苦悩することの意味 -難行道といわれる難の質-
第二能変・第七末那識を読ませていただいて、今まではっきりしていなかったこと。親鸞聖人が「選択本願は浄土真宗なり。定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(『末燈鈔』真聖p601)と位置づけされる意味です。何故「大乗の中の至極なり」と言い切ることが出来るのか、ということです。聖人の中には、定散二善は方便仮門であり、選択本願は浄土真宗であると教えておられます。その視座はなにかというと、聖道門は難行道であるといわれる「難」の本質です。龍樹菩薩にあっては、「若し諸佛の所説に易行道の疾く阿惟越致地に至ることを得る方便有らば、願はくは爲に之を説きたまへと。答て曰く。汝が所説の如きは是儜弱怯劣にして大心有ること無し、是丈夫志幹の言に非ざるなり。何を以ての故に、若し人願を發して阿耨多羅三藐三菩提を求めむと欲して未だ阿惟越致を得ず、其の中間に於て應に身命を惜しまず晝夜精進して頭燃を救ふが如くすべし。」 という問と答えの中に隠されている真意です。この真意を読みきれないと、浄土真宗は、「丈夫志幹の言に非ざるなり」といわれても仕方のないことです。龍樹菩薩にあっては仏道を求めるということは、「速得阿耨多羅三藐三菩提」の成就なのでした。『易行品』に於て、「菩薩未だ阿惟越致地に至ることを得ずは 應に常に勤精進して 猶頭燃を救ひ 重担を荷負するが如くすべし 菩提を求むる爲の故に 應に常に勤精進して 懈怠の心を生ぜざるべし 聲聞乘・辟支佛乘を求むる者の若きは 但己が利を成ぜん爲にだも 常に應に勤精進すべし 何に況や菩提に於て 自ら度し亦彼を度せんをや 此の二乘の人於りも 億倍して精進すべし。 大乘を行ずる者には佛是の如く説きたまへり。發願して佛道を求むるは三千大千世界を擧ぐるよりも重し。汝阿惟越致地は是の法甚だ難し、久しくして乃ち得べし、若し易行道の疾く阿惟越致地に至ることを得る有りやと言はば、是乃ち怯弱下劣の言なり、是大人志幹の説に非ず。汝若し必ず此の方便を聞かんと欲せば、今當に之を説くべし。佛法に無量の門有り、世間の道に難有り易有り、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乘船は則ち樂しきが如し。菩薩の道も亦是くの如し。或は勤行精進のもの有り、或いは信方便易行を以て疾く阿惟越致に至る者有り。」(聖全Ⅰp253)と、親鸞聖人は『論の註』に曰わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるに、云わく、菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。」と曇鸞大師の言葉を通して「難」の本質を見定めておられます。曇鸞大師はその理由の一つとして「五者唯自力無他力持」(五には唯だ自力にして他力の持つこと無し」(聖全Ⅰp279)とのべられておられます。文面通りに読みますと、自力と他力が並び立って、相対的に述べられているように読めますが、そうではなく、他力は絶対他力であることを述べられているのですね。自力は人間からは成り立たないと云うことです。ですから自力と他力が肩を並べるのではなく、他力しかないのですね。このことは龍樹菩薩が『中論』の帰敬偈に於て八不中道を説くことによって、諸の戯論が滅することを述べ、「難」の本質は何かを示唆しているように見えます。「何ものも滅することなく、何ものも生ずることなく、何ものも断滅ではなく、何ものも常住ではなく、何ものも同一であることなく、何ものも異なっていることなく、何ものも来ることなく、何ものも去ることはない。」(不生亦不滅・不常亦不断・不一不異・不来亦不出)(大正30・0001b)と。『中論』に於る、八不中道は、否定の論理といわれますが、否定を通して真実は一切皆空であることを述べています。空に於て戯論は寂滅すると。真実は空であることを知らないところに疑見を生ずるのであるといわれていますね。「疑」という心所は「諸の諦理のうえに猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障うるをもって業と為す」、と定義されていますように、四諦の真理、因果の理を疑うのですね。「見」は悪見です。「諸の諦理のうえに顛倒に推度する染の慧を以て性と為し、能く善の見を障へ苦を招くを業と為す」と。顛倒の見ですね。間違っていることを正しいと思いこみ、真実の道理を知らない心であるといわれています。真実の道理を知るということは、転迷開悟です。転迷開悟に至る道に二つあると、難行道と易行道です。今は「難」の本質を尋ねているわけですが、易行道の易もまた難といわれているわけです。『正信偈』に「難中之難無過斯」(難の中の難、これに過ぎたるはなし)と述べられていますが、その前にですね、「邪見憍慢の悪衆生 信楽受持甚以難」(邪見憍慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難し)と語られ、浄土真宗においても信心を得ることは「難」であることがいわれています。
