有心の位の如く、定んで実に識有るべし、根と寿と煖とを具して、有情に摂めらるるが故に。」(『論』第四・五右)
 (しかも滅尽定等の無心位の中においては、無心位の中にいる有情は、有心位のように必ず実に識があるであろう。有情は五根と命根と体温とを備えいるからである。)
 滅尽定の位にあっても、もっというならば、有余涅槃の位に在っても生きている。有為の世界に生きている有情なんですね。生きている限り、たとえ六識が滅したとして、そこに存在する有情は識も寿や煖等のように実に身を離れないものである、ということなのです。
 本科段は有部の主張や経量部の主張をまとめて論破しているわけです。
 有部に対しては、「従って、識も寿や煖等のように実に身に離れないと認めるべきである。」
 「滅尽定の中の有情に、もしまったく識が存在しないというのであれば、それは有情ではなく、瓦や瓦礫のようなものであって、有情ではないであろう。」 
 「たとえ六識が滅しても、第八識が滅尽定の中に存在しないというのであれば、滅尽定の中に存在する有情の根と寿と煖とを執持するのであろうか。それはあたかも死屍のようなものである。そこには寿等は存在しない。もしそうであるならば、滅尽定から再び出た後には識が生起することは無いはずである。」
 と論破し、
 経量部に対しては、種子論から論破をして本科段に至っています。能熏・所熏の熏習するもの、熏習されるところの蔵識がないならば、すべての識が滅したら再び識が生起することは無いという点からの論破なのです。
 結論として、
 「斯の理趣(リシュ)に由って滅定に住せる者には、決定(ケツジョウ)して識有って、実に身に離れず。」(『論』第四・五右)
 (このような理趣(道理)によって滅尽定に住する有情には必ず第八識が存在して実に身に離れないのである。)
 生きているのは、恒に外からの情報を内なる存在の根拠である蔵識が任運に(差別することなく)受け取り、第八識は、受け取った情報を常に最新の情報に置き換えて外に発信していくという機能を持っているわけですね。それは、私が生きていることは、内外の情報が私の内なる第八識を所依として発信されているということなのです。

 ここで問題となるのは、第八識の所依と、第七識の所依、つまり増上縁依(倶有依)です。染と浄の根拠を論証してくるのですが、このことは第十理証で染浄証として説明されます。簡単にいえば迷いと目覚めの根拠が第八識に宿されているということなのです。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(19)第五・経言無属難(5)

2018-04-08 21:23:21 | 阿頼耶識の存在論証
 第三は、余非受熏等難です。
 受熏処の問題です。種子を熏習する場所はどこなのかが問われています。
 「諸の色等の法は、識に離れては皆無しといい、熏を受け種を持すということも、亦已に遮してしが故に。」(『論』第四・五右)
 (諸々の色等の方は識に離れてはみな存在しないといい、熏習を受けて種子を保持するということも、また既に否定されているからである。)
 本科段は経量部の根幹をなす色心互熏説を論破することになります。
 色は身体的要素
 心は精神的要素といっていいと思います。熏習の解釈の相違に目を向けますと、私たち日頃の考え方にも大きな示唆を与えていると思います。たとえば,香料と衣服を一緒に置くと,その香りが衣服に移り,衣服にもともとなかった香りが残るように,あるものの性質が他のものに移行することを熏習といいますが、この場合,衣服に残った香りに相当するものを習気 (じっけ) または種子 (しゅうじ) と云われ、この考え方は、外界の物質と人間の心とが日常互いに熏習し合うとする経量部の色心互熏説に内含され、経量部は阿頼耶識は必要はないと主張しています。それに対し大乗仏教の唯識説では、身体的行動,言語のうえでの行動、精神的な思考のすべてのものが阿頼耶識に種子を残すとされます。
 経量部の色心互熏説の主張を論破しなければならない必要があったのですね。そして色心互熏説の誤りを正すことも必要であったわけです。
 しかし、これらの問題は、種子の六義の持種証において明らかにされており、ここで言われることは既に遮せられている(否定されている)ことである、というわけです。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(18)第五・経言無属難(4)

