唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 五位無心 二に、二定を解す(1)

2010-11-30 20:53:25 | 五位無心

          第三能変 起滅分位門 

     ー  五位無心 二定を解す (1)  -

 (はじめに)  五位無心の初めに無想天が述べられてありました。無想天に生まれると五百大劫の間意識がなくなるといわれています。無心の状態ですね。禅定に入ったままの状態で生きているわけです。生きているという生命の持続が異熟果なのですね。無心の状態であっても、第八識が生命を維持しつづけるのです。

 次に「及び無心の二定」が説かれます。無想定と滅尽定です。無想天と無想定が分かれて説かれているのかといいますと、無想天は、ただ広果天の一処のみにして無心である。しかし、無想定は、有心の場合もある、(これ以下の四位は有心に簡んで無心という。無心の語は二定と睡眠と悶絶にも通ずる。)今はそれに簡んで「無心」といわれています。無想定は上来述べてきましたように、無想天の果を感ずる因ですね。外道や凡夫が修する定であり、「能く彼の天の異熟果をば感ずるが故に」といわれていました。その無想定を修する「思」は微々心の思であると。修する時の微々心の種子の上に仮に立てられたのが無想定なのですね。『論』では六段十一義を以て詳説しています。

             ー  ・  -

 「及び無心二定とは謂く無想と滅尽の定なり。倶に六識無きが故に無心と名づく」(『論』第七・十一左)

 (意訳) 「及び無心の二定」 と(無心の二字は下四位に通じる)いわれるのは、無想定と滅尽定のことである。倶に第六意識が働かないので無心と名づけるのでる。

 「述曰。自下は第二に二無心定を解す。中に於いて初は総じて解す。後は別して解す。此れは即ち総なり。第三句の頌及び無心二定を解す。(この一段が総の解釈になり、次に別して六段十一義を以て解釈されます。)

 謂く無心の言は下の四位に通ず。その睡眠等はみな有心に通ずるが故に。無心の言はこれを簡ぶ。・・・四位に倶に六識なきを以ての故に、無心と名づく。ただ、無想天に於いて無心なりといわず。故に二定は無心なることを知るなり。但し彼はただ一処にあって有心相続の法なきが故に、無心というにあらず。この下の四位は有心に濫ずることあり。故に簡ぶことを須ゆるなり。自下は別解なり。二定を二と為す」(『述記』第七本・六十二左)

 


第三能変 第九 起滅門 ・ 無想天 (報の因を出す)

2010-11-29 22:29:36 | 心の構造について

          第三能変 第九・起滅門  無想天

         ― 第五 此の報の因を出す ―

 「即能引発無想定思能感彼天異熟果故」の文は此の報因を出す、といわれています。

 (意訳) すなわち、よく無想定を引き起こす思(微々心)が無想果を招く。無想定を因として、その異熟果を感ずるからである。

 因は善か悪かでありますが果は無記なのです。前世の善悪業によってもたらされた阿頼耶識を根本の異熟果とし、真異熟といわれますね。これに対して阿頼耶識から生じた六識の異熟果を異熟生とよび、異熟に二つあるわけです。「真異熟といえば、阿頼耶そのものであるし、異熟生といえば、その内容である。それで、異熟生は別報、真異熟は総報という。生まれたということは、真異熟であるが、生まれたことの内容を異熟生というのである。それを合わせて異熟というのである。」(安田理深選集・巻第四・p23) ですから、ここではその報の異熟因は無想定であり、その果としての総報である異熟果が無想天の体であるのですね。『述記』には三説をあげて説明がなされています。

 『演秘』には「即ち能く引発せしというより異熟果故というに至るは、問う、彼の天の初生のとき、異熟の六識は有無二心において何の心か能く感ずるや。答う、総別報を招くを名づけて行支と為すが故に第八を感ずる業を以て而も亦彼を招くなり。若し初の六識は是れ善等なりというは、斯の問答を省く。」と説かれています。

 異熟とは業感なのですね。業によって感じるもの、それが異熟であると。「異熟無記分位差別」という言い方がされるわけです。因縁力によって分位差別を引き起こしてきた。有心の位において無心を得ようとしたことによって、無想果を引発(いんぽつ)してきたのです。引き起こされた無想果は異熟無記なのです。自己から逃れようとして起こされた不純な動機ではあっても、得たれた結果は無記なのですね。無記だけれども制約がある。三界の中の出来事ですから、何かに熱中して無我夢中ということがあります。しかしふっと息をいれると元にもどりますね。それを「無想天より没する時、生ずる処所は欲界である」(「定んで欲界に生じ、処所は不定なりといえり」)と説かれているわけです。

