唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。第五節・分別根品第二 (4)

2014-01-26 14:54:43 | 『阿毘達磨倶舎論』

 先年、12月1日より更新が滞っていました『倶舎論』について久々に更新します。『倶舎論』は仏滅後900年に世親菩薩が著された仏教の原理を説く論書であることは、皆さまもよく御存じのことかと思います。部派仏教の代表格である説一切有部の根本聖典である『阿毘達磨大毘婆沙論』の教理を組織して、此れに批評を加えたものが『倶舎論』になります。
 世親菩薩は『倶舎論』編纂の後、兄無著菩薩の勧めにより大乗に帰入し、唯識を大成、『唯識三十頌』は今も仏教を学ぶものにとっては大変重要な論書の一つになっています。しかし、世親菩薩最晩年には『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』)を著されて、自身の信仰の表白をされました。部派仏教から大乗仏教へ、大乗唯識から、その帰結としての『浄土論』への世親菩薩の求道の歩みは、今を生きる私たちに大きな示唆を与えています。
 法然上人は『選択集』において「往生浄土ヲ明す教トイウハ三経一論是ナリ。・・・一論トイフハ、天親ノ『往生論』是ナリ」(『真聖全』Ⅰp3)と、真実の浄土を明らかにする論であると明らかにされました。

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 今日は、「分別根品第二」二十二根を明かす中の第六頌を読んでみます。異説になります。

 「或流転所依 此生住受用 建立前十四 還滅後亦然」

 (或は流転(ルテン)の所依(ショエ)と、及び生(ショウ)と住(ジュウ)と受用(ジュユウ)とに、前の十四を建立(コンリュウ)す、還滅(ゲンメツ)の後も亦然(シカ)り。)

  •  流転 - 還滅の対。迷いの生存が続くこと。
  •  生 - 生起すること。
  •  住 - 維持され継続されること。
  •  受用 - 受け入れること。
  •  還滅 ー 流転の対。迷いの生存が滅び尽きてさとりの境地に至ること。
  •  後 - 後の八根。二十二根の中、流転に約して十四根を立て、還滅に約して八根を立てています。
  •  亦然 - 還滅にも生と住と受用の四の義があることを示しています。
  •  二十二根 - 眼・耳・鼻・舌・身・意の六内根、男女二根、命根、憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根、未知当知・已知・具知の三無漏根。

 六内根は有情の心の依り所であり、また流転の依り所となる。
 
次に、誕生の基と為る男女二根をたてる。
 
次に、住の元として命根を立て、
 
次に、受用は五受根に依る。
 
ここまでが、前の十四根になります。(「前の十四を建立す」)

 後の八根は、
 
還滅の所依は信等の五作根に依る。
 
無漏の生は未知当知根に依る。
 無漏の住は已知根に依る。
 無漏の受用は具知根に依る。

 以上が異説になります。

 これは、「伝説すらく、五は四に於てし、四根は二種に於てし、五と八とは染と浄との中に、各々に増上を為す」を受けての異説になります。

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 五受根と三無漏根について説明される。

 第七頌・第八頌

 「身不悦名苦 即此悦名楽 及三定心悦 余処此名喜」
 「心不悦名憂 中捨二無別 見修無学道 依九立三根」

 (身(シン)の不悦(フエツ)を苦と名づく、即ち此の悦を楽と名づく、及び三定(サンジョウ)の心(シン)の悦なり、余処には此を喜(キ)と名づく、心の不悦を楽と名づく、中は捨なり、二別なし。見と修と無学道とに、九に依って三根を立つ。)

 苦・楽・捨の三受から、苦受から憂受を開き、楽受から喜受を開いて五受根と為す。

 五識相応の受は、身根から生起する受で、苦受・楽受は身受であり、第六識相応の受は心受で、憂受・喜受がこれにあたる。尚、第三句の第三静慮では五識がないから身受はない。但し、第三静慮の心悦を楽受と名づけ、第二静慮までの心悦を喜受と名づく。第六句の捨は身受・心受に通じ、非悦非不悦である。