2018-04-08 00:53:24 | 阿頼耶識の存在論証
 今回は、第二の論破、無体非因儀難(ムタイヒインギナン)という、体が無い存在は存在の因とはなり得ないという点からの論破になります。
 「過去と未来と不相応法とは、実有の体に非ずということ、已に極成してしが故に。(論』第四・五右)
 (過去と未来と不相応法とは実有の体ではないことはすでに部派仏教の間でも認められているからである。)
 このことは既に破斥したことでもあるわけです。
 過去は現在に影響を与えてはいますが、すでに過ぎ去った存在なのですね。また当来の未来は、未だ来ない存在です。また不相応行法とは、縁に依らずに存在するものではなく(つまり実体として存在するものではない)実有の存在を生じる因とはなり得ないと論破しています。
 何故ここで過去を取り出して経量部は反論するのかという問題が出てきますが、滅尽定で六識が消滅するけれども、滅尽定から出た後には、消滅する以前の種子が次の識の因となるんだと反論しているわけです。
 ですから護法は過・未は無体であると。過去も未来も、不相応行法もすでに実有の体ではないと説き終わっているので再論はしない、また部派の間でも無体であることは認められているのです。

四月度テキスト

2018-04-07 11:15:06 | 第二能変 末那識について
 今月のテキストを掲載します。13日の金曜日午後二時より八尾別院書院にて開講です。どちら様もお誘いあわせの上ご聴聞くださいませ。
  第二能変 所依門 増上縁依(倶有依) (1) 概説
 次からの科段は増上縁依(倶有依)のについて述べられます。(「次に第二の依なり、四師の解有り。)倶有依とは同時に存在する所依を指しますが、あるものが生じる時、そのものと同時に存在してそれを生じる依り所、その因を倶有依という。眼識の倶有依は眼根、乃至、意識の倶有依は意根であると『瑜伽論』巻一(大正30・279a) に説かれています。
 『論』には倶有依についての解釈が四有りと説明され、第一説から第三説が異説、第四説が正義を述べる護法の説になります。概略を示しますと(『述記』による)
· 第一説 難陀等の説で前五識は第六意識を倶有依とし、第六識は第七末那識を倶有依とするが、第七識・第八識には倶有依はないとする。
· 第二説 安慧等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とするが、第八識には倶有依はないとする。
· 第三説 浄月等の説で前五識は五色根と第六意識を倶有依とし、第六識は五識と第七末那識を、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。ここまでは安慧等の説と同じですが、第八識の倶有依を浄月等は第七末那識と色根と第八阿頼耶識の現行と七転識の現行を倶有依とすると説きます。
· 第四説 護法等の説で正義とされます。前五識は五色根と第六意識と第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第六識は第七末那識と第八阿頼耶識を倶有依とし、第七識は第八阿頼耶識を倶有依とする。そして第八識は第七末那識を倶有依とすると説かれます。
 難陀等の義 ・ (1)五識の倶有依を解す
 「次に倶有依において、有るが是の説を作さく、眼等の五識は意識を依と為す。此れが現起する時には、必ず彼有るが故に。」(『論』第四・十四左)
 (次の倶有依について、難陀等がこのような説を立てている。眼等の五識は意識を倶有依とする。何故ならば、五識が現行する時には必ず第六識があるからである。)
 五識の倶有依は第六意識のみであるというのが、難陀等の説。その理由は、五識が現行する時には必ず第六識があるからである、という。何を以て知ることを得るのかといいますと、『解深密経』第一巻と『瑜伽論』第七十六とに説かれているからである、と『述記』に述べられています。
 「彼(前五識)は劣なるを以ての故に」、前五識は自らの分別力に由らないことを明らかにしています。
  概説で述べていますように、難陀等は前五識の倶有依は第六意識であり、五色根は認めていないのです。第二師からは五色根が倶有依とされ、第二師の第一師への批判という形で十難が設けられています。難陀等の考えは、前五識に独自の根を認めないのですね。五根は種子であるというのです。次の科段で述べられます。
      ー 難陀等の説の根拠を示す ー
 「別の眼等を倶有依と為ることは無し、眼等の五根は即ち種子なるが故に」(『論』第四・十四左)
 (五識が第六意識以外の別の浄色の大種所造を眼等の根を倶有依と為すことはない。何故ならば、根の体は識の種子であるからである。)
 『瑜伽論』巻第一に「眼は謂く、四大種に造られ、眼識の所依の浄色にして、無見有対なり。」と述べられていますが、難陀等はこれを認めないという主張ですね。
· 四大種所造浄色 - 四大種所造とは、地・水・火・風の四つの元素から造られた清らかな物質で、浄色とは、浄明色のこと。眼根等の五根は浄明であること宝珠が光を放つように、五境を照らし取る働きを浄色と喩える。
· 無見有対 - 視覚の対象ではないが、なんらかの事象として存在するもの。眼等の五根は視覚としては対象にならないもので、無見と、しかし眼根の対象である色として存在するので有対と云う。(「色に五種あり。一には諸の大種、二には大種所造、三には有見有対、四には無見有対、五には無見無対なり。」)(『瑜伽論』六十四)
 『瑜伽論』にも述べられていますように、五識の倶有依には四大種所造の五根が説かれています。しかし、難陀等は第六識のみを以て倶有依とし、四大種所造の色法の五根を五識の倶有依とすることはないと主張しているのです。その理由として、五根は五識の種子だからであると言うのですね。五根は五識の種子であるということは倶有依ではなく、種子依ということになります。難陀等は種子依に於いて異時因果を主張していました。倶有依は同時因果で、現行と現行の関係を述べますので、難陀等の説は倶有依にはならないのです。次科段はその証拠を引用して根拠を明らかにしています。
      ー 難陀等の説の論証 ー
 初に世親所造の『唯識二十論』の頌文を挙げ、後に文を釈す。
 (大正31・74b・玄奘訳『唯識二十論』第八頌)
 「頌曰 識從自種生 似境相而轉 爲成内外處 佛説彼爲十」の文。
 「二十唯識の伽他の中に言えらく /  識は自種従り生じて、 /  境相に似て転ず。 / 内外処を成ぜんとして、 / 仏彼を説いて十としたまえり。(『論』四・十四左)
 彼の頌の意の説かく、世尊十二処を成ぜんと為るが故に、五識の種を説いて眼等の根と為し、五識の相分を色等の境としたまえり。故に眼等の根は、即ち五識が種なり。」(『論』四・十五右)

 (識は自らの種子より生じて、境相に似て活動する。内処と外処を明らかにされようとして、仏はこれを説いて十とされたのである。
 彼の頌の意味を説くと、世尊は十二処を述べられようとして、五識の種子を眼等の根とされ、五識の相分を色等の境とされたのである。よって、眼等の根は、即ち五識の種子である。)
· 内六処・外六処について - 内外合わせて十二処で、内にある六つの処、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官・六根のこと。外六処は外にある六つの認識対象(六境)、色・声・香・味・触・法をいう。「六識身は内六処を以て因と為し、外六処を以て縁と為す」
 本科段より難陀等の説(第六識のみが五識の倶有依であるという)の正当性を証明する為に文献的根拠を挙げる。
 「自種より生ず」というは、此の師の意の説く、見分と相分とを倶に自種と名づく。」(『述記』第四末・六十六右)といわれている文章が、難陀等の論証になっていいるのですね。そして、「境相に似て転ず」が、識の相分で、五境のことです。内外十といわれていますが、本来は十二処ですね。しかし、此処では五根(内処)と五境(外処)を以て仏は十と説かれたと述べられています。仏陀が十処を述べられるのは、実我有りと執着することを破る為に説かれと説明されています。アートマン(我)は存在する、というのがバラモン教以来の考え方があるわけです。部派仏教においても境は実に存在するという考え方が強いですね。説一切有部という学派がありますが、無我は認めているのですが、法有という、ダルマは有るんだと主張しています。これを受けて大乗仏教が興起するわけですね。我空・法空であると。しかし、「空」に執らわれますとニヒリズムに陥ってしまいます。ここに唯識が起こる必然性があるわけです。仮説として「識が有る」と、仮を通して真実を明らかにするところに、唯識の教えがあるわけですね。唯識が「境は無し」(唯識無境)を主張する背景には「有境・有我」説が根強くあるわけですね。そうではないんだと。「唯、識のみ有って境は無し」、識を離れて境は無い、有るのは迷いの識のみである。迷いの構造を明らかし、自分の迷っている心がはっきりする、唯識を学ぶことにおいて、自分の心が迷っていることを明らかにするところに唯識の眼目があるわけです。仏陀が十処を説かれる背景にはこういうことがあるのですね。