 明日から「二無心定について」を考えます。


『唯信鈔文意』に聞く

2010-11-28 21:16:06 | 唯信抄文意に聞く

      - 『唯信鈔文意』に聞く (9) -

 尊号の歴史 

  「『如来尊号甚分明』、このこころは、『如来』ともうすは、無碍光如来なり」

 はじめに、この 『如来尊号甚分明』 という偈文を引かれまして 「このこころは」 と、 一句のこころを述べようとせられますについて、そのうちで、この如来ともうすは無碍光如来である、と。

  「如来」とあっても、必ずしも無碍光如来とはいえない。釈迦如来もありますし、薬師如来もあります。あらゆる諸仏はみな如来でるといえますから、如来とあるからというて、無碍光如来といえないのでありますが、ここで如来といわれてあるのは無碍光如来のことだと、こういわれるのであります。

 ここに、はじめにありましたように、一つを選ぶ、二つならべざるこころなり、とあります意味がおのずからありまして、如来とあれば、諸仏如来かずかぎりなくあるわけですが、そのうちで無碍光如来という一仏を指すという意味であります。

  「『尊号』というは、南無阿弥陀仏なり。」

 「無碍光如来なり」といわれてありますから、尊号というのげ、また無碍光如来でもあるわけでありますけれども、偈文が如来・尊号と分けてありますから、特に如来と尊号と二つ分けて、それで南無阿弥陀仏の六字というものをここにまず述べられるわけであります。無碍光如来も尊号ですが、くわしくいえば帰命尽十方無碍光如来とか、南無不可思議光如来という、これは同じことでありますけれども 「南無阿弥陀仏なり」 といわれるのは、これはただ南無阿弥陀仏という六字を出してこられたわけでなくして、南無阿弥陀仏と申しますのは、もとは法然上人の 『選択集』 の冒頭、いわゆる標挙と申しますが、 『選択集』 の一番はじめに 「南無阿弥陀仏」 とおかれてあります。それから 「往生之業 念仏為本」 という割註が入っておりますが、それから、これは宗祖が法然上人からじきじきに書いていただかれた、その名号ですね。真影を写さしていただいおたときに書いてくださった 「南無阿弥陀仏」 と、 本願加減の文、 「若我成仏十方衆生」 以下の文ですね。そういう意味で、単に六字の名号をもってきたというよりも、宗祖がいただかれて、つたえられておるところですね。いただき、つたえられておる尊号の外にないということですね。自分が上人より頂戴したところの 「南無阿弥陀仏」 という六字より外に尊号というものはないのだと、こういう意味がうかがわれるのであります。

 したがって、この南無阿弥陀仏に歴史があるわけですね。南無阿弥陀仏「という尊号には歴史がある。仏陀の三経、浄土三経という歴史も、この尊号をもとにして説かれてあるということ。七祖の伝統もこの尊号をもとにしての伝統である。こういう意味がうかがわれるのであります。次に、

  「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり。『号』は、仏になりたもうてのちの御なをもうす。」 

 「尊は、とうとく」という意味は、この上ないという意味になりますでしょうね。無上という意味になりますが、「すぐれたり」ということは、一切のものにすぐれておる。尊号というもののなかでも特にすぐれておると、こういう意味でございます。だから、すぐれておるということ、それ以上に尊いということですね。尊いということには、諸仏の名号以上に、そこに本願というものがある。いわゆる選択本願というものがあるわけでありますから、諸仏の浄土あるいは諸仏の行を選択摂取して、そして立てられた本願であり、その本願によって成就したところの尊号であると、こういう意味で「とうとくすぐれたり」ということがいわれるわけであります。

  「『号』は、ぶつになりたもうてのちの御なをもうう。 『名』「 は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり」

 これは何をいわれるかと申しますと、 「仏になりたまうてのちの御な」 ということは、いわゆる仏としての徳が成就しておるということ。この尊号には、仏としての一切の徳が具足しておる、そなわりたりておるという意味をいわれるのであります。

 「『名』は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうす」というのは、これは本願です。「仏になりたまわぬとき」というのは、本願ですね。 「わがなを」 という。わが名というのは、仏になりたまわぬときのちかいの名ですね。ですから 「十方無量の諸仏にわがなをほめられん」 という、そういう本願ですね。その本願を指されているわけであります。

 ただ、号と名を二つに分けて 「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりたまわぬときの御な」というだけでは、どこかの辞書にでも、名というものにそんな意味があるか、号というのにそんな意味があるかと、そういう辞書でもくらんならんようなことになってしまいますが、辞書をくってもそういう訳は「はっきり出てこないと存じます。そういう意味ではなくて、号という字、名という字の意味ではなくて、名号、南無阿弥陀仏の名号という意味ですね。単なる名ではない。単なる号ではない。我々がものに名前をつけるという、そういう後からつけた名ではないということですね。