 次に三無漏根ですが、意・喜・楽・捨及び信等の五根の九根に依って立てられ、見道に於いては未知当知根を、修道に於いては已知根を、無学道に於いては具知根を立てる。

 四諦の理を知る無漏の根をまとめて三無漏根というが、それぞれを未知当知根・已知根・具知根とに分けられ、その領分を明らかにしている。

  •  未知当知根 - 未だかって知らなかった四諦の理をすべて知ろうと欲する見道における力。
  •  已知根 - 修道においてさらに事に迷う修惑を断じるために四諦の理を知る力。
  •  具知根 - すべての惑を断じ尽くして、もはや修学すべきことのなくなった無学道において、すでに四諦の理を知り尽くしたとする智慧を具えていること。

 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。第五節・分別根品第二 (3)

2013-12-01 17:30:06 | 『阿毘達磨倶舎論』

 一切の現象は自己を離れては存在しない。自己とは存在内存在であり、くしゃみすると地球の裏側で風邪をひくようなものである、その逆もいえようか。

 太田久紀師は「唯識というのはうっかりすると、心理学であったり、哲学であったりという理屈のような印象を受けやすいところがありますので、唯識というのはそうではない、私達が毎日の生活の中で、それを頂いていう仏教だということ、・・・」と教えておられます。

 思索を通して、外界から教えられることを、身を通して頷いていくことが、内観の道である仏陀の教えではないでしょうか。

 先日の坊主バーでの法話タイムで、「震災のこと、原発のことを心配はするけれども、本当はそれに対し痛みも、苦しみも感じない自分がいる。申し訳のないことである」と話されていましたが、他のことに対しては利害において痛みや悦びを感じはするけれども、利害のないことに関しては痛みも喜びも感じない自分がいます。仏教は、すべては自分と関わっているんだよ、と教えてくれます。何故なら、外界は自己の心の投影だからです。ですから、無関係と思い量ることに於て、慚愧心を頂くのでしょう。震災ボランテイア活動や各種のボランテイア活動そして終末医療に関わる時、関わった時を通して慚愧心を頂いていくことが、自己の心の投影である外界と自己が本質に於て頷き遇えるのではないでしょうか。

久しぶりの更新です。二十二根の第五頌に学びます。

 前回では、根の意義は、「増上」であることを述べました。

 第一頌に「五は四に於てし、四根は二種に於てし、五と八とは染と浄との中に、各別に増上となす。」と説かれていました。

 二十二根は、六内根と男女二根と命根・憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根と未知当知・已知・具知の三無漏根をいいます。

 「五は四に於てし」 - 眼等の五根は四事(身を荘厳する。身を導養する。識等を生ず。不共事を為す。)に於て増上である。

 「四根は二種に於てし」 - 男女二根と命根と意根は、有情異・分別異において増上である。

 「五と八とは染と浄に於てし」 - 五受根と信等の五作根・未知当知等の無漏根は、雑染と清浄との中に於て増上である。

 部派仏教においても、無我を顕わしていますが、まさに、二十二根が相応して一切の識別が生起することを述べています。五蘊仮和合は、部派に於いてはこのように説明されているのです。

 今日は、根を立てる六つの理由を示しています。

 「心所依此別 此住此雑染 此資糧此淨 由此量立根」

 (「心の所依と此が別と、此が住と此が雑染と、此が資糧と此が淨と、此の量に由って根を立つ」)

 「此」は有情のこと。「此が別」とは、男・女の別をあらわす。

 (1) 心の所依として眼等の六根を立て、これが流転の依り所となる。
 (2) 有情の男女の区別を男女二根に依って定め、そこから六根が生ずる。
 (3) 有情が一生涯を尽くすには命根に依る、命根は六根を維持し。
 (4) 有情が雑染を受用するのは五受根に依る。五受根は境を受用せしめる。
 (5) 有情に清浄の資糧となるのは信等の五根に依る。還滅の依り所となる。
 (6) 有情に無漏及び涅槃の清浄を成ずるのは三無漏根に依る。即ち、未知当知根は還滅を生ぜしめ、已知根は還滅を維持し、具知根は還滅を受用せしめる。

 以上の理由から、根を立てるのである。従って無明等を根とするわけにはいかないのだ、と。


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。第五節・分別根品第二 (2)

2013-09-01 13:44:21 | 『阿毘達磨倶舎論』

 増上こそが根の義であることを検証する。

 了自境増上 總立於六根    從身立二根 女男性増上(二)    

 於同住雜染 清淨増上故    應知命五受 信等立爲根(三)   

