唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の十二 三断分別門 他 (3)

2014-01-30 22:07:17 | 第三能変 善の心所  第三の十二 三断分

 昨日のつづきになりますが、皆さん方はどうでしょう、僕はほとんど「化身土巻末」を読んだことがないんです。「行巻」・「信巻」は眼を通すということはありますがね、まあそれも曖昧です。

 「顕浄土方便化身土文類六」(ケンジョウドホウベンケシンタドモンルイノ六)が正式名ですね。「それ、もろもろの修多羅(シュタラ)に拠って真偽を勘決して、外教邪偽(ゲキョウジャギ)の異執を教誡せば、」を問題提起の発端として論を進められていると思うのです。結帰は『論語』の文を以て、諸余の諸天神に帰依することはない、ことを論証されていられるように思います。しかしながら、まったく歯が立ちません、此れでは『教行信証』は読めないですね。昨日の、「北欝單越(ホクウツタンオツ)」の言葉から教えられたことであります。

 親鸞聖人は、有漏の善のもっている我執を見抜いておいでになるのでしょうね。有漏であっても、善行は善行なんですが、この善行の中に潜んでいる自己執着心が、阿頼耶識の中に蓄積され、やがて現行を生起し、迷悶を生む因となる、自力の限界性を本願の中に見出されたのではないでしょうか。

        悪性さらにやめがたし
          こころは蛇
蝎のごとくなり
          修善も雑毒なるゆえに
          虚仮の行とぞなづけたる
                (正像末和讃・愚禿悲嘆述懐)
 

 と、如来の恩徳を讃嘆されておられます。

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 「又無想定の果は見惑の所引なり、見惑の因が亡ずれば果も亦随って、喪す。無想定の如き入聖も亦断ぜず。但だ彼の果を断ずるを以て、善法は随順して聖に入るべきが故に。若し彼の果を成ずるときは、聖に入ることを得ず。下の(十二)縁生の中の如く、不生を断と名づく。其の因も亦断ず。縁縛を断ずる断はならば唯修所断なり。既に爾らば、悪趣の善業も亦見所断なるべし。今は縛を断ずるに拠ると云う、故に相違せず」)

 「論。余門分別如理応思」というは、述していわく。謂く有報無報何れの地にして何の地を縁ずるや、他は皆此に放って理の如く之を思うべし。

 善の心所の結文として、諸門分別において、善の心所を分析をしてきたけれども、それ以外においても、いかなる地に存在し、いかなる地を縁じて生起するのか等々考えなければならないことが多々あるけれども、それは、理に応じて考えるべきである、と締めくくり、十一の善の心所の所論すべて述べてきたということになります。

 尚、無想定等については、第二能変末那識の存在証明を示す、二教六理証2012年5月04日~07日の項を参照してください。


第三能変 善の心所  第三の十二 三断分別門 他 (2)

2014-01-29 23:49:16 | 第三能変 善の心所  第三の十二 三断分

 昨日のつづきになります。『述記』の釈から学びます。

 「論。非見所斷至非所斷故 述曰。十二三斷。並非見斷。非障見故。非邪生故。以何爲證。五十七二十二根中。説十四法一分見所斷。一分修所斷。謂七色・命・五受・及意。十二一分修所斷。一分非所斷。謂即十四中六・及餘六。謂五受・意・信等五根・未知當知。彼説二六五受・及意。通見除故。以爲前六。其信等五・未知當知非見除故以爲後六二非所斷。謂後二無漏根。今擧唯善後六爲論。唯是修斷及與不斷 問此論下言無想定等是見斷故。又對法第四。一切往惡趣業果皆見斷。何妨善業見斷也 答彼不言善法斷縁縛名爲見斷。若不爾者。下修道煩惱亦招惡趣等。豈見所斷。故以此爲證。善非見斷。若言見斷。以此證非。略有四門。如下縁生中説 問分別業報可言見斷。修道業惑之果見道斷不。不斷違文。斷便違理。因未斷彼果豈斷也 答如無想天果・北欝單越果。雖亦斷彼。善豈斷耶。故知但果先亡因於後斷。何所以者。果麁障聖。入見斷果。因細不障見。入見不斷因。於善・染二因。三惡趣等皆名斷也。又無想定果見惑所引。見惑因亡果亦隨喪。如無想定。入聖亦不斷。但斷彼果。善法隨順可入聖故。若成彼果不得入聖。如下縁生中不生名斷。其因亦斷。斷縁縛斷。唯修所斷等。既爾惡趣善業亦見所斷。今據斷縛。故不相違。」(『述記』第六本下・・四十六右。大正43・443b)