 そういうわけで、この仏の功徳が具足しておるということを、名号ということであらわし、それから名というところでは、本願をあらわす。本願によって誓われたところの名、その本願が成就して仏となられての名、と。号も名も一緒ですけれども、そういうふうに南無阿弥陀仏という名号について、果と因という意義をのべられておるわけであります。 (つづく) 蓬茨祖運 述 『唯信鈔文意講義』 より

           ー  雑感  ー

 私事なのですが、息子がアルバイトにいっていまして、やめたいといってきました。学生ですからやめてもいいわけですが、その理由が問題でしたので話し合いをしました。やめたい理由は「自分がアルバイトに行っている店の店長とのコミュニケーションがうまくいかず、気に入らない」というものでした。いろんな例をあげてやめたい理由を語っていました。ずっとうなずきながら聞いていたのですが、お父さんの言うことを少し聞いてくれるか、と、「話を聞いていると少し問題があるように思う。やめることに関しては反対はしないが、その理由が問題やな」と。「それは自分が働いて楽しい時はいい店であり、そうでないときは働きたくない店になる。 “なんでやろな” その理由がわかったらやめてもいい、と伝えました。少し考えさせて、といっておりましたが、どのような答えをもってくるのか楽しみです。

 私たちは順境のときには何も問題は発生しません。いうなれば人間としての心の成長が止まってしまいます。そこには知らず知らず自分だけの世界を作り出して関係性を破壊していっているのですね。そこに逆境という必然としての環境が出てくるのでしょう。逆境は自分が自分に出会える唯一の機会なのですね。息子のことでいいますと、「もう店にいくのがいやだな」と思っている “今” が大事な自分に出会える機会なのです。店長との関係がうまくいかないということには、店長に問題があるわけでなく息子の中に店長を受け入れる器がないということが問題なのですね。店長は息子に試練を与えてくれていると思っています。息子の答えはどのようなものまのかはわかりませんが、また報告させていただきます。

 仏陀といい、諸仏といい、仏教に出会えさせていただいたよき人というのは、自分にとって都合のいい存在ではないのですね。逆にいうなれば、自我心にとっては都合の悪い存在です。自我心と真っ向向き合い “本当の自己” に出会える機会が生存の意味なのでしょうね。


第三能変 第九 起滅門 ・ 無想天

2010-11-27 23:58:49 | 心の構造について

Ca7ubrg4    第三能変 第九起滅門

    ー 無想天 (二) 弁体顕性 その2 ―

 「しからば、転識は一切行ぜず。如何ぞ唯、生得のみぞ滅せりと言うべきや。故に彼を初の位には転識暫らく起こる.

 彼の天は唯、第四静慮のみに在り。下は想、麤動にして断ずべきこと難きが故に。上には無想の異熟處なきが故に。

 即ち能く無想定を引発せん。思いい能く彼の天の異熟果をば感するが故に。」(『論』第七・十一左)

 (意訳) 彼處には転識(眼耳身識・及第六識)は一切行じないといわれている。若し初生の時(無想天本有初生位)すでに転識が行ぜなかったならば、どのようにして生得を滅するといえようか。設え、ただ無記のみだけではなく、善・悪・無記ながら生ずるのを生得というのである。これはとりもなおさず初生に心ありということである。『対法論』の第四に言われている。生得無記は無想の報であると。故にただ無記である。よって無想天本有初生位には転識は暫らく起こるのである。

 「暫起」に対論がされています。暫起というのは、四識(眼・耳・身識及び第六識)の中にはいずれの識を起こすというのか。「これはただ転識とのみ言って、別に出さざるが故に。有るが説く。また眼耳等の識をも起こす。これまた爾らず。何の因縁ありや。ただ身識と及び第六識のみを起こす。かの果を受くべきが故に。暫らく生じて即ち滅す。何ぞ眼等識を起こして色を見、声を聞く等を仮らんや。義は爾なりと知るといえども、起こすを将に勝となす。薩婆多(有部)の如きも、また多時と許すが故に。此には有心を許すといえども、即ち報の体とおよび無記性とを顕す。」(『述記』第七本・五十九左)

   ― 次に無想天の処所繋地をあらわします ―

處所を明かす

 「これは無想を受ける処なり。第四静慮とは、これは総の言なり。即ちかの凡夫の第三の天処なり。下(下三禅)の諸の天処には、その想は麤動にして滅すべきこと難きが故に。変異の受あり、未だ尽くすべからざるが故に、第四静慮の下の二天(無雲・福生)もまた然り。凡夫が下(無雲)と中(福生)とに薫習して色身のある処に、殊勝なる無心の果を受くべきものにあらざるが故に、下は殊勝にあらず、故に生ずべからず。