 未當知已知 具知根亦爾    於得後後道 涅槃等増上(四)

 (「自境を了する増上に、総じて六根を立つ。身に従って二根を立つ、女と男との性に増上なり。
 同住と雑染と清浄とに於て増上の故に、応に知るべし、命と五受と信等とを立てて根とす。
 未當知と已知と具知との根も亦爾り、後後の道と涅槃とを得る等に於て増上なり。」)

        ―       ・       ―

 「また、眼などの五根は自境を知覚することにおいて、意根はすべての境を識知することにおいて、増上(力すぐれている、の意)である。特に、女たることや男たることにおいて増上でるから、身根より別に女・男根が立てられる。衆同分がそこにとどまることと、雑染と、清浄と、において増上であるから、命根と五受根と五作根とがそれぞれ立てられる。未知當知根は已知根を已知根は具知根を具知根は般涅槃を得ることなどにおいて増上であるから、これら三無漏根が立てられる。」(桜部 建著『倶舎論』p80~81より)

        ―       ・       ―

 衆同分(しゅどうぶん) - 同じ種類を成り立たしめる原理的力をいう。

  •  未知當知根(みちとうちこん) - 二十二根のなか、四諦の理を知る無漏の根をまとめて三無漏根(未知當知根・已知根・具知根)といい、その中の一つを指す。未だかって知らなかった四諦の理をまさにすべて知ろうと欲する見道における力をいう。未知欲知根ともいう。なお、「根」とは、あるものを生み出す勝れた力を有するものの総称。
  •  已知根(いちこん) - 見道においてすでに四諦の理を知り終えているが、、修道においてさらに事に迷う修惑を断じるために四諦の理を知る力をいう。
  •  具知根(ぐちこん) - すべての惑を断じ尽くして、もはや学修すべきことがなくなった無学道において、すでに四諦の理を知り尽くしたと智る力(無漏智)を具えている力ある徳性をいう。現法楽住において増上の用があるといわれている。 

 第一句の「自境を了(別)する」のは六識で、眼等の六根は、その了別の識において増上のはたらきがあるから、眼等の六に根の名を立てるのでる。境はどうか、色等の境も識に対して増上の働きがあるのではないかという疑問ですね、これは簡単に、色等は眼等のように最勝自在の義を持っていないから根ということはない、とされています。第三句の「身に従って二根を立つ」は、男女二根は、身根の一分であるということ。男女二根が男性・女性に於て増上の働きがあるということ。

  •  同住(どうじゅう) - 同分が存続すること。同分は衆同分に同じ。

 同分の住する位として、存在において命根が増上の働きがり、染汚に対しては楽等の五受が増上の働きがあり、清浄に対しては信等の五根が増上であって、それぞれ根の名を立てる。第九句は「未知當知根は已知根を已知根は具知根を具知根は般涅槃を得ることなどにおいて増上であるから、これら三無漏根が立てられる。」


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。第五節・分別根品第二 (1)

2013-08-11 22:06:50 | 『阿毘達磨倶舎論』

 第五節 二十二根及び諸門分別

 分別根品第二より学びます。玄奘訳倶舎論によりますと、本頌は九品に分けられていますが、これからは、その第二の根品・五巻(『倶舎論』巻三より巻七に至る)七十四頌より学ぶことになります。内容は、二十二根の解説及びその諸門分別の説明です。

 『倶舎論』の内容、組織については仏典講座 『倶舎論』 (桜部 建著 ・ 大蔵出版) に依ります。

 第一部 原理論 第二章

 (6)  二十二根の説明           
 (7)  法の倶生の定則
 (8)  心所法の説明            
 (9)  心不相応行の説明         
 (10) 六因・五果・四縁の説明
 (11) 十二心・二十心の相生の原則 

         ―      ・      ―

 根は増上の義であることを述べています。樹木は根を張りますね、根は樹木を生長さす作用をもっています、それを根と名づくといわれているのです。

 「伝説五於四 四根於二種 五八染浄中 各別為増上」(第一頌)

 (伝説すらく、五は四に於いてし、四根は二種に於いてし、五と八とは染と浄との中に、各別に増上と為す。)

