唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  (25) 五種類の精進について

2013-07-25 23:05:19 | 心の構造について

 昨日のつづきです。

 『論』には有勢・有勤・有勇・堅猛(けんみょう)・不捨善軛(ふしゃぜんやく)と説明されていますが、その文の解釈は述べられていません。

 『樞要』に「有勢等の句には文の解釈は無し。勢と云うは、威勢を謂う。勤と云うは、策励を謂う。勇と云うは、勇鋭(ゆうえい)を謂う。堅猛と云うは、固進するを謂う。善を捨てざるを軛と云う。謂ゆる永く屈せず及び止めざるや。」

 威勢 - 力強く、勢いのあることで、武士が敵陣を前にして、夜分さらに戦いの直前に鎧兜を着け敵陣に突撃して恐れない様子を喩えて、当発精進といわれている。

 策励 - 自らの心を堅固にして奮い立たせ、ムチ打つように励み勤める心であるといわれています。

 勇鋭 - 勇ましく鋭いこと。自らを軽蔑することなく、恐れひるむことのなく勇ましく鋭く進むことであるという。

 堅猛 - どのようなことがあっても耐え忍び、劣悪な善であっても卑下することなく、後々の功徳を願い求める心であるといわれています。志固く、より猛々しいことを無退精進という、と。

 軛 - 善を捨てずにそのまま涅槃に趣かしめる心の働きを無足精進といわれているのです。

 その第三は次回に述べます。五つの精進の根拠を明らかにします。


第三能変 善の心所 (24) 五種類の精進について

2013-07-24 23:14:34 | 心の構造について

 『瑜伽論』巻第八十九の文を引用して説明される。

 概略を示しますと、

 猛利楽欲を発起するを被甲(精進)と名づく。 → 経に、有勢(うせい)と名づく。

 堅固勇悍を加行(精進)と名づく。 → 経に有勤(うごん)と名づく。

 証得せんが為に自を軽蔑せず、亦怯懼(きょうく・恐れ)無きを無下(精進)と名づく。 → 経に有勇(うゆう)と名づく。

 能く忍び寒熱等の苦を受けて劣等の善に於て厭足を生ぜずして後々勝品功徳等を欣求しするを無退(精進)と名づく。 →経に竪猛(志を固くしてよりかつ猛々しくすること)と名づく。

 後に乃至慚次に諦観等の後々の勝道に入るを無足(精進)と名づく。 → 経に不捨善軛(ふしゃぜんやく)と名づく。軛はくびきのこと。牛に車を引かせるときに付ける車の前の横木のことを喩ていう。

 これらの精進は、涅槃に関係しているのですね。涅槃に向かうための階位、位を異にすると述べられています。しかし、大切なことは、自らを卑下しない、軽蔑しないということではないでしょうか。無理があるんですね、自分のことが一番可愛いと思っているのにのですね、自分を軽蔑するということは成り立たないんです。紙の表裏みたいなものではないでしょうか。自分のことが一番可愛いからこそ涅槃に求趣しなくてはならないのでしょう。自己満足というのは、俺が一番とうそぶいていることではないのでしょう。涅槃を求め、そこに大般(涅槃)という、自利利他所求満足の世界が開かれてくることでしょう、私はこのように頷いています。     (つづく) 


第三能変 善の心所 (23) 精進

2013-07-23 22:30:05 | 心の構造について

 此の相の差別(精進の種類)に五種類あることを述べる。初は、精進に五種類あることの説明、次に経典を引用して説明する、後に「位の異なることを顕す」(修行から見た解釈の別)ことを説明する、と『述記』には述べられています。

 「此れが相の差別なること、略して五種有り、所謂被甲と加行と無下と無退と無足とぞ。」(『論』第六・五左)