 五浄居(五浄居天・色界の第四静慮のなかの無煩天・無熱天・善現天・善見天・色究竟天をいう)と無色(界)において生ぜざることは、上には無想の異熟を受くる処なきが故に。謂く五浄居にはただ聖者のみ居せり。外道の所生にあらず。彼は五浄居を知らざるが故に。無色(界)に身なし。かの涅槃の楽に似て、色身の果を受くる処なきが故に。」(『述記』第七本・六十左)

 無想天はどこにあるのかということが述べられますが、これは何度もいわれていますように、色界第四静慮の広果天であると。この広果天は凡夫の第三の天処である。その想は麤動にして想を滅すべきことが非常に難しいといわれます。凡夫の位(異生位)にあるものですね。『論』では凡夫といわず異生といわれています。生が異なる。業によって生が異なるわけです、それで異生と。そして無想天は第六識の異熟心なのですね。この転識の滅する分位の差別を説いて無想という、といわれています。宿し無心定を習いし因縁力による果報になるわけですが、どこまでも凡夫の第三の天処なのです。


すみません

2010-11-25 22:26:26 | インポート

すみません。体調不良です。ブログの作成は今週は休ませていただきます。

 11月26日(金) 夕方から熱も下がりました。咳も収まりつつありますので、明日から再開します。今日は『唯識論同学抄」の記述を(11月19日の項に)掲載しました。伝統的な解釈が述べられています。原漢文ですが無想天の記述に随って読み下していこうと思います。

 『同学抄』は平安時代の法相宗の学僧 聖覚房良算の書で、興福寺の学僧 解脱房貞慶と同年代の人です。解脱房貞慶は浄土宗弾圧の『興福寺奏上』を起草した人でもあります。


第三能変 第九 起滅門 「弁報体並顕性」を喩えを以て成ず

2010-11-24 23:46:15 | 心の構造について

   第三能変 第九 起滅門 起滅の分位 ・ 無想天
ー 報の体を弁じ並びて性を顕す。 喩えを以て成ず -
 「善に引生(いんしょう)せらるるを以て二定を善と名づけるが如し」(『論』第七・十一日左)
 (意訳)善に引き起こされて、結果として二定を引き起こすのを善と名づけるようなものである。
 「述曰。これは喩えを以て成ず。二定の前の善心に引生せらるる種子を二定と名づけ、二定を善と名づくるは、能引の心に随う如くなるが故に、これもまた生得の無記心が滅するに随うが故に、彼の果を無記と名づく」(『述記』第七本・五十九左)
 無想定と滅尽定の二定です。これが無心の二定といわれています。定といっても、有心の場合や無心の場合があるのです。等引・等持が無心定といわれます。定に七つの名があることは以前に述べましたが、「無」という状態をもった定はこの二つしかないのですね。意識活動が全くない状態の定をいいます。ただ無想定と滅尽定では大きな違いがみられます。「及無心二定」以下に詳しく述べられます。
 
 




『唯信鈔文意に聞く』 (8)

2010-11-23 21:40:07 | 唯信抄文意に聞く

      ー 『唯信鈔文意』に聞く (8) 

誓願の尊号
  「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」
 この如来の尊号は、南無阿弥陀仏という尊号ですね。その他にないという、ただ一つの無碍光如来の南無阿弥陀仏という尊号は、「不可称・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」と。

  「不可称・不可説・不可思議にましますゆえにというところは、さきの仏になりたもうてのちの御な」という意味にあたるのであります。
 それから、「一切衆生をして無上大般涅槃ににいたらしめたもう、大慈大悲のちかいの御ななり」とあるときは、これは「いまだ仏になりたまわぬときの御な」ですね。仏になりたまわぬときに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめずんば、仏にならじ、と誓われた。いかようにして大涅槃にいたらしめるかといえば、わが名を十方の諸仏に称揚賛嘆せられた名をもって、衆生に聞かせて、その名の功徳によって、一切衆生を無上大涅槃にいたらしめようと誓われた。そういうわけで、ここに「ちかい」ということですね。いわゆる「誓願」ということが、まずでてきたわけであります。
 誓願の御(み)な、誓願の尊号ですね。一方から申しますと、不可称・不可説・不可思議のゆえに、この尊号は一切衆生をして無上大涅槃にいたらしめたもうのだ。その誓いのときのみなですね。まだ仏になりたまわぬときのみなですね。仏になりたまわぬときのみなということで、ちかいのみなという意味をあらわし、仏になりましたときの号という意味で不可称・不可説・不可思議の功徳ということをいわれるのであります。
これは、先に申しました聖覚法印が結論とされるところをまず出されるわけであります。ですから、真宗の教義と申しますか、法門というものが、まずこうして簡明にうち出されております。次に、
  「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり」
と結ばれます。「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり」。これは「尊」というところですね。「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり」ということについて「よろずの如来の名号にすぐれたまえり」といわれるわけですね。それから、あとの「名号」ということの解釈ですね。「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり」 ということですね。それを結ばれて、「これすなわち、誓願なるがゆえなり」 と、こういわれるのであります。

