唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(11)

2017-11-11 18:26:18 | 阿頼耶識の存在論証
  
 後半は、有部の主張の問題点を挙げて論破する科段になります。
 護法は五つの問題点を挙げて論破しているんですね。
 第一は、如想起滅難
 「是れ則ち心行のみを滅せりとは説く応からず、識と想等とは、起滅すること同なるが故に。」(『論』第四・四左)
 有部の論者よ、心行のみを滅せりと説いてはならない、何故なら識と心行とは起滅を同じくするからである。心行については先に述べていますが、『述記』の説明は受と想のみが心行であるといいます。
 つまり、有部は、滅尽定に於いて六識は滅しているというのは、六識で働いている受の心所と想の心所のみが滅せられているのであって、六識は滅せられていないと主張しているのですね。滅尽定においても六識は働いているというのですが、ここに矛盾点があると護法は指摘しているわけです。
 その答が、「識と想等とは、起滅すること同なるが故に」なのです。
 識が滅したら心行も滅し、心行が滅したら識もまた滅する、起滅を同じくするからである。しかし有部の主張ではそうならないんですね。ここが論破の第一の問題点であるとします。
 ここの論点は起滅ですね。生ずることと、滅することは同時であると云っているわけです。」
 滅尽定に於いて受の心所・想の心所が滅せられている「ということは、識もまた滅せられて』いるという云いことなんですね。
 逆の発想からしますと、受及び想の心所が滅せられているということは、とりもなおさず、識も亦滅せられているというになるんだと。ただね、有部は滅尽定に於いても、六識は滅していないと主張することと、滅尽定では、すべての心行が滅せられていると主張する学派と矛盾する主張になるわけれす。」
 
 

雑考

2017-11-09 21:44:56 | 『成唯識論』に学ぶ

朋との会話の中で、自分という存在が如何に自分に固執し、固執していることさえ分からずに、自分が被害者意識を持つことの闇の深さを教えられています。
 唯識は三法展転因果同時を教えていますが、因の種子と現行の果の同時は無覆無記だと。因は衆縁を待って現行するわけですが、現行は唯識性(般若思想では空)なんです。ここは三分説で学んでいたわけですが、つまり、識体転じて二分に似る。客観的には相分です。第八識によって捉えられたもの。それが認識されるには、認識する働きを持つ見分が必要なんです。見分は能動的役割を担っています。見分において相分は意味あるものとなる指向されるものなんですね。見分は本来自然法爾です。色付けをしない純粋性を持ったものなのですが、私という存在は、認識を起こす時に、私というフィルターを見分に重ねるのですね。それが我執を引き起こしてくるのです。つまり末那識です。我の本来性は常一だからですね、一類にして恒に相続するのは我にとって非常に都合のいいものなんです。壊れないということが前提としてあるのです。だから間違いを起こすのですが、間違いは間違いとして本来性に帰ろうとする動きをします。具体的には煩悩です。煩悩は本来性に逆らったことから出てくる濾水ですね。濾水は本来性に帰れというシグナルなんです。
 このことを『成唯識爛」は細にいって論証を進めています。
 復習ですが、初心に帰りましょう。
 「三分を解す」一段を読みます。
 三分は、二分説の上に自証分を立て、自証分が識体であって、識体が転じて相分・見分になると説いてきます。
 そして先ず、説一切有分の教説と比較しながら、相分・見分・自証分の在り方を説明します。
 説一切有部の教説は、私たちの考え方と非常に近いですので、しっかり学んででいく必要があると思います。
 先ず最初に、大乗及び正量部以外は、心識に離れて別に心外の法が有ると執していることを述べます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者、彼が説く外境は是れ所縁なり。相分を行相と名づく。見分は事と名づく。是れ心心所の自体の相なるが故に。」(『論』第二・二十七右)
 「心外の境は是れ所縁なり。心の上に所縁に似る相有るを行相と名づく。体は即ち見分に摂するが故に。大乗の相見分を以て彼の宗に即して名を立つるのみ。」(『述記』第三本・四十四右)
 客観的に事物が存在すると説く有り方と、唯識が説く説き方とを比較して相分・見分・自証分を明らかにしてきます。
