唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (51) 第十一 見断等門 (5)

2016-03-31 21:28:14 | 第三能変 随煩悩の心所
 四月八日はお釈迦さまの誕生日 煩悩の項より復習しています。何故復習しているのかと云いますと。『論』に「見所断の中随煩悩と大随煩悩が四諦に迷う行相の親疎については、すべて煩悩に説いた通りである。」ということに起因します。昨日のつづきになります。
 二取(見取見と戒禁取見)について
 「二の取は彼の三の見と戒禁(カイゴン)と及び所依の蘊(ウン)とを執じて勝なり能浄(ノウジョウ)なりと為す。」(『論』第六・二十一右)  
 二つの取(見取見と戒禁取見)は、かの三つの見(薩迦耶見・辺執見・邪見)と戒禁取見と及び所依の五蘊とに執着して、二取は勝れたものであり、よく浄らかにするものであると考える。
 説明でもわかりますように、二取は、薩迦耶見・辺執見・邪見と戒禁取見と及び所依の五蘊とに執着して、その上に苦諦に迷うことを明らかにしているのです。つまり、直接的に苦諦に迷うのではなく、間接的に苦諦に迷うという迷い方であって疎迷と云われています。
 戒禁取見〈ziila-vrata-paraamarza〉
 「五には戒禁取。謂く諸見と随順せる戒禁と及び所依の蘊とのうえに執して最勝なりと為し、能く清浄を得すという。無利の勤苦が所依たるを以て業と為す。」(誤った見解にもとづく外道の戒を取り入れて、そのような戒を、正しい戒であると思い、その戒を説く人を最も勝れた者であり、その戒を保つと清浄な涅槃を得る原因であると考える見解であって、いたずらに身を苦しめる心である。) 
 これは戒禁〈かいごん〉されたものを勝れた正しいものと誤って執着する考え方である。これに非因計因と非道計道との二を立てる。すなわち、実際に因果の正しい立場に立てば因とならないものを因と誤って考え、それを勝れたものと執ずる見である。仏教の正しい菩提(さとり)に対して、それを達成する正しい因をとらず、間違った因を正しいものと誤って執着するようなものである。
 非道計道とは涅槃の道に非ざるものを涅槃の道と間違え、それを正しく勝れたものと誤って執着することである。このことは一般に注意すべきことで、ある立場の実現には、それを達成する正しい方法があるはずである。また、この立場に基礎付けられた正しい方法によってこそ、その立場は実現されるのである。
自らの目的の達成は目的を達成する正しい方法の自覚自行によるので、立場と方法、思想と実践とが別々であっては、何も成功しない。悪見の中に、戒禁取見を説くのは、仏教の正しい因果論をふまえての説であることに注意しなければならない。(仏教書大辞典より)
自分の見方が最勝であるという見解や、最後は自分の行っている戒律が最高のものであるという思い込みですね。我執を中心に見ていく在り方が根本煩悩といわれるものです。このように煩悩は自分が一番正しいと執着を起こして苦を自分で招いてくるのです。苦の因を他に求めながら実は自分の中から起こしている、ということになります。  
「「述して曰く。謂く諸見に依って受ける所の戒なり。此の戒を説いて勝と為す。諸見に順ずる戒と及び戒の所依の五蘊の眷属を執して勝と為す。及び能く涅槃の浄を得と云うは戒取と名く。戒は即ち是れ禁(イマシム)なり。戒は性と遮と別なり。この戒に由って一切の外道は抜髪(バツハツ)等の利無き勤苦を受持するが故に。戒と及び眷属とを除く。外に余の一切の法は勝なり及び能く因と為って清浄を得と執す。戒は勝と執せず、但だ能く因と為ると言うと雖も、並びに戒取に摂するに非ず。・・・」(『述記』第六末・二十七左)
戒禁取見とは、つまり、(戒禁とは、外道が説く戒と、その規範)諸々の悪見に随順する戒禁と及びその所依の五蘊とに於いて執着して最勝であるとし、そのことがよく清浄を得ると考えるのである。
戒禁取見は、利益が無く、勤苦の所依となることを以て業とする心所である。この考え方は外道の説が悪いといっているのではないんですね。自己中心的に動いていきますと、外道の立てる戒を勝れたものであると思い込みます。間違いを起こすんですね。まさに政治・経済そのものでしょう。政治・経済が戒になりますね。その戒を説く人を尊敬しますし、その戒を守って生活の指針とします。しかしですね、自己改革といいますか、自己に対するプロテストがありませんから、いたずらに身を苦しめるものであると説かれているわけです。

仏法を聞いていてもですね、仏法を楯にとって裁くということが起ってきます。両刃の剣といいましょうか、自分が見えてこない、見えてこないと、人を裁くのですね。裁いていることさえ見えないですからね。深い問題が隠されています。他を社会を問うているわけではないんです、他を社会を縁として自分が問われているのです。戒禁取見はまさに両刃の剣の切っ先が問われている見解であると思います。

その為に、涅槃と菩提を障えるわけです。煩悩障・所知障といわれていました。障礙ですから、真理に反逆しているわけです。そうしますと、当然に苦を生み出してきます。利を生み出さないわけですね。「利無き勤苦」(無利勤苦)と教えています。菩提を得る勤苦は「利有る勤苦」(有利勤苦)と称されます。

 見取見と戒禁取見が苦諦に迷うのは、どのようにして迷うのか、何に迷うのかを説明しているのですね。『述記』には端的な説明が述べられています。
 「見・戒の二取は、
  前の三見と及び倶時の蘊とを執して、勝なり能浄なりと為す、是れ見取なり。
  彼と倶なる戒と及び蘊とを執して、勝なり能浄なりと為す、是れ戒取なり。・・・」
 また、『演秘』には
 「此れ等は三見等を縁じ起すを用つて、苦集の理に望むるに所隔有るが故に、これを名づけて疎と為す。是れ重縁の惑なり。」(別して行相の別を釈す。麤相)と釈されています。
 見取見は、「三見(薩迦耶見と辺執見と邪見)と及び倶時の蘊とを執して」と云われてますが、倶時ですから同時に、三見と同時に存在する五蘊に執着して、最勝であり、能浄であると考え執着をすることにおいて迷うという在り方です。
 戒禁取見は、「(三見)と倶なる戒と及び蘊とを執して」、三見に随順する戒禁と所依の五蘊に執着してという意味になります。(誤った考えに随順して、誤った戒)を最勝とし、能浄であると考え執着をすることにおいて迷うという在り方です。こういう迷いの在り方を疎迷というのですね。重縁の惑と名づけられています。
 
 相応の無智と不共の無明についてはですね、
 『述記』には、相応の無智について、九(癡を除く九の煩悩)と相応する無智は、九の煩悩の所応に随って、親迷と疎迷に於いて苦諦の理に迷うのであると述べています。そして、不共無明は、苦諦の理を了解することができずに、親しく苦諦の理に迷うのである、と教えています。
 相応無明 ― 諸煩悩と相応して生起してくる無明ですから、薩迦耶見・辺執見・邪見のように直接的に迷う煩悩と相応する時は、相応無明は親迷になり、貪・瞋・慢・見取見・戒禁取見のように、苦諦の理に間接的に迷う煩悩と相応する時は、疎迷になります。
 不共無明 ― 独行無明とも云われます。単独で四諦に迷う在り方を云います。恒行不共無明と、独行不共無明に分けられますが、昨日説明しましたので省略します。

 「疑と及び邪見は親しく集等に迷う、二取と貪等とは苦に准じてまさに知るべし。」(『論』第六・二十二右)
 これまでは苦諦に迷う諸煩悩の在り方をまなびましたが、今回は苦諦以外の集諦・滅諦・道諦の三諦に迷う八煩悩について釈されます。何故、八煩悩かといいますと、薩迦耶見と辺執見はただ苦諦にのみ迷うと述べられていましたので、ここでは除いています。しかし、厳密に言えば、三諦に迷うのであるが、ここでは説かない、という立場ですね。
 「集・滅・道の三に於て、ただ八有る中に、二見(身・辺)を除くが故に。疑と及び邪見と不共無明とは、親しく集等の三諦に迷う。然るに実には身・辺の二見が別に三諦に迷うこと有るも、八有りと説けるを以ての故に。略して論ぜず。二取と貪等とは、前の苦に准じて説く。二見は集・滅・道の下に無きを以ての故に。又ただ親迷なり。」(『述記』第六末・六十一・左))
 疑と及び邪見と不共無明は、三諦に迷う親迷であることを明らかにしています。そして、二取(見取見と戒禁取見)と貪等(等は等取。貪・瞋・慢と相応無明)とは苦諦に准じて知るべきである、と。
 准じてということですから、なぞらえて、苦諦の所論と同じように知るべきである、ということですね。
 貪・瞋・慢・戒禁取見・見取見は苦諦に対して疎迷であることから、三諦に於いても疎迷である、ということになります。疑・邪見と相応する相応無明も、苦諦に准じて、三諦に於いても親迷である。貪等と相応する無明も、苦諦に准じて、三諦に於いては疎迷であるということになります。 
 瞋についての所論
 「然も瞋は亦能く親しく滅道に迷う、彼を怖畏(フイ)するに由って憎嫉(ゾウシツ)を生ずるが故に。」(『御』第六・二十二右) しかも瞋は、またよく親しく(直接的に)滅道(滅諦・道諦)に迷うのである。何故ならば、滅諦・道諦を怖畏(おそれること)することによって憎嫉(にくみ、きらうこと)を生ずるからである。
 前科段において、瞋は貪・慢・二取とともに、集諦・滅諦・道諦に於いて疎迷の煩悩であると説明してきましたが、特に瞋は滅諦と道諦に於いては、親しく迷う親迷の煩悩であることを明らかにし、その理由を説明しているのです。
 「この意の顕さく、瞋は無漏を縁ずるが故に。滅・道の理に迷って生ずるが故に。苦集の理に瞋すること無きが故に。・・・」(『述記』)
何に由ってこういことが言えるのかと云いますと、瞋は無漏法を縁ずるからである、と。つまり、滅諦・道諦の理に迷って生起するからであるというわけです。滅諦や道諦という無漏法を怖畏することによって、憎嫉という、憎しみや嫉妬を起こすからなんですね。
 「論には、唯無漏の諦理に迷うと説くのみにあらず、彼(瞋)は親しく二諦に迷って起こるに由るが故に。これより上は、皆五十八と同なり。」(『述記』)
 『瑜伽論』巻第五十八には「(瞋恚は)謂く滅諦に於て怖畏の心を起こし、損害の心を起こし、恚悩の心を起こす。是の如き瞋恚は滅諦に迷うなり。・・・所余の貪等の道に迷う煩悩は、滅諦に迷う道理のごとく応に知るべし。」と説かれている。道諦に於いても、滅諦に迷う道理と同様に知るべきであると説かれているわけですね。これを受けて『論』には「瞋恚は滅道を憎嫉すと説けるを以て、亦離欲地(上界)をも憎嫉す応きが故に。」と説かれていたわけです。そうしますと、憎嫉の内容は、「損害の心を起こし、恚悩の心を起こす」ことなのですが、この心は理に迷って起こってくるんですね。
 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とう理に迷って生起してくるのが瞋恚という煩悩なんですね。その内実は、
 「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。」(『歎異抄』)
 これが道理なんですね。道理に反逆した在り方を、邪見・憍慢の悪衆生と押さえられているのでしょう。瞋恚は起こそうと思って起きるものではないんですね。道理に反する、道理に迷うことに由って自然発生的に起ってくるわけです。逆にいえば、いかり・はらだちは、道理に迷っているという証しでもあるんです。ご縁の世界に生き切ることができない自分が見えてきます。
 このような理由によって、瞋恚は直接的に滅諦・道諦に迷う煩悩であることが明らかにされたのです。
 