 「誓願」ということが、この如来の尊号ということを基礎」づけておる。如来尊号というものが南無阿弥陀仏であるとどうしていわれるかというと、誓願、これには誓願がある。南無阿弥陀仏には誓願がある。ですkら誓願という意味が、この「如来尊号」という四字によってあらわされると申しますか、あるいは誓願ということなくして、如来尊号というものは、一切諸仏如来の名号にすぐれたということはいえないわけですね。そういう意味でのべられるのであります。

 如来尊号というだけで、誓願ということが思いもよらぬときには、単に言葉のあやにすぎないわけですね。釈迦の尊号も弥陀の尊号もかわりはない。むしろ釈迦の尊号の方が何か現実感があるように思われる。弥陀の尊号というと、抽象的な意味に思われるということになりますが、誓願という意義をもつならば、誓願という意義をとりあげますと一切如来にすぐれた尊号であるという意義が明瞭になる。こういう意味になります。  (つづく) 蓬茨祖運 述 ・ 『唯信鈔文意』講義より

 (追伸) 今週の書き込みがずれ込みました。風邪をひきまして休養をとらせていただきました。ウイルス性の風邪などに感染しますと、年老いた父に感染しないかと本当に心配します。皆様方も体調管理には十分気配りをなさいまして「仏願の生起本末」を御聞き取りいただきたいと念じます。

 また今週(28日)は親鸞聖人の祥月命日にあたりますね。各地の真宗寺院では「報恩講」が勤修されていますが、御本山のHPには「宗祖親鸞聖人の御祥月命日11月28日までの一週間七昼夜、真宗本廟で報恩講が勤まります。報恩講は、宗祖が出遇われた念仏の教えに、私たちが遇いえたことを慶び、その恩徳に報謝する真宗門徒にとって大切な御仏事です。皆様の参詣をお待ちしております。」と記されていました。結願日中は日曜日も重なって大変混雑するでしょうが、私も参詣したいと思っています。


*雑感 ・ 『唯信鈔文意に聞く』 (8)

