釈尊伝(27) ー欲望生活ー
次に「しかし、そのしずみがちな性質をうれえた父王は、夏・冬・雨季の三期にそれぞれふさわしい宮殿をたてて楽しませ、十九才のころ、ヤショーダラ姫を迎えて結婚させた」
こういうことは、一番人間の青春時代を象徴する物語と見ればよいでしょう。夏、冬、雨季にそれぞれ楽しむような宮殿とは、欲望生活の象徴でありますから、それぞれに楽しく過ごすという意味の、青春時代を象徴したものがこうした記録であります。したがってわれわれが人生というものの目的を、あれこれと考える時期は、こういう時期にあたると常識的に考えられます。
現代における、生活の目標が経済の繁栄であると、一般にいわれています。それが、はたして人生の目的であるか、かならずしもそうとは決められない。そうでないのだと断定できないが、またそうであると決めるわけにもいかないわけです。
それからさらに、結婚という問題も、やはり常識的には、人間は結婚すべきだという意味で、世間なみのこととして考えられ、世間に従って結婚することになります。はたしてそうであるのか、ないのか結論のつくものではないのです。 (つづく) 蓬茨祖運述より
第三能変 心所の名の由来について(釈名)
「一切の心の中に定めて得(とく)す可きが故に、別々の境を縁じて而も生ずることを得(え)るが故に」(『論』)
遍行の心所の五は、一切の心の中で必ず得るものであるから遍行という。別境の心所の五は、別々の境を縁じて、生ずることができるものであるから別境という。
「名を釈すなり。「一切の心の中に得す可し」というのは、即ち遍行の五なり。何の心なるを問わず、但起こる時は必ず有るが故に。
「別々の境を縁じて而も生ずることを得」というのは、五の別境なり。此の意は、即ち三性と九地との等に遍く、唯、別別の境界を縁じて方ひ生ずということを顕すなり。故に余は例せず。五十五(『瑜伽論』)に説くが如し。四事の中に於いて五の別境を生ずといえり。下の(『述記』巻第六)如く当に知るべし。或いは倶にも不倶にもあり。別の事生ずるが故に」(『述記』)
- 遍行の心所ー触・作意・受・想・思の五つで五遍行ともいう。「何の心を問わず」八識心王のいずれかを問うことなく、識(心王)が起こる時には三性(善・不善・無記)のいずれであれ、いかなる時も必ず五つが同時に起こり、倶に活動する。その故に「遍く」といわれています。「一には遍行。是に五あり。五ことなりといえども、みな心の起こるごとに普く必ずあるが故に遍行と名づく。」また、一切の心・一切の時・一切の所に普く起こる心所です。
昨日の心所の数で『瑜伽論』には五十三と巻第三に記述されていましたが、邪欲・邪勝解は巻第一(本地分中意地第二の一・第六・七・八の三識を説く。三識共に意根に摂められるので意といわれる。意識身相応地であるけれども略して意地という)に説かれていました。その内容は下に記載します。
「彼の意識の助伴とは謂く(遍行)の作意・触・受・想・思と(別境)の欲・勝解・念・三摩地・慧と(善)の信・慙・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・軽安・不放逸・捨・不害と(煩悩)の貪・恚・無明・慢・見・疑・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂憍・害・無慙・無愧・惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・邪欲・邪勝解・忘念・散乱・不正知と(不定)の悪作・睡眠・尋・伺なり。是の如き等の輩は(心王と同時)倶有にして、相応する心(王)所有の法なり、是れを助伴と名づく。同一の所縁不同一の行相にして一時に倶有にして一々転ず。(是れ等心所有の法は)各自の種子より生ずる所なり。互いに相応し(能縁の)行相を有し、所縁を有し、所依を有す。」(彼助伴者。謂作意觸受想思。欲勝解念三摩地慧。信慚愧無貪無瞋無癡。精進輕安不放逸捨不害。貪恚無明慢見疑。忿恨覆惱嫉慳誑諂憍害。無慚無愧。惛沈掉擧。不信懈怠放逸。邪欲邪勝解忘念散亂不正知。惡作睡眠尋伺。如是等輩。倶有相應心所有法。是名助伴。)大正30・280b13