 麤相門の結び
 「諦に迷う親疎の麤相是の如し。」(『論』第六・二十二右)
 四諦に迷う麤相門は以上の通りである。
 「未だ理を盡さざるが故に、五十八に説く、亦麤相なり。」(『述記』第六本・六十二左)
 以上は麤相(おおまかなありよう)によって説いてきたのである。『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623c~624a)に説かれている所論と同じであるが、これは未だ理を盡していないので『瑜伽論』の内容は麤相によって説かれているということになります。
 「
 行相の別」の迷いについての委細門が説かれます。
 「委細(イサイ)に説けば・・・」 細かく、詳しく説くならばと云う、
 「委細に説かば、貪・瞋・慢との、三が見と疑と倶に生ずるは、応(ヨロシキ)に随って彼が如し。」(『論』第六・二十二左)  委細に説くならば、貪と瞋と慢との三つが、三が見(薩迦耶見・辺執見・邪見)と疑と倶に生じる場合は、よろしきに随って彼(疑と薩迦耶見・辺執見・邪見)のように理解すべきである。
 「述して曰く。疑と三見と無明との五法は親しく諦理に迷う。二取は疎遠なること前に定んで説くが如し。且く苦諦の下の貪瞋慢との三は、若し独頭に起こる見を縁じて生ずるをば疎遠なること前に説くが如し。」
 麤相門に於いては、疑と三見と無明の五法は苦諦に対して親しく迷う煩悩である。(親迷)
          疑と邪見と不共無明は、親しく集諦・滅諦・道諦に迷う煩悩である。(親迷)
          二取は苦諦に対しても、集諦・滅諦・道諦に対しても疎迷である。
          苦諦に対して疎迷である貪・瞋・慢と相応する時は、集諦・滅諦・道諦に対しても疎迷となる。
 つまり、貪と瞋と慢は四諦に対して疎迷である。「貪瞋慢との三は、若し独頭に起こる見を縁じて生ずるをば疎遠」であるというのが、麤相門において説かれていたのです。
 
 委細門に於いて論ずるならば、
 貪・瞋・慢の四諦に対する迷い方は、倶に生起する疑と三見の煩悩の親迷か疎迷かということになります。貪・瞋・慢が三見と倶に生起する場合と、貪・瞋・慢と、疑と三見が倶に生起する場合は、疑と三見の迷い方と同じになるので、そのように理解するべきである、という。
 「貪と慢と三法(薩迦耶見・辺執見・邪見)と倶なり。瞋は疑等の四と倶起するは、応に随って彼が如く、亦親しく諦に迷うと名づく。慢と貪と我見と倶生して、滅道の下の煩悩の後に於て起こるを亦無漏に迷うと名づく。瞋は疑と倶起し、或は独り起こる。これは数の総に約す。」(『述記』)
 ① 貪・瞋・慢の中、貪と慢は薩迦耶見・辺執見・邪見と倶起する為に、三見の迷い方と同じになる。疑は除かれる。
 ② 瞋は疑と三見と倶起する為に、疑と三見の迷い方と同じになる。 
 麤相門 ― 独頭に生起する貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う。(事とは、現象的存在で、理によって生じる一切の有為法をいう。)
 委細門 ― 「若し三見と疑と倶なるは亦四諦の理に迷うと名づく。」(理とは、現象的存在を貫く法則を云う。縁起の理・真如の理で、存在の真実のありよう。) 

 ここで説かれている麤相門は大雑把にいえば、貪・瞋・慢は、四諦の事に迷う煩悩であるということなのですが、しかし、事は理によって生じてくるものなんですね。ですから私たちが日常の中で、むさぼりや怒りや慢心を起こしている時には、我見や辺見や疑と倶にして起こしていることなのです。我見と辺見と邪見によって自分を縛り、、疑は自分を信ずることができないということでしょう。つまり、三見と疑を依り所にして表面化してくる煩悩ということになりましょうか。
    
          麤相門(表層)
     ―――――――――――――――――――
         委細門(麤相門の背景)

 十の煩悩は、どれがどれと相応(倶起)するのかは、自類相応門を参考にしてください。(2014年7月11日~8月11日の投稿)
 前科段までは分別起の煩悩の断についての説明でありました、倶生起の煩悩の断はどうなるのかという問いに対して答えていきます。「六通倶生及分別起」の倶生起のぼんのうの断についての説明になります。
 初は、迷理の煩悩の断について。
 後に、迷事の煩悩の断について。
 (初)
 「倶生の二の見と、及び彼と相応する愛と慢と無明とは、苦諦に迷うと雖も、細にして断じ難きが故に、修道にして方に断ず。」(『論』第六・二十二左)
 倶生起の煩悩の二の見である薩迦耶見と辺執見と、及び二の見と相応する愛(貪)と慢と無明(癡)とは、親しく苦諦の理に迷うとはいえ、その行相は細にして断じ難いので修道において断ずるのである。細かい議論はさておき、倶生起の煩悩は修所断であるということですね。
 倶生起の薩迦耶見と辺執見と、これに相応する貪・慢・癡は迷理の惑である。「細にして断じ難きが故に」と修所断である理由を述べています。迷理の惑である理由と修所断である理由を「細難断」の言葉を以て示しています。
   五逆罪(害父・害母・害阿羅漢・破和合僧・出仏身血) ― 事      
 ―――――――――――――――――――――――――――――
   謗法(五逆罪の背景・誹謗正法)           ― 理             
     
   迷事の惑(罪福信)  貪・瞋・慢
 ―――――――――――――――――――――――――――――
    迷理の惑(仏智疑惑) 五見と疑
倶生起の迷事の惑の断について
 「瞋と余の愛等とは、別と事とに迷うて生じ、諦観に違せず、故に修所断なり。」(『論』第六・二十二左)
 本科段の「瞋と余の愛等とは」は何を指しているのかが問題になりますが、『述記』には「瞋及び前の二の見(薩迦耶見と辺執見)と相応するを除いての外の、余の独行の愛と慢と及び此れと相応する無明とは、別の有情或は境の事に迷って生じて、理に迷わず。四諦観に違せざるが故に修所断なり。」と説明されています。
 瞋及び、倶生起の薩迦耶見と辺執見と相応する貪・慢・無明を除いての「他の」倶生起の愛・慢・無明を指す。これは、独行の愛と慢と、独行の愛と慢と相応する無明は、別の有情や認識対象という事に対して迷う迷事の惑であり、理に対して迷う迷理の惑ではない。しかし、四諦観に違背するものではなく、これらの迷事の惑も亦修所断であると説かれています。
 さらに『述記』はつづけて「見道の独行の貪等は、事に迷うことありと雖も、然も諦観に違せるが故に、見所断なるを簡ぶ。」
分別起の煩悩の断は  ―  見所断
 倶生起の煩悩の断は  ―  修所断 
 ということになります。
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (50) 第十一 見断等門 (4)