 本科段は、唯識に達していない人たちの解釈を挙げます。代表者として説一切有部の教説が挙げられてきます。
      外境 ― 所縁(認識対象)
      所縁に似る相 ― 行相(能縁心の上に所縁に似た相を行相と名づける)― 能縁の行相を相分と名づける。
      能縁 ― 見分(能縁を事と名づく)
      よって、見分の外に別に自体分を立てない。
      所縁  ―  外境
             行相 (相分)     〉 説一切有部の主張
      能縁 〈 
             事  (見分)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      所縁  ―  相分
             行相  ―  見分
      能縁 〈               〉 唯識 (大乗の立場)
             事   ―  自証分
 説一切有部の教学の特徴ですが、三世実有法体恒有ということですね。法は有るという主張です。大乗は諸法無我ですから、実体としての外境は存在しないと主張しています。存在そのものは縁起として有るということになりますね。ここで云われているのは、外境は存在し、外境を所縁とし心外に法あると執しているということです。能縁はなにかと云いますと、所縁に似た相を行相として、見分が働いているという構図になりますね。見分が自体分で事と名づけるのである、と。見分が外境に働いて、外境に似た相を行相として認識しているということになり、この行相は影像相分ということになりますね。このところを『述記』は昨日も述べましたが、「心外の境は所縁なり。心の上に所縁に似る相あるを、即ち行相、謂く相に行ずるを。見分の能縁をば説いて名づけて事と為す。」と説明しています。
 小乗の事は自体相をいい、大乗の事は自証分をいう。大乗は相分が所縁として、能縁の行相は「了」・自証分が事であると説きます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、対象の事物は有であるとする者は、ということですが、花を見ている、黒板を見ている、月を見ている。皆んなが同じ花を見、同じ黒板を見、同じ月を見ている、こう考えているのですね。。この花・黒板・月等が外境です。外境を有としながら、私は、外境の上に影を作りあげていく、影像です。これが相分で、これが行相というんです。例えば、花としますと、花そのものを見ているのではなく、花を見ながら、その上に花の影を作り上げていく。その作りあげていく対象が外に有ると主張しています。それを見ている。見ているのは見分ですから、見分を事と表しています。此の主張はよく理解できますね。普通の考え方はほぼこの通りであろうと思われます。
 職場に通う道があるから職場に通うことが出来る、昨日も今日も明日も道は存在するんやというのが対象世界が有るとする見方ですね。本当にそうだろうかという問いを出してきたのが唯識なのですが、ここは?をつけておきます。
 「執有離識所縁境者」は相分を行相とし、見分を事とする。見分が自体分ですから、心王は一つ。心は一つだというわけです。心王が事、事が六つの働きをする。心所も同じだと。こういうことが『倶舎論』に説かれている。相分・見分という言葉はありませんが、唯識の言葉をかりて説明しているのですね。以下、詳細が説かれてきます。
 「心と心所とは、所依縁は同なり、行相は相似せり。」(『論』第二・二十七右) 心と心所は、所依と所縁は同じである、と。そして行相は相似している。
 所依・所縁が同じである、と云うのは、一根に依って一境を縁ずるからである。しかし行相は相似している。その理由は、青などを見ていても、行相は各別であるから。行相は心王が見ている青と、心所が見ている青では、同じ青を見ているのだけれども、心王は了別をしている。受の心所はそれを受け取っている。「受は領納するを以て相と為す」。想の心所はその形を捉えている。「想は像を取るを以て相と為る」。思の心所は、それをどうするのかといろいろ思いめぐらしている。しかれども、行相は似ているが同じではないと、働きが違うというわけですね。
 心心所はその所依も所縁も同じであるところから、一々の心心所の行相は相似して現れるのであると説いてきます。
「事は数等しと雖も、而も相は各々異なり。識と誦と想との等きいい相各別なるが故に」(『論』第二・二十七右) 