 精進に、被甲精進と加行精進と無下精進と無退精進と無足精進の五種類があることを述べています。詳細は次科段において説明されます。

  •  被甲精進 - 甲冑を着て戦場で戦うように、勇敢に修行において努力すること。最初に起す精進で、「猛利の楽欲を発起するを被甲と名づく」 と説明されています。
  •  加行精進 - 修行に於て堅固な心を起こし、自ら策励して勤め励むこと。「堅固勇悍方便を起こすを加行と名づく」と説明されています。
  •  無下精進 - 自らを卑下し軽蔑することなく勇敢に勤め励むこと。「自ら軽蔑せず亦法懼無きを無下と名づく。」と説明されています。
  •  無退精進 - 苦に遭遇してもひるむことなく勤め励むこと。「能く寒熱等の苦を受けて忍び、劣等の善に於て厭足を生ぜざらん、後々勝品功徳等を欣求するを無退と名づく。」と。
  •  無足精進 - 修行の途中で投げ出すことなく、満足することなく、悟りに向かって勤め励むこと。「諦観等の後後の勝道に入るを無足と名づく」という。

 以上概略を述べました。詳細については次科段において説明がされています。


第三能変 善の心所 三善根について (22) 精進

2013-07-22 21:31:06 | 心の構造について

P1010016
 勤(精進)についてさらに詳しく説明がされます。

 二つに分けられて説明されています。

 「前難を釈す」((問)「然るに此の中に言は何れの性に摂するや」という難について答える)。勤とは三性中のどの性になるのかという問いに対して答えているのです。

 「勇とは精進なることを表して、諸の染法を簡ぶ、悍とは精純なることを表して、浄無記を簡ぶ、即ち精進をば、唯善性のみに摂むということを顕す。」(『論』第六・五右)

 勇は精進である。 → 諸染法(悪と有覆無記)ではないことを明らかにする。

 悍は精純(純粋な善)である。 → 浄無記(無覆無記)ではないことを明らかにする。無覆無記は浄ではあるが、精純ではない、これは正理に応じないからである、と。従って精とは名づけない、しかし染でもないことから純と名づけるのである、と述べられています。これらの理由によって、精進の本質的な働きは、唯善性であることを示しているのでしょう。

 精進は善性であることを表しているのは、諸の染法や有覆無記は、人間として本来の居場所である涅槃界(聖者の身を成就する)に進むということからは退歩していることになり、進ということはいえないのですね、涅槃界に進むということは勇悍という精進をもって邁進すると云う意味合いが込められていると思います。

 「論。勇表勝進至唯善性攝 述曰。下廣解有二。初釋前難。後辨差別。此初也 勇表念念高勝。非如染法。設雖増長。望諸善品。皆名爲退。亦不名進。無益進故 進謂進成聖者身故 悍表精純。簡四無記無覆淨也。彼雖加行作意修習。而非精純。不應正理故不名精。復非染故乍可名純。今此精純即總釋也。」(『述記』第六本下・十九右。大正43・437b)

 (「述して曰く。下は、広く解するに二有り。初は前難を釈し、後は差別を弁ず。此れは初なり。勇は念々に高く勝るを表す。染法の設い増長すと雖も、諸の善品に望めて皆名づけて退と為す、亦進と名づけず。益進すること無きが故に。進とは謂く進んで聖者の身を成ずるが故に。
 悍とは精純を表す。四無記の無覆の浄を簡ぶなり。彼は加行し作意し修習すと雖も、而も精純には非ず。正理に応ぜず。故に精と名づけず。復た染に非ざる故に、乍(たちまち)に純と名づくべし。今此の精純は即ち総釈なり。」) 


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (31)  第一章第四節

2013-07-21 15:42:31 | 『阿毘達磨倶舎論』

 分別界品第一の最終頌(十八界の分類的考察・『倶舎論』巻第二を終わる。)

 第四十七頌

 「五外所識 常法界無為 法一分是根 並内界十二」

 (五の外は二の所識なり。常は法界の無為なり。法の一分は是れ根なり、並びに内界の十二なり。)

 所識門(第二十)
 常非常門(第二十一)   } を説明する。
 根非根門(第二十二)

