唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (63)

2017-04-30 10:32:31 | 阿頼耶識の存在論証
  
 愛着処の問題は、倶生起と分別起の我執の違いについて述べているのですが、愛着処は「身と倶なるものか?」・「身と倶にしも非ず?」なのかという問題です。
 我執に二種有りと説かれていました。
 「然も諸の我執に略して二種有り。一には倶生、二には分別。
 倶生の我執は、無始の時より来た虚妄熏習の内因力の故に、恒に身と倶なり。・・・任運に転ずるが故に倶生と名く。
 分別の我執は、現在の外縁力に由るが故に、身と倶にしも非ず。・・・然(シュウ)して後に方に起るが故に分別と名く。」
 倶生起は、一つは常相続です。「第七識に在り。第八識を縁じて自心の想を起して執して実我と為す。」次に「有間断、第六識に在り。」と。ここで五取蘊の問題が提起されます。倶生の我執と分別の我執の捉え方の違いが明確に示されています。
 「識所変の五取蘊の相を縁ずること」と。我見は我を縁ぜずといわれていますように、所縁を縁じているのですね。我を縁じているように思うのですが、実は我を縁じているのではないのです。「我見が所縁は、定めて実我に非ざるべし。是れ所縁なりというが故に。」と。
 我見も、五取蘊を執しているという思いがあるのですが、五取蘊は実は内識が変現したものであって、「虚妄熏習の内因力」という我執が「我」と錯覚しているのです。ここが真の愛着処になるのですね。自分という思いがあるわけです。私が生きているという相です。
「自心の相」と云われます。自分が存在しているという思いに執着していると思っているのですね。
 五取蘊を総として、個別には色・受・想・行・識の一つ一つが自分だという思いですね。肉体が自分であったり、感情が自分であったりというようにですね、時には色(色法)が、時には受(貪と倶なる楽受)が愛着処であるというように説かれるのですが、しかし常ではないのです、定まっていないということになりますから愛着処ではないのです。
 五蘊の「蘊」は『倶舎論』巻第一に「諸の有為法の和合聚の義、是れ蘊の義なり」と解釈されています。つまり諸法の体系で、諸法が因縁によって和合して聚ったものが「蘊」の意味にないります。「取」は煩悩ですから、蘊は取より生じて、取を生ずるので取蘊と云われるのです。
 すべては倶生起から起こってくる問題です。私たちは倶生起の問題を第六意識で分別して我見を起して苦悩している、このように思えてなりません。
 「余の五取蘊の等きをば執すべからず。」(『論』第三・二十三右)
 所縁を執しているわけですから、五取蘊を執しているわけではないという、ここが総標になります。次科段からは個別に説明されます。
 阿頼耶識の所変である所縁の相分の種・根・器を所変である能縁の見分が認識を起していて、その主体が能変の識体である第八識なのですね。
 「執」は計という意味だと云われていますが、計は計る、或は量ることですね。量るものが見分、量られるものが相分です。受動と能動の関係ですが、これでは働きがありません。主体が動くことによって意味を持つのです。この主体が第七識に依って執されているわけです。具体的には、認識するものに働きかけます。認識する見分を我と執して妄情を起させるのですね。第七末那識が愛着を起す処は、偏に第八阿頼耶識なのです。
 私たちは、対象を愛しているわけではないのでしょうね。対象が自分を満足させてくれるから対象を愛しているという相を取るのでしょう。間違いを起こしますと、波動の浪が大きいです。感情の起伏が暴流の如しですね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (62)