識と受と想と思等の体は各々一つである。しかし相状は別別である。。色受想行識と相は異なっている。それぞれがそれぞれの働きをもっているんだ、と。こういうようにに説いてくるんですね。これがですね、説一切有部等の主張になります。「執有離識所縁境者」の説です。
 それに対しまして、大乗の説き方はですね、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者。則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分をば行相と名づく」(『論』第二・二十七右)
 見ているのは心の影だと。影像でうね。自分の心が外境に似て現じて、それを心が捉えて、捉えたものをを見ているという、身ている通りのものが存在するわけではないと達観している者がいる、それが「達無離識所縁境者」といいますが、ここでですね。最初に述べてきました説一切有部等の説は間違いであり、これが正義であると明らかにしたのです。
 もう一度整理をしまうと、
       外境は有ると主張している人たち ― 外境は所縁である。相分を行相といい、見分を事という。
       外境は無いと主張している人たち ― 相分は所縁である。見分を行相といい、相と見との所依の自体を事という。即ち自証分である。
 見ているのは自分の心の影であって、対象としての事物そのものではないといいます。これは何を意味するのかですね。これはですね、私たちは、ものそのものを直接見ることは出来ないことを言い当てているのではないかと思いますね。見るというのは、私の経験や、趣味によっても異なってきますね。経験や趣味等を通して見ている、色付けをしているということになるのでしょう。
 本科段から正義が示されます。
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分をば行相と名づけ、相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)     
     相分 ― 所縁
     見分 ― 行相
     自証分 ― 事
 相分が所縁であるということは、見ているのは自分のこころの影であって、見られているものが実体としてあるわけではなく、見られているものが所縁としてあるのではない、このような見方は、「識に離れたる所縁の境有りと執すす者」の見方ですね。対象世界が有って、それを所縁といて認識を起こすという捉え方は非常に解り易いのですが、唯識はそうではないんだと教えています。すべては自分の心が捉えたものである、と。自分が見ているのは心の影像であり、影像でしか見ることはできないんだと。
 二分説を浚い掘り下げて、相・見二分があるわけではなく、相・見二分は識体が変現したもの、識所変である。識体が現行してくる時には、相・見二分に似て現ずるのですね。「ただ識のみ有り」とは、こういう意味なのですね。
 私たちが外界といっているのは、私たちの心が作り上げてきたものであるといえるのでないですか。「こんな世の中」という世界は無いんです。責任転嫁をする所に問題が起きると教えているのですね
               ・・・
 三分義までをまとめてみます。
 仏教とは何を教えているのでしょうか。仏法は何を意味しているのでしょうか。私とどんな関わりが有るのでしょうか。関わりなくして私は生きていくことができるのでしょうか。
 「問いを持つことの大切さ」
 私は仏教と出会ってから答えばかりを探していました。「なぜ」という素朴な問いがでてこなかったのですが、ある日家族と、命の大切さについて話をしているとき、「問いを持つ」ことができたのが仏教と出会った証であると教えられたのです。そういえば『大経』に大切なことが教えられてありました。親鸞は『教行信証』教巻において「出世の大事」について『大経』を引用しておられます。(真聖ー152~153)『ここに世尊、阿難に告げて日わく、「諸天の汝を教えて来して仏に問わしめるか、自ら慧見をもって威顔を問えるか」と。阿難、仏に白さく、「・・・・・自ら所見をもって、この義を問いたてまつるならくのみ」と。仏の言わく、「善いかな阿難、問えるところ甚だ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとして、この慧義を問えり。・・・」と、この後世尊の出世の大事が語られていくわけですが、問いと答えには物の違いがあるのです。格が違うというか、分限が違うというのか「問い」は衆生の分限「答え」は仏の世界、そして仏によって見出されたのが衆生という存在なのです。「問い」も仏によって引き出されたといってよいのだと思います。「何故私たちは苦しみ悩むのか」「何故命は大切なのか」「自己中心でしか物事を考えられないのか」等、「なぜ」という問いを頂いたことの大切さを大事にして唯識の世界を歩み続けたいと思います。 