 五外とは、五の外境をいう、色・声・香・味・触の五境のこと。この五境は、五識の所識ばかりではなく、意識の所識であるので、「二の所識」といわれる。五境は、各々色境は眼識によって知られ、声境は耳識によって知られる等々、すべては意識によって知られるものである。その他の、十八界中の五外を除いた十三界はすべて意識の所識であり、五識には関係がないとされる。(第四十七頌初句)

 「常は法界の無為なり」は、法界中の無為は常であって、その他はすべて無常であることを明らかにしています。(第四十七頌第二句)

 「法の一分は是れ根なり」は、法界の一部と七心界とが根であり、その他は根ではないことを説いています。

 初めに五外ということで、五境を表していましたが、内界の十二は境に対してですね、六界(眼乃至意界)と六識(眼識乃至意識)を内界と説明されています。

 『倶舎論』では法を、五位七十五法として分類していますが、色法が十一・心法が一・心所法が四十六・心不相応行が十四・無為法が三というわけです。これらを開いて五蘊・十二処・十八界という存在の分析をしています。(唯識では五位百法という分類を数えています)

 五処に対して五界・意処に対して意界と眼識界乃至意識界です、外処の色処乃至触処にたいして各々色界乃至触界に分類されるわけですが、最後の法処の六十四に対して法界の六十四になり、こえは無為法に摂められ常であることを現わしているわけです。

 根に、二十二根を説いていますが、これは次の第五節・分別界品第二・諸門分別(巻第三より巻第七)として説明がされていますので次回に譲ります。

七心界については、2013・2/10の項を参照してください。

 


第三能変 善の心所 三善根について (21) 精進

2013-07-18 22:49:15 | 心の構造について

 (「此の(『唯識論』)中には但だ善を満ずとのみ言う。彼(『対法論』)は因中の一分において、随って入るところの定を更にまた修治するによる。此れは因を行じ、成仏の果が満じ、更に修治せざるによる。故に唯だ満と言う。即ち三乗の究竟の果位に通ず。或は善事を作し、円に了するを満と名づく。能く善を満ずるが故に、要ずしも聖果のみに非ず。

 若し唯だ勤と三性の法に倶に勤苦なるべし。然るに此の中の言は何れの性に摂せらるるや。」)

 「善を満たす」ということについて、二つの解釈があることを述べています。

   精進(能対治) → 懈怠(所対治)

 という構図で、善行を実践して(「因を行じ」)、仏果を得ること、これが第一の解釈になりますが、第二の解釈は、善行を実践し(「善事を作し」)、それをまどかに満たすことを(「円に了するを満と名づく」)満という、必ずしも聖果(仏果)を得ていなくてもいいのだ(「要ずしも聖果のみに非ず」)と。

 精進とは、善を修すること、結果如何に関わらず仏果を得ることに勇敢に立ち向かうということになりますね、そういえばですね、親鸞聖人も、信は獲得するもの、信心獲得といわれています。自分が動くことが大切な行為なのでしょうね、他力とは向こうからやってくるものではなく、自分が向かう所に、はからずも開かれていた世界なのではないでしょうか、それを還相回向として捉えておいでになるのではないでしょうか。異熟因において異熟果、それが現実には現行、自覚的には異熟果であると。それを「勤」という一言で押さえられているのですね。懈怠を対治することに於いて善を満たしていくということになるのでしょう。


第三能変 善の心所 三善根について (20) 精進

2013-07-17 23:55:37 | 心の構造について

 勇悍の悍はたけだけしい(猛々しい)、勇悍は勇ましくて強いという意味になります。菩薩の志願は「勇猛精進にして志願倦きことなし」という自利・利他という善行ですね。善行に於て勇悍という言の意義があるといわれています。ですから、精進の本質的な働き(性)は勇悍であるということになります。

 「論。勤謂精進至滿善爲業 述曰。下文有二。初略後廣。勤苦名通三性。此即精進故體唯善。於善品修。於惡品斷。事中勇健。悍且勇而無惰。自策發也。悍而無懼耐勞惓也。勇者升進義。悍者堅牢義 滿善爲業者。對法云成滿一切善品爲業。彼釋云。滿善品者。謂能圓滿隨初所入根本靜慮。成善品者。謂即於此極善修治。此中但言滿善。彼據因中一分隨所入定更復修治。此據行因成佛果滿。更不修治故唯言滿。即通三乘究竟果位。或作善事圓了滿。能滿善故。非要聖果 若唯言勤。三性之法倶可勤苦。然此中言何性所攝。」 (『述記』第六本下・十八右。大正43・437b)」 