2017-04-28 23:11:34 | 阿頼耶識の存在論証

 前段を受けて、阿頼耶識が真の愛着処であり、それ以外の五取蘊、五欲、楽受、身見、転識、色身、不相応行は愛着処ではないことを明らかにしています。
 「恒」であるのか、無いのかに由って愛着処となり得るのか、否かを論じています。『摂論』を受けて『成唯識論』は語っていますが、『摂論』では、五取蘊、五欲、楽受、身見と四つの場合について論じています。
 少し、無性摂論(大正31・386b~387b)から伺ってみます。無性は「此れ余師の阿頼耶を愛す等に於て、異議の執を起こすことを顕す。」と釈しています。
 『述記』は「彼部の計して云く、余蘊等を執す。但だ是れ貪の所著の処をば即ち阿頼耶と名づけるが故に。」と説明しています。
 小乗の諸師は、衆生が阿頼耶を愛することについて、五取蘊を説いて阿頼耶といい、貪と倶である楽受を以て阿頼耶といい、薩迦耶見(身見)を阿頼耶と名づけるというけれども、これは教及び証に由って阿頼耶識に愚である為に、このような執を為すのである。理由がですね、若し五取蘊を阿頼耶と名づければ、悪趣の中の一向に苦なる処(一向苦受処=地獄)に生ずることは最も厭逆(オンギャク=意に反していること。不快なこと)していることになる。衆生は一向苦受処には愛楽を起こすことはない。にも拘わらずそこに執するというのは道理に合わない。衆生は、一向苦受処を速やかに厭離する、つまり捨離することを欲しているからである。
 また、貪と倶なる楽受を阿頼耶とするならば、第四禅天以上には阿頼耶は無いことになる。執すべき処がないことになるわけです。しかし執しているのは何故かという問いが出てきます。
 また、身見を阿頼耶とするならば、身見を執蔵することは道理に合わないことになる。阿頼耶は無我を信解する者にとって、阿頼耶を執して内我の性とし、苦を招来しているからである。
 阿頼耶識を愛するのは、阿頼耶識に於て我愛が随転している。五取蘊から離れ、楽受から離れ、身見から離れることを求めても、厭逆して阿頼耶識を執することに於て流転していることを現わしているのでしょう。
 色法にしても、楽受にしても、五欲・身見にしても識にしても五蘊から離れるものではないのですね。五蘊を総とし、色・受・想・行・識を別として説いているのですが、五蘊の内容が、有る時には愛し、有る時には愛することが無い、つまり愛着処はいつも、いつでも、いかなる位に於いても変わらない愛着処であるのです。
 私が私自身を愛する自我愛の根拠が阿頼耶識であることを明らかにしたのですね。自我愛が執着を起こすところを白日も下にさらけ出したのです。この執蔵の義である阿頼耶識が無ければ、すべての愛着は起こらないのです。
 私たちは、好きだとか、嫌いだとか、ああしたい、こうなりたいという欲望を持っているのですが、この欲望を位置づけているのが阿頼耶識なのですね。
 言えば、阿毘達磨にこたえる形で唯識が説かれてきたのではないかと思います。倶生起の我執に答えたのですね。四分で云うと、証自証分でしょうね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (61)

2017-04-26 19:59:49 | 阿頼耶識の存在論証
  
 愛阿頼耶という、阿頼耶が愛おしいのでしょうね。愛おしいから執着をする、執着しています。満たしたいと云う欲求です。それは我心の隙間を埋めたいというものでしょうね。きつい言葉でいえば、相手を利用する心でしょう。相手に投げかけた愛は、本当は自分への愛であったのでしょう。
 慈悲とか、慈愛は捨身の愛と云われていますが、捨身は無条件だと思います。私たちの愛には条件が付いているのと違いますか。私の意に添うのか、添わないのかが分岐点となって、相手に執着する形を以て自分に執着をしているのでしょうね。「自分の意」はマナーですが、自分の意を以て取捨選択を繰返しているのが現実の相なのでしょう。
 阿頼耶に触れて、阿頼耶に執着をしている、阿頼耶が無ければ、執着すべきものが無いのですから、愛も生まれないのですね。愛するということが起こってこないのです。ですから、愛することは大変重要な出来事なんですね。
 そして、聞法も阿頼耶に触れているんですね。触れているから、自分の都合で聴いてしまうわけです。肝心なことは聞かないで、面白いところだけを聴くということが起こってきます。聞法はどちらからかと云うと、自分にとって都合の悪いところを聞くわけですから眠くなるんです。自分にとって都合のいい話を聞きますと、「そう通りや」と目が輝きますわ。それは何故、このようなことが起こってくるのかです。ここを聞かなければならんのでしょう。
 