2010-11-21 22:54:55 | 唯信抄文意に聞く
            ― 日曜雑感 ―
 唯識では、五位無心という、意識が働かない時がある。意識は恒に働いているわけではなく、間断があるといわれています。間断が有るといわれて、自己が無くなってしまうのかと云うとそうではないのですね。有間断の底に恒に自己を思い続ける、恒相続の意識が働いていると見抜いてきたのです。恒相続は生存中と云うだけにとどまらないのですね。過去・現在・未来を包んで恒相続だといわれています。私は私から逃げる事を許さないのです。「摂取」という意味は二通りありますね。一つは信心の行者を救い取って離さない、ということでありましょうし、もう一つは、私は私から逃げる事を許さない、私は私に成ることの他に生きる事の意味はないのだということを、命の底から願いつづけていることなのでしょう。だから私たちは間違いではあっても命の充足を願って生きているのではないでしょうかね。
 意識が働かない時が有る、無心の状態ですね。この無心の状態に自己を埋没させることに、甘い期待を抱いていると思われて仕方がありません。『論』の説かれるところは、無想定という禅定を修して、その果報として無想天に生じると、いわれているわけです。ある意味、出離解脱をもとめるわけです。そこに開かれてくる世界は永遠の楽土であると。そういう作意をもって無想定というものが得られ、色界第四静慮を解脱地と考えているわけです。第四静慮・広果天に於いて完全に意識活動が停止するとされますから。そこが解脱地だと間違いを起こすわけです。意識が停止状態であって、意識がなくなったわけではないのですね。記述によりますと、五百大劫の間、無心という状態がつづくといわれています。しかし醒めれば、色界第四静慮から転落して欲界に逆戻りするわけです。この記述は何を意味しているのでしょうか。
 私たちが生活しているこの場所は欲界だといわれています。何故かといいますと、欲望がみなぎっている世界、自我欲を中核として成立している世界が欲界といわれていますね。自我欲の裏返しが苦脳満ち溢れる世界と、云い換える事が出来ると思います。苦脳と共に生きていますから苦脳を離れる、苦脳しない世界を求めるわけでしょう。それが自我欲を満足させることであると思い違いをしている世界を、欲界と云い現わされたのではないでしょうか。
 「満足」をしたいという思いが、宗教に求める方もおられるでしょう。または世俗のいろいろな誘惑に自己を埋没させることで、一時的に満足を得ようとされる方もおられるでしょう。一時的な満足ではあっても、その世界に沈んでいる間は無心でおられるわけですね。一時の世界に没我したい、そこでストレスを解消させたいという願望があるわけでしょう。何もかも忘れて熱中し、無心になれるという時間を生んでくるのではないでしょうか。間違いではあってもです。これは一種の天に身を置いている状態ではないでしょうか。しかし、縁が尽きれば現実に戻されますから、この繰り返しをつづけざるを得ないのですね。
 また「宗教」の世界にも、このような問題があります。無想天が究極の目標であると、錯覚を起こさせるわけです。新興宗教の世界に多く見受けられます。世俗の欲求としての無心の状態より根が深い問題です。宗教という名の外道に没我すると云う問題ですね。宗教を対象的に捉え、集団の中に自己を埋没させ、それが幸福であると思いこむ、或いは幸福であると思いこませることです。仏の教えを信、行じて、証を得る。これが教行証という仏教のあり方なのですが、これを巧みに歪曲し、“この信心はすごい”という迷文句を生みだしてくるのです。“願いは必ず叶う”・“冬は必ず春と為る”という元の意義をすりかえて、信心をしなさい。そして功徳を頂くのですと。その為に新聞・雑誌等々、布施という名の財務を半ば強要してくるわけです。新興宗教の大部分は必ず入会届を出させます。家族構成まで書かせるのですね。それで、入会届を出すとですね、信心が成立したことになるのです。“この信心は必ず幸福になれるんですよ、すごいですね”が合言葉になり、洗悩という思想改造が始まるのですね。ここには「自己を問う」、ということはありません。また教祖あるいは名誉会長は傲慢そのもので、慙愧心は微塵もありませんね。これは自我欲を巧みに利用しているわけですが、この自我欲に気づかせないように休息を与えないのです。ですから入会した人たちは自己欲求達成のために、一生懸命に、会の為に励む日々を送るわけです。そしていつの間にか、その場所が居心地の良い楽土と、思い込むのですね。この場所に陥ってしまいますと、そこが解脱地となり、永遠に目覚める事が出来ないという過失を犯すことになってしまいます。修道の問題でいえば、「空に沈む」ということななるのでしょう。親鸞聖人は「聞不具足・信不具足」として信心の内実を確かめておいでになります。聖教の言葉では「然に名を稱し憶念すること有れども、无明なほ存して所願を滿てざる者」、称名憶念すれども、無明がなお存して志願が満てないのは何故か、という問題になるのでしょうか。私たちはいつでもどっかに逃げ込んでしまいたいと云う欲求をもっているのでしょうね。ですから無想天という問題が大きく取り上げられている理由になると思うのです。私たちが簡単に陥ってしまう信心の課題になると思われます。
 すみません。 『唯信鈔文意に聞く』は明日書き込みします。 

第三能変 第九 起滅門 ・ 報の体を弁じ並びに性を顕す

2010-11-19 23:57:40 | 心の構造について

    第三能変 第九 起滅門 無想天 (10)

     ― 報の体を弁じ並びに性を顕す ―

 「決擇分に言く。所有生得の心・心所を滅せるを無想と名くと云うが故に。此の言の意の顕はさく。彼この本有の初には異熟生の転識暫らく起こること有とも、宿の因縁の力を以て後には復生ぜずんば、斯に由って異熟無記の分位の差別を引き起こしつるときには、説いて無想と名づく」(『論』第七・十一右)

 「述曰。この中に報の体を弁じならびに性を顕す。五十三巻に無想天を解して、この因縁によって所有ゆる生得の心等は滅す等といえり。この言は何の義を顕すや、

 これは彼の天の本有の初位に、六転識の報心が暫起することあるを顕す。宿し無心定を習いし因縁力の故に、後にまた心を生ぜずなりぬ。この生得の第六の報心が滅するに由るが故に、異熟無記の無心の分位を引起する時を、かの無心の報と名づく。本識に依止する、この転識の滅する分位の差別を説いて無想と名づく。前の第一巻の如し。二解ありといえども、いまは此の文に准じて、ただ第六心の滅の上において、無想を立てるなり。(疏二本八十一右)