 「十というは十の色処なり」と説明されています。十処はいずれも色法であるということ。意根は法境を対象としていますから、色法ではないわけです。色法を内容とした識が起こる、それが自種から生ず、と。これは「外道の実我ありというを破せんが為」といわれています。実我の執着を破るために色法ではない意根と法境を除いた、五根と五境を合わせた十を説かれたというのです。根というのは実我ではないのです。この仏陀の教説を五根を五識の種子であると理解し、五根に対する実我としての執着を取り除かれようとしたのであるというのが難陀等の頌引用の解釈ですね。
 「自種より生ず」という時の「自」とは何かという問題があります。それに答えて、『述記』には「自に三種あり」とし、自種子とはという問いに対して三つの解釈をあげています。
· 一には親因縁の自で五識の見分の種子であることを示す「自」であるということを述べています。つまり、五識の見分の種子を五根としているわけです。ですから見分と相分は別々の種子より現行しているという主張ですね。
· 二には所縁縁の自で相分の種子であると述べています。五識の相分の種子から五識の相分が現行していることを「自」という解釈です。つまり、五識の相分の種子を五根としているという主張になりますね。
· 三には増上縁の自でよく五識を感ずる業種であると述べています。つまり、五識が五識の所縁縁でもある相分の種子を業種子(増上縁)として生起すると述べ、業種子を「自」と解釈しているのです。
      ― 難陀等の説を証明する論証 ー
 初に陳那造の『観所縁縁論』の頌文を挙げ、後に文を釈す。
 「小乗等の心外に境有りて所縁縁と成るということを破す。」(『述記』第四末・六十七右)                           
  (陳那造・玄奘訳 『観所縁縁論』 第八頌 よりの引用)
 「識上色功能 名五根應理 功能與境色 無始互爲因』の文 (大正・31・888c~888a)
 「『観所縁縁』に亦是の説を作さく、 識が上の色の功能を /  五根と名づくということを理に応ぜり / 功能と境色とは / 無始より互に因と為るをいう」(『論』第四・十五右)
 (『観所縁縁』 の頌に亦このように説かれている。「識の上の色の功能を 五根と名づけるということは理にかなっている。 功能と境色とは 無始より互いに因となる」 と。 )
 前五識の倶有依は第六意識のみであるという難陀等の説の第二の論証です。(五境は、五識の転変であり、似現することであって、境を内容とする識が起こる。これが自種子であり、五識の種子が根であるといわれる所以である。従って、五識の他に五境はない。五識の転変が五境である。五根は五識の種子であり、五識の種子に仮に五根をたてるという。)
 語句の説明
· 識の上 - 第八識に蔵されているという意味。
· 功能 - 種子のこと。
· 境色 - 相分のこと。
 『頌』の意味について、詳しくは次科段で述べられますが、凡その解釈は「第八識に蔵されている種子(種子生種子・現行薫種子)を五根と名づける。そして五識の種子を五根とすることは理に適うのである、そして、この種子と相分は無始より互いに因となっているのである、という。この『頌』が難陀等の説の立場を論証する裏づけになっているわけです。
 亦、頌の「功能」について、先の『二十論』の「自種子」に三釈があるのと同じく、ここも三種の釈が述べられます。いずれも「識」は第八識で、
 「功能」の解釈が (1) 見分の種子 (2) 相分の種子 (3) 業種子(見相二分同種子説)という三解釈があるということです。 
 先の頌を解釈するのと同様に解釈せよと『述記』には述べられています。
       ー 頌の文を解す (前半) ー
 「彼の頌の意(こころ)の言えらく、異熟識が上の能く眼等と色識を生ずる種子を、色の功能と名けて、説いて五根となす。」(『論』第四・十五右)