 「有情執して自の内我と為す。乃し未だ断ぜざるに至るまで恒に愛着を生ずるが故に、阿頼耶識是れ真の愛着処なり。」(『論』第三・二十三右)
 有情の執着する心が、無我を生かされている身を、末那識が本来の自己である阿頼耶識を対象として阿頼耶識を縛って内的な自己として、自分だと、自分が生きているんだと思い込んでいるわけです。
 「阿頼耶識は無始の時より来た一類に相続して常一に似るが故に有情は彼を執して自の内我と為す」と説かれています。
 内我は法我と他我(固定的・実体的に存在するものではありません)に簡んでいます。何故かと云いますと、内我も縁起されたもので、法が存在して執をおこす、他者が存在して執を起こすのではないのです。縁起を固定化させたところから起こってくる実体の無い我ですね。いえば、実体の無い我に執着をしているということになりますね。
 こういう状態が金剛心(金剛喩定)という仏陀になるまで、恒に行じて休息することが無いと云われています。無始よりこのかた、未来永劫まで末那識は阿頼耶識を依り所として執着していくのである、と。
 宗祖が、信心の行者は便同弥勒と云われましたお心は、本願に乗託することに於て我執を超えていくことができるのであると、教えてくださっているのではと思っています。
 そこで観えてくる心は、我執でしかない身であったいう慚愧心なのでしょう。ここで、影像を見ていた我が、本質の我に触れ得ることが出来るんだろうと思いますね。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (60)

2017-04-24 22:11:34 | 阿頼耶識の存在論証
  
 「愛を起して著する所の処は必ず阿頼耶ということを顕す」(『述記』)この慈恩大師の釈に深さを感じるのですが、阿頼耶を愛するとは、どういうことなのでしょうか。「我というは主宰、法というは軌持」という定義がされていましたが、この定義を伺いますと、私たちは大きな錯誤をしているように思いますね。
 我・法は執着されるものではないということでしょう。ですと、私たちは執着を離れている所を愛しているということになります。有ということに執着し、壊したくない、壊れないでほしいと云う不安から苦しみ、無と云うことに執着しています。無かったら困るわけです。欲しいと思い、捉われていきます。有無に執着をしているのが私たちなのでしょう。でも、阿頼耶を愛すると云うのは、有無を超えた無我なる私を欲しているのではないですか。
 無我と云う警告信号が「あんたの愛することは間違っている」と教えているのかもしれません。慈愛が我愛に光をあて、我愛から出る一切のことは苦であると知らしめているのでしょう。
 「田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。・・・田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。」(『大経』)
 我愛からでるものは分別しかないのですね。分別は斬るのです。分けるのは、一つのものを二つに斬ったということですね。私たちの意識構造は分別の塊です。分別の塊を無明と押さえられたのでしょうが、無明は自分だけが頼りなんです。漆黒の闇の中では、何を依り所とするのか、それは自身なのです。自身を離れたら自分そのものが無くなってしまうという恐怖にかられます。智慧がないからですね。
 愛・楽・欣・喜の四の体は貪(第七識相応の心)であると云われていますが、まさに貪欲ですね。有れば無くしたくないと云う貪欲、いつか壊れるのではないのかと云う怖れを懐きます。無ければ欲するという貪欲です。これは説明いりませんね。自分の依頼心が他に投影しているだけに過ぎないのですね。この心が無始よりずっと相続して私の所まで伝わってきた、そこに願いがあるのでしょう。「気づけよ」ということですね。「一番あてにならんものを当てにしているのと違うか」とですね。
 このことを文章化しますと、
 「有情執して自の内我と為す」となるのでしょう。「内我」とは他我を簡びますから、不変なる我(常一主宰の我)として阿頼耶識を執している。阿頼耶識は流の如しですから、澱みなく流れているのですが、それを堰き止めるのが我です。そこにはヘドロがたまります、それが煩悩ですね。煩悩を作り出しているのは我の他にはないのです。
 輪廻と無常とはよく似ているんです。輪廻には主体があるわけです。我と云う主体ですね。我という主体が、他我によって妨げられることを生死輪廻というわけですが、無常には主体はありません。縁起のままにです。縁によって生まれ、縁によって死んでいく、ただそれだけです。ここに安住できるか否かでしょうね。人生の課題はね。
 先ほども書きましたが、わからんからつかみたいのでしょう。自分のことは自分が一番わかっていると云う妄想が働いていますから、自分にしがみつくのですね。当然のことです。ぼくもずっとしがみついています、そして流転を繰返しています、馬鹿ですねぇ、暗闇の中を彷徨っているのがわからんのです。
 我執の愛着処が阿頼耶識(我執に依って阿頼耶識が愛着処になる)であるのですが、また阿頼耶識が転依の鍵をもっているということになるのでしょう。ですから「真の愛着処」と云われる所以なのではと思います。
 今日は愚痴に終始しました。ごめんなさいですm(__)m