 染は雑染の略。浄は清浄の略。「染と浄との中」とは、煩悩に雑染されている法と、そうではない清浄の法、ということになります。

 この科段は二十二根について説明されているところですが、八は、信等五根と三無漏根とを合わせて八といわれています。二十二根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六内根、女・男の二根、命根、憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根、及び未知当知・已知・具知の三無漏根を指しますが、すべて根と呼ばれて、根の意義を見出そうとしています。そして、「増上」こそが根の意義であると述べているのです。

 先ず始めに、「伝説」という言葉が置かれていますが、これは有部の説を挙げて不信を表す為に置かれているといわれています。

 第一句の「伝説五於四」は、眼等の五根は四事に於いて(四つの点)で、増上を為す、と。一に身を荘厳する、二に身を導養する、三に識等を生ぜしめる、四に不共事を為す。

 第二句の「四根」は、「男女二根及び命根意根の四」ですが、これが二事に於いて増上を為す、と。二の増上とは、一に有情異、二に分別異をいいます。有情異とは、此の二根において男女の類別が出来る。分別異とは、形相、言音、乳房などが全く異なる。命根の二は、同分をよく続け、よく保たたしめる。意根の二とは、よく後有を続け、及び諸法に対し自在に行ずる。

 第三句の「染と浄との中」とは、楽等の五受根と信等の八根とは、染と浄との間に於いて各別に増上す、と説明されています。


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (31)  第一章第四節

2013-07-21 15:42:31 | 『阿毘達磨倶舎論』

 分別界品第一の最終頌(十八界の分類的考察・『倶舎論』巻第二を終わる。)

 第四十七頌

 「五外所識 常法界無為 法一分是根 並内界十二」

 (五の外は二の所識なり。常は法界の無為なり。法の一分は是れ根なり、並びに内界の十二なり。)

 所識門(第二十)
 常非常門(第二十一)   } を説明する。
 根非根門(第二十二)

 五外とは、五の外境をいう、色・声・香・味・触の五境のこと。この五境は、五識の所識ばかりではなく、意識の所識であるので、「二の所識」といわれる。五境は、各々色境は眼識によって知られ、声境は耳識によって知られる等々、すべては意識によって知られるものである。その他の、十八界中の五外を除いた十三界はすべて意識の所識であり、五識には関係がないとされる。(第四十七頌初句)

 「常は法界の無為なり」は、法界中の無為は常であって、その他はすべて無常であることを明らかにしています。(第四十七頌第二句)

 「法の一分は是れ根なり」は、法界の一部と七心界とが根であり、その他は根ではないことを説いています。

 初めに五外ということで、五境を表していましたが、内界の十二は境に対してですね、六界(眼乃至意界)と六識(眼識乃至意識)を内界と説明されています。

 『倶舎論』では法を、五位七十五法として分類していますが、色法が十一・心法が一・心所法が四十六・心不相応行が十四・無為法が三というわけです。これらを開いて五蘊・十二処・十八界という存在の分析をしています。(唯識では五位百法という分類を数えています)

 五処に対して五界・意処に対して意界と眼識界乃至意識界です、外処の色処乃至触処にたいして各々色界乃至触界に分類されるわけですが、最後の法処の六十四に対して法界の六十四になり、こえは無為法に摂められ常であることを現わしているわけです。

 根に、二十二根を説いていますが、これは次の第五節・分別界品第二・諸門分別(巻第三より巻第七)として説明がされていますので次回に譲ります。

七心界については、2013・2/10の項を参照してください。

 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (30)  第一章第四節

2013-07-07 11:50:25 | 『阿毘達磨倶舎論』
『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (29)  第一章第四節
 根・境・識と身体とがそれぞれ属する(依)地(三界九地)の相互関係について
 分別界品第一 第45・46偈
 「眼不下於身 色識非上眼 色於識一切 二於身亦然
 