 『唯識論同学抄』に細注がされています。 (大正蔵・66-0414c~) ・ 大日本仏教全書77・同学抄第二p960

 無想天に対する伝統的な唯識の解釈が述べられています。

                無想天本有初生位。起眼耳身三
T2263_.66.0414c21: 方。若異熟無記ナリトイハハ者。異熟心心所羸劣。他界
T2263_.66.0414c22: 他不之。何在第四靜慮本有位。遠起
T2263_.66.0414c23: 初靜慮異熟無記三識耶。若依之爾者。依身
T2263_.66.0414c24: 上地。起コトハ下地有漏三識。是借識力也。而
T2263_.66.0414c25: 四無記。思借起心。專當異熟生。不ヲ以K202
T2263_.66.0414c26: 發威儀工巧。不彼二無記<button class="ftntf1" title="散+(亂)<甲>" jquery1290773859471="27">18</button>散心故非
T2263_.66.0414c27: 通果無記。若非異熟生。是何無記耶。是以
T2263_.66.0414c29: 。述三識。寧非異熟無記耶。依之人師
T2263_.66.0415a02: 答。先生K202在上三靜慮。借K202起下地三識。總可
T2263_.66.0415a03: 其體。何於無想天初生。狹爲疑耶。但如
T2263_.66.0415a04: 疑難。異熟心他地不起。工巧上界無之。既
T2263_.66.0415a05: 散心故。何云通果。故可威儀心也。眼耳
T2263_.66.0415a06: 身三識。縁威儀也。但論云有異熟生轉識
T2263_.66.0415a07: 暫起者。無想天第六識異熟心也。彼第六報
T2263_.66.0415a08: 心滅。引起異熟無記無心分位之時。名
T2263_.66.0415a09: 心報。故但是彼處第六異熟也。故論云。彼本
T2263_.66.0415a10: 有初。有異熟生轉識暫起。宿因縁力。後不
T2263_.66.0415a11: 復生。由此引K202起異熟無記分位差別。説名
T2263_.66.0415a13: 之可異熟三識之文耶。結文云。故彼
T2263_.66.0415a14: 初位轉識暫起者。<button class="ftntf2" title="〔因〕-<乙>" jquery1290773859471="44">1</button>因廣攝借起三識也。上
T2263_.66.0415a15: 下論文。寛狹不同。上文云ヲ以異熟。不
T2263_.66.0415a16: <button class="ftntf3" title="起+(三)<乙>" jquery1290773859471="62">2</button>起識。下文單ヘニヲ以轉識。兼三識也。太抄

T2263_.66.0415a17: 釋。不 愚案
 疏釋故彼初位轉識暫

T2263_.66.0415a18: 起之文。有二釋。一云起四識 眼耳
身意
<button class="ftntf4" title="一=二<乙>" jquery1290773859471="79">3</button>一云唯

T2263_.66.0415a19: 一識 身意 二釋。起四識釋爲

T2263_.66.0415a20:
T2263_.66.0415a21:   尋云。疏釋有異熟生轉識暫起之文。此

T2263_.66.0415a23: 既云六轉識。知。不第六歟。今云。言總
T2263_.66.0415a24: 意別也。若執現文。豈起異熟鼻舌識乎。
T2263_.66.0415a25: 故下文云由此生得第六報心滅。故引K202
T2263_.66.0415a26: 異熟無記無心分位之時。名彼無心報
T2263_.66.0415a28:   即能引發
T2263_.66.0415a29: 問。本疏中。付無想天總別報之義。且
T2263_.66.0415b01: 無想定無心已去思種。爲彼天別報異
T2263_.66.0415b02: 。爲當如何 兩方。若感者。無心已去思種。
T2263_.66.0415b03: 何有其力果耶。依之論中。即能引K202發無
T2263_.66.0415b05: 法師不此義耶。若依之爾者。今本疏中。
T2263_.66.0415b06: 三釋。未<button class="ftntf6" title="斷=判<乙>" jquery1290773859471="113">5</button>邪正。餘處中作二釋。斷
T2263_.66.0415b07: 前解爲勝。然彼前解。與今第二釋同也。知。
T2263_.66.0415b08: 無心已去思種。感別報云事
T2263_.66.0415b09: 答。本疏三釋。人師取捨不同。雖且任
T2263_.66.0415b10: 處本疏正否。以第二釋。可實義。正見
T2263_.66.0415b11: <button class="ftntf7" title="論+(感)<乙>" jquery1290773859471="129">6</button>論文。即能引K202發無想定思。能<button class="ftntf8" title="〔感〕-<乙>" jquery1290773859471="145">7</button>感彼天異熟
T2263_.66.0415b13: 時。能熏心已滅故。其時前念所熏之種子之
T2263_.66.0415b14: 上。能遮六識現行。不シムル起功能アリ。其思種上。
T2263_.66.0415b15: K202立無想定。故微微心種。引K202發定思也。故
T2263_.66.0415b16: 彼思。感總報異熟也。此<button class="ftntf9" title="因+(果)<乙><甲>" jquery1290773859471="161">8</button>因倶實也。然
T2263_.66.0415b17: 五百大劫無心別報。非實異熟。故以實思
T2263_.66.0415b18: 。不之。故微微心時。所熏思種。防
T2263_.66.0415b19: 心不ムルヲ起名無心定。此無心定。想等不
T2263_.66.0415b20: 分位假立。非實因<button class="ftntf0" title="〔故〕-<乙>" jquery1290773859471="11">9</button>故是厭心種子遮防功
T2263_.66.0415b21: 能也。此假因ヲ以彼別報假果也。故總別二
T2263_.66.0415b22: 果之因隨果實異也。因果相順。其理吉
T2263_.66.0415b23: 成。由之略纂之中。謂定體時思。能感別報