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (59)

2017-04-23 20:28:30 | 阿頼耶識の存在論証
   昨日から問題になっています慈悲、翻訳すると抜苦与楽という利他を表す言葉です。中村先生の『慈悲』もう一度読み返したいと思います。
 前回は「、阿頼耶を愛し」という増一阿含の言葉から第八識の存在も、原始仏教では容認されていることを述べました。ここで云う「愛」は自愛ですね。阿頼耶を愛する心がある。つまり、末那識の存在も認めていることになるんでしょうね。ここはね、本識から生み出された転識ですね。阿頼耶識が末那識を生み出し、生み出された末那識が阿頼耶識に執着するということになる。言語を持つ、相を持つと、人間は執着を起こすんですね。でもね、執着を起こすと云うのは、起こされる識が有るということですね。末那識は阿頼耶識がなかったなら存在する識ではないのです。転識とはこういう性格を持っているのですね。
 
 「謂く阿頼耶識は是れ貪が総別の三世の境なるが故に、此の四の名を立てたり。」(『論』第三・二十三右)
 つまりですね、阿頼耶識は煩悩の塊である貪欲、これは自愛ですが、自愛によって貪られていくもの、これが総になります。総じていいますと、第七末那識の我愛になります、愛阿頼耶のことです。別しては楽阿頼耶、これは現在のことであると云います。末那識は今現在「楽をねがっている」、自分の思いが通りますように、ごく普通のことですね。私たちは自分の思い通りに生きたいと思っているのではありませんか。これは貪りから発生するものです。根っこは貪り。枝葉が出た時、現在ですね。思い通いにしたいという欲求、不純ですが、不純とは思いませんね。思わせないのです。それが我愛の深さです。恒に意識の底で意識をコントロールして煩い悩みを引き起こしてくるのです。
 別しては欣阿頼耶、欣は喜ぶ、有頂天と云われています。過去から現在に至る迄、阿頼耶識を愛し続けてきた、これが欣阿頼耶です。過去から現在という、過去のことですね。そして未来永劫に阿頼耶を愛し続けていくことになります。これを喜阿頼耶と表現しました。
 きつい言い方になりますが、仏法を聞くのも、自分の都合によるわけです。でもね、ここが接点なんですね。自分の都合で聴いていかれることを縁とするということが大事なところであろうかと思います。自分の都合で取捨選択してしまうんです。この自分の都合が見えないですわ。この自分の都合が見えないところに話しかけることが大切な作業であると思います。対話は相手の都合を容認しながら、都合が自分を縛っているということを、自分を通して話をすることが大事なことなんでしょうね。
 「第二に更に解すらく、謂く現在に於て愛し過去に於て楽し、先に楽するに由るが故に復今世に於て欣し、欣するが故に未来に於て喜すといえり。」(『述記』第四本・二十七右)と。
 次科段は、阿頼耶識が真の愛着処であることを論証します。


 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (58)