 ー八識三能変ー
八識とは表層から深層にむかって八つの重層的構造を持つとする捉えかたで、三能変とはこころが三層をなして深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を言います。
 八識ー眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識
 三能変ー異熟識(阿頼耶識)・思量識(末那識)・了別境識(前六識)
「唯識三十頌」第二頌~第十六頌において転変する識を明らかにしています。
 「経」は仏説ですから「如是我聞」「我聞如是」ではじまります。「かくのごとき、我聞きたまえき」「我聞きたまえき、かくのごとき」。このように私は仏陀より聞きましたというスタイルではじまります。「論」は「経」を聞いて私はどう頷いたのかを表白するものですから最初に仏陀への帰依を表します。ここでは満清浄者=仏陀 分清浄者=菩薩に帰依の気持ちを表しています。最初に唯識性ですが『成唯識論述記』(以後『述記』)に唯識性を釈すとして「唯識性というは略して二種あり。一つには虚妄、即ち偏計所執なり。二つには真実、即ち円成実なり。・・・又二種あり。一つには世俗、即ち依他起なり。二つには勝義、即ち円成実なり。」唯識性というのはただ真実・勝義をあらわすのではないのですね。仏法は今、即ち迷いの只中に真実を明らかにしていくのです。迷いの外に真実があるわけではないのです。迷いによって真実が覆われているといってよいのかもしれません。迷いの只中に真実を明らかにしていくのが仏法なのです。迷い(虚妄)をあきらかにし、世俗を離れて勝義はないと明らかにした者に稽首、即ち帰依するのです。ここでは本当に大切なことを教えていただいています。私たちは日常生活において迷迷悶々としています、自分の思うようにならない、何とかしたいという思いから外を変えていこうと悪戦苦闘を繰り返しています。しかし今思い悩んでいる他に真実はないのだと教えているのです。虚妄=偏計所執はなぜ起こるのでしょう。実体のない存在に実体があるとする心と、その心の対象となって執着された存在と、その心と対象とによって実在すると誤って執着された存在の姿によって起こってくるのです。迷っているということはすばらしいことなのですね。迷っていることが即ち真実に触れていることなのですから。そして迷っている場所を世俗というのでしょう。迷っているということを本当は自覚されていないのでしょう。実は迷っていることを真実であると誤解をしているのではないでしょうか。無意識の領域で妄想を真実として行動を起こしているのではないかと思います。私たちの無意識の領域では刹那刹那に自分の思いに色づけされた考えを正しいとする力が備わっているといわれています。(ユング派における無意識の神話賛成機能 mythopoetic function of the unconscious) 何が正しく、何が妄想なのかを如実に見極められなければなりません。仏道を歩む・仏法を学ぶということにはどんな意味があるのでしょう。わたしにはこの「問い」がいつも心の奥底に潜んでいます。仏法を学ぶということに於いて「世間での成功を夢見ているのではないか」、「サクセスストーリーを歩むことができるのではないか」という期待感があるように思えてなりません。それに対し仏法は「勝過三界道」(三界の道に勝過せり)であると教えられています。私の思いは伊蘭子(どこまでも迷いの境界)です。伊蘭樹を生むことしかできないのです。これでよかったんだと思ったとたん迷いが生まれてくるのです。迷いが隠れているのですね。ですから永遠に理想を追いかけていかなくてならないような仕組みになっているのです。仏法(因縁所生の法)に出遇うことによって本当の自分に遇うことができるのです。迷いの境界にあっては千載一遇の出来事なのです。
 四分義略説