釈尊が「世の非常を悟り、国の財位を棄てて山に入りて道を学したまう」(『大経』巻上)。世の非常を思われ出家をされるわけです。そして苦行六年を経て菩提樹下で「微妙の法を得て最正覚を成る」と、成道されるのですが、苦行を止められた釈尊を見て、釈尊について共に苦行をしていた五人の比丘は、シッダルタは堕落したと思い、釈尊から離れていくわけです。しかし釈尊は苦行からは何も生まれることは無いと知られ、苦行を止められるのですね。ここにも問題はあるのです。それは『易行品』を見ましても、「菩提を求むる為の故に、常に勤精進して、懈怠の心を生ぜず」 菩提を求めようとすれば、「身命を惜しまず昼夜精進して頭燃を救うが如く」せよ、と要求されているのです。このときの「難」は「久しくして乃ち得べし」といわれているものですが、「疾得」ではないことが「難」といわれていることなのでしょう。この解釈も確かに「難」の質を言い当てているのかもしれませんが、的確ではないように思われます。
「疑」は何故起こってくるのかということが問題なのでしょう。疑と難とどう関係するのか。又この問題は自利と利他にも関係する問題になります。そしてこれらの問題の根底に「疑」があるのですね。『教行信証』総序に「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん」と述べられ、『正信偈』 源空章においては「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。」と教えられています。生死流転の境遇に留まることは、道理を疑う(法を疑う)ことによって起こる、ということですし、大涅槃を証することは信心をもって本と為す、といわれているわけです。
釈尊が菩提樹下で悟りを開かれて仏教が始まったとされています。そしてその後の仏教の歴史は修道論に終始して、煩瑣な教学に陥っていくわけです。そして自己を問うことが曖昧になっていくのです。『浄土論』のなかの五念門や、『唯識論』に説かれる五位の修道論、また菩薩十地の階位等、悟りを開く方法論に時を費やしてきたわけです。親鸞聖人はこのような修道のありかたを『大無量寿経』第十八願成就文の「至心回向」(至心に回向せしめたまえり)の文をもって360度転換されたわけですね。如来回向としてですね。何故なんでしょう。何故、「至心に回向する」から「至心に回向せしめたまえり」と360度転換する必要があったのでしょうか。
問題提起ばかりになっていますが、もう一つ問題提起として、安田先生と兵頭格言さんの信仰の対話が物語っている一文から考えてみます。
兵頭 十方衆生というと大勢のように思いますが、自分も十方衆生の中にあるとは思っても、本願は十方衆生の本願のように思うのです。
安田 それはあなたの思いに立っている。あなたは自我というものを思い、自我を救うために本願を思う。みんな思いです。思いは妄想です。本願を手段にして自我を救おうと思っている。そういう自我の立場です。そういう思いの必要のない本願の中におりながら、本願に背いている。あなたは、地獄というものもほかに思う。衆生もほかにあるし本願もほかにある。ただ自分にあるものは自我という思いだけである。思いが外にしているのです。しかし本願も内なのです、自己の内です。あなたは、思いというものでせっかく内に来ているものを外にしている。腹を立てたり欲を起こしたりしているのが罪ではなく、その思いが罪なのです。
兵頭 今日はこれを考えさせて頂きます。
安田 自己ということと、自我とを区別しなければならない。思いが本願の機ではない。あなたの我執です。
兵頭 思いと我執が混同して。
安田 本願もそこに生きている。それが自己です。あなたのは自我の思いです。本当の自己にかえるのが教えです。自我の思いというものはわがままなものです。人のことなど何とも思わない、それが妄執です。仏法でも人でも何でも手段にする。そうして自我を満足しようとする。それが成就しないのは当たり前でしょう。欲は満たされるほど不満でしょう。欲の満たされたことはない。
(回向について)
兵頭 南無阿弥陀仏を立場とする。
安田 あなたの心が起こっても任せておけばよい。起こってもそれは立場ではない。心はなくならないけれども、立場にする必要はないd。
兵頭 やはり自分を立場にしております。名号が立場になるとは。
安田 如来が立場を念仏として与えて下さっておる。念仏の立場に立つのが信心。あなたの心を立場にすれば仏法は客になる。客とすれば理屈になる。それに相手になっていては、あなたは日が暮れてしまう。念仏を立場にするというのは、向こうから衆生の立場になって下されること。向こうから私の立場に立って下さる。こちらの勝手にするのではない。
兵頭 それが回向ですか。
安田 それが回向です。
兵頭 自分が名号の立場でないからわかりません。
安田 あなたは上においている。上においては客になる。仏法を対象にしている。そうではなく、名号の方が立場です。それが夜が明けたのです。
(『信仰についての対話 Ⅰ』 草光舎刊)より
自分と自己ですね。これをはっきりさせないといけませんね。自分というと自我です。我執の立場です。自己というと本願に見出された人間本来の在り方です。安田先生と兵頭さんの対話からですね、親鸞聖人が浄土の真宗は大乗の中の至極であると言い切られたキーワードが見出されるように思います。難行道といわれる「聖道の諸教は行証久しく廃れ」・「浄土の真宗は証道今盛んなり」と言い切られる意義です。難行道は久廃といわれ、浄土真宗は今盛といわれるその根拠です。これは自力無効に関係することなのですが、難行という道はどこまでいっても成就しないという問題を抱えていることになります。人間の努力では成就しないということです。難と易と比較して難といわれているわけではないのですね。親鸞聖人が20年の歳月を比叡の山で修行を重ねられていたわけですね。そして山を下りられたということは、修行がきついとか、努力が足りなかったとか、という世間でいう比較の問題ではないということです。その修行の過程の中で難の本質を見定められたのでしょう。で、山を下りられた、と。
この間の事情は『御伝鈔』に「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。」と語られています。難行・易行は比較の問題ではないということですね。
難行道とは、曇鸞大師によりますと、「難行道は、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。」といわれ、親鸞聖人は『教行信証』化身土・本に於いて「如来懸に末代罪濁の凡夫を知ろしめす。立相住心なお得ることあたわじと。いかに況や相を離れて事を求むるは、術通なき人の、空に居て舎を立てんがごときなり」(定善義)と言えり。「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。おおよそ一代の教について、この界の中にして入聖得果するを「聖道門」と名づく、「難行道」と云えり。」と、難行道は「今の時」は「五濁悪世」であり、「行を起こし道と修せんに未だ一人も得る者有らず。」といわれるわけです。法然上人は『選択集』に於て、「凡夫の心は、物にしたがひてうつりやすし、たとえば猿猴の枝につたふがごとし、まことに散乱して、動じやすく、一心しづまりがたし。無漏の正智、なにによりてかおこらんや。若無漏の智剣なくばいかでか、悪業煩悩のきづなをたたずば、なんぞ生死繋縛の身を、解脱することをえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。」という「生死繋縛の身」であるという自身の姿を見出されたのではなかったでしょうか。「かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん」という言葉に法然上人の一途さを伺うことができます。もはや伝統教団の修道に身をおいておくことはできないという、聖道仏教との決別を意味しているのです。その決別を決断させたのが善導の教示であったのですね。法然上人までの浄土教というのは天台や真言の聖道仏教の陰に隠れてひそかに極楽浄土に往生することを願うものであったのです。法然上人はこの聖道仏教によって本当に生死を解脱することができるのかというという問いをもたれたのでしょう。これは釈尊が「私が苦しんだり悩むのはなぜか」という問いをもたれたのと同質であろうと思います。この問いはすべての人が持っている根源のものでしょう。ここに法然上人の心の葛藤が浄土教を陽のあたる場所におしあげてきた原動力があるのではないでしょうか。
法然上人の課題はひとえに生死解脱にあったのです。そのことは『選択集』を結ぶにあたって『選択集』の要約を八十一字を持って示されています。
「夫速欲離生死、二種勝法中、且閣聖道門、選入浄土門。(それ速やかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さいお)いて、浄土門に選入すべし。) 欲入浄土門、正・雑二行中、且抛諸雑行、選應帰正行。 (浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行の中に、しばらく諸の雑行を抛(なげす)てて。選びて正行に帰すべし。) 欲修於正行、正・助二業中、猶傍於助業、選應正定。 (正行を修せんと欲はば、正・助二業の中に、猶助業を傍らにして選びて正を専らにすべし。) 正定之業者、即是称仏名。称名必得生、依仏本願故。 (正定の業は即ち是れ仏の名を称するなり。称名は必ず生を得。仏の本願に依るが故なり。) (真聖全一P990)
人間の課題は、ゆうなれば「夫速欲離生死」しかないのではないですか。「生きることが」問いとしてわが身に迫ってきたとき「悠長なこと」は言っておれないのではないでしょうか。生きている時は『今』しかないのですから。「速」はどのようにしたら成り立つのかが最大の課題であったのでしょう。ここにも「難」は「今」を失するということが明らかになります。問いとしてあるのは唯一つ、「速やかに生死を離れる」ということでしょう。生死を離れるという問いを遮るものが「貪愛瞋憎雲霧」でした。「恒審思量」といわれる末那識の存在です。どこまでいっても、恒に審らかに自分を思い、自分の都合に合わせて、自分にとって利益のあるように思い量る、自分の深層に横たわる働きがあるということです。価値判断のすべてが自分の基準にあわせているということです。我執であり、我所執であるわけです。我執を破ったといった時に、またその底に末那識が働いているのです。「わかった」ということは解脱の実体化です。その実体化を否定するのが人・法二空なのですね。自分からは難の質を超えることが出来ないということなのです。すでにですね、私が苦しみ、悩んでいるということは、苦悩が与えられていることなのです。真実に出会っている証拠なのです。真実に出会っているからこそ私たちは苦悩しているのです。真実こそ如来回向に他なりません。
『法然上人行状絵図』に上人の「出離生死」の原点がとどめられています。それは1141年(永治二年)所領の争いで夜襲をうけ亡くなっていく父時国の遺言でした。「汝さらに会稽(かいけいー敗北の恥を晴らすこと。)耻をおもひ、敵人(あたびと)をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いゑを出で、我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には。といひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶にけり。」この出来事が上人の生涯を貫いての課題となり「ただ念仏」の道を歩まれることになるのです。法然上人は「偏依善導」といわれますように善導の『観経疏』に耳を傾けられたのですが、その中に「門八万四千に余れり。・・・縁に随う者は則ち解脱を蒙る。」(真聖p340-玄義分・序題門)ここに問題が一つありますね。どの道でもよいのかと云うことです。どの道を歩んでも解脱を蒙ることであるならば、何故に浄土の教えなのかということです。善導は「然るに衆生障り重くして、悟りを取るの者明らめ難し。」といわれ、また『観経』に苦悩は「無量億劫の極重の悪業」(真聖p100)であり、その為に苦悩を除くのではなく、苦悩を除く法を説くので有るといわれているのです。根源的な無始無終の罪といっていいのでしょうか。あくまでも自覚の話ですが。この罪業も如来に言い当てられて初めて自覚できるのですね。如来も衆生も一如来生なのですね。自覚は表は罪業の自覚であり、裏は救済の事実なのです。親鸞聖人はこの問題について善導の教えを身に受け「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」といわれました。「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開けず」というわけです。「余」はすなわち本願一乗海なり。」(真聖P341-化身土・本)と教えてくださいました。本願一乗海のみが「在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」なのですね。悲引というところに「本願の嘉号をもって己が善根とするがうゆえに、信を生ずることあたわず・・・」という自己への眼差しがあるのではないでしょうか。その眼差しが悲引を引き出してくるのだと思います。唯識で言われる倶生我執の自覚です。「救われる縁もゆかりもない身」の自覚が、無根の信をいただくことになるのです。「難」という問題は我執の矢が折れないということです。どこまでも「我思うが故に我有り」なのでしょうね。
苦悩するということは、どのような意味があるのか、『観経』から教えられますのは、苦悩は仏教に遇うことに依って初めて具体化するということなのです。苦悩は人間としての根源の問いなのでした。それは仏法に依って明らかにされたのです。仏法に依ることがなかったなら、私たちは自分の問題を他の問題にすり替えて解決しょうとするのです。それしかできないのですね。これは逃避だと教えられるのですね。自分からの逃避だと。本当に苦悩するということは逃げようにも逃げられない立場に立って、「自己とは何ぞや」という人生の根源的な問いを明らかにする道であるということなのです。だから仏教に出遇うことがなかったなら、本当に苦悩することは成り立たないのかもしれないですね。自分の立場に立ちますから、仏教をも利用しますね。「苦しい時の神・仏頼み」です。ここで言われる「苦しい」は厳密には「困った時の」でしょうね。日常の立場からは苦悩はないのでしょうね。苦悩とは言われないのでしょう。「法」に出遇う事がない限り、苦悩が「有る」・「無い」は有無の見ですね。有無の見を破すのが仏教でしょう。そこで謬りをおこすのですね。それが苦悩だと思うのですが。念仏に遇って念仏に謬りを起こすわけです。二十願の問題ですね。しかし法は因果同時なのです。悟りの世界を蓮華蔵世界といいますね。蓮華と云う譬を以って法に出遇うことが救いであることを顕しているのです。蓮華はプンダリーカといい、華と実が同時になるのです。『華厳経』や『法華経』はその意味を持って経の主題としています。『観経』第七華座には法蔵菩薩の本願力は「華の上に自然に七宝の果有り」といわれるのですね。法に遇うことに依って苦を厭い、浄を求めるのでしょう。厭うことと浄を求めることが同時なのですね。「此の如きの妙華は、是れ本法蔵比丘の願力の所成なり」といわれていま。苦悩そのものが本願の正機となるのですね。そして苦悩を知らせることが本願成就の証明になるわけですね。ここに「除苦悩法」を顕しているですね。信心の純・不純もここで明らかになるのです。私たちは普通、苦しみ悩むことは他から生まれてくると思っています。ですから、「他」を変えることに奔走しているわけです。私を取り巻く環境ですね。それが私を束縛して私の自由を奪っているのだと思って、苦しみ悩んでいるわけです。自分自身に罪が有るとは誰も思ってはいません。ですから自分が苦悩しているとは思わないのです。苦悩は有るんですけれども、自分が作り出しているとは思わないのですね。いつも、誰かの仕業であり、物が悪いのです。物には感情は無いのですが、物に当たります。感情が昂ぶりますと八つ当たりしますからね。このようなことで、私たちは「他」を自分の都合のよい方に変えることに依って満足をしようと思っているのです。歴史はそれを物語っていますね。いまだかって満足をしたことがありませんからね。でもね、時に「これでいいのか」という疑問が沸いてくることがあります。これが縁になり教法を聞く、聴聞することが起こってまいります。『観経』に即していいますと韋提希の愚痴です。「世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る」と。世尊に向かって愚痴をこぼしているのですね。「仏の為に礼を作して」といわれていますから、韋提希は仏をもとめたのです。苦を厭う為にですね。にも拘らずですね、自分自身の問題とは見ていないのです。「何の罪があって苦しむのか」というわけです。ここに、我執の深いことをしらないという問題が浮き彫りにされています。ここに、教法に遇うということの大切さが知られるのですね。仏法に遇うことに於いて、愚痴が・苦悩が苦を厭う縁になるのです。この縁が、人間を根源から解放する、天命に安んじることができる道へのプロローグになるのですね。仏法に遇うということは、反面苦悩の深さを知ることになり、いよいよ苦悩にさいなまれることにもなるのではないかと思います。本当に苦悩することになり「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣う」ことにつながってくるのです。仏法は「苦悩を除く」ものではなく「苦悩を除く法」なのですね。苦悩の解決は苦悩がなくなることではないのです。「苦悩を除く」ということであれば、それはエゴでしょう。我が身勝手というものです。苦悩が邪魔にならないということが「除く法」ということでしょう。苦悩を引き受けて生涯を尽くしていけるという、「信心」を得るということになるのではないでしょうか。逆に言うとですね。信心を得ることに於いて初めて苦悩することが出来るのでしょう。仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖P952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全P514)といわれています。そうしますと何故、苦界といわれるのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全P285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞大師の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるために仏法はあるのでしょう。知ることに於いて転悪成徳するのですね。それが智慧です。ですから、「仏法は苦悩を除く法であると思うわけです。苦悩は何故起こるのか、もう少し考えて見ますと、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題ですね。(問い「それから未那識は恒審思量というけれど無我を思うということになれば、末那識はあっても我執の働きがなくなるんじゃないですか?その時は阿頼耶識が純粋な我となるから末那識は一瞬働かないんじゃないですか?)私に曰く、末那識が無我を思量するとどうなるのでしょうね。前七識は阿頼耶識を所依として、境を縁として起こるわけですね。そうしますと、末那識だけが転依して平等性智に成るというわけにはいかないでしょうし、無我を思量すると、もう末那識という名はなくなりますね。末那識というからには、ひたすら有我を思量するわけです。「如来、我となりて」というのは、私流に解釈しますと、私は目的も行き先もわからず彷徨っているわけです。ふらふらしているのですが、ふらふらしていることさえしらないのです。それで、如来は私のふらふらにつきあってくださるのです。しかし、如来は行き先も、目的もしっておいでになり、ふらふらしていても目覚めておいでになるわけですね。これは天と地程の違いがあります。私が私のふらふらに目覚めることを信心というのでしょう。その信心は親鸞聖人は「便同弥勒」と褒め讃えられるわけですね。「念仏の人をば、『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。・・・他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。・・・念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。」(『一念多念文意』真聖P536~537)というわけです。(問い。自ら永遠に流転していくという自覚が還滅の方向になる時ですよね。ということは自分は救われる資格がない、永遠に救われないという方向(流転)が救われていく方向だということ?私に曰く。流転と還滅は説明すると、救われない自覚が救いだということになるのでしょうね。救われたいのに救われない自覚が救いだということはどのようなことなのでしょう。救われないととると、あるのは絶望しかありません。そうしたら絶望の自覚が救いということになるのでしょうか。絶望の先は自死しかないのではないでしょうか。最後の我執です。私は、救いというのは、救われないという自覚の前に、救われる必要のない自己に出遇うことだと思うのです。苦悩する必要を要しない世界に身をおいていることに目覚めるわけです。「ただ念仏」は流転の中において流転しないのでしょう。流転する必要がない世界、それを現生不退というのではないでしょうか。そして私の生活は浄土往生人として、浄土の一分をいただいて生涯を尽くしていけるのではないでしょうか。「人間の祈りの前に如来の祈りがある」、ここに頭が下がるのですね。その姿が人間誕生でしょうね。如来の祈りに頷いた姿が二種深信ですね。曽我先生の晩年は「機の深信」を叫ばれておられました。