2017-04-21 21:41:05 | 阿頼耶識の存在論証
  
 読者よりお便りをいただきましたので紹介します(本人の承諾済みです)
 「他者の痛みを感じる事はできない。共有することもできないでしょう。しかし他者の痛みを理解したい、取り除いてあげたい。と言う気持ちは重要なのではないでしょうか?様々な病を人類は克服してきました。不治の病も今では治る病になっています。これは、他者の痛みを共有したい。といった感情から産まれてきたのではないでしょうか?自分自身の問題と捉え、他者の痛みは自身の痛みと捉えてこそ、自分自身を知ることが出来るのではないでしょうか?
他者が今何を考えているか?知りうる事は不可能でしょう。他者ですら自分自身の影であり、揺れ動いている。と感じます。揺れ動いているから捕まえられない、影だから追いかければ逃げてしまう。どうすればよいのでしょう。留まる事、今を見ることが、感じる事が重要なのでは。しかし今もこうやって文章を書いている今でも留まる事はできません。留まる事すら、揺れ動いているのも止める事も出来ないのが自分自身でしょう。
留まろうとする。無駄な行為でしょうね。変わっているのは見ている風景ではなく、自分自身。自分自身を捕まえる事は、出来ない。なら流れに任せるしかないのではないか。そう感じます。
生きていく上では、迷うことが多々あると思われます。選択枠がある場合は、本当にこれで良かったのかと迷い、無ければ無いで迷っているのが人間だと思われます。もう迷わない、と思っていても迷うのが人間でしょう。
ではどうすればよいのでしょうか?迷いの上でしか生きられないのが人間だと思わなければならないでしょう。迷いの中で生きていけば良いのだ。と思って生きていきたい。と最近感じます。
変わらない物はない。とよく言われますが、それは自分自身の事かもしれません。自分自身は変わらない、この感情が、自我というものの本性かと感じています。
昔なら絶対に知り合いにならなかった方と付き合いがあります。驚くべき事です。知らなかった、新しい事を知ることが出来ました。ただそれをただ単に知っただけでは駄目でしょうね。自分自身の問題として捉え、これは全て自分自身が招いた事、すべては自らが選んだものとして捉えなければならないでしょう。そうしなければ争いが起きた場合、すべてを他者のせいにしてしまい、自分自身を正当化してしまうでしょう。
人生においてほぼ全ての出来事は自分自身が招いた事。他者のせいには出来ない。厳しい事と感じます。他者との縁は全て自分自身が選びとったもの。と感じています。
また他者と関わった以上、他者の人生にも影響を与えます。それを忘れて他者を善悪で判断する事は出来ません。他者は自分自身を知る鏡として見なければなりません。成長出来るか?それとも自分自身に閉じ籠ってしまうか?いつも自分自身の中で戦っているのが人間なのでしょうね。」
 もっとあっけらかんと生きれたらと思います。でもよく考えて頂いていると思い、感謝します。
 今日は有部の説から阿頼耶識の存在論証がされる一段です。増一阿含経(Ekottara Āgama)からですね。
 阿含経は四阿含と云う体系を持っています。増一阿含・中阿含・長阿含・雑阿含です。
 「四の阿含経有り。一には増一と名づけ、二には中と名づけ、三には長と名づけ、四には雑と名づく。明かすこと一法従り増して百法に至るを以て増一と名づけ、略にも非ず広にも非らずして義を以て明かすを以て名かと名づけ、若し事義を明かすに文広なるを以て長と曰ひ、雑雑に事を明かすを名づけて雑と為す。増一の中に於て阿頼耶を名づく。」(『述記』第四本・三十六左)
 「愛を起し著する所は必ず阿頼耶ということを顕す。・・・阿頼耶識は是れ真の愛著処なり。」
 執蔵の義からの発言でしょうが、愛著処ということが深い意味を持っていますね。すべてを受けいれていく領域としての蔵識ですね。それだけ愛著処は深くて広いのでしょうね。浄土は、三界の道を過ぎたり、広大にして無辺際といわれますが、阿頼耶識の深さと広さは、如来の遍智でしょう、そのように思えるんです。
 「説一切有部の増一経の中にも亦密意を以て此れを説いて阿頼耶と名づけたり。謂く愛阿頼耶・楽阿頼耶・欣阿頼耶・喜阿頼耶と云う。」(『論』第三・二十三右)
 阿頼耶とは、阿頼耶を愛し、阿頼耶を楽い、阿頼耶を欣び、阿頼耶を喜ぶという。全ての生起の原点が阿頼耶なのですね。
 愛・楽・欣・喜と云う表現で、いのちの願いが表されているのではないでしょうか。 (つづく)
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (57)