 「識所変」といわれますね。「唯識無境」と。本来は識のみあって境はない、と。その時の識とはなにかという問題ですが、識は了別である。了別は区別のことです。ものを区別して知るという意味になりますね。八識を区別して知るわけです。この識の中には心所も摂める。識と心所は相応するからである。「心所をも摂む」と。識と心所は一緒に働くのですね。八識五十一の心所です。次に「変」ですが、一つは、「変と云うは謂く識体転じて二分に似るなり」ということですね。動くときには、二つに分かれる。もう一つは、「内識転じて外境に似る」。認識活動はこのようにして成り立っているのです。「識体転じて二分に似るなり。相と見とは倶に自証に依って起こるが故に。この二分に依って我・法を施設す。」
 私たちの認識活動は外と内を分けています。主・客二元論です。自分の見ているものは外にあると思っていますが、唯識はそれを否定し、外にあると思っているのは間違いだと。実は自分の心の現れたものであるというのです。主・客ともに自分の心に依るというのですね。自証に依って相分・見分が起こる。識体は自証です。識体が転じて相・見二分という働きになる。外にものが有って認識するのではなく、自分の心の中に現れたものを自分が認識していく、自分の心でみ見ていくというのが、私たちの認識構造なのです。ここが大事なところです。迷いは如何にして成り立っているのかをはっきりさせる為にですね。
 外に有ると思っていたものは、実は自分の心の中に映じたものであった。それが相分である。相分を変革する為には、自分の心を変えなくてはならないということになります。これが一つの解釈ですね。もう一つは、「内識転じて外境に似る」内に有るこころの状態が外のものの如くに現れてくる。
 ものを知るという認識構造は如何にして成り立っているのかですね。先ほど「識は了別」と述べましたが、「此の了別の用は見分に摂めらる」、そして「所縁に似る相を説て相分と名づけ、能縁に似る相を説て見分と名づく」、これが二分義です。難陀の解釈になりますが、認識は一応このような構造をもっているということになります。
 ただ、有漏の時ですね。未転依のときにはどうなるのかということですが、「有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず」。「自体が生じるとき」という。三分義で、自体分と。執着という問題です。二つでてきます。一つは、「識に離れたる所縁の境有りと執する者」、もう一つは、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」という人間の種類がだされています。境が有ると執着するもの、が一つ。外境は実有であると見る見方。この時は相分を行相と名づけ、見分を事と名づく。是れ心・心所の自の体相なるが故に」と述べられています。しかし、もうひとつの人間像ですが、「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」。ここでは相分は所縁であり、行相は見分である、と。「相と見との所依」を自体分という。自体は自証分である、ということです。
 迷いの構造を明らかにする時には、すべては有であるところからはじまるのです。有るのは、自体分だけ(一分義)、或いは有るのは、見分だけ(二分義)、或いは三分義・四分義はすべて有るというところから始まります。相分も有る、見分も有る、自証分も有る、証自証分もあるというのが迷いの構造である、ここから出発するのです。執着心はある、これが迷いを生んでくる元だと。
 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
 
 覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
「了」についての所論です。「了」とは、異熟識が、自分の所縁に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけですね。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられているのです、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの、外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。
 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。