「各自の種子より生ずる」といわれますように、五遍行は、個別の種子から生じるものなので、実法です。実法というのは、実体という意味ではなく、種子より生じた存在という意味です。三性はいずれであれ、三界にわたって働き(三界のどこにでも存在する)。三量(現量・比量・非量)のいずれの働きを持ち、相応する識は八識すべてになります。
実法といいましたのは、それに対して実法ではなく、作用(別用ーべつゆう)を一つの心所として立てた心所があります。「依色等分位仮立」(色等に依って分位に仮立する)といわれる分位仮立です。ただ色・心・心所のうえに仮に立てた仮法で不相応行であるといわれます。『論』では巻第一・選註ではp18~24に詳しく論じられています。
五位百法では心・心所・色法の後に心不相応行法として二十四数えられています。尚、『倶舎論』では十四です。『法相二巻抄』を見てみますと(『法相大乗宗二巻鈔』上・日本思想体系 鎌倉旧仏教p136)
「次不相応ニ廿四トハ、又百法論ニ列ネタル廿四ナリ。是皆仮法ナリ。廿四ヲ不相応トナヅクル事ハ、五蘊ト申法門アリ。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊是也。此五ガ中ノ行蘊ニハ、諸ノ心所並ニ得・命根・衆同分等ノ法ヲ摂メタリ。其中ニ心所と心王ト相応ス。相応スト云ハ、其トシタシク相伴フ義也。此ノ得等の廿四は、心王ト相応セザルガ故ニ不相応トナヅク。サレバ具ニハ心不相応行法トナヅク。此ノ廿四ハ心ニモ非ズ色ニモ非ズ、色法・心法ガ上ニアラザル義分ナリ。又別体ナシ。故ニ廿四ナガラ皆仮法ナリ。」
心不相応行法とは行のうちでも心と相応しない法という意味です。五蘊説では行蘊の中に心不相応行法は摂められているのです。得・命根・衆同分等の二十四は心王と相応しないことから心不相応行法と名づけられているのです。分位仮立というのは、不相応行は色でも心でもないのですが、無関係というわけではなく、色・法との上に、それから分かれた位の働きを仮に得・命根・衆同分等の二十四の不相応行として立てているのです。
- 三量について(識はどのような認識のあり方をもつのであるのか)
(1)現量 - 前五識と阿頼耶識(蔵識)は現量。意識は現・比・非量の三量を認識する。末那識は非量。直接知覚といわれています。思慮分別を離れての認識のあり方を現量という。「分別を離れて境の自相に称う」といわれています。第六意識の中でも未だ分別していない状態(対象が何であるのか、言葉を用いて分別していないとき)と定心の意識も無分別ですから、現量といわれます。
(2)比量 - 境の共相を認めるという認識のあり方。必ず言葉を用いて認識することです。言葉によって捉えられる事物の相を共相といい、境の自相を捉えることなく、ただ境の共相を把握するに過ぎないのです。言葉を用いた認識は第六意識のみが行いえるのです。従って意識だけが比量の働きをもちます。
(3)非量(ひいりょう) - 現量と比量のうち、誤って物事を認める認識のあり方です。非執心非量(物事の錯覚)と執心非量(自我であると錯覚し、執着する心)に分かれます。
別境(「別々の境を縁じて而も生ずることを得」というのは、五の別境なり)
別境の心所は欲・勝解・念・定・慧の五つです「境を縁ずる」というのは「物を知るを申すなり」といわれますように、物事を知るという意味で、物事を認識するということになります。ですから別々の境を縁ずる、というのは、別々の対象を認識するということになり、各五の心所はそれぞれに固有の認識対象をもち、固有の認識対象に向かって起こることから「別」といわれるのです。相応する識は前六識ですが、「慧」のみは第七識とも相応します。尚、第八識とはいずれも相応しません。
別境・善・煩悩・随煩悩・不定については前年9月12日前後にばらばらに書き込んでいます。いずれ整理をしていくつもりですが、前に戻って参考にしてください。