 (「述して曰く。下の文に二有り。初に略、後に広、勤苦の名は三性に通ず、此れは即ち精進なるが故に体は唯善なり。善品に於て修し、悪品に於て断ずるに事の中に勇健なり。

 (「善」に対しては「修し」・「悪」に対しては「断じる」こと勇健である、と。)

 悍は且く勇にして惰無し。自ら策發(さくほつ)するなり。

 (「策發善行精進心」と、善行を行う精進の心を励ますという、善行と精進が結びついているのですね。策とは策励・うながす、ムチ打つことという意味があります。))

 悍にして懼(く)るること(おそれること)無きは勞惓(ろうけん-労は疲労。倦は倦怠、くたびれている様子)するに耐ゆるなり。

 勇とは昇進(向上発展する義)の義なり。悍とは堅牢の義なり。

 (善行を行う精進の心を励ますことにおいて労倦することなく、策励し昇進する、そこには飽きること、むさぼることが無い、勇悍には堅牢という意味があるというと述べています。)

 「満善為業」(善を満たすを以て業と為す)とは『対法』に云く。「一切の善品を成満するを業と為す」と云えり。彼の釈に、善品を満ずというは、謂く能く随って初に入る所の根本の静慮を円満するなり。善品を成ずというは、謂く即ち此において、極めて善く、修治するなりといえり。・・・」

 すみません、今日はこの辺で閉じます。

 

 


第三能変 善の心所  (19) 精進

2013-07-16 23:31:22 | 心の構造について

なな (「前師大悲は根に摂るに非ずと云うことを解して云く、無瞋と無癡との二法を用いて体と為す。論は無瞋に従って説いて根に非ずと為す。実に是れ根に摂む。
 (後師難)若し爾らば即ち三念住等も亦爾なるべし。
 (前師答)爾らず、大悲は四無量の中の悲に似たり。唯無瞋を以て性と為す。今は、無瞋に従って根に摂せざる所と説く。念住は慧に依るが故に、根に摂せざる。且く影顕(影略互顕)するに約す。実理文には非ず。
 
(後師難)若し爾らば(無癡が慧の分位)、即ち三(不放逸・行捨・不害)は世俗有なりという文を如何が通ぜん。
 (前師答)実有というは、体が即ち慧なる故に。
 
(後師)問、不害は体即ち無瞋なり。応に仮有にあらざるべし。
 (前師)答、世俗有というは言は、仮と実とに通ずる故に、種子が世俗有ありという言の如きは、即ちこれ実有なる故に、(ただし今文に)三はこれ世俗というは、みなこれ仮有なり。
 (後師難)これもまた然らず。五見は慧の分なり、説いて世俗有と為す、故にこれ仮有に悲ざるが如く、この無癡もまた爾なり。若し爾ならば不害は無瞋の一分なり。如何ぞ通ぜんや。故に後師を正と為す。」)

 無瞋は楽を与えるー慈の体であるといわれていますが、楽は苦に対する言ですから、抜苦が悲の体になり、無瞋と不害よをもって慈悲をあらわしているのですね。そして不害の体が無瞋であると教えられています。いかりのない心は慈であり、他者に楽を与える心の働きの体なのです。そして慈は悲という心所(不害は苦を抜く)をもたらしてきます。

 忿・恨・悩・嫉・害・放逸・懈怠はすべて瞋の分位であるといわれています。

          ―      ・      ―

 「頌に言う所の勤安等と云うは、」(『述記』第六本下・十八右)

 勤(勤精進)の心所について説明する。

 「勤(ごん)とは、謂く精進ぞ、善悪品の修し断ぜらるる事の中に於て、勇悍(ゆうかん)なるを以て性と為し、懈怠(けだい)を対治し善を満たすを以て業と為す。」(『論』第六・五右)