 如眼耳亦然 次三皆自地 身識自下地 意不定應知」
 (眼(げん)は身(しん)より下(げ)ならず、色(しき)と識(しき)とは眼より上(じょう)成るに非ず、色は識に於て一切なり、二を身に於てするも亦然り、眼の如く耳(に)も亦然り、次の三は皆自地(じち)なり、身識は自と下地(げち)となり、意は不定なること應に知るべし。)
 眼根が色境を見る時、身の住処に依り、眼根と色境と眼識と身との依地の関係はどのようになっているのか、という問いに答えています。
 若し欲界に生じて、欲界の眼を以て欲界の色を見る時は、根・境・識・身は欲界同地であるけれども、若し色識初静慮の眼を以て欲界の色を見る時は、身と色とは欲界で、眼と識とは初静慮である。
 又若し初静慮に生じて、自地(初静慮)の眼を以て自地の色を見る時は、根・境・識・身は同地であるけれども、欲界の色を見る時は、色は欲界で、他の根・識・身は初静慮である。
以上のようなことを論じているのがこの科段になります。
 第一句は、眼は身より下ではない(同又は上である)。
 第二句は、色と識とを眼根に対するに、等または下とであって、上ではない。これは、眼根が下地であれば、上地の色を見ることは出来ない、それと上地の識は下地の眼根には依らないからである、と。
 第三句は、色は識に対して一切(同・上・下)に通ずる。
 第四句は、「二を」(色と識)身に対するに、これも同じく一切に通ずる。
 第五句は、耳根も眼根と同じである。
 第六句は、「次の三」(鼻・舌・身)の三根は、根・境・識いずれも同地である。
 第七句は、第六句をうけて、同地ではあるけれども、異なっていることもあることを明らかにしています。身と触とは同地であるが、識を触と身とに対すると、同地または下地である。上三静慮に生じた場合を下地とする。
 第八句は、意根は四事不定である。種々に変化する。同の場合もあるが、種々に変化しているものである、と。



『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (29)  第一章第四節

2013-06-16 09:50:46 | 『阿毘達磨倶舎論』

 今日・明日は、池田市住吉の順正寺(橋川 興住職)さんで、公開講義と一泊研修会が開かれます。講題は「自分自身の存在意義」(- 今の自分を引き受けるとは -)です。今からでかけます。

            ー      ・      ー

 『倶舎論』 分別界品第一 第四十四頌

 「随根変識異 故眼等名依 彼及不共因 故随根説識」

 (「根変に随って識異る、故に眼等を依と名く。彼と及び不共因との故に、根に随って識を説く。」)

 識の依りどころは、境ではなく、根であること。識をその根の名で呼び、その境の名では呼ばない、ことを説明しています。根を所依とするということの理由を明らかにしているのです。

 根に変化が起こる(五根が衰えて変化すること)と識にも変化が起こる。しかし、色等の境が変化を起こしても、(能縁の)識に変化は現れない、よって、識は根に随って、眼等の根を所依と名ける。

 ① その所依に随って眼識等という。

 ② 不共因に依る。眼等の根は他と共通ではない因を共にしない、眼根は眼識の所依であり、耳根は耳識の所依である等々。

 この『倶舎論』の説明は、後に唯識にも引き継がれ、「三十頌」第三能変に於いて、随根得名・随境得名の理由が示され、共相・不共相を以て、識の所依は根であることから、随根得名を以て眼識乃至意識と名けると述べています。尚、詳細については2012年8月8日のブログを参考にしてください。少し転載します。

 「六識の名は互に特徴を示し、その長ずるところを以て互に混乱することはないのである、と。そして随境得名は未自在位のみに限るといわれています。

 「六識というものを立てるについて、識というものは所依の根と所縁の境とをもったものであるが、その点から六識は一面は根により、一面は境によるから、六識の名は根による場合と、境による場合の二つが可能である。眼識乃至意識は根により、色識乃至法識は境による。根による場合に五義を具するということを理由にあげた。根は、増上なる作用である。眼根は見ること、意根は思量することである。そういう作用が六識というものを起こすのに増上なる力をもつ。五義を具することで増上なる力をあらわす。眼識というのは眼に依る識である。「依る」という中に、総じては「依る」であるが、その依ることの中に、発・属・助・如という義がある。これらの五義ということによって増上なる機能をあらわす。そういうところから根によって名を立てる。

 その次に境によって名を立てるという。六識の名を立てるについては、随根立名と随境立名ということがあって、五義を具するのは随根立名である。五義を具することによって根の意義を明らかにする。全く六識は六根によって起こされたものであるから、六根と一つである。ところが、境によって名を立てる方は、「識の義に順ずるが故に」といわれる。そうすると実はこの方がむしろ、識の独自の意義をあらわしていると考えられる。識は了別である。了別が作用であり、識自体をあらわしている。了別作用が識作用である。境によって名を立てるのは、識の識たる所以をあらわす。識そのものの本質的な意義をあらわしている。根は識の前提である。根によって了別するというが、根はむしろ識の前提であり、識そのものは境の了別作用である。根を前提とする識そのものの識たる所以をあらわすのは、むしろ境である。了別が識法といわれるものの法相である。識の了別という意義を、境において立てられた名はあらわすわけである。」(『安田理深選集』第三巻p234~235)