 三分義をまとめましたが、自証分が若し無かったならばどうなるのでしょうか?それに応えて
 「此れ若し無くば、自ら心・心所法を憶せ不る応し。會って更不りし境をば必ず憶すること能は不るが如きが故に。」(『論』第二・二十七右)
 能縁を見分・所縁を相分といいますが、相・見二分は自証分を所依、依止として起こってくるわけです。いわば、自証分の主体的側面を見分といい、客体的側面を相分といいます。ですから、相を離れて見は無く、見を離れて相は無い、互いに所依として二法は成り立っているわけですね。この二法の所依が自証分で、相・見が自体を事といわれているのです。これが自証分なのです。
 ですから自証分が無かったならば、相・見の二法は成立しないことになります。
        「謂く自体分無きは自ら心・心所法を憶せざるべし。所以はいかん。會って更ざらし境を必ず憶すこと能はざるが故に。」(『述記』)
  私たちは過去に経験したことを記憶しています。その記憶する働きが自証分であり、自証分が無かったなら、記憶することが成り立たないのです。見分が相分を見たということを見ている、認識したことを認識する働きが自証分である、と。経験のすべてがですね、無意識裡に記憶しているわけです。自証分が無かったなら記憶は成り立たないと云っているのですね。
 私たちは、過去の経験を思いだすことがあります、「私の経験から言えば」とか、「あの時そうであったな」という記憶があるのは自証分の働きなのですね。私の中で、所縁(相分)を認識(見分)したことを認識(自証分)している、自証分が見分を自証しているのです。
 自証分があるから、過去のことを思いだす事が出来ると、思い出せることが出来るのは自証分があるからである、と。
 阿頼耶識の三相で能蔵の義が述べられています、過去の経験を蓄えるところ、所蔵が蓄えられるところという貯蔵庫ですね、ですから種子論におきましても、「種子とは、本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と定義されていましたように、種子生現行の種子は自証分としてあるということに成るのではないかなと思います。阿頼耶識が心のどこかに有るという話ではなく、種子生現行として働いている所に具体相があるのですね。三法展転同時因果を成り立たしめている主体が自証分といえるのではないかと思います。
 護法はこの三分義をふまえて四分義を立てます。(つづく)
 

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(10)

2017-11-07 20:29:38 | 阿頼耶識の存在論証
  
 前々回からのつづきになります。
 有部の説を論破する一段です。
 初めに有部の主張を説明します(初に宗を叙ぶ)。後に有部の主張の問題点を挙げて(難を申ぶ)論破します。
 前科段において護法が正義を述べ諸部派の主張を論破しましたので、それに対しての有部からの反論になります。
 「若し謂く、後の時に彼の識還って起こること隔日瘧(カクジツギャク)の如くなるを以て、身に離れずと名くといはば、」(『論』第四・四左)
 ・ 隔日瘧(カクジツギャク)とは、キャクニチカギャクとも読みますが、日を隔てて一回、時を定めて起こる病のこと。つまり、一定の間隔を開けて起こる病のことを云っています。瘧は起こること。
 意訳をしますと、もし有部の主張が、滅尽定より没した後の時に(彼の識=六識)が還って起こることは、恰も隔日瘧のようなものであるから、経典に「身に離れず」と説かれていると主張するのであれば、
 ここまでが前半です。
 前科段で、護法が滅尽定では六転識はすべて滅すると説いてきたわけです。滅尽定に入ると、六識が滅するわけですから、六識の所依も滅してしまいまう。つまり、滅尽定では末那識は働かないのです。そして阿頼耶識は捨せられていますから、純粋意識のみが滅尽定の所依となっているのですね。そこが第八識の存在論証になるわけです。そうしますと、有部の主張が成立しないのです。経典に「識は身を離れない」と説かれているのは、滅尽定でも識が存在することを述べられているのですが、六識が滅した状況では、有部の主張は成り立たないのです。
 それに対して有部の、経典に説かれていることの解釈が「後の時に彼の識還って起こること隔日瘧(カクジツギャク)の如くなるを以て」経典には「識は身に離れない」と説いているのである、と主張するのです。