2016-03-30 20:52:51 | 第三能変 随煩悩の心所
   四月八日は灌仏会

 今日も煩悩の項からの復習になります。
 「総迷の場合は、すべて揃って迷うというありかたでしたが、別迷は別別である迷い方ということになります。ここも、数の別と、行相の別があることが明らかにされますが、後に詳細されます。一時保留にします。
 「総と云うは、謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て(数の総)」(『論』第六・二十一左)
   数の総とは、つまり十種の煩悩が倶に皆四諦に迷うことである。
 「苦と集とは是れ彼が因と依処となるが故に、滅と道とは是れ彼が怖畏(フイ)する処なるが故に(行相の総)。」(『論』第六・二十一左)
   十種の煩悩がすべて倶に四諦に迷うということは、苦諦と集諦とは分別起の十煩悩の因と依処となるからである。同じように、滅諦と道諦とは、分別起の十煩悩の怖れることであるから。二つに分けられて説明されます。科段が二つに区切られますね。
 (1)「苦と集とは是れ彼(分別起の十煩悩)が因と依処となるが故に」
 (2)「滅と道とは是れ彼(分別起の十煩悩)が怖畏(フイ)する処なるが故に
 (1)については、因とも依処ともなるという、煩悩が生起するのは、苦諦と集諦が因ともなり、依処ともなるという意味ですね。因が集諦になり、依処が苦諦になります。因は、十煩悩を増長させ、依処とは性がよく随順してこの十煩悩を生ずることを意味します。『対法論』の第七及び『瑜伽論』第八に説かれている所論と同じです。
種子のところで、種子は有漏の種子である。無始以来有漏の種子を熏習し縁を伴って現行してくるわけですが、その現行は有漏であって、この有漏の身が五取蘊であるということを云っています。そうしますと、有漏の五取蘊が(十)煩悩を
引き起こしてくる因となり、因がまた依処となるいう意味であろうと思います。この十煩悩が苦諦と集諦に迷ういうことなんですね。
 (2)については、滅諦と道諦は、分別起の十煩悩を怖畏(フイ=怖れ)するものと説明されます。理由は『述記』に述べられています。
 「滅・道はこれ彼が怖畏する処所とは、性は随順して十種を増長せず。ただ迷し撥し猶予する等の事を起こし、この二諦(滅・道)を縁じて十惑を起こすが故に。又外道はこの二諦をにおいて種々の分別を起こすが故に。みな滅道に迷すと云う。その煩悩の起ることは、みなこの二縁を具するなり。」(『述記』第六末・五十七右)
 つまり私たちは、有漏の五蘊を因として、有漏の五蘊を依処として迷いを起こしている。それはとりもなおさず、四諦の理に迷っていることに他ならないが、四諦の理の中で、滅諦・道鯛は迷いを怖畏するところであって、迷いの因や、依処となるものでなない。因と依処になるものは、苦諦に迷うのが依処であり、集諦に迷うのが因となるということなのですね。ここに、四諦の理に迷うという内容が明らかにされるのです。
 結論として、「行相の迷に総と別とあるが故に。(問)総とは謂く十種みな四諦に迷すとは(答)これ数の総なり。(問)因と依処等というは、(答)行相の総なり。(『述記』)
初めは、数の別について、薩迦耶見と辺執見の二煩悩はただ苦諦のみに迷い、他の八煩悩は四諦に迷うことを説明します。後半には「薩迦耶見と辺執見の二煩悩はただ苦諦のみに迷う」ことの理由を説明します。今は、初についてです。
 「別と云うは、謂く別に四諦の相に迷うて起こるなり、二つは唯だ苦のみに迷して、八つは通じて四に迷う。身辺二見は唯だ果処のみに起こる。別して空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
  数の別とは、つまり別に四諦の相に迷って煩悩が起こることである。二つ(薩迦耶見と辺執見の二煩悩)は、ただ苦諦のみに迷い、あとの八つは四諦ともに迷うのである。身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)の二見は、ただ果処(五取蘊)のみに対して起こるのである。何故ならば、別の空と非我とは苦諦にのみ属するからである。
 数の総 ― 苦諦に十煩悩が迷い、乃至道諦に十煩悩が迷うという、四諦の一つずつに十煩悩が迷うこと。
 数の別 ― 諦によって迷う煩悩の数が異なる。
 数の別は、十六行相を以て説明されます。四諦それぞれがもつ四つのありよう。
 苦諦 ― 無常・苦・空・非我の四行相。
 集諦 ― 因・集・生・縁の四行相
 滅諦 ― 滅・静・妙・離の四行相
 道諦 ― 道・如・行・出の四行相
 四諦の四行相については後ほど述べますが、『述記』によりますと、「集・滅・道の三諦に別の行相あり。不共無明(癡)の三諦に迷するものあり。故に八を成ずることを得。」身見と辺見の二見は苦諦にのみ迷い、残る八煩悩は四諦すべてに迷うということになると説明され、苦諦には十煩悩すべてが、迷い、後の三諦には身見と辺見を除いた八煩悩が迷ういうことになります。迷う煩悩の数に相違があるので、別迷を数の別というのである。
四諦の十六行相なのですが、一つ一つの諦固有の行相(四行相がある)をいっています。苦諦には苦諦固有の四つの行相があり、乃至道諦には道諦の四つの行相があるということです。昨日はそれを示しました。再録しますと、
  苦諦 ― 無常・苦・空・非我の四行相。
  集諦 ― 因・集・生・縁の四行相
  滅諦 ― 滅・静・妙・離の四行相
  道諦 ― 道・如・行・出の四行相
 ということになります。
 この中、苦諦を除く三諦のそれぞれの四行相は、他の諦とは共通しない固有の行相であるとされる。苦諦を除くというのは、苦諦の中の空・非我の総・別の理由が示されているからです。総じていうなら、大乗仏教の大前提は、空・無我ですから四諦に通じて云えることなのです。現存在(見分)は無我であり、その対象(相分)は空であるのです。しかし、空・非我はただ苦諦にのみに属するといわれていることは、十六行は総の行ではなく、別の空・非我に属(属著・摂属)するのであると云います。
 少し整理をします。
 分別起の根本煩悩の十(見所断の煩悩)、つまり、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見(薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)が、四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)に迷うあり方について、総迷と別迷が有ることが明らかにされ、さらに、総迷に数の迷いと、行相の迷いがあり、別迷にも数の別と行相の別があることが明らかになりました。
 個別に説明される段において、総迷とは十の煩悩がともに皆、四諦に迷うこ、これが総迷ということであり、、苦諦と集諦という苦の原因(因と依処)と、滅諦と道諦という苦を滅する八正道は、分別起の十の煩悩を怖畏するものだからであると説かれて、分別起の十の煩悩は、苦諦と集諦の二つの諦に迷い、滅諦と道諦の二つの諦に迷うことが説かれいます。これは行相の総として説明されています。
 別迷についても、数の別と、行相の別が説かれています。数は四諦を表していますが、別は個別という意味であり、四諦の一つ一つの相に迷って煩悩が生起することを言っています。これは、四諦の一つ一つに固有の行相が有ることが示されています。それが四諦の四行相、つまり、四諦の十六行相なのですが、苦諦で明らかにされた、苦・空・無常・非我の四行相の中で、空・非我に総の空・非我と別の空・非我という区別があることが明らかにされています。総の空・非我は四諦に通じて、諸法無我・一切皆空として共通していますが、別の空・非我は苦諦固有のもので、「別とは、謂く、別に四諦の相に迷うて起こるなり、二(薩迦耶見・辺執見)は唯苦のみに迷い、八は通じて四に迷う」という一段が別の空・非我を表しています。
 数の別 ― 四諦の一つ一つの行に迷って煩悩が生起こすること。四諦固有の四行相を了解することなく、煩悩を起こすことであり、詳細すれば、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷い(苦諦には十煩悩が倶起する。)、残る八煩悩は四諦すべてに迷うということになります。つまり、四諦に迷う煩悩の数が違うと云うことから、数の別、四諦四行相の諦固有の行相の相違により、苦諦には十煩悩が迷い、集諦・滅諦・道諦には八煩悩が迷うという、迷う煩悩の数が相違することから、別迷を数の別と云っています。
 また別迷の三諦に別の行相があるのは、癡は不共無明であり、不共無明の三諦に迷い、八つの煩悩が相応することが別迷であることが示されています。相応無明で説かれている場合は、四諦に迷うのは十煩悩になるからである、と明らかにしているのです。
 薩迦耶見と辺執見の二つは、ただ苦諦にのみ迷うことの理由が示されます。別の空・非我は苦諦固有の行相であり、苦諦のみに所属するからであるという。
 「諦を別縁する十六行のうち、空・非我の二はただ苦諦のみに属するが故に、三諦(集諦・滅諦・道諦)にこの二見有りと説かず。・・・十六行は総の行に非ざるが故に、別の空・非我という。属は属著をいう。或は摂属(ショウゾク)をいう。・・・」(『述記』第六末・五十九右)
 「身辺二見は唯果処のみに起こる、別の空と非我とは苦諦のみに属せるが故に。」(『論』第六・二十一左)
 身辺二見とは、薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二見ですが、この二見は、ただ果処(有漏の五蘊)のみに対して起こるものである、つまり身体を縁(縁籍ー原因となると云う意味の縁)じて起こす所の見解なんですね。身見は我見ですから、身(無我)を我として執着し、執着した我の上に辺執見を起して迷うのですが、この在り方を苦諦に迷うと述べているわけです。あくまでも、十六行相の上で、この二見は苦諦に迷うと説かれているわけです。総の空・非我で云う場合は、この二見は
集諦・滅諦・道諦にも迷うという所論になります。
 親迷と疎迷について
 親迷とは直接的な迷いであり、間接的な迷いを疎迷といっているわけですが、ここに問いが設けられまして、
 「この十が四諦に迷することは、皆是れ親しく迷すとせんや。亦疎く迷するものもありや。この問いに答え、及び別の行相を顕さんが為の故に、次の論文あり。」(『述記』)
 先ず、親迷について論じられます。簡単に言えば、薩迦耶見と辺執見の二見が苦諦に迷うのは、有漏の五蘊を直接的に縁じ、有漏の五蘊が実体的な我であると錯誤し、執着を起こして迷う直接的な迷いであるので、これを苦諦に親しく迷う、親迷と呼んでいるわけです。後の三の上に更に二見を起こすのは間接的な迷いになりますから疎迷と呼んでいます。本科段は更に詳しく説きます。
 「謂く、疑と三のとは親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
 本科段より、「行相の別」の迷いについて説明されます。
 苦諦に迷う十煩悩について説明されるわけですが、前科段でも述べられていましたように、薩迦耶見と辺執見は苦諦にのみ迷う煩悩であることが明らかにされていますが、残る八煩悩の所在を明らかにする必要がありますし、また八煩悩が三諦に迷うありかたも説明を要します。
 十の煩悩が苦諦の理に迷うことについて、親迷と疎迷と相応無明をもって説明されています。
 本科段は初の疑・薩迦耶見・辺執見・邪見についての所論です。
 つまり、疑・薩迦耶見・辺執見・邪見は、親しく苦諦の理に迷うのである。親しく迷う、直接的な迷いの在り方を親迷という。
 疑 ― 苦諦の有無を疑う迷い。
 薩迦耶見(身見・我見) ― 非我(無我)に迷って我と執着を起こす。
 辺執見 ― 身見で起こした我を常見、断見と執着して無常に迷う。
 邪見 ― 因果撥無の見ですから、邪見によって苦諦を撥無するわけです。
 これら四つの見は苦諦の理に直接的に迷う見ですので、親迷と云われます。
 貪・瞋・慢はどのようにして生起するのかですが、
 「自他の見と及び彼の眷属(ケンゾク)との於(ウエ)に次での如く、応(ヨロシキ)に随って貪と恚(イ)と慢とを起す。」(『論』第六・二十二右)
 自らの見(身見=薩迦耶見)に依って貪欲を起こし、他の見に依って瞋恚を起こし、自他の二見に依って慢心を起こす、何故ならば、己が見を恃んで、他の見を陵するからである。これを随応(いくつかの中の一つと応ずること)と云い、間接的に迷う縁ですから、疎迷である。
 別迷の中の、行相の別を説く中で、先に疑と三見及び二取の見に次いで、貪・瞋・慢が苦諦に迷う有様を説いています。
 自らの見(身見=薩迦耶見)に依って貪欲を起こすというのは、自分が自分を溺愛・渇愛・貪りの愛(貪愛)するということです。自らが可愛くて、自らを責めることなく自己愛に溺れて、自らの姿勢が見えない状態に置いていますから、自らを妨げる者に対して怒りを起こすのです、瞋恚ですね。
 これは、少し考えてみますと、至極当然の事です。自らが自らの見に貪愛するということは、他者は他者の見に対して貪愛を起こしているのですね。貪愛と貪愛がぶつかれば、そこに争いが起ります。そうしますと争いの直接の原因は、自己愛と云う貪愛が基になります。
 また、ここで云う眷属は、付属するもの、随うものという意味になります。自他の見に随って、引き起こされてくるのが慢ということになります。慢の発生は、ひとえに自他の見に随うということです。
 過去ログより、
 無明(癡)が苦諦の理に迷うことの理由を述べます。
 癡について、2014/3・20の投稿を再録します。
 「云何なるをか癡と為す。諸の理と事とに於いて迷闇なるを以って性と為し。無癡を障えて一切雑染の所依たるを以って業と為す。」(『論』第六・十三右)
道理と事実です。道理によって事実が成り立っているのですが、それがわからないということです。諸行無常・諸法無我は道理ですが、それが頷けないので道理でない我を立てて生きている。それは闇であり迷いであると教えています。生きているのも道理ですが、死もまた道理なのです。「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」とは、清沢先生の教えであります。
 「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきなばかの土へはまいるべきない」とは親鸞聖人のお言葉でした。命は与えられたものであって私有化できるものではないのですね。「生かされてある命」なのです。縁によって生かされている。そこにですね、命の大切さが教えられているのではないでしょうか。しかしながら私たちは道理と事実に背いているわけです。それを迷闇となり雑染の所依となるのです。すべてが自己中心に考えていくということです。「私が・私が」と我執から出発するのですね。迷・闇によって経験のすべてが執着的経験となる。その根拠になるのが癡という煩悩なのです。それが闇の中の出来事であると教えているのです。理と事に於いて無痴であるところから自己の内に貪りをおこし、外に対して自分が無視されたと、怒りをぶつけるのです。これが貪・瞋の煩悩であり、貪・瞋の根拠(所依)が癡の働きである、と教えられているのです。
 「論。云何爲癡至所依爲業 述曰。於理事者。謂獨頭無明迷理。相應等亦迷事也。」(『述記』第六末・四右。大正43・444b)
 (「述して曰く。理事と云うは、謂く、獨頭無明は理に迷い、相応等も亦、事に迷うなり。」)
 四諦の理に迷うのは、独頭(ドクズ)の無明(独行無明)のはたらきであり、現象の真実の相に迷うのは、相応無明(共無明)の働きである、と云われています。
 貪・瞋・癡等の根本煩悩と相応する無明は、理と事に迷う無明であり、独行無明は根本煩悩とは相応しない無明である。この無明が、主と非主に分けられて説明されます。主独行無明は、ただ理に迷う無明であり、非主独行無明は、理と事に迷う無明であるとされます。
無明には大きく、相応無明と不共無明の二つに分けられますが、ここで述べられている無明は不共無明で、これが大きく、恒行不共と独行不共に分けられます。そしてここで述べられていますように、恒行不共は第七末那識とのみ相応し、他の識とは相応しないものです。一切の凡夫において無始より以来、恒に働きつづけているところから恒行といわれ、恒行という点から、末那識以外の他の識に相応して働く無明にはないから不共といわれる。もう一つが、独行不共で、これが第六識と相応して働く無明で、末那識には存在しない無明です。貪・瞋等の根本煩悩と相応せず、第六意識と相応して働く無明で、ただ独り働くところから独行不共無明といわれる。『瑜伽論』巻第58(大正30・622a)に詳細が記されています。
 『瑜伽論』巻第五十八には、無明について説明があります。「無明とは謂く所知の真実なる覚悟に於て、能く覆い能く障える心所を性と為す。」と。「又此の無明に総じて二種あり、一には煩悩相応無明、二には独行無明なり。愚癡無くして而も諸惑を起すに非ず、是の故に貪等の余惑相応する所有の無明を、煩悩相応無明と名づく。若くは貪等の諸の煩悩の纏(てん)無く、但だ苦等の諸の諦境の中に於て、不如理なる作意の力に由るが故に、鈍慧の士夫補特伽羅の諸の実の如く揀擇(けんちゃく)せず覆障(ふくしょう)し纏裹(てんか)し闇昧(あんまい)なる等の心所の性を独行無明と名づく。
• 纏(てん) - 煩悩の異名。煩悩は心をまとい、おおうから纏という。
• 纏裹(てんか) - まとわりからむこと。如実に簡択しない覆障・纏裹・闇昧等の心所性を独行無明と名く
 『述記』・『樞要』の記述は『論』の補足説明になりますが、、不共無明に二つ有り、(與根本倶恒行一切分の)恒行不共無明と、(不與根本倶名不共の)独行不共無明である。独行不共無明がまた二つに分けられ、一つは根本煩悩と相応せず、小・中・大の随煩悩と相応する非主独行不共無明と、忿等の十種と根本煩悩と相応せず、中・大の随煩悩と相応する主独行不共無明とに分けられる。主独行不共無明は見道所断であり、非主独行不共無明は修道所断である。小随煩悩の忿等は見断にも通ずると説明がなされています。」
 この所論をうけて、
 「相応の無智は九と与(トモ)(或は、與)に同じく迷う。不共の無明は親しく苦の理に迷う。」(『論』第六・二十二右)
 相応の無智は、九の煩悩とともに同じく迷うのである。不共の無明は、親しく苦諦の理に迷うのでる。
 本科段で問題にしているのは、一つは、相応無明です。相応無明はすべての煩悩と相応しますから、他の九の煩悩が苦諦の理に迷うというのであれば、相応無明も苦諦の理に迷うわけです。その中で、薩迦耶見・辺執見・邪見と相応する場合は、所謂、親迷になります。また、その他の煩悩と相応汚する場合は、所謂、疎迷ということになります。
 もう一つの問題は、不共無明ですが、この無明は単独で生起する無明ですから、直接的に苦諦の理に迷うということになりますから、親迷になります。」

第三能変 随煩悩 諸門分別 (49) 第十一 見断等門 (3)

2016-03-29 21:00:50 | 第三能変 随煩悩の心所
 四月八日はお釈迦様の誕生日。 

 見修所断門
 中随煩悩の二と、大随煩悩の八は見所断なのか?修所断なのか?非所断なのか?について考察されます。

 「後の十は唯見修所断のみに通ず。二の煩悩と相応して起こるが故に。」(『論』第六・三十五右) (後の十(中随煩悩の二と、大随煩悩の八)は、ただ見所断と修所断のみである。非所断ではない。何故ならば、二の煩悩(分別起・倶生起の煩悩)と相応して起こるからである。)

 見断等門は大きく二つに分けられて説明されますが、中随煩悩の二と、大随煩悩の八の場合について更に三つに分けられて説明されます。
 (1)見修所断門
 (2)迷諦総別門
 (3)迷行親疎門
 本科段は(1)の見修所断門について説明されるところです。
 「二の煩悩と相応して起こるが故に」というのは、見所断のものは分別起であり、修所断のものは倶生起であるということです。つまり、後の十には分別起のものと倶生起のものがあるということを意味します。
 分別起のものは見所断であり、倶生起のものは修所断であると明らかにしているのです。

 次科段からは、四諦について迷う随煩悩について説明されます。
 (2)は「諦に迷する総と別となり。」(迷諦総別門)が説明されます。

「見所断の者は、諦相に迷う、或いは総、或いは別の煩悩に随って倶に生ず。故に所応に随って皆四部に通ず。」(『論』第六・三十五右)
 (見所断の中随煩悩と大随煩悩は諦相に迷う総迷、または別迷の煩悩に随って倶に生ずる。このためにその所応に随ってすべて四諦に通じて迷うのである。)

 見所断の中随煩悩と大随煩悩は四諦の行相に迷うのですが、中・大の随煩悩は、総じて迷う煩悩、別して迷う煩悩に随って相応して生ずると云われています。つまり、応じる所に随いすべては四諦に通じて迷うのといわれています。(
 煩悩の項で述べました、総迷と別迷についての所論を中・大の随煩悩においても適応させるというものです。
 
 少し総・別についての記述をみてみます。
 「然も諦相に迷うに総あり、別あり。」分別起の十煩悩(見所断の煩悩)が四諦の相に迷うのに総迷と別迷とがある。「総とは謂く十皆通じて四諦に迷う。即ち一々の煩悩皆起こる時に四諦の理に迷うを以って。又諸の煩悩は別の行相あり。・・・苦諦に迷う等、此れは一諦の下の別の行相なり。謂く此れ(苦諦)の諦下の見疑に随って、後に生ずるは(貪・瞋・慢)即ち此れ(苦諦)に迷すると名づく。」(『述記』)
 詳細は『大正蔵経』巻43・445b・cを参照してください。
 
  別解 (四諦に迷う分別起を説明する) 総迷と別迷にわけて説明されますが、その前に四諦について説明します。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 四諦八正道について(東本願寺 『大乗の仏道』 より抜粋引用)
 「以上のごとく、釈尊の正覚の根本は縁起の理法であったが、その理法の意味するところを内観し覚知(自内証智)していくために説いた具体的な教えが四諦八正道として示されている。四諦とは苦・集・滅・道という師つの真理(諦)である。
 まず苦諦とは、人間の現存在が縁起であり、関係性においてのみおありうるにもかかわあず、そこに常・楽・我・浄の四顚倒(無常を常として執着することなど)を起こして、愛憎違順し苦悩している現実、すなわち、人間の現存在が苦として諦(まこと)であるということである。ちなみに、仏教において苦といわれるものは、四苦八苦で代表される、生・老・病・死の四苦と、それに愛別離苦(愛しいものとかれる苦)・怨憎会苦(憎いものにも会う苦)・求不得苦(求めて得られない苦)・五陰(五蘊)盛苦(心身にそなわっている苦)を加えた八苦である。また苦苦(それ自体が苦である飢えや病気など)、壊苦(楽が壊れて苦となること)、行苦(諸行無常であること)の三苦という分類もよく知られている。
 集諦とは、誤った執着によって苦が引き起こされてくるあり方、すなわち、執着によって苦が集起していることが諦であるということである。この集諦、すなわち、苦の原因といわれる誤った執着とは、まさしく先の演技摂の上であきらかにされたように、無明であり、渇愛である。これらは不可分の関係であり、輪廻流転の根本原因である。
 滅諦とは、縁起の理法によって人間の現存在が見直され、ありのままに知られるとき、誤った執着は止滅し、そこに苦悩の止めつが実現するということ、すなわち、苦悩の止滅したことで諦であるということである。したがって、滅諦とは解脱・涅槃のことである。
 道諦とは、その執着の止滅を証得するには、八正道を実践すべきであるということ、すなわち、歩むべき仏道が諦であるということである。
 その八正道は中道ともいわれる。中道とは、苦行主義と現世(快楽)主義との両極端(二辺)を離れることであり、それが解脱・涅槃への道であるとされている。この中道としての八正道とは、正見。正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
 (1) 正見   正しい見解。正しい見方。縁起や四諦に関する正しい智慧。
 (2) 正思惟  正しい思惟。正しい思考。
 (3) 正語   正しいことば。悪口やうそなどをいわないこと。
 (4) 正業   正しい身体的な行為。殺生や盗みなどをしないこと。
 (5) 正命   規則正しい生活
 (6) 正精進  正しい努力。既得の善を増大させ、未得の善を得ること。既得の悪を減じ、未得の悪を起こさないこと。
 (7) 正念   正しい思いをつねに心にとどめて忘れないこと。
 (8) 正定   正しい禅定(禅定はインド一般の修行方法であって、心を静めて精神を集中することである。その時の認識はすぐれたものとされている)
 このように四諦八正道はまさしく実践の体系であるが、先ず第一に、解決されなければならない課題としての苦を如実に知り、そして第二に、その苦の原因が無明・渇愛であることを知り、これら二諦によって輪廻流転n迷いの生存の全体を正しく理解することである。その上で、第三に、その課題の目標としての苦の滅が輪廻流転からの解脱・涅槃であるkとを知り、第四には、その苦の滅にいたる道、つまり解脱・涅槃 に到達すべき道であう八正道を実践しなければならないのである。」
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 総迷と別迷の所論は多くは分別起の煩悩について論じられますから、倶生起の煩悩について語られることは殆どありません。
 「第二に諦に迷う総・別なり。然るに見道の諦に迷う煩悩に於て総有り、別有り。」(『述記』)
 「然も諦相に迷うに総有り別有り。」(『論』第六・二十一左)
 しかも、分別起の十の煩悩が諦相に迷う迷い方に総迷という迷い方と、別迷という迷い方がある。
 「総と云うは謂く十種ながら皆四諦に迷するを以て、」(『論』第六・二十一左)
  総とは、つまり十種の煩悩が、十種ながら皆な(十種倶に)四諦に迷うことである。
 「即ち一々の煩悩がみな起こる時、四諦の理に迷するなり。又諸の煩悩には別の行相有り。」(『述記』)
 『述記』によりますと、総迷には、数の別と、行相の別があることが指摘されています。「今此の論の総に二種あり。一に数の総なり。・・・・・二に行相の別なり。」
 『論』には総・別ありとしか述べられていませんが、『述記』には総にも二種あることが明らかにされています。つまり分別起(見所断の煩悩)の十煩悩が四諦に迷う有り方に二種(数の総と、行相の総)あることを明らかにしたのです。総の概説は、一々の煩悩がすべて起こる時に四諦の理に迷うことが総迷なのです。その中で、すべて起こる時ですから、四諦の一々に十煩悩がすべて迷うのが数の総であり、諦ごとに各々十煩悩を具すことをいいます。次に行相の総とは細にわたって説明されていますが、十煩悩すべてに四諦に迷う功能があることであり、これは、一の諦下の別の行相であることをいい、四諦の中の複数の諦に十煩悩が等しく迷う行相をもっていることを、行相の総といっています。行相とは見分のことで、十煩悩が複数の諦に迷う働きをもっていることなのです。
 「二に行相の総なり。通じて四諦に迷するものあるが故に。此れに由ってニニに迷するに六有り。三々に迷するに四有り。総迷に一有り。」(『述記』)
 ・「ニニに迷するに六有り」とは、四諦の中の諦二つの諦の組み合わせに六通りあるということです。
(1)苦諦・集諦 (2)集諦・滅諦 (3)滅諦・道諦 (4)道諦・苦諦 (5)苦諦・滅諦 (6)集諦・道諦 の六ケースがあるということになります。二つの諦に迷う有り方に六つのケースがあることですね。
 ・「三々に迷するに四有り」とは、四諦の中の三つの諦の組み合わせに四通りあるということです。
(1)苦諦・集諦・滅諦 (2)集諦・滅諦・道諦 (3)滅諦・道諦・苦諦 (4)道諦・苦諦・集諦の四つのケースがあるということです。
 「総迷に一有り」とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つに対して総じて迷う有り方で、一つのケースしか無いのです。
 十煩悩が四諦に迷う有り方には、十一通りあるということになります。細部(三界)にわたるケースを考えますと、二二の場合は、欲界では6×10で60。色界・無色界では瞋は存在しませんから、6×9で54。54×2で108になり、二二に迷う有り方は、三界においては60+108で168通りあるということになります。三々に迷う場合ですが、4×10で40.4×9×2で72。72+40で112通りあることになります。「総に迷う」が一ケースですので、欲界に十通り、色界・無色界に9通りありますから、9×2で18通り、18+10で28通りあるということになります。
 此れは何を表しているのかといいますと、因と依処の関係を指しているのです。
 「何を以て十種ながら、皆よく四諦に迷するや。苦集はこれ十の因と依処となるが故に。一にこれ因なり。二にこれ依処なり。・・・」(『述記』)
 う~んややこしいですね、頭が混乱をきたし、こんがらがってしまいますが、暫くお付き合いくださいよ。これほど根本煩悩の十が複雑に絡まり合って迷いを生起させているんですね。四諦の理に迷う在り方とはこのようなことだと教えられます。
別迷については後程にしましょうか。


 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (46) 第十一 見断等門 (2)

2016-03-27 18:48:43 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖P952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全P514)といわれています。
 何故、娑婆は苦界といわれているのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。
 「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全P285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞和尚の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるのが法の働きなのでしょう。法が働いているからこそ、苦悩することが出来るんだと思います。苦悩を知ることに於いて転悪成徳する縁をいただくのです。それが智慧ですね。
 仏法は苦悩を除く法と明確に答えられています。苦悩は何故起こるのか、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題になるわけです。」
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 煩悩の心所に於いて三断分別門が論じられていましたが、随煩悩の見断等門は煩悩の項に准じて説明されます。従って煩悩の三断分別門に遡って復習をしてみます。
 「此の十煩悩は何(イズレ)の所断ぞや」(『論』第六・二十一左)
 「述して曰く、此は問いなり。第九に三断門」(『述記』第六末・五十六右)
 問いから始まります。 
 第九・三断分別門
 三断とは、見所断と修所断と非所断をいいます。この十の煩悩は、そのいずれの所断なのかを問うています。
 見所断 ― 見道所断のこと。見道で断じられる煩悩を見惑といいますが、この見惑(分別起の煩悩)が断じられる法が見道所断といいます。
 修所断 ― 修道所断のこと。修道で断じられる煩悩を修惑といいますが、この修惑(倶生起の煩悩)が断じられる法が修道所断といいます。
 非所断 ― 見道でも、修道でも断じられるものではない法をいい、具体的には無漏法を指します。煩悩は有漏法ですから、非所断のものはありません。「述して曰く、此は即ち総答なり。諸染は皆断なり。然るに見・修に通ずるが故に、非所断に非ず。非所断の法は是れ染に非ざるが故に。」(『述記』第六末・五十六右)
 本科段の三断門は煩悩の心所に限らず、随煩悩の心所でも考究されてきます。また善の心所に於いても、離縛断(縁縛断)という断が考究されていました。有漏の善の有漏を断つことに於いて、善の心所を善たらしめることができるという方面から考究されています。
 見・修所断は、それぞれ、分別起の煩悩や倶生起の煩悩を断ずることに於いて、煩悩・随煩悩そのものを断ずるという方面から考究されます。
 「分別起のは唯だ見所断のみなり。麤にして断じ易きが故に。若し倶生のは唯だ修所断のみなり。細にして断じ難きが故に。」(『論』第六・二十一左) まず、分別起の煩悩は唯だ見所断であることが説かれます。
 分別起の煩悩といいますが、十の煩悩すべてが分別起なんです。即ち後天的に身についてくる煩悩ですね。「分別起の煩悩は悪友と邪教と邪思惟に由る」と云われていますように、後天的に身についた煩悩は断じ易いと説かれていますから、見道所断なんですね。ただね、正見を身に付けるということが大事です。正見によって分別起の煩悩は破られてきます。若し、破られてこなかったら私たちは間違ったことを正当化して生きざるを得ないのです。ここに一つも問題が生じてきます。躾とか教育のことです。赤ちゃんを育てていく中で、煩悩を押しつけていることに成ります。私たちは後輩に対しても、自分の意見を押しつけています。「こんな時はこのようにしたらいい」というようなことを平然と言っています。そういう意味では、煩悩を見つめる眼差しを持つ必要がありますね。私がしている躾や教育は本当に正しいのか(?)です。非常に怖いことですよ。知らず知らずの中に煩悩を蒔き散らかしているんですからね。だから、仏法を聞かなければならんのです。
 倶生は「身與倶」(ミトクナリ)、身をいただくと同時にということですが、これはお母さんの胎内にいのちが宿った時に、倶生起の煩悩も倶(トモ)にということなのです。この倶生起の煩悩は、細にして審らかにして深いんですね。ですから修断と云われています。倶生起の煩悩は姿をなかなか現さないのです。それに対して、分別起の煩悩はいつも顔をだしている。非常にわかりやすいものですから見断と云われているんでしょうね。倶生起の煩悩は衆縁を待つんです。種子の六義で学びました。待衆縁です。種子生現行が現行するには縁を伴って現れてくる。同じ縁を待って現れてくる分別起の煩悩とはその荒々しさが違うんです。水面下の波、表面に現れている波との違い、或は、打ち寄せる波と、後続の波との違いでしょうか。分別起の煩悩は背後には、必ず倶生起の煩悩が動いているということになります。倶生起は任運である。分別起は、要ず悪友と或は邪教の力と自ら審かに思察するとに由って方に生ずる。倶生起の煩悩が動いているといいましたが、具体的に何が動いているのかと云いますと、「諸煩悩生必由癡故」(諸々の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に)。「癡」)(無明)が動いている。いついかなる時にも、煩悩が起こる時には癡と倶である。無明です。無明は無があきらかでない、ということですから、二空(我空・法空)が見えないことが闇と表現されているのです。「無明の闇」です。この無明の闇を破ってくる働きが「法」ですね。本願念仏の法です。ですから、本願念仏の法は、無明の闇の真っただ中に働いているのですね、この道理を聞くのが聞法です。法を聞くわけです。それが教えとして開かれてきたのが「宗」ですね。
 思察について、
 思察の思は思惟、察は観察(カンザツ)、思惟し観察することになります。倶生起の煩悩は任運にも、思察する時にも倶に生ずるからである、と。総・別についてはこの先の四諦に迷うの談で説明されます