T2263_.66.0415b24: 云云。
愚案也

11月20日(土)

 決擇分に言くは『瑜伽論』巻五十三(摂決擇分中五識身相応地意地の三)をさします。ここの記述は巻十二(11月16日の項を参照してください)を受けて述べられています。二無心定を明かす文に於いて「復次に云何が無想定なるや。謂く已に徧浄天の貪を離れて未だ上(色界第四禅の貪煩悩)の貪を離れず、出離の想の作意を先と為るに由るが故に、諸の(前六識)心・心所ただ滅静にしてただ転ぜず、是を無想定と名づく。此れは是れ仮有にして実物有(じつもつうー仮有・施設有にたいする語。色・香・味・触などの感覚は実物有であり、その感覚にもとづいて設定される飲食・衣服・乗り物などは仮有であると、『瑜伽論』巻六十五に説かれています。)に非ず。・・・若し無想有情天の中に生ずれば所感の依身甚だ清浄にして威光赫奕(いこうかくえき・いこうしゃくえきー光り輝くさま)として形色広大なりと為す、又究竟最極清浄に到り、必ず中夭(ちゅうようー寿命をまっとうせずに途中で死ぬこと)無く、寿量窮満して後方の殞没(いんもつー滅すること。死ぬこと)す。復次に若しくは此の因、此の縁に由って所有る生得(しょうとくー生まれると同時に先天的に獲得されるもの)の心・心所滅す、是れを無想果と名づく」

 無想天には意識は働かないということを述べているのですが、禅定の問題ですね。禅定に入ったままで五百大劫の間意識がなくなるといわれているのです。定をもった生存ですね。そこでは前六識と及びそれに相応する心・心所が滅するといわれるわけです。三界はすべて異熟無記なのですが、無心として分位差別しているのです。「宿の因縁の力を以て」、分位差別を引き起こしてきたのです。「有心の位に無心を得ようとしたことによって、無想果を引き起こした」と教えられています。 (未完)


第三能変 第九 起滅門 ・ 起滅の分位 無想天 (10)

2010-11-18 23:42:04 | 心の構造について

    第三能変 第九 起滅門 ・ 無想天 - 問答 -

 「彼この本有の初めに若し転識無くば、如何ぞ入と名づく。先に有しが後に無くなりぬるを乃ち入と名くるが故に」(『論』第七・十一右)

 (意訳) 無想天の本有の初めに若し転識がなかったならば、何故に入(無心)と名づけるのであろうか。その理由は、先に有って後に無きことを入と名づけるのである。

 「述曰。「彼の」天の「本有の初に、もし転識なくんば如何ぞ入と名づくるや。要ず「先に有って後に無なるを乃ち入と名づくるが故に」。先より未だ有心にあらずして、無心に入るというべきにあらず。先よりすでに入り訖る。何ぞ入るということを仮らんや。また中有の末に報心を起こし、報心が滅する時を無心に入ると名づくべきにあらず。諸論にみな、かの中有に必ず愛の潤生する心を起こすと説けるが故に」(『述記』第七本・五十八左)

 『論』のこの記述から「即能引発無想定思。能感彼転異熟果故」までの論旨は無想天は無想定によって得た果であり、有情が無想定を修して得ようと努力した結果、異熟果であるといわれ、それは無想定を修した結果、自然に起こる生得定であると。努力しようとする染汚意が働いており、無心と雖も、ただ暫らくの間、停止している状態であるといわれています(別報の異熟が起こらない状態 - 「異熟無記の分位の差別を引き起こしつるときには、説いて無想と名づく」)。「若し彼より没すれば、必ず欲界に生ず」と。「無想定を修せし行の勢力が尽きたるが故に」といわれています。

 この段の論旨は一貫しておりますので、区切りをつけて学ぶより通して読んでいく方が解りやすいと思いますので、『論』と『述記』の記述をひと通り読んでいきます。明日書き込みます。