 勤というのは、つまり精進のことである、善と悪とについて、善を修し、悪を断じることに於て、勇悍(努力精進する有り方)であることを以て性と為し、懈怠を対治して、善を満たすことを以て業と為す心所である。

 性 - 善を修し、悪を断じる(廃悪修善)ことに勇悍であること。

 業 - 懈怠を対治して、善を満たすこと。

 精進は、善を修することであると教えています。善を修することに於て勇悍であることが本質である、と。業が懈怠を対治すると押していますが、悪に対して努力することは精進ではなく、懈怠なのです。精進の体は善であるということなのですね。勤苦という術語もありますが、勤苦であれば三性に通じ、悪や無記へ努力することも入ってしまうのですが、精進は唯善のみの心所なのです。     (つづく)


第三能変 善の心所 三善根について (18) 能対治について

2013-07-14 11:10:57 | 心の構造について

 今日は午後三時から、旭区千林 真宗大谷派 正厳寺様での唯識の会です。初めて仏教を聞かれる方も参加予定だということで、いつにもまして緊張しています。求道心をもって共に歩むことが出来るのかが問われています。

           ―      ・      ―

 能対治について説明される。

 「彼を断ずるとき、必ず通と別との対治に由る、通とは唯善の慧なり、別とは即ち三根なり、此れに由って無癡は必ず別に有るべし。」(『論』第六・五右)

 彼(貪・瞋・癡)を断ずる時には、必ず通対治・別対治とに由る。通対治とは、ただ善の慧である。別対治とは、三善根(無貪・無瞋・無癡)である。これに由って無癡は必ず別個の自性が有るということがわかるのである。 

 先に別対治である無貪・無瞋には別個の自性があることを証明してきましたがであるということを、この無癡もまた三善根の一つであり、従って無貪・無瞋と同じように別個の自性があるはずであるということを指し示しているのです。

 

 要するに、貪・瞋・癡の三毒の煩悩を断ずるのは、通対治である善慧と、別対治である、個別の対治が必要であることを述べています。即ち別対治が必要であるということは、貪・瞋・癡には個別の自性が有るということなのです。これが一つにまとめられて三不善根といわれています。

 

 善の慧 - 「正見と正知とは倶に善慧の摂なり」。世俗の正見は意識相応の有漏の善慧である、といわれています。

 

 「論。斷彼必由至必應別有 述曰。斷彼三時必由二對治。一通對治。即唯善惠。能總斷故。二別對治。即無貪嗔癡。如貪・嗔二有通・別對治。不善根攝故癡亦爾。不善根攝亦有二對治。如貪・嗔二故。必別有無癡。以不善根起惡勝故須二對治。餘惑不然。由此因縁無癡離惠定別有體 前師解大悲非根攝云。以用無嗔・無癡二法爲體。論從無嗔説爲非根。實是根攝 若爾即三念住等亦爾 不爾大悲似四無量中悲唯以無嗔爲性。今從無嗔説根所不攝。念 住依惠故根所攝。且約影顯非實理文 若爾即三世俗有文如何通 答實有者體即惠故 問不害體即無嗔。應非假有 答世俗有言通假實故。如種子世俗有言。即是實故。三是世俗皆是假有。此亦不然。如五見惠分説爲世俗有故非是假有。此無癡亦爾 若爾不害無嗔分。如何通 故後師爲正。」(『述記』第六本下・十七右・大正43・437a~b)

 

 (『述して曰く。彼の三を断ずる時は、必ず二の対治に由る。一に通の対治、即ち唯だ善慧なり、能く総じて段ずるが故に。二に別の対治なり、即ち無貪・無瞋なり。貪と瞋との二に通と別との対治有るを、不善根に摂するが如きが故に。癡も亦爾なり。不善根に摂すれば亦二の対治有るべし。貪と瞋との二の如し、故に必ず別に無癡有り、不善根として悪を起こすこと勝るを以ての故に。須べからく二の対治なるべし。余惑は然らず。此の因縁に由って無癡は慧に離れて定んで別に体有るべし。」

 

 以上の理由に由って、無癡にも無貪・無瞋と同様に、無癡独自の自性が有るはずであると説明しているのですね。通・別の二の対治を用いなければならないほど、三毒の煩悩の勢力は強いということを暗に示しています。

 

 以下の釈については明日述べます。
 


第三能変 善の心所 三善根について (17) 所対治について

2013-07-12 22:48:35 | 心の構造について

 理を立て、三種(貪・瞋・癡)は二義(六識と相応す・煩悩に摂す)を具すことを明らかにする。

 「貪・瞋・癡は六識と相応し、正しき煩悩に摂められ、悪を起こすこと勝れたるを以ての故に、不善根と立つ。」(『論』第六・五右)

 貪・瞋・癡は六識すべてと相応し、正しく煩悩に摂められ、(この貪・瞋・癡は)悪を起こすことが勝れていることから不善根という。

 貪・瞋・癡が三毒の煩悩といわれ、特に他の煩悩と違って根本煩悩といわれるのは、その活動が他の煩悩と比較して特に勝れていることから不善根と称されているわけですが、この不善根を対治するのには、他の煩悩を対治するのとは違って、二重の対治を用いなくてはならないということが『論』によって明らかにされているのです。それほどこの三毒の煩悩は、その活動が強力に悪を引き起こすものであるというわけですね。

 貪・瞋にも固有の自性があることが証明されていましたように、この癡もまた、無癡を能対治・癡を所対治とし、無癡にも無貪・無瞋と同様に独自の自性があることを証明しようとしているのですね。

 従って本科段は、所対治の貪・瞋・癡の三不善根を説明しているのです。

 「論。以貪嗔癡至立不善根 述曰。下立理也。由此三種能具二義。一六識相應。即簡疑等。二正煩惱攝。簡不信等。餘非此位。小乘三義簡。此中二義簡。及起惡勝故。解於根義。二簡餘法。由一義故立不善根 擧此所治方辨能治。」(『述記』第六本下・七右。大正43・437a)

 (「述して曰く。下は理を立つるなり。此の三種は能く二義を具するに由って、一に六識と相応す、即ち疑等を簡ぶ。二に正しく煩悩に摂す。不信等を簡ぶ。余は此の位に非ず。小乗は三義を以て簡ぶ。此の中に二義を以て簡ぶ、及び悪を起こすこと勝るが故に。根の義を解す。二には余法を簡ぶ、一義に由るが故に不善根を立つ、此の所治を挙げて方に能治を弁ず。」)

 「悪を起こすこと勝れたるを以て」という、その理由ですが、次に述べられています。

  •  「六識と相応す」と。六識すべてと相応するということが、勝れている理由なのです、何故なら、疑等(慢・疑・悪見)は第六意識とは相応するが、五識とは相応しないのですね(慢・悪見は第七識と第六意識と相応し・疑は第六意識と相応する煩悩である)
  •  「正しき煩悩に摂められ」と。「正しき」というのは付随を除くという意味です、純正ということでしょう。随煩悩という煩悩も数えられますが、これは、煩悩に付随したものという意味ですから、純正というわけにはいかなのですね。

 以上の理由をもって、貪・瞋・癡が三毒の煩悩といわれる所以なのですね。

 次に「悪を起すこと勝れたるを以て」という理由が述べられていますが、これは三不善根という、三不善に根がついている理由を述べているのです。

 根は、煩悩の異名なのですが、特に不善を生じる根拠となる煩悩ということで根というと云われています。「不善の所依を名づけて根と為す・・・・・・根とは、三不善根と云う。謂く貪不善根・瞋不善根・癡不善根なり」と。

 又、根の義ですが、一般的に、増上の義(力強い・勝れている)と定義されていますが、本科段での義は、出生の意味で述べられています。つまり、悪を出生させる強力な力があるのが貪・瞋・癡の煩悩であって、特に根を用いて三不善根と称しているのである、という。