2017-04-20 21:57:05 | 阿頼耶識の存在論証
  
 桑名の仏乗寺さんで「解深密経に学ぶ」を講義していただいています高柳先生の講義録を読み直しておりまして、その第七回にお話しくださいました巻頭言ですが、大変大事なことを教えておられますので紹介したいと思います。熟読ください。
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 「この会の名称は「預流の会」という事でありますが、会が発足するご縁という事につきましては、生前に岐阜の高山と富山の方で安田先生が『解深密経』の講義をされておられました。そちらから講義録が出されていまして、これを一緒に読みたいという事が直接の機縁でありました。私自身は高山での会ですね、実は一度も伺ってなかったという事がありまして、前々から、是非学びたいという思いがあった訳です。
 確認をしておきたいのはですね、ある意味では歴史的必然性がありまして、大乗仏教が興って来た時にですね、これは大乗という優れた仏教が興って来たというのではなくて、人類史的に言えば、仏陀、釈尊、ゴータマシッダルダという一人の人間が求道心において生きざるを得なくなったと。その歩みをくぐって目覚めを得られた訳ですけれど、それは一個人の天才がですね、悟りを得たという事ではなくて、存在している事がすでに苦であると。この事はあらゆる衆生に共通してある根本的な問題な訳です。そしてその事に真向わずにおれなくなったという一人の代表者である訳なんですね。決して私たちと無関係な存在ではない。
 そしてその釈尊が頷かれたものを、後に小乗といわれる方たちも、何とか追体験しようと真面目に道を求められた訳です。しかしそれがやがて隘路に陥ってですね、解けなくなった時に、初めて言葉とすると利他という言い方になりますけど、これは人を助けるという意味ではなくて、自分の中に閉じてしまうという問題が明確に意識されたんでしょうね。その時にその閉じて行くという方向を破る、という意味で利他という表現になったのであって、単に人を助けるというのが大乗だというのではない訳です。
 その自分に閉じるという問題、その自というものを破るという意味でそこに般若の思想が現れて、自というものは無いと。無我という事を強調して空という事がいわれた訳です。
 ところが今度はその空に沈む、執われるという事が起こってきてですね、そこから必然的に、現に私たちは意識を持って物事を見て、そしてそれに執われていると。そういう私たち自身の精神をですね、ある意味では真正面から受け止めて、その迷いという事がどこで成り立つのかという追求がなされてきたわけです。
 最初にも申し上げましたが、私自身唯識を専門に勉強した訳ではありません。ただ私自身、一体自分はどこから生まれて来たのか、どうして自分は苦しいのかということが十代の始めに自分の中にどうにも成らないほどの大きさをもってしまいまして、それが実は私自身の一番の出発点でもあった訳なんですね。皆さん、生きているという事を前提にして物事を考えて、今苦しいから、この苦しみから解かれたいと思われるかも知れませんが、本当に、今、一体なぜここにいるのかという事は、これは楽になりたいというようなことよりも、潜在的な深い問いであるんですね。
 その事と、今回付けて戴いた「預流の会」という名の「流れ」という事とは非常に深い関係にありまして、その迷いの存在として生まれてきた、衆生として存在している。そして一体その迷いの存在はどこから必然したのか、言い方を変えれば、どこから流れ着いたのかということですね。そしてその流れそのものは、個人のながれではなく、衆生そのものの流れであり、その流れの体が阿頼耶と言われるわけです。その根本の流れにおいて迷っていることに目覚めるということが、流れそのものになるということ、流れに預かるということなのですね。そういう意味で、この「預流の会」という名称は福井にもあるそうですが、それはかまわないというか、むしろ同じ名前が浮かんできたということは、正に預流という意味の必然であると思うのです。
この預流という事は、小乗の悟りの段階的なとらえ方としてもあります。預流・一来・不還・阿羅漢というとらえ方もあるんですが、このように段階論的なとらえ方としてですね。四向四果という段階で、まず流れに預かるところからですね、煩悩を断じた阿羅漢という位までの段階ですが、今回の会の名称としては直接この場合の預流を指すものではありません。
 そこにやはり、小乗であっても預流という言葉が顕れたという事は、これは大きな意味を持つものであると思うんですね。私たちがどこから来てどこに行くのかと。私が迷っている、その迷いの根底は一体何であるのかと。そういう意味においてですね、ただ個人のしての迷い、個人という存在としての迷いではなくてですね、根底的な存在の根拠という意味で「流れ」という事をいっているんですね。そしてその預流という、流れに預かるという事は、実は衆生の世界に入る、そういう意味がある訳です。
 たまたまですが、福井の方からも「預流」という会報が出ているそうで、同じ名称の会がすでにあって重なる事になるそうですが、そちらの会も唯識の学びをしている、安田先生のご縁の会なんだそうです。そういう事もですね、逆に考えますとね、この名前はこの会の所有物ということではなくてですね、むしろ、流れに預かって行くということがこういう名前を必然したんだ、流れの中に見出されたのだと。だからこの名前が重なっているとしてもですね、、むしろ意味深いことだなあと思った事でした。
 この会が単に個人の興味で、というのではなくてですね、普遍的な流れに預かって行くという、公(おおやけ)性を持ってですね、なされて行くという事の重要性を、実は最初から感じていましたので、一年を経過してですね、今回、このように名前を戴けたというのは、本当に有難い事だといただいている次第です。」
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 今日は、化地部の説から、第八識が存在することを論証します。
 「化地部此れを説いて窮生死蘊(グショウジウン)と名く。第八識に離れては別の蘊法(ウンホウ)の生死の際を窮めて間断する時無しと云うものは無し。謂く無色界には諸色間断し、無想天等には余の心等を滅す。不相応行は、色・心等に離れて別の自体無しと已に極成せるが故に、唯此の識のみを窮生死蘊と名く。」(『論』第三・二十二左)
 化地部(けじぶ、梵: Mahīśāsaka, マヒーシャーサカ)とは、仏教の上座部の一派で、『述記』には「人中の國主にして地を化し人を理む。位を捨て家を出て部主と為るに因って化地部と名づくるなり。」と説明しています。「窮生死蘊」は生死輪廻が尽きるまでなくなることなく相続する身心のことを云っていますが、これは化地部の説で、大乗は「「化地部中、異門の密意を以て阿頼耶識を説いて窮生死蘊と名く」と、阿頼耶識の異名を説いたものであると云います。
 「無色界には色無し、無想天等には心無し、不相応行は体無きを以て(不相応行は仮立法)余をば窮生死蘊と名づく可からず、第八識のみ然る可し、諸位に皆有るが故に。」(『述記』第四・二十七右)
 間断することなく相続し、諸位に存在するものを窮生死蘊というけれども、それは第八識のことである。第八識以外の識には間断があるではないか、と。三界を以て説明しています。つめい、無色界には身体が無い世界ですから、生死を窮めるということがありません。
 「無想天等」は色界の話です、身も心の有る世界ですが、色界第四禅天には六識が滅した世界、心が滅した世界なんですね。身はあるけれども、心が動かない、働かないところなんです。自分の欲というか、自分にこだわっている分別が消え去った状態なんでしょうね。「無想定を修して無想天に生まれると、滅尽定」です。滅尽定になりますと、末那識まで無くなると云われています。不相応行は仮立されたものですから諸識の体と為ることは有りません。
 最後は説一切有部の説くところから第八識の存在論証がなされます。
 