  (彼の『観所縁縁論』の頌の中の意味を説く。異熟識(第八識)の上に眼等の色識を生じる種子を色の功能と名けて五根とする。)
  次には境色の解釈になります。
 「二の境色有り。一には倶時の見分の識所変の者、二には前念の識の相を後の識が境となる。・・・即ち是れ前念の相分の所薫の種いい今の現行の色識を生ず。故に前の相は是れ今の識の境と説く。」と説かれています。即ち見相同時であり、異時ではないと説いているのですね。前の識を用いて今の所縁となるのではないということです。これが本識(第八識)の中に自に似る果を生ずる功能を引いて起こるという理に違わないのであると。種子とは「阿頼耶識の中にあって親しく自果を生ずる功能差別である」(「本識中親生自果功能差別」)と定義されていますが、これが『観所縁縁論』の第八頌の境色の意味になると云われています。
       ー 頌の後半を解釈する ー
  「種は色識が與に常に互いに因と為り、能薫は種が與に逓(たがい)に因と為る故にという。」(『論』第四・十五右)
 (頌の下の半を解釈すると、種子は色識に対して常に互いに因となり、能薫(能薫習)は種子に対してたがいに因となる、ということを述べようとしている。)
 「功能と境色とは、無始より互いに因と為る」の解釈を述べていますが、この解釈は難陀等の説の意味を表しています。
 逓 - てい、「たがいに」という意。
 難陀等の主張は五識の種子を名づけて五根となす、と述べているのですが、ここに問題が出てきます。即ち、五識の種子とは五識の見分の種子か五識の相分の種子かという問題です。これに対して三つの解釈がなされています
· 第一の釈 - 「見分の種を説いて名づけて五根と為す。現行の見分は変じて境色に似るを名づけて色識と為す。(見分の現行と見分の)種と互いに因(縁)と為る。(現行の)見分は是れ能薫なるが故に。」 (五識の見分の種子を五根となし、その種子から現行した五識の見分が五識の相分を変じて境色に似て現行する。この五識の見分の現行を色識と名づける。見分の現行と見分の種子が互いに因となる。それは見分は能く薫習するものであるからである、という。) 
· 第二の釈 - 「或いは相分の現行も亦是れ能薫なり。此の(相分)種をば眼等と名づけ、(相分の種と)現行(相分)の法と互いに因(縁)と為るなり。相の色は識に離れざるをもって名づけて色識となす。」 (五識の相分の種子を五根とし、相分の種子と現行している五識の相分を色識とする。互いに因縁となり、相分である色境等は識に離れないことから色識と名づけられるのである。)
· 第三の釈 - 「若し此の見分の種と色識とは常に(根境)互いに因と為すと言わば、境は(能取の)根に用ゆるべく、故に境を縁として(見分)の種子の根有り、根は(所取の)境に用いたるべし。故に根を縁として(見分現行し)変じて境に似るをもって、互いに因と為すと名づくるを以てせば、因とは因由なり因縁の義には非ず。色識は能薫なり。根種は是れ所薫なり。互いに能生して(相分現行と見分種子と)逓に因と為るが故に。
  此の師(難陀等)の意の説く、識の(見分の)種をば根と名づく。識の相を色と名づく。境は別に有ること無きをもってなり。(『述記』)第一巻に巳に略して計を叙せしが如し。
 意識を以て前の五が倶有依とすということは、『解深密』等の経に説くが如し。故に五色根無しという。『二十唯識』等の如し。」(『述記』第四末・十八左)
 第三の解釈は見・相二分同種子説による解釈です。(五)識の見分の種子を(五)根と名づけ、現行している(五)識の相分を色識とするのが難陀等の解釈になります。「根を縁として(見分現行し)変じて境に似るをもって、互いに因と為す」と、現行した見分が変現して相分に相似して互いに因となるといわれています。又この因は因に由るということであって、因縁ということではないとされます。難陀等の説は、五根は五識の種子であるから種子依であって、倶有依ではない。従って五識の倶有依は第六意識のみである、とする。
 この第三釈を勝れているとされます。
 難陀等の説
   能依          所依
   前五識         第六識
   第六識         第七識
   第七識
        }  ー    別の所依なし   
   第八識      