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (28)  第一章第四節

2013-05-26 19:21:39 | 『阿毘達磨倶舎論』

 『倶舎論』、久しぶりの更新です。

 十八界の分類的考察 第四十二頌

 一眼で見るか、二眼で見るかの問題(前半)

 「或二眼倶時 見色分明故」

 (「或は二眼倶時なり、色を見ること分明なるが故なり。」)

 二眼見の方が色法を正しく見る、一眼見では明確ではない、ということを明らかにしています。

 後半は、根が境に接触するか否か(至境不至境)の問題。

 「眼耳意根境 不至三相違」

 (「眼と耳と意との根が境は不至なり、三は相違す。」)

 不至 - 六根の中の、眼と耳と意の三つの根の境は離れている。根が距離を置いて認識する対象(境)をいう。

 それに対して、至境とは、鼻根、舌根、身根の三つの根と境は距離を置かない。直接に認識されるものである。

 第四十三頌

 前半は、根と境の量の問題(等量境不等量境を説く)。

 「応知鼻等三 唯取等量境」

 (「応に知るべし、鼻等の三は、唯等量の境を取る」)

 鼻等の三根(鼻根・舌根・身根)は至境を認識するから、これは等量境を認識するのである。根と境が等量であるということ。それに反して、眼・耳の二根は、有る時は小量を認識し、有る時は等量を認識し、有る時には大量を認識でするから、不定である。意は質礙のないものであるから、その量を定められない、という。

 後半は、意識の依り所は直前の瞬間に過去した意であり、前五識の依り所は現在の根であることを述べる。)

 「後依唯過去 五識依或倶」

 (「後の依は唯過去なり、五識の依は或は倶なり」)

 六識の所依を説いています。

 第六意識は過去の意根に依る。

 前五識の所依は現在倶生の五根であるけれども、また、意根にも依る。所依が二種あるので倶という。

 倶は、四句分別を以て答えている。

 四句分別とは、二つの概念、有と無と云う場合、有(有る)、無(無い)、有亦無か(有り且つ無)、非有非無(有るのでもなく、無いのでもない)というように、二つの概念をもって物事を四つにわけて判断する方法。

 一に、眼識の所依であって眼識の等無間縁でないものを倶生の眼根という。

 二に、眼識の等無間縁であって眼識の所依でないものを無間滅の心所という。

 三に、眼識の所依であって、また眼識の等無間縁であるものを過去の意根という。

 四に、眼識の所依でもなく、また眼識の等無間縁でもないものを、その他を非有非無という。耳識・鼻識・舌識・身識も同様である。

 意識の所依は定んで意識の等無間縁である。しかし、意識の等無間縁は必ずしも意識の所依ではなく、無間滅の心所である。

 これが『倶舎論』で説かれる、六識の所依の問題の答えです。この説は大乗に至って問題視され、意根の所依は第七末那識であることが明らかにされます。

 

 

 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (27)  第一章第四節

2013-04-07 19:24:49 | 『阿毘達磨倶舎論』

1101
 明日は、釈尊降誕会(花まつり)です。

    ―      ・      ―

 分別界品第一(十八界の分類的考察)

 第四十頌・第四十一頌 (第十九見非見門)

 眼法界一分 八種説名見 五識倶生慧 非見不度故

 眼見色同分 非彼能依識 伝説不能観 被障諸色故 

 (眼と法界の一分の八種とを説いて見と名づく。五識倶生の慧は見に非ず、不度(フタク)の故なり。眼の色を見るは同分なり、彼能依の識に非ず。伝説すらく、被障の諸色を観ること能わざるが故にと。)

 どれだけが見であるのか、五識と倶である(有漏の)慧は見ではない、推度の意であるからである。同分の眼こそが見るのであって、眼を依りどころとする識(眼識)が見るのではない。

 見に二種あることを述べています。

 ①は、眼根が物を見ること。眼根は見であるという。

 ②は、慧の一分である推度作用を見という。「法界の一分の八種」とは、法界の一分である、身見等の五染汚見と有漏の正見・有学の正見・無学の正見の八種は、慧の一分である推度作用という意味で見である。