  

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (56)

2017-04-19 20:45:48 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第五教証です。今までの教証は大乗側からの論証でしたが、第五教証は、小乗側の文献にも第八識を説いているものがあるということで引用してきます。「共許の教を引く」と云われています。
 総じて言えば、
 「余部の経の中にも亦密意を以て阿頼耶識は別の自体有りと説けり。」(『論』第三・二十二右)
 「余部の経」、大乗仏教の経典以外の経、つまり小乗の経典ですね。その中にも、仏は密意をもって、小乗の経典には真意が隠されたものとして説かれている。「阿頼耶識は別の自体有り」と。六識いがいにですね、別体としての阿頼耶識の存在を認めているということですね。
 第一番目が、大衆部の説です。
 革新系の大衆部の阿含経の中に、「根本識」という言葉が出ている。根本の心があるんだと。根本の心が六識の所依止となっている。つまり、六識の依り所が有って、それが根本識として説かれている、ということですね。
 「謂く大衆部の阿笈摩(ア-ガマ)の中にも密意を以て此れを説いて根本識と名づく、是れ眼識等が所依止なるが故に。譬へば樹の根の是れ莖(クキ)などが本なるが如し。眼等の識に是くの如き義有る者には非ず。」(『論』第三・二十二右)
 大衆部のことは、音写で摩訶僧祇(マカソーギ)といい、大衆は意訳です。
 譬が出されています。「是れ莖(クキ)などが本なるが如し」と、茎とか、葉とか花などの本になるようなものですね。根本の心であると。根っこです。根は地中深くに張り巡らされて、地上の茎や葉や花を支えているわけです。此の事を例えとして出されます。これは「眼等の識に是くの如き義有る者には非ず」ということなのです。眼識一つをとっても、眼識が他の五識の依り所とはなり得ないのですね。他の五識も同様です。そうすれば、六識を支えている心の依り所という心があるのではないのかというのが大衆部のの考え方なんです。これを根本識と表しました。阿頼耶識とは言えないけれど、阿頼耶識と同じような心の領域があると認めているのです。
 次は二番目に出されてきます、上座部の説です。
 「有分識」を以て。この有分識とは、上座部と分別論者とが説く識のことですが、「有」とは三有(欲界・色界・無色界)、「分」とは因の義、生命的存在が生まれる原因としての識を有分識と表しました。大乗は、この識は仏の密意として説かれた阿頼耶識とみました。
 「上座部の経と分別論者とは倶に密して此れを説いて有分識と名づく。有というは三有ぞ、分というは是れ因の義ぞ。唯此れのみ恒なり徧ぜり三有の因たり。」(『論』第三・二十二右)
 『述記』の釈は、「「体恒なり断ぜず三界に周徧せり三有の因と為す」と、六識とは別体であることを説いていると見てきます。
 三界は迷いの世界と云われていますが(法性に触れた者が、三界は迷妄の世界であると証明しているんでしょう)、この迷いの世界に生まれてきた因が阿頼耶識であるわけですね。「無始の時より界(種子=因)たり」とですね。それを上座部や分別論者は有分識と表したんだと、こういうことなんですね。
 『無性摂論』巻第二に、九心輪が説かれますが、これが阿頼耶識であると云われています。
 次の説は他地部の窮生死蘊ですが、次にします。
 