 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (46) 第十 学等門 ・ 第十一 見断等門 (1)

2016-03-25 00:07:12 | 第三能変 随煩悩の心所
 こうして見所断が88、修所断が10、合計98になります。これが九十八随眠です。そして、これに十纏(じってん)を加えて108になり、百八煩悩となるわけです。
 
 第十は、三学分別門(学等門)について。
 随煩悩の二十の学等分別を述べます。
 
 「二十は皆、学と・無学との摂に非ず。此れは但是れ染のみなり。彼は唯、浄のみなり。」(『論』第六・三十五右)
 (二十の随煩悩はすべて有学や無学ではない。この二十の随煩悩はすべて非無学である。何故なら、此の二十の随煩悩はただ染であるが彼(有学と無学)はただ浄のみである。)

 ここでいわれています学は仏教の学びである三学(戒学・定学・慧学)を指すのではありません。
 有学・無学・非学非無学をいいます。有学はまだ学ぶことの有る者で、阿羅漢果(無学位)までに至っていない聖者を指します。無学は阿羅漢果の位に達した聖者をいい、非学非無学は凡夫を指します。修行段階に入っていない一般の有情を含め非無学といいます。しかし非無学といいましても「善の心所のすべてが、皆、三学に起こりえると(生起する)いわれているのです。すなわち、欲界の有情で有っても善の心を起こし得ることがあるといわれているのです。このことは「一切衆生悉有仏性」という大乗仏教の根幹を成す、私の中にも仏に成る可能性が秘められていることを示唆していると思います。どんな境遇にあっても、その境遇を引き受けていける身に育てられることへの目覚めがあるということです。順境・逆境にあっても、その境遇が法に遇う縁になるという事だと思います。
 三学分別門でいう随煩悩は非無学の存在である。それはただ染の存在(不善と有覆無記)だからというのです。有学と無学は浄(善)の存在であるからといいます。要するに随煩悩は不善と有覆無記に摂められるので、その限りにおいては非無学といわれるのでしょう。しかしその中にも一点の光が差し込んで善を起こすことが有るという事が大切な意味をもつのではないでしょうか。非無学という自覚が染の中に善を見出す縁になるのでしょう。しかしながら随煩悩そのものは、染ということで、非無学なのです。
 
 十一は、三断分別門(見断等門)について
 
 「後の十は唯、見・修所断のみに通ず。ニ(分別・倶生)の煩悩と相応して起こるが故に。」(『論』第六・三十五右) 
 (後の十の随煩悩はた見と修所断のみであり、非所断ではない。何故なら、この中随煩悩の二と大随煩悩の八は、二の煩悩である分別記と倶生起の煩悩と相応して起こるからである。)

 ・見所断(けんしょだん)-見道所断の略。見とは四諦を見るの意。四諦の道理を見通すことにおいて煩悩が断たれることで、見道位によって断ぜられるべきもの。
 ・修所断(しゅしょだん)-修道所断の略。修道位によって断ぜられるべきもの。修は三昧を修して真理の観知を繰り返し行うこと。
 見断等門は二つに分けられます。
 第一は、中随煩悩と大随煩悩の場合について説明されます。
 第二は、小随煩悩の場合について説明されます。
 中随煩悩の二と大随煩悩の八について論じられますその一は、さらに三つに分けられて説明されます。
 •第一は見所断と修所断と非所断の三断のいずれかに摂するのかと云う事の考察です。(見修所断門)
 ・第二は見所断の中随煩悩と大随煩悩にちて総迷か別迷科について説明されます。(迷諦総別門)
 ・四諦に迷う行相の親疎について説明されます。(迷行親疎門)
 本科段は第一の一の説明になります。
 「見所断の者は、諦相に迷う、或いは総、或いは別の煩悩に随って倶に生ず。故に所応に随って皆四部に通ず。」(『論』第六・三十五右)
 「諦に迷する総と別となり。(皆四部に通ず。所依)止たる前の能所引生の煩悩に(随い)、」あるいは所縁に随って以って四諦に分かつ。四諦下の煩悩の引生するに依り、依止として仮立するが故に。」(『述記』)
 見所断の中随煩悩と大随煩悩は四諦の行相に迷うのですが中・大の随煩悩は、総じて迷う煩悩、別して迷う煩悩に随って相応して生まれるのです、といいます。よって応じる所に随いすべては四諦に通じて迷うのといわれています。(註ー選註『成唯識論』P136巻第六に詳細が示されています。)少し総・別についての記述をみてみます。  九行目からです。「然も諦相に迷うに総あり、別あり。」分別起の十煩悩(見所断の煩悩)が四諦の相に迷うのに総迷と別迷とがある。「総とは謂く十皆通じて四諦に迷う。即ち一々の煩悩皆起こる時に四諦の理に迷うを以って。又諸の煩悩は別の行相あり。・・・苦諦に迷う等、此れは一諦の下の別の行相なり。謂く此れ(苦諦)の諦下の見疑に随って、後に生ずるは(貪・瞋・慢)即ち此れ(苦諦)に迷すると名づく。」(『述記』)詳細は『大正蔵経』巻43・445b・cを参照してください。「数の総」(諦ごとに各十を具す)・「行相の総」(通じて四諦に迷するものあるが故)・「数の別」(集・滅・道、三諦に八あり。身辺を除く。苦、一諦に十あるが故)「行相の別」(各々に別に迷するが故)
 見惑(88)についてですね。要するに総じて迷うという事は、十の煩悩がすべて四諦に迷うということになり、別して迷うという事は、十の煩悩がすべて揃わなくても別々である迷い方ということになります。集・滅・道の三諦に迷うのは有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)を除いた八煩悩であり、有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)のニは苦諦のみに迷うと云われます。「一諦に十有り」は一諦に十の根本煩悩があるということですね。有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)は三界を通じて苦諦のみに迷うという事ですが、邪見と見取見は三界を通じて四諦すべてに迷うのです。戒禁取見は三界を通じて苦諦と道諦に迷うと云われます。迷うという事は理解ができないということで、有身見(薩迦耶見)と辺見(辺執見)は集・滅・道諦は理解ができるが苦諦は理解ができないということになります。見惑で見道まで続きます。悟りを開いた時点で消えると云われます。消えないのが修惑(10)といわれるもので、それに十纏(中ニ・大随煩悩八)を加え百八煩悩ということになるんです。これは『倶舎論』の記述です。唯識では百二十八の煩悩を数えます。見惑(112)は分別起・修惑(16)は倶生起の煩悩と云います。ここでは悪見の五はすべて三界を通じて四諦に迷うといわれています。 
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (45) 第十 上下相縁門 (6)

2016-03-22 22:36:23 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 昨日の投稿をもう一度読んでみたいと思います。
 「大の八と諂と誑とは上にして亦、下をも縁ず。下縁の慢等と相応して起こるが故に。梵は釈子(しゃくし)に於いて諂と誑を起こせるが故に。 憍は下をば縁ぜず。所恃(しょじ)に非ざるが故に。」(『論』)
 所恃とはよりどころ。たのむもの。

 「・・・梵王の馬勝の手を執るは。是れ諂と誑なるが故に。此れは本質(ほんぜつ)に拠る。若し影像(ようぞう)ならば皆、唯自地なり。自心に属するが故に。唯 憍は下をば縁ぜず。下地の法は劣なれば所恃に非ざるが故に。」(『述記』)

 『論』と『述記』に述べられています「梵於釈子諂誑故」の記述は『大毘婆沙論』に出てくるもので、『演秘』に「経説を引きて云わく」としてその意の概略が示されています。再録します。

 論。梵於釋子起諂誑故者。按婆沙論百二十   上地にいる梵天が下地にい
 九引經説云。如佛昔在室羅筏城住誓多     る釈氏(馬勝比丘)に対して
 林。時有 悳芻名曰馬勝。是阿羅漢。作是思   諂と誑を起こした、という例を
 惟。諸四大種當於何位盡滅無餘。煩惱繋    挙げて説明をしています。
 縛爲欲知故入勝等持。即以定心於誓多     阿羅漢の馬勝比丘が「諸の          
 林沒於四大王衆天出從定而起問彼天      四大種は何の位に於いて永
 衆。諸四大種當於何位盡滅無餘等。答曰    滅し、余の諸煩悩の繋縛から
 不知。如是欲界六欲天等展轉相推。乃至    離れる事ができるのか、と
 他化自在天所被復作推梵衆諸天。欲      思惟をしたのです。「知らんと
 往梵世復入勝定復以定心自在宮沒梵      欲するが為の故に。」定に入
 衆天出從定而起還作上問。梵衆咸曰。我等   り天界に昇ったのです。最初
 不知復推大梵。馬勝尋問如前所問。彼大    は四大王衆天(六欲天の一番
 梵王處自梵衆忽被馬勝 悳芻所問。梵王     下)に昇り「彼の天衆に問う」
 不知便矯亂答。我於此衆是大梵・自在・作    たのですが、「知らず」と。誰も
 者・化者・生者・養者・是一切父。故知有誑。作  知らなかったのです。そして
 是語已引出衆外。諂言愧謝還令問佛。故    欲界の六欲天の上位にいる四
 知有誑。                  王衆天を展転して相い推したの