 その他はすべて非見である。五識は無分別なるが故に、その倶生の慧は見とはいえない、何故なら、無分別なるが故に推度しないからである。

 五句以下は、根見識見の争論が述べられています。『倶舎論』巻二・十四左、以下に詳しく説かれています。

 根見とは、認識対象を見るという作用は認識器官(根)にあるという見解、眼根が見るという説です。それに対し識見とは、認識対象を見るという作用は認識作用(識)にあるという見解、目識が見るという説になります。『倶舎論』巻二の記述は両者の諍論を詳細しています。

 識見家の問い、眼根は推度(思考すること・推度を見と名づく。邪見とも名づく。計度と同じ)しない、にもかかわらず、どうして見と名づけることができるのか。

 根見家の答え、眼根は諸色をよく観照(智慧の光が対象を照らしだすこと。「浄根、普く観照す」)するから、見と名づけ得られるのである、と。

 問い、どういう眼根が見るというのであればいつでも見るべきではないのか。

 答え、凡ての眼根が見るものではない。

 問い、どうのような眼根が見るのであるのか。

 答え、眼根が識と合する位によく見るのである。

 問い、それでは識が見ているのではないのか。

 答え、識は能見ではない。

 問い、何故か。

 答え、壁の向こうにあるものを見ることはできない、若し識見ならば、これを見ることができる筈である。識は、被障の事物においては眼識は生起しないからであり、識が生起しないかぎり見ることはできない。

 ・・・・・・ 

 『経』に眼よく色を見るというのは、眼根が見の所依だからである、また意よく法を識るという。これは意識が法を識るのであるが、その所依について意という、今はこれと同じ論理である、という。

 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (26)  第一章第四節

2013-03-31 12:22:27 | 『阿毘達磨倶舎論』

P1000692_3 分別界品第一(十八界の分類的考察)

 第三十九頌 (第十八三断門)

 「十五唯修断 後三界通三 不染非六生 色定非見断」

 (十五は唯だ修断なり、後の三界は三に通ず、不染と非六生と、色とは定んで見断に非ず。)

 どれだけがただ修所断か、どれだけが見所断・修所断・非所断に通じ、どれだけがけっして見所断でないのかが考察される一段です。

  •  一に見所断(見道所断のもの)
  •  二に修所断(修道所断のもの)
  •  三に非所断(見道所断のものでもなく、修道所断のものでもないもの)

 十八界を三断門に配当すれば、この三に分類されると考察しています。

 

 前十五界は有漏だから非所断ではなく、又見道所断でもない。前十五界は修所断である。修道によって断ぜられるものである。

 

 後三界は三に通じる。

 

 不染は染汚(不善・有覆無記)でないもの、即ち、善と無覆無記と、非六生、非六生は前五識のこと。詳しくは、六の生とは、第六意処より生じたものを指し、非ですから、六の生に非ざるものという意味で、五根より生じたもの、即ち前五識を指します。これらは、無覆無記であり、第六意根から生ずるものではなく、又悪趣を招く身語業は色法であり、これらの三種は四諦の理に迷って親しく起こしたものではないから、決して見所断ではない。

 『倶舎論』における百八煩悩説。(唯識の説は、百二十八の煩悩を数えます。)

 見道所断の惑(見惑)に十の根本煩悩があるとされます。これは三界に通じて四聖諦が教えられています。四諦の理に迷っているのですが、なぜ迷っているのかと云えば、十の根本煩悩が働いているからだといわれています。これは三界において若干の相違はありますが、おおよそ苦諦においては、欲界には十の根本煩悩が働き、色界・無色界においては瞋恚は働かないと云われています。これが三界・四諦において八十八の見惑を数えます。これは分別起の煩悩です。

 次に見惑は見道において断ぜられるわけですが、倶生起の煩悩である、四煩悩(貪・瞋・癡・慢)が働いている。欲界ではすべてが働き、色界及び無色界では瞋は働かないとされ、十の修惑を数えています。これらは修道において断ぜられるとされます。それと十纏を加えて百八の煩悩、除夜の鐘は百八の煩悩を断ずるという意味で、大晦日の夜空に百八の鐘が鳴り響きます。