愛着処の問題は、倶生起と分別起の我執の違いについて述べているのですが、愛着処は「身と倶なるものか?」・「身と倶にしも非ず?」なのかという問題です。
我執に二種有りと説かれていました。
「然も諸の我執に略して二種有り。一には倶生、二には分別。
倶生の我執は、無始の時より来た虚妄熏習の内因力の故に、恒に身と倶なり。・・・任運に転ずるが故に倶生と名く。
分別の我執は、現在の外縁力に由るが故に、身と倶にしも非ず。・・・然(シュウ)して後に方に起るが故に分別と名く。」
倶生起は、一つは常相続です。「第七識に在り。第八識を縁じて自心の想を起して執して実我と為す。」次に「有間断、第六識に在り。」と。ここで五取蘊の問題が提起されます。倶生の我執と分別の我執の捉え方の違いが明確に示されています。
「識所変の五取蘊の相を縁ずること」と。我見は我を縁ぜずといわれていますように、所縁を縁じているのですね。我を縁じているように思うのですが、実は我を縁じているのではないのです。「我見が所縁は、定めて実我に非ざるべし。是れ所縁なりというが故に。」と。
我見も、五取蘊を執しているという思いがあるのですが、五取蘊は実は内識が変現したものであって、「虚妄熏習の内因力」という我執が「我」と錯覚しているのです。ここが真の愛着処になるのですね。自分という思いがあるわけです。私が生きているという相です。
「自心の相」と云われます。自分が存在しているという思いに執着していると思っているのですね。
五取蘊を総として、個別には色・受・想・行・識の一つ一つが自分だという思いですね。肉体が自分であったり、感情が自分であったりというようにですね、時には色(色法)が、時には受(貪と倶なる楽受)が愛着処であるというように説かれるのですが、しかし常ではないのです、定まっていないということになりますから愛着処ではないのです。
五蘊の「蘊」は『倶舎論』巻第一に「諸の有為法の和合聚の義、是れ蘊の義なり」と解釈されています。つまり諸法の体系で、諸法が因縁によって和合して聚ったものが「蘊」の意味にないります。「取」は煩悩ですから、蘊は取より生じて、取を生ずるので取蘊と云われるのです。
すべては倶生起から起こってくる問題です。私たちは倶生起の問題を第六意識で分別して我見を起して苦悩している、このように思えてなりません。
「余の五取蘊の等きをば執すべからず。」(『論』第三・二十三右)
所縁を執しているわけですから、五取蘊を執しているわけではないという、ここが総標になります。次科段からは個別に説明されます。
阿頼耶識の所変である所縁の相分の種・根・器を所変である能縁の見分が認識を起していて、その主体が能変の識体である第八識なのですね。
「執」は計という意味だと云われていますが、計は計る、或は量ることですね。量るものが見分、量られるものが相分です。受動と能動の関係ですが、これでは働きがありません。主体が動くことによって意味を持つのです。この主体が第七識に依って執されているわけです。具体的には、認識するものに働きかけます。認識する見分を我と執して妄情を起させるのですね。第七末那識が愛着を起す処は、偏に第八阿頼耶識なのです。
私たちは、対象を愛しているわけではないのでしょうね。対象が自分を満足させてくれるから対象を愛しているという相を取るのでしょう。間違いを起こしますと、波動の浪が大きいです。感情の起伏が暴流の如しですね。