  世親の『唯識二十論』と陳那の『観所縁縁論』に依って、五根は五識を生ずる功能(種子)であるとするので、五根をもって倶有依となさない。五識が生起する時には必ず第六識があるから、五識の倶有依は第六識とし、第六識は第七識に依って生起するので、第六識の倶有依は第七末那識とし、第七識と第八識は互いに相続し転じ、自力勝れているので、べつに倶有依を必要としないと述べ、自らの説を主張しています。
 「第七・八識は別の此の依無し、恒に相続して転ず、自力勝れたるが故に。」(『論』第四・十五左)
 (第七識と第八識には別の此の依(倶有依)はない。なぜなら第七識も第八識も恒に相続して転(働く)じ、自力が勝れているからである。)
 難陀等の説では第七識と第八識には倶有依は存在しないという、その理由はこの二識は恒に相続して働き、非常に自らの力が勝れているので、他の倶有依を借りなくても働くことが出来るからであると説いています。
 しかし、諸論には阿頼耶識が存在することにおいて末那識が存在すると説かれている。この諸論に説かれている末那識の倶有依が第八識であるという解釈を難陀等は、
 「故に諸論に説いて阿頼耶有る」というのは、第八識が存在の根本であるということを述べているのであって、第八識が末那識の倶有依であることを述べているものではない、と解釈しているのです。
難陀等の説 ・ 第六識の倶有依について
この科段は難陀等の第六識の倶有依について説明がなされます。
 「第六意識は別に此の依有り、要ず末那に託して而も起こることを得るが故にという。」(『論』第四・十五左)
 「第六は別に此の倶有依有り。即ち第七識なり。何を以てかしかるとならば、自體間断するを以て要ず末那に託し、方に起こることを得るが故に。」
 (第六意識には別に此の倶有依が存在する。即ち第七識である。第六識は五位無心の時(意識は唯、五位を除いて常に現起す。)に間断するので、恒に相続して間断しない末那識にたよって生起し存在することを得ることが出来るからである。)
 語句説明  託す - まかせること。たよること。よること。 末那に託しは、末那識にまかせる、末那識にたよる、末那識による、という意味になります。
 では何故第六識は第八識によって倶有依としないのか、また前五識に依らないのか、という問題がでてきます。
  第一の問題である「第六識は第八識によって倶有依としないのか」ということは相順しないからであると答えられています。相順しないということは、第六識は一切諸法を認識して我・法二執を起こすが、第八識は我・法二執がない純粋識であり、その性格を異にするので第八識を以て倶有依とはしない。又第二の問題は五識は間断するが五識が間断している時でも第六識は働いており、前五識は倶有依とはならないのである。
  この項で難陀等の説の説明が終わります。次科段は安慧等の説が述べられます。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(17)第五・経言無属難(3)

2018-04-06 21:19:31 | 阿頼耶識の存在論証
 お知らせです。今月の正厳寺様での講義は、旭区仏教会の花祭りイベントのため中止とさせていただきます。聞成坊様主催の講義は13日(金曜日)午後二時八尾別院にて開講です。よろしくお願いいたします。
 第三は、経量部の根本の主張を論破する科段になります。
 この論破が四つに分けられて説明されます。
 『樞要』より、
 (1)無因果不生難(因が無ければ果は生じないという点からの論破)、
 (2)無体非因儀難(体が無いものは現行の因とはなり得ないという点からの論破)、
 (3)余非受熏難(第八識の他は受熏処ではないという点からの論破)、
 (4)以量成有識難(推量を以て第八識が存在するという護法の正義を述べる)。
 今回は、第一の無因果不生難について述べます。
 「又若し此の位に種を持する識無くんば、後の識いい種無くなんぬ、如何にしてが生ずることを得る。」(『論』第四・五右)
  (またこの位(滅尽定)に種子を受熏し相続する識が存在しないならば、後に生ずる識(滅尽定から出たのちの識)には種子が無いことになる。種子から現行が生起するのであるから、種子が無いのなら、どうして現行が生起することができるのか、出来ないはずである。)
 生存の生起は種子を因として衆縁を待って現行の果が生まれるのですね。また現行の果は受熏処でもあるわけですから後の現行の為に因としての種子を保持することになります。これが同時因果の方程式ですね。
 まず初めに、経量部も種子説を立てていますから、経量部の種子説が何故間違っているのかを問いただしているわけです。