 つまり、定から出ると、六識がまた働きますから、一定期間は働いていないが、定からでると再び活動する、例えば隔日瘧という病のようなものであって、滅尽定では六識は滅していても( 瘧 )を前提としている、そのことがとりもなおさず「識は身を離れない」ということである、と。
 次科段においてこの主張に対して、五つの難を挙げて論破します。
 (1) 如想起滅難(ニョソウキメツナン)ー 想の如く起こして滅せずという難
 (2) 寿不離身難(ジュフリシンナン)ー 寿は身を離れずという難
 (3) 応非有情難(オウヒウジョウナン)ー 有情に非ざるべしという難
 (4) 根寿無持難(コンジュムジナン)ー 根等は持無しと云う難
 (5) 経言無属難(キョウゴンムゾクナン)
ー 経に属無しと云う難
      ・
 余談になります。有漏・無漏ですが、有漏は不可知だろうと思います、知り得ることが出来ない、それがどうして知り得ることが出来るのか、それが無漏の世界からのメーセージだと思うのです。有漏は有為法・無漏は無為法です。私たちの生存している世界は有為転変しています、常に変化していますが、変化は変化しないものの上に成り立っている。変化は無常、不変化は常です。実は、常に於に無常を感ずることができるのでしょうね。無常を感ずるのは、常に触れているからだと思います。無常を感ずるからこそ、涅槃に指向できるのでしょう。無常を感ずることが無かったなら、煩悩が漏れていることが分からないでしょう。煩悩は、私は間違っていないという意識ですね。いつでも、私は正しいという立場に居ませんか。自己肯定の意識です。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(9)

2017-11-01 22:29:32 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「真宗の教えはおまかせですね」とよく聞くのですが、お任せとはどういうことなのでしょう。僕はね、お任せは、任せられない自分が居る、任せるといっても、任せることに執している自分が居て、自分の都合でしか任せられない、臨終の一念までね。どのような事情があってもですね、自分の好都合・不都合の物差しは自分なのですね。自分は固定的に存在していると固執している末那識の為せるすべですね。「真実信心の天を覆えり」です。ここがはっきりすると、それだけでいいのでしょう。
 思い起こしますと、自分が一番苦しかった時は自分が一番立っていた時でしたね。自分の苦しみの深さが、執らわれの深さでもありました。仏陀釈尊は、苦しみをを通して、苦しみの大地に立てる道を教えてくださっていたのです。
 私たちは、外界をさまざまな思いをもって色づけしていますが、外界は無色透明、晴天なのでしょう。例えば台風のようなものですね。台風には自分で進路を決めることは出来ないですね。いろいろな要素が加わって発達しますが、進路は高気圧に引きずられて進んでいるわけです。台風を煩悩、高気圧を我執としましょう。煩悩は外界の諸条件を加味して身心を煩わせ、悩ますのですが、我執の度合いに依って煩悩の起こる範囲がきまるわけです。
 最大の我執は貪欲ですが、怒りは貪りが満たされない時に顔を出します。怒りは外に向かっていきますので、すぐにわかります、これを麤(ソ)といいます。粗いわけです。そこで火に譬えられます。貪りは心の中に潜行しますから、分かりにくいですね。足るを知らないのが特徴です。細やかな動きですので、細(サイ)といいます。これは水に譬えられます。私たちは、貪りと怒りの狭間で愚痴っているのが現状ではないかと思います。
 すべては因果撥無の見解、無我であり、無常を生きる存在を、実我実法と執する邪見が引き起こすのですね。宗祖は「邪見憍慢悪衆生」と押さえてくださっています。愚痴の具体性は言語をもって表現するという言になりますが、その時の依り所が邪見なのです。邪見は奢り、高ぶりを起こします。そして時には増上慢・時には卑下慢として、どこまでも自分を立てていきます。我愛です。我愛は自尊損他の感情です。実はここが大切な教えを聴く要だと思うのですが、自尊損他の感情は、実は自損損他なのです。先に僕はブーメラン現象と云っていましたが、自分の刃が、自分に戻ってくる、それが苦しみを引き起こしてくる因であるのです。
 ブログをなかなか更新できないでいるのですが、ボチボチ綴っていきます。