「又有義解すらく」(『述記』) (第二解)
「或は此いい、彼は是れ我之我ぞと執ず、故に一の見の於に、義を以て二の言を説けり。」(『論』第四・二十八右)
(或いは此れ第七識は、彼第八識は是れは我の我であると執着する。故に一つの見(薩伽耶見)に対して義を以て(その内容の相違により)二の言(我・我所)という言葉を説いている。)
「述して曰く、彼の第八は是れ我が我ぞと執す。(1)前の我は五蘊の仮物なり、第六の所縁なり。後の我は第七の所計なり。(2)或は前の我は前念なり。後の我は後念なり。二ながら倶に第七の所計なり。(3)或は即ち一念に此れは(我)即ち是れ此れ(我所)なりと計す。唯第七の所計なり。(4)或は前のは是れ体なり、後の我は是れ用なり。一の我見の上に於て亦義を以て之を説いて我と及び(我)所との二の亡を為れり。実は但一の我見なり。」(『述記』第五本・二十八左)
計(け) - 分別すること。多くは認識的にあやまった思考をいう。「諸の凡夫は自体の上に我・我所を計す」、「自己である、自己のものであると考えること、実際には存在しないものをあると考えるあやまった認識。「五取蘊を縁じて我・我所と計す」
一つの薩伽耶見に対してその内容の相違により我と我所という二つの言葉を説いているのであって、前三師が第七識が第八識を縁じて我・我所として執着するというような意味ではない。
「我の我」について『述記』の解釈・四つの解釈を述べています。
(1) 「前の我は五蘊の仮物なり、第六の所縁なり。後の我は第七の所計なり。」 我とは五蘊仮和合の仮有のものである。此れは第六識の所縁となるものである。「諸の凡夫は自体の上に我・我所を計す」、
(2) 「或は前の我は前念なり。後の我は後念なり。二ながら倶に第七の所計なり。」 我は前念のもの、我は後念のものであり、この二つともに第七識が第八識を縁じ錯誤する我であるとする。
(3) 「或は即ち一念に此れは(我)即ち是れ此れ(我所)なりと計す。唯第七の所計なり。」 一念の中で我は我であると執着することであり、第七識が第八識を縁じ錯誤する我であるとする。
(4) 「或は前のは是れ体なり、後の我は是れ用なり。一の我見の上に於て亦義を以て之を説いて我と及び(我)所との荷の亡を為れり。実は但一の我見なり。」 前の我は体であり、後の我は用であると。一つの薩伽耶見に対して体と用という内容から我と我所に分けるということであり、実は一つの薩伽耶見である。
『演秘』には(西明の釈)として二つの解釈を挙げています。
「是我之我とは、疏に四の釈あるが如し。有義は二釈という。
一に云わく、是我は第七が第八を計して我と為すということを顕す。之我とは義は第七が更に余を計せず、唯第八を執して之を以て我と為すことを顕す。(これは我は第七識が第八識を縁じ執着して我とすることを顕し、我の我とは第七識がその他を縁じ執着し我としない、唯第八識のみを縁じて執着し我と為すということを顕しているのである、と。)
二に云わく、是れ我とは義は他我を簡ぶ。之我とは義は非我を簡ぶ。(我というのは他我を簡んでいる言葉であり、之我というのは非我を簡ぶという言葉である、とする。)
詳らかにして曰く、復助けて一釈あり。義を以て第七の執と所執の我とは是我と許我なりと言うべし。初の我(是我)は第七の仮者を我と名づく。後の我(之我)は第八なり、即ち所執の我なり。之の言は許我と意ろ我相似せり」(是我は能縁の第七識を表し、之我は所執である所縁の第八識を表している。)(『演秘』第四末・十二右)
これは、第八識を縁じ「我」であると執着している第七識そのものであり、その対象である第八識のことを「我所」と表しているのである解釈しています。