です。しかし誰も知らなかったのです。「乃至他化自在天」の妙自在天子に尋ねたが、やはり知らなかったのです。そこで「梵衆の諸天」を推挙するのです。「梵世に赴かんと欲して、復た勝定に入って復た定心を以って自在宮に没して梵衆天に出づ。定より起きて還って上の問いを作す。」梵衆天の答えは「我らは知らずして復た大梵を推す。」大梵天王も復た知らなかったのですが「梵王知らずして便ち 鉦乱して答う。」大梵天王はうろたえて、取り乱していたのですね。馬勝比丘の問いには答えずに「我この衆に於いて大梵、自在なり。作者なり、化者なり。生者なり、養者なり。是れ一切の父といえり。」と威張り酔傲したのです。これを『大毘婆沙論』では「故に知りぬ。誑有りといえり。是の語を作しおわって引きて衆外に出て諂言愧謝して還って仏に問わしむ。故に知りぬ。誑有る事を。」これは大梵天王の諂と誑による語業であり、誑であるといっているのです。大梵天王は自ら馬勝比丘の手を引いて、衆の外に連れ出し「諂言愧謝」したのです。皆の前ではなかなか謝ることはできませんね。それと同じように自分の非を認めるわけにはいかなかったのでしょう。「実は私は知らなかった。しかし梵天衆は私は何もかも知っていると思っているので、彼らの前で本当のことは言えなかった。なぜかというと軽蔑されるからです。」と己の非を認め陳謝したのです。そして仏陀釈尊なら知っているであろうと告げたのですね。これが大意になります。

 『述記』には「梵王が馬勝の手を執るは、これは諂と誑なるが故に」と述べています。そしてこれは本質によって述べられているといいます。本質(ほんぜつ)とは心・心所が心のうちに諸の対象を変現する影像(相分)のよりどころとなるもので、相分の本体の形を本質といい、阿頼耶識の相分になります。また馬勝比丘の阿頼耶識が出させたものということになり、本質相分の位は下地の所属になりますから、この例を引きだして「上にして亦下を縁ず」証左にしたのですね。
 次に「唯 憍 は下をば縁ぜず」という、小随煩悩の「憍 」についての考察になります。「非所恃」だからという答えです。下から上を見るときは 憍は働くのでしょうが、上から下を見て 憍を起こす必要はないのですね。「深く染著を生じて、酔傲する」必要はありませんから憍 は起こらないのです。
 
 大梵天王が馬勝比丘を認識している時(私が誰かを認識している時)、認識している対象は対象の本質相分を認識しているのではなく、大梵天王(或は私)が馬勝比丘(誰か)を対象として自らの心が映じた影像相分を認識していることになります。識所変としての所現ですから、大梵天王が馬勝比丘を認識しても、それは自らの識所変になりますから色界初禅のものとなり、下地を縁じているものではないこといなります。
 このことをふまえて『述記』は、この逸話は馬勝比丘の阿頼耶識が出させた本質相分によって述べられていると記しているのです。つまり馬勝比丘から見た逸話ということになります。馬勝比丘は大梵天王の本質相分を認識しているのではなく、大梵天王の影像を自らの上に作り出したものとして認識していますから下地に属することになり、下地が上地を縁ずるという証拠になるのです。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (44) 第十 上下相縁門 (5)

2016-03-21 19:25:12 | 第三能変 随煩悩の心所
   

 『大毘婆沙論』巻第百二十九に述べられています記述を紹介します。『演秘』はその取意を挙げていますので、『演秘』の文言と、その訳を述べます。
 「論。梵於釋子起諂誑故者。按婆沙論百二十九引經説云。如佛昔在室羅筏城住誓多林。時有苾芻名曰馬勝。是阿羅漢。作是思惟。諸四大種當於何位盡滅無餘。煩惱繋縛爲欲知故入勝等持。即以定心於誓多林沒於四大王衆天出從定而起問彼天衆。諸四大種當於何位盡滅無餘等。答曰不知。如是欲界六欲天等展轉相推。乃至他化自在天所被復作推梵衆諸天。欲往梵世復入勝定復以定心自在宮沒梵衆天出從定而起還作上問。梵衆咸曰。我等不知復推大梵。馬勝尋問如前所問。彼大梵王處自梵衆忽被馬勝苾芻所問。梵王不知便矯亂答。我於此衆是大梵・自在・作者・化者・生者・養者・是一切父。故知有誑。作是語已引出衆外。諂言愧謝還令問佛。故知有誑。」(『演秘』第五末二十四左)
 (「論に、梵(大梵天王)が釈子(お釈迦様の弟子である馬勝比丘)に於て諂誑を起せるが故にとは、婆沙論の百二十九を按ずるに、経の説を引いて云わく、仏昔室羅筏城に在り、誓多林に住せし時、苾芻有り、名づけて馬勝と曰う、是れ阿羅漢なり。是の思惟を作す、諸の四大種は當に何れの位に於て盡滅して余無かるべきや。煩悩の繋縛を知らんと欲するが為の故に勝れたる等持に入り、即ち定心を以て誓多林に於て没して四天王衆天に出でたり。
 (脚注)
 ・室羅筏城誓多林は、舍衞國祇園精舎。祇園精舎誓多林(ぎおんしょうじゃせいたりん)のこと。
 ・苾芻(びっしゅ)は比丘のこと。
 ・四天王(してんのう)は、欲界の 六欲天の中、初天をいい、またこの天に住む仏教における、4人の守護神をいう。この 四天王が住む天を四王天、あるいは四大王衆天(しおうてん、しだいおうしゅうてん)とも いう 。彼らはそこの主であり、須弥山頂上にいまわす帝釈天に仕え、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で伴に仏法を守護するのが彼らの役目である。
 持国天(じこくてん)・増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)=毘沙門天(びしゃもんてん)の四天王で、 それぞれ東西南北を守護している。
 
 定より起って彼の天衆に問う、諸の四大種は當に何の位に盡滅して余無かるべし等と。
 (脚注)
 四大種とは、『阿毘達磨倶舎論』分別界品第一・第十二頌に「大種謂四界 即地水火風 能成持等業 堅濕煖動性」(大種は謂く四界なり、即ち地水火風なり、能く持等の業を成ず、堅濕煖動(けんしつなんどう)の性なり。)
 •大種 - 四大種。地水火風の四元素
 •持等の業 - 保持・包摂・熟成・増長の作用。
 •堅濕煖動 - ①地は堅の性で、物を持つ作用がある。②水は濕の性で、物を摂める作用がある。③火は煖の性で、物を熱する作用がある。④風は動の性で、物の長くのびる作用がある。
 触境の中の四大種の説明です。四大種は能造であり、その他の色法はすべて所造(四大種所造色)という。世親は「造は是れ因の義、種は所依の義」と説明しています。因であり種である、と。四大を因として果(未来)にある所造が現在に顕れたというのです。すべの色法は能造の四大と所造の色・香・味・触の八種が集合して出来上がったものであると説明します。又、四大種を実の四大種と仮の四大種とに分けて説明しています。
 •実の四大種 - 堅・濕・煖・動という触覚的なもの。
 •仮の四大種 - 眼などの感覚でとらえられた地・水・火・風の四つは、実の四大種から造られた仮の四大種であると考えられました。

 答えて曰く、知らずと。是の如くして欲界の六欲天等展転して相い推す。乃し他化自在天の所に至に、復梵衆の諸天を推すことをなされ、梵世に住かんと欲して、復勝定に入りて復定心を以て自在宮より没して梵衆天に出で、定より起って還(また)上の問を作す。梵衆、咸(みな)曰く、我等は知らず、復大梵を推す。馬勝尋ね問うこと前の所問の如し。彼の大梵王自の梵衆に処して忽ちに馬勝苾芻の所問を被りて、梵王知らずして便ち矯乱(きょうらん)して答う。我は此の衆に於て是れ大梵なり、自在なり、作者なり、化者なり、生者なり、養者なり、是れ一切の父なりといえり。故に誑有ることを知る。(大梵王)是の語を作し已りて、引いて衆の外に出て諂言愧謝して還って仏に問わしむ。故に知りぬ、誑有りということを。」)

 大意は、「お釈迦様が祇園精舎誓多林においでになった時、一人の比丘がいた、名づけて馬勝(阿説示アシュバジット)という、威儀端正を以て名とし、ここで一つの疑問を思った、「四大種はどこで尽滅するのであろうか」と。この疑問を解決する為に定に入り天界に昇りました。最初は欲界にある六欲天の一番下である初天、即ち四天王衆天に昇り、そこにいる四天王にこの問題を尋ねました。しかし、「知らず」と、誰も知りませんでした。しかし、四天王は自分たちの仕えている四大天王なら知っているであろうと馬勝比丘に紹介しました。馬勝比丘はさらに定を積んで天界に昇り四大天王に尋ねました。しかしだれも答えられませんでした四大天王はさらに上の天である三十三天衆を推薦しました。ここでさらに定を積んで三十三天に昇り三十三天衆に尋ねましたが知りませんでした。三十三天衆は更に上位の帝釈天を推薦しましたが、帝釈天も知りませんでした。帝釈天はさらに上位の天を推薦しました。馬勝比丘は更に兜率天・化楽天に昇り尋ねましたが、誰も知りませんでした、とうとう六欲天の最上位である他化自在天に昇り、そこで妙自在天子に尋ねましたが、妙自在天子も知りませんでした。彼は色界初禅の梵衆天を推薦し、馬勝比丘も更に定に入り色界初禅の梵衆天に昇りました。梵衆天も知らず、展転として、大梵天王をたずね、同じ問いを尋ねました。しかし大梵天王も知りませんでした。
 ここで問題が発生します。大梵天王は梵天衆から全知全能であると思われていましたから取り乱すのです。『大毘婆沙論』では「彼の大梵王自の梵衆に処して忽ちに馬勝苾芻の所問を被りて、梵王知らずして便ち矯乱(きょうらん)して答う。我は此の衆に於て是れ大梵なり、自在なり、作者なり、化者なり、生者なり、養者なり、是れ一切の父なりといえり。」とこの間の事情が物語っていますが、つまり、大梵天王はすべてを知り尽くしている偉大な天王であると自負していましたので、この問いに対して取り乱して「自分は大梵天である、自在者である、作者であり、化者であり、生者であり、養者であり、一切の父である」と威厳を示しました。
 このことが『演秘』では「故に誑有ることを知る」と云い『大毘婆沙論』では「諂誑による語業」であると釈しています。
 大梵天王はこの語を述べ已って、馬勝比丘の手を引いて梵天衆のいるところから外に連れ出して陳謝しました。「実は私も知らないのだ」と。「諂言愧謝」という、自分は全知全能と思われているの、梵天衆の前で知らないと言ったら軽蔑されてしまうから言えなかったのだというわけです。
 そして大梵天王は釈尊なら知っているであろうと告げました。」