 経量部も種子から現行することを説いているのですが、、問題は滅尽定において、すべての識は滅すると主張している点にあるわけです。ここで、経量部は有部の主張と違にするところは、滅尽定から出た後も識が存続することを認めている点にあります。滅尽定においてすべての識は滅すると主張し、尚且つ後の識が存在すると認めていることの矛盾が生じるわけですね。「その識はどこから生まれたのであろうか、生まれるはずがないであろう。」と論破しているのです。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(16)第五・経言無属難(2)

2018-04-03 20:30:00 | 阿頼耶識の存在論証
 後半は、有部の主張が論破される理由を挙げます。
 「諸の異熟識は、此の身を捨し已って、離して余身に託しぬる時に、重ねて生ずること無きが故に。」(『論』第四・五左)
  非常に分かりにくい文章です。ここは輪廻転生を否定していることを、有部の主張では認めることになる過失があると論破しているのです。
 直訳しますと、
 (諸々の異熟識(大乗では第八識・有部では第六識)は、この身を捨ておわって(死して)この身を離れて他の身に生まれかわる時、再び同じ身に生まれることは無いのである。)
 つまり、論破の理由は、有部の主張である滅尽定に入ったらすべての識は無くなるというわけです。しかし、滅尽定から出たら再び六識が生起すると云っているわけです。ざっくばらんにいってしまえば、亡くなった者が生き返るということです。そんなことはあり得ないと護法さんは論破しているのですが、ここには六識を超えた識、六識を根底から支えている識の存在がなければ、界・趣・生という異熟の説明がつかないと云っているのです。「阿頼耶識は断に非ず、常に非ず」また振り返って学んでいただきたいと思います。
 死有から中有の思想ですね。浄土真宗ではどのように考えられているのでしょうか。教えていただきたいと思います。
 次に経量部の主張を論破しますが、次回にします。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(15)第五・経言無属難

2018-04-02 22:01:00 | 阿頼耶識の存在論証
 「桜吹雪に心を重ね、散りゆく際の見事さに」
 仕事も落ち着いてきましたので、またブログを再開することができそうです。
 本科段説一切有部の主張に対する護法の第五の論破になります。初めに有部の主張の矛盾を指摘して論破します。
 「既に爾らば後のいい必ず還って生ぜざるべし、身に離れずと説くこと、彼何の属する所かある。」(『論』第四・四左)
 (すでにそうであるならば、のちの識は必ず(絶対に)還って生じないであろう。経典には「身に離れない」と説かれているが、あなたの主張にはどのような根拠があるのであろうか。根拠などありえないのではないのか。)
 滅尽定中に異熟識が無いと主張するのであれば、(既に爾らば)、滅尽定から出た後の識は起こりえるはずがないであろう(必ず還って生ぜざるべし)。
 有部が主張することは、滅尽定中では識が消滅しているのであるから、滅尽定から再びでたときに再び六識が生起することはないはずである。そうであるならば、経典に「身に離れずと説くこと」にどのような根拠があるといえるのか、根拠などないであろうという問いかけなんですね。
 経典に説かれていることは、滅尽定中であっても、滅尽定から出た時であっても、身に離れない識があって「いのち」を支えているのではないのか。それが第八識であるという根拠になるのでしょうね。
 ここで「還」の字が使われていますが、帰るのは元の居場所に行くということになりますね。帰る家があるから旅行にも行けるわけですが。家は何時でも還れるところだと待っていてくれるのでしょう。つまり、還に於いて帰が成り立つわけです。帰だけだと故郷喪失症になります。大げさにいえば出生の秘密が明らかにならんということです。出生は如より来生なのです。無分別の世界より分別の世界に生まれ出たのですね。そして分別の世界から無分別の世界に帰る、これが涅槃なのでしょう。これはね、還れる場所があることによって帰れるということなのですね。帰は還の働きによってしか帰は成り立たないのです。
 次回は、有部の主張が論破されなければならない理由を挙げます。