法蔵菩薩から二種深信そして機の深信という、先生の聞思の深さを思う時、「ただ念仏」、ただ頷くだけでいいのではないかと思うのです。命の事実にふれるということは理ではない事ですね。頭が下がるということが大事なことではないでしょうか。私の妄想をはたらかしますと、最近は妄想の塊になっていましてね、『正信偈』に竜樹菩薩を讃嘆されるお言葉として「悉く、能く有無の見を催破せん」とあります。否定を通して真実を顕すということが大乗の真髄であるということでしょう。そこに一つ問題が出てきますね。真実は「空」だということはわかるが、現実には迷い苦しんでいるではないか、何故なんだということです。無いのではない有ると、積極的に有る問題を提起してきたのが唯識ですね。「ただ迷いのみが有る」ということですね。認識の問題として深層に働く心を観察し、転依を体得することに於いて唯識性に通達する事を明らかにしてきたのでしょう。そうしますとね、親鸞聖人が明らかにされました二種深信はどこから生まれてくるのかと云うことなのです。曽我先生は法蔵菩薩と云うことで阿頼耶識を解明なさいました。晩年、機の深信を叫ばれるときは、私は末那識を憶念されていたのではないかと思うのです。(すごい妄想ですが)そして第六意識に上ってくる時ですね、法の深信は阿頼耶識の自覚であり、機の深信は末那識の自覚ではないかと思うわけです。第七・第八識はお互いに支えあっているわけですね。「第七なくば転ぜず、第八なくば転ぜず」という言葉がありますからね。相応しているわけです。そして、意識に於いて、はっきりと頷くことができるのではないかと思うわけです。「生死罪濁の身」・「煩悩具足の身」・「朝に紅顔あって、夕べに白骨となれる身」は如来の祈りに於いて明らかになった自覚だと思うのです。
難行という問題は、人間存在とも関係してくると思うのです。人間存在は関係的存在であるといわれます。関係を断ち切っては生きていけない存在であるということですね。このことは歴史的存在であるともいえます。時と場所とを限定して、今、ここに、私として、すべてのものと繋がりを以て生かされて生きていると云うことなのでしょう。先日の毎日新聞の「悼む」欄に昨年他界されました広瀬先生の記事がでていました。その記事の中で広瀬先生はシベリヤ抑留の時の状況を生々しく語っておられます。少し抜粋しますと、「氷点下40度での重労働。飢えのあまり、日本人同士が食べ物を奪いあう。ある時、大事なパンを盗まれた。すでに僧籍にあった広瀬さんは 「よし、今度は俺が盗んでやる」 と思った。実際は盗めなかった。それでも 「私はが餓鬼道に落ちた。あの時、私の信仰は壊れてしまったんです」。と語っておいでになります。そして「人間を人間たらしめるものは何か」を考え抜いた。 「帰国して親鸞の教えにまじめに取り組むようになり」、信仰を再構築した。毎日新聞の記者である栗原俊雄さんの問に答えられたものです。非常に考えさせられる遺教です。そういえば、親鸞聖人は『歎異抄』第十三条において「故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。」(真聖p633)と語っておられます。人間とは業縁存在である、と。「業縁をもってのゆえにしばしば生死を受く」存在である、ということに自身の存在根拠を見ておいでになるのですね。難行という時には、この関係存在を断ち切らなければ成り立たないという質をもっているのです。関係存在である限り退転するのです。時代に翻弄されるということが起こってきます。事実あの戦時下にあって命を一番大切にしなかればならない各教団・教会が戦時教学を打ち立て戦争協力をしたという経緯があるからです。餓鬼道に落ち、畜生道を生き地獄絵図を描かなければ成らないというところに自身の根拠を置いた時、自己とは、「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」。と教えられるのではないでしょうか。
『唯識論』においても、平等性智相応の末那識の存在が説かれています。「彼縁無垢異熟識等。起平等性智」(彼は、無垢と異熟との識等を縁じて、平等性智を起こす)と述べられています。安慧論師の説くように「三位に末那無し」という所論に対して、安慧の解釈は、末那識そのものの体もなくなり、浄位の末那識を認めないという立場になります。この立場ですと、染汚の末那識を断絶し、永断することにおいて不退転に住することになるのでしょうが、この論法は矛盾をきたすのですね。(詳細は『唯識に学ぶ』において掲載中です。)護法は安慧の説を論破し、浄位の末那識を認めているのです。このことは、染汚の末那識と浄位の末那識の二つが存在すると説いているわけではないと思うのです。有るのは言葉にすれば「法」です。法といっても実体的にあるわけではありません。法によって見出されてきたのが実体的な二執(我執・法執)ですね。染汚の末那識も見出されたものなのです。見出すということに於て、法は法自身の存在を証明しているのですね。私自身でいうと、苦悩する身の事実が法の働きであるということです。言葉に託して説かれるとですね。『大無量寿経』の法蔵菩薩です。法蔵菩薩の働きです。「安危同一」という働きですし、「恒」ということも、衆生と共に在る存在を言い表わしているのでしょうね。従って、菩薩の階位からいいますと、菩薩と仏の間に断絶があるのです。どうしても超えられない壁が立ちはだかっているのですね。七地沈空の難といわれているものです。龍樹菩薩も曇鸞大師も悩まれたのでしょうね。七地以前の菩薩が七地沈空の難を超えて仏果を得ることができるのか、と。この問が『浄土論註』を通して親鸞聖人は『教行信証』証巻において
「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり」(真聖p285)
と述べておられます。最初に戻りますと、易行道は難行道と対比するものではなく、難行道を成就する道、それが易行道といわれる仏道なのです。それ故、「易往無人の浄信」といわれるのです。『信巻』に
「謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。大信心はすなわちこれ、長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく。また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。
しかるに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽実に獲ること難し。何をもってのゆえに。いまし如来の加威力に由るがゆえなり。博く大悲広慧の力に因るがゆえなり。」(真聖p211)
易往無人の浄信であり、真実の信楽実に獲ること難し、といわれる信心なのです。「ただ念仏」といわれる所以も、念仏に何も付け加える必要がないということを表しているのです。そしてですね、何かを付け加えたいと思う心が『三十頌』に語られています。
本頌における末那識の定義を見てみますと、
(第五頌~第七頌)
頌曰 次第二能変 是識名末那
依彼転縁彼 思量為性相 第五頌
四煩悩常倶 謂我癡我見
并我慢我愛 及余触等倶
有覆無記摂 随所生所繋 第六頌
阿羅漢滅定 出世道無有 第七頌
( 頌に曰く、次は第二の能変なり。是識をば末那(まな)と名けたり。彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記(うぶくむき)に摂む。所生(しょしょう)に随って繋(けい)せらる。阿羅漢(あらかん)と滅定と、出世道とには有ること無し。)
阿頼耶識の上に末那識が語られるのですね。自己中心的な活動しか出来ない存在として末那識が考えられています。無意識というより、何も考えない即座にですね、恒に(我)を審らかに思い量っているのです。しかしその思量する底に流れているのが平等性智相応の末那識なのですね。その時に阿頼耶識は命を支えていく、相続していく浄位の働きをしているのです。命は支えられて存在するということは浄位の阿頼耶識が働いているということの他にありません。その時に末那識は平等性智相応という働きをすると云われています。
私たちは生まれた瞬間から分別をもって産み出されています。ですから分別を知らしめることを通してしか平等性智の存在を証明するしかないのですね。分別心を通して仏道は開かれているのですね。迷いから悟りに向かうのではないのです。このことをはっきりと言い表わしている経典が『大無量寿経』なのですね。ここをもって、親鸞聖人は『真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」 その理由は、「この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施すことをいたす。・・・・・ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」(真聖p152)と宣言されているのです。このことが大乗至極と言われ、浄土の真宗今盛んなり、といわれる所以なのではないでしょうか。 (完)