 

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (55)

2017-04-18 23:43:38 | 阿頼耶識の存在論証
  

 余部の経を尋ねてみれば、
 小乗教の中にも密意を以て第八識の存在を認めている文献がある。概略を示します。
 (1) 根本識
 大衆部の阿含経の中で説かれている、六識の所依となるものが根本識であるという。
 (2) 有分識
 上座部・分別論者の教えの中で説かれているもので、恒相続にして三界に周遍し、三有の因となるという。有は生命的存在のこと。三界に生まれる因と為るということで、種子のことを認めていることになろうかと思います。
 (3) 窮生死蘊(グショウジウン)
 化地部の説、無始以来から生死輪廻を繰り返し間断することなく随転しているのは暗に第八識の存在を認めているからである、というもの。
 (4) 説一切有部の『増壱阿含経』の中に説かれている事柄が示すもの。
 愛阿頼耶・楽阿頼耶・欣阿頼耶・喜阿頼耶という阿頼耶の名を語っていることによる。
 本識の三相を説く中で「初能変の識をば、大小乗教に阿頼耶と名く」と云われていましたが、『増一阿含経』の中で説かれていることなのですね。
 これは仏密意をもって、小乗教徒に対して廻心向大せしめんが為に説かれたもので小乗共許の経といわれています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (54)

2017-04-16 19:37:38 | 阿頼耶識の存在論証
 
  六番目の理由を述べます。
 「能対治」です・。
 能はよく、対治は滅ぼす力があるということですね。一切の煩悩を対治する力があるということですが、これは仏説でなかったなら云えないことです。大乗の経典に依って修行する者は無分別智を起し煩悩を対治すると云われます。
 「六には能対治の故にという。大乗経に依って勤めて修行する者能く無分別智を引得して、能く正しく一切の煩悩を対治す。故に応に此れは是れ仏の所説ぞということを信ずべし。」(『論』第三・二十一左)
 六番目は能対治、よく煩悩を遠離する力があるから。
 大乗経によって修行する者は、無分別智を得ることができる。そしてよく一切の煩悩を対治する。煩悩を対治し、無分別智を起こすことは仏説でなかったらできないことである。よって大乗経は仏説であると信ずるべきものである。
 七番目の理由は、
 「義異文」をもってですね、「大乗は意深し、文に随って其の意を取って便ち誹謗を生ず可からず。」(『述記』)
 「七つには、義文に異なるが故にと云う。大乗の諸説は意趣甚深なり。文に随って其の義を取り便ち誹謗を聖じて仏語に非ずというべからず。」(『論』第三・二十一左)
 義異文の意味は、文字に表されていることよりも、その真意は深いものである。
 「大乗の諸説は意趣甚深なり」と。表面上の文意だけを取り上げて大乗は非仏説であるといういっているだけである。
 以上が『荘厳論』で述べられている大乗は仏説であるという理由になります。
 結び
 「是の故に大乗は真に是れ仏説なり。」(『論』第三・二十一左)
 以上の『荘厳論』の七つの理由が『荘厳論』の頌を引いて証としています。
 「荘厳論に此の義を頌して言うが如く、
 先不記と倶行と、余の所行の境に非ざると、極成と有無有と、対治と異文との故にという。」(『論』第三・二十一左)
 次回より第五教証に入ります。