「尋と伺と、物をいわんとて万づの事を押しはかる心なり。」
「其れに取って浅く推度(すいたく)する時をば尋と名づけ、深く推度する時をば伺と名づく。」(『法相ニ巻抄』)
尋と伺という心所は言葉を用いてすべての事を推し量る心です。それで浅く推し量る心を「尋」と名づけ、深く推し量る心を「伺」と名づけているのです。『成唯識論』をみてみましょう。
「尋と云うは謂く尋求なり。心をして悤遽(そうこーせわしき様子)にして意言の境(意言の対象)に於いて麤(そー粗い)に転ぜしむるを性と為す。伺と云うは謂く伺察なり。心をして悤遽にして意言の境に於いて細に転ぜしむるを以って性と為す。」(『論』)
尋と伺はともに意言の対象(言葉)に於いて悤遽に転ずるのですね。せわしく・あわただしく心が忙しく揺れ動くのです。意言は心のつぶやきというのですね。私たちは言葉を通して何事も判断しています。心の分別をデジタル化していろいろなことを考えているのですね。言い換えれば言葉を用いないと何事も考えられないのです。この言葉を名言といいあらわされています。言葉を通していろいろなことを求め、考えていく、それによって心が動いていくのです。これを尋と伺の二つの言葉に分けられているのです。意言の境と云われますから、心の中で描いた言葉、心のつぶやきが言葉を対象として動いていくのですね。それがせわしいのです。あわただしく、忙しいのですね。間断なく心は動いていますからね。意言の境に於いて悤遽に転じています。
「ニの行相は同なり。故に一処に明かす。尋とは尋求なり。即ち七分別のうち尋求分別等なり。心をして悤遽とは悤とは迫、遽は急なり。意言の境とは意即意識なり。遍縁なるを以っての故に。これに三解あり」(『述記』)
意言と言の字を加えた理由について三の理解が示されます。
- (1) 喩に従う。意識とおよび相応法とは、よく境を取るが故に。言説の言と相似す
- (2) 境に従う。言説の言はこれ声の性なり。この言が意の所取の境となる。言に従って名となす。ただ意言となづく。
- (3) 果に従う。意に由ってよく言説等を起こす故に意言となづく。意所取の境を意言の境と名づく。
また一切の心所法等に通ず。しかも意のみこれ主にして勝れたる故に偏にとく。いまこの境は一切法に通ず。(『述記』)
言葉を起こす因が尋・伺なのですが、遍行の心所の中の「想」も言葉を起こす因なのですね。「種々(くさぐさ)の名言を施設するを以って業となす」意識と相応する想のみが言葉を起こす因となるわけですが、この想を疎因として、尋・伺を親因となって言葉が具体性をもつわけです。尋求し伺察することがなかったならば言葉は具体性をもってこないのです。概念的思考が起こるのは尋求し伺察する心所があるからなのです。
「此のニは倶に安・不安に住する身心の分位が所依たるを以って業と為す。」(『論』)
「身心もし安なるときは、徐緩を業となす。身心が不安なるときは悤遽を業と為す。ともに思・慧に通ず。あるいは思を安となづく。徐にして細なる故に。思量性なる故に。慧を不安となづく。急にして麤なる故に。簡択性なる故に。身心は前後に安不安あり。みな尋と伺による。故に所依となづく。」(『述記』)
尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているともいわれます。