理を立て、三種(貪・瞋・癡)は二義(六識と相応す・煩悩に摂す)を具すことを明らかにする。
「貪・瞋・癡は六識と相応し、正しき煩悩に摂められ、悪を起こすこと勝れたるを以ての故に、不善根と立つ。」(『論』第六・五右)
貪・瞋・癡は六識すべてと相応し、正しく煩悩に摂められ、(この貪・瞋・癡は)悪を起こすことが勝れていることから不善根という。
貪・瞋・癡が三毒の煩悩といわれ、特に他の煩悩と違って根本煩悩といわれるのは、その活動が他の煩悩と比較して特に勝れていることから不善根と称されているわけですが、この不善根を対治するのには、他の煩悩を対治するのとは違って、二重の対治を用いなくてはならないということが『論』によって明らかにされているのです。それほどこの三毒の煩悩は、その活動が強力に悪を引き起こすものであるというわけですね。
貪・瞋にも固有の自性があることが証明されていましたように、この癡もまた、無癡を能対治・癡を所対治とし、無癡にも無貪・無瞋と同様に独自の自性があることを証明しようとしているのですね。
従って本科段は、所対治の貪・瞋・癡の三不善根を説明しているのです。
「論。以貪嗔癡至立不善根 述曰。下立理也。由此三種能具二義。一六識相應。即簡疑等。二正煩惱攝。簡不信等。餘非此位。小乘三義簡。此中二義簡。及起惡勝故。解於根義。二簡餘法。由一義故立不善根 擧此所治方辨能治。」(『述記』第六本下・七右。大正43・437a)
(「述して曰く。下は理を立つるなり。此の三種は能く二義を具するに由って、一に六識と相応す、即ち疑等を簡ぶ。二に正しく煩悩に摂す。不信等を簡ぶ。余は此の位に非ず。小乗は三義を以て簡ぶ。此の中に二義を以て簡ぶ、及び悪を起こすこと勝るが故に。根の義を解す。二には余法を簡ぶ、一義に由るが故に不善根を立つ、此の所治を挙げて方に能治を弁ず。」)
「悪を起こすこと勝れたるを以て」という、その理由ですが、次に述べられています。
- 「六識と相応す」と。六識すべてと相応するということが、勝れている理由なのです、何故なら、疑等(慢・疑・悪見)は第六意識とは相応するが、五識とは相応しないのですね(慢・悪見は第七識と第六意識と相応し・疑は第六意識と相応する煩悩である)
- 「正しき煩悩に摂められ」と。「正しき」というのは付随を除くという意味です、純正ということでしょう。随煩悩という煩悩も数えられますが、これは、煩悩に付随したものという意味ですから、純正というわけにはいかなのですね。
以上の理由をもって、貪・瞋・癡が三毒の煩悩といわれる所以なのですね。
次に「悪を起すこと勝れたるを以て」という理由が述べられていますが、これは三不善根という、三不善に根がついている理由を述べているのです。
根は、煩悩の異名なのですが、特に不善を生じる根拠となる煩悩ということで根というと云われています。「不善の所依を名づけて根と為す・・・・・・根とは、三不善根と云う。謂く貪不善根・瞋不善根・癡不善根なり」と。
又、根の義ですが、一般的に、増上の義(力強い・勝れている)と定義されていますが、本科段での義は、出生の意味で述べられています。つまり、悪を出生させる強力な力があるのが貪・瞋・癡の煩悩であって、特に根を用いて三不善根と称しているのである、という。