 矯乱して答えたのが諂誑の語業であり、大梵天王が馬勝比丘の手を引いたというのが『大毘婆沙論』では大梵天王が発した諂誑の身業であると述べています。また『述記』も簡単に説明をしていますが、「梵王の馬勝の手を執るは是れ諂と誑なるが故に」と釈しています。『演秘』はこれは諂であると説明しています。
 上記の逸話からも分かりますが、色界初禅にいる大梵天王が欲界の馬勝比丘に諂と誑を起こしたという証になります。本科段の上界に存在する随煩悩(諂と誑)が下地を縁じたということになります。
 『述記』の釈をまだ読んでおりませんのが次回にゆずります。(つづく)

 
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (43) 第十 上下相縁門 (4)

2016-03-20 01:05:12 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 前回は雑感になりましたが、今日は前回の続きになります。後半です。
 上地に存在する随煩悩(小随煩悩の誑・諂(色界初禅)と憍(三界に存在する)と大随煩悩の八(三界に存在する)、上地に在る場合は有覆無記として存在する)が下地を縁ずることが有るのか否かを論じます。

 「大の八と諂と誑とは上にして亦下をも縁ず、下縁(げえん)の慢等と相応して起るが故に、梵(ぼん)いい釈子(しゃくし)の於に諂・誑を起せるが故に、憍は下を縁ぜず、所恃(しょじ)に非ざるが故に。」(『論』第六・三十四左) 
 梵は色界に存在する梵王のこと。釈子は欲界の馬勝比丘のこと。
(大随煩悩の八と諂と誑とは上地に在ってまた下地をも縁ずる。何故なら、下縁の慢等と相応して起こるからである。(例が挙げられます)例えば(「梵王の馬勝の手を執るは是れ誑・諂なるが故に」)大梵天王が馬勝の手を執ったのは誑と諂によるものである。憍は下地を縁ずることはない。何故なら、下地は上地から見て恃む所のものではないからである。)

 例えばという逸話は『大毘婆沙論』によります(大正27・670b~671c)。『演秘』が取意として述べています。『論』に「梵が釈子に於て諂・誑を起せるが故に」ということを釈して、「婆沙論の百二十九を按ずるに、経(『正法念処経』巻第三十三(大正17・193b)に誑・諂の極は梵天に至ることを述べており、『倶舎論』巻第四(大正29・20c)に引用されています。)の説を引いて云く、云々」
 この逸話は明日紹介したいと思います。

 本科段も煩悩の諸門分別の上下相縁門に准じて解釈されるものです。そこでは「上地の煩悩も亦下地を縁ず」と説かれていました。これは上地の慢が下地を縁ずることについて説明しているのですが、直接的には慢の字はありません。しかし、「上に生まれた者は、下の有情の於に己が勝徳を恃んで、而も彼を陵すと説けるが故に」と説明しています。上地の慢が下地を見下し慢を起こしていることが分かるわけです。恃己の慢と陵他の慢という、己が勝れた徳を恃んで下地の有情を見下すという慢心ですね。
 憍は自分が自分に酔っている状態(おごりよいしれる心)ですから、上地に在る憍は、「自の盛なる事のうえに深く染著を生じて酔倣する」ものですから、上地から見て劣っている下地を恃む必要はないのです。
 『述記』は本科段を本質相分と影像相分について解釈しています。これも逸話と共に明日考えてみたいと思います。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (42) 第十 上下相縁門 (3)

2016-03-17 22:32:03 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 深く考えさせられるお便りをいただきました。受け取った僕は僕の意識の中で、僕と彼を二分していることに気づかされました。そうではなくてですね、僕と関わりのある様々な事柄は僕の問題であったということなんです。彼は彼の心の中で複雑に揺れ動く様子を語ってくれているのですが、実はそのこと自体が僕自身の問いであったということなんです。
 
 紹介します。
 「雑感の感想です。自分自身に従ってくれる他人は善、従ってくれない他人は悪(自分にとって不都合な人)であるということですか。自分自身の都合に合わせて動いてくれるのは仕事上良い部下であり、上司である。このような関係ですと不安が無くなるからかもしれませんが、僕は、これは一番危険な関係であると思います。利用する側、される側、といった関係は一時的には利益が上がるかもしれません。しかし長期的にはどうでしょうか、崩壊するのではないでしょうか。経済活動は波があるものです。底になった時に崩壊する危険性が大だと思います。上手くいっている時は良好な関係で、いかなくなれば悪化する。顔も見たくない、とはよくある事です。自分自身が一番?だからですかね。 
 言い当てられていることは、他人事ではなく自分がそうだということです。仕事だけでなく、家庭でも言える事だと思います。どん底にいる時、自分自身を見失う事が出来ずにいられるでしょうか?見失うなと云われても無理ではないかと思います。矛先は問題は他人にあると決めつけてしまいます。自分自身には問題はないんだと。
 会社に勤めていますと、肩書に拘ってしまう、囚われている自分自身がいるんですね。仕事の出来ない人間とは思われたくない、出来ない人間を馬鹿にしてる事もあります。
 しかし仕事とは何か?と問われた場合、仕事は人生のほんの一部分だけのものなのかもしれません。自分自身の幸せの為に、食べていく為に働いているのは事実です。しかしつまらない椅子取りゲームをしていないか?と自問自答しなければならないかと思うようになりました。会社の利益をあげるには、会社をよくする為にはどうしたら良いか?と問題になりました。
 結局は新しい技術の導入、能率を上げる事を皆さん言っていたのですが、自分自身が変わらなければ、何も変わらない。自分を棚にあげて他人を変えようとして、何も変わらない。そんな感じがしています。
不安感から他者を排除する。よくある事です。不安であれば表情にでます。その表情が他者に警戒感を与えているのかもしれません。不安は恐怖心に繋がるのでしょうか。僕自身そのように感じます。諸行無常は外ではなく、内に。自分自身のことが言い当てられている?と思いました。」

 社会生活を営む上で様々な制約があります。その制約の中で蠢いているわけですが、実は(私は)蠢いているとはさらさら思っていません。世間での徳目は、利養という金銭や財物を得ることと、名誉という名声を得ること、そして称賛されることなんだと云われています。そしてこれら三つの徳目を得るために邁進努力することが幸福になる方程式であると疑わないのです。
 自分が行っていることは間違いのない事で、その為に競争社会の中で挫折は許されない、他人を蹴落とし、利用し、時には抹殺までしてまでも己を立てたいのです。
 清原さんがいみじくも述べています。「ストレスを解消する為に薬物に手を出した」と。ストレスも薬物も外のもの、外界から来たストレスによって、外界にある薬物に依存して、その結果外界にある司法に逮捕されるという、すべてが外界の事象に転嫁して「こんなはずではなかった」と後悔しているわけでしょう。
 清原さんはたまたま法に触れる行為によって逮捕という形になりましたが、「馬鹿なやつ」といえるでしょうか。私は法に触れないところ、ギリギリのところで清原さん同じ立ち位置に身を置いています。
 つまり、利・誉・称という徳目は外界の産物なのです。問題は、利・誉・称を求めていかざるを得ない私が問題なんです。いつでも私の為が優先します。私が主であり、他は従という関係で社会生活を営むことになります。この主従の関係が逆転しますとストレスが出てきます。「私」が納得できんということですね。そして外界に解決の糸口を求めて奔走することになります。糸口が断たれた場合は、暴力依存やアルコール依存、ギャンブル依存、挙句の果てが薬物依存になりますね。ひとつも自分が問題になっていないことから出てくる問題です。
 ここに引っ掛かりがありますと、彼のように「これでいいのか」という問いが内に眼を向けることになります。彼の問いかけが、どうしても外に眼を向けがちな自分を立ち止まらせてくれます。
 他人を批判している「馬鹿なやつ」とは私のことであったのです。何事も私の意識で判断してしまう愚かさに気づかしてくれるのが外界という存在なのでしょう。自分の意識が外に投げ出されたことを自分が意識してしている。投げ出された景色が外界であって、意識に似た相が外界として存在している。実は自分が作り出した影像であって、外界そのものには何らの実体は無いということが教えられるわけです。影像が問題なのです。実像は諸行無常・諸法無我として教えられています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (40) 第十 上下相縁門 (2)

2016-03-16 22:11:05 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 後半は、小の十(欲界に存在する十の随煩悩)が上地を縁ずることが有るのか否かを問います。この説に二釈あります。第二師の説(護法等の説)を正義とします。
 
 初は第一師の説が述べられます。
 「有義は、小の十は下(げ)にして上(じょう)をば縁ぜず、行相麤近(ぎょうそうそごん)にして、遠く取らざるが故にと云う。」(『論』第六・三十四左)
 (第一師は主張する。小の十は下地において上地を縁ずることはない、何故なら行相が麤近であり、下地から見て遠くて深い上地を取ること叶わないからである、と。)
 麤近 ー 浅いありよう。浅近とも、麤浅とも云う。
 小随煩悩の十の働きは浅い(粗い)ので、細やかに働く上地にまでは及ばないということになります。

 第二師、護法正義をみましょう。
 「有義は、嫉等は亦有をも縁ずることを得、勝れたる地と法との於に嫉等を生ずるが故に。」(『論』第六・三十四左)
 (第二師の説、護法正義は、嫉等(嫉・慳・憍)の小随煩悩はまた上地をも縁ずることもできると云う。何故なら、勝れたる地と法とに於いて嫉等を生ずるからである。)
 小の十の中で忿等の七は上地を縁ずることはない、これは第一師と同じです。しかし嫉・慳・憍の三は上地を縁じて生起することがあると主張しているのです。
 理由がですね、上地には下地に比べて勝れた法があり、勝れたる地と法に嫉妬を生ずるからであると云われています。嫉妬を生ずるということは、上地を縁じていることに他ならないんですね。

 「嫉とは謂く他の所得の静慮と無色とを嫉するが故に。」(『述記』)他は欲界以外の界定です。つまり下地の者が、色界四静慮や無色界四静慮を嫉妬するということ。
 「憍は所証知解の彼の地の法を恃むが故に。」(『述記』)下地の者が自分が得た上二界の勝れた法を恃み驕りたかぶることがあることをいっています。
 「慳は所証知解の上地の法を慳(おし)むが故に。」(『述記』)下地の者が自分が得た上二界の勝れた法を他者に教えることを惜しむということがある。
 以上のような理由から嫉・慳・憍の三法は下地にいながら上地を認識しているということになるのですね。