 (「述して曰く。十二に三断においていう。並びに見断に非ず。見を障うるに非ざるが故に、邪に生ずるに非ざるが故に、何をもって証とするや。五十七の二十二根のうちに、十四法の一分は見所断(不生断、相応断)、一分は修所断(縁縛断)なりと説けり。謂く七の色と命と五受と及び意なり、十二の一分(有漏)は修所断なり、一分(無漏)は非所断なり。謂く十四のうちの六と及び余の六なりといえり。謂く五受と意と信等の五根と未知当知となり。彼に説く二の六というは、五受と及び意とは見に除かるるに通ずるが故に、もって前の六と為す。その信等の五と未知当知とは、見に除かるるに非ざるが故に、もって後の六と為す。二は非所断とは、謂く後の二の無漏根なり、いまは唯善の後の六をあげて論(あるいは証か?)唯是れ修断なり。及び不断なり。

  •  五受根と意根と信等の五根と未知当知根の合計十二根の中の一部は修所断であり、一部は非所断であると説かれているのですが、これを以て信等の六種は見所断ではないということがわかるわけです。

 問、この論の下(巻八、二十一)に無想定等は是れ見断なりと言うが故に。又対法の第四に、一切の悪趣に往く(不善の)業果は皆見断なりと。何ぞ善業も見断なることを妨げん。
 答、彼には善法に縁縛を断ずるを名づけて見断と為すと言わず。若し爾らずんば(善法が見断ならば)、下の修道の煩悩も亦悪趣等を招く、豈見所断ならんや。故に此れ(修惑は見断に非ざること)を以て証と為して善(修悪、所縁縛)は見断に非ずと云う。若し見断なりと言わば、此を以て非(非見断)なりと証す、略して四門有り。下(『述記』第八末・五十四以下)の縁生の中に説くが如し。
 問、分別の業報を見断と言うべし。修道の業惑の果は見道に断ずるや、不や。断ぜざれば文に違す。断ぜば理に違す。因(修惑)未だ断ぜざるに、彼の果を、豈(見道に)断ぜんや。
 答、無想天の果と
北欝單越(ホクウツタンオツ)の果の如きは、亦彼(果)を断ずと雖も、善(修道断)豈断(見道断)ぜんや。故に知る。ただ果は先に亡じ(見道不生断)、因(修惑)を後(修道)に断ずることを。何の所以とならば、果は麤にして聖を障う、見(道)に入る時、果を断ず。因は細にして見(道)を障ざれば、見に入る時、因を断ぜず。善・染の二因と三悪趣等に於て皆断(見道不生断)と名づくなり。

  •  北欝單越 - 北洲(北倶盧洲(ホックルシユウ))のこと。鬱単越は梵語ウッタラ・クル(Uttara-kuru)の音写。須弥四洲の一。須弥山のうちの北方の世界。形は方座のようで地盤は他の三洲よりも高い。そこに住む者は一千歳の寿命をたもち快楽もきわまりないという。仏を礼拝できない難がある。
     『教行信証』化身土・末(真聖p374)に『大方等大集経』巻第六「月蔵分」の中「諸天王護持品」第九を引用される中に出ています。

  すみません、今日はここまでにしておきます。(つづく)

 


第三能変 善の心所  第三の十二 三断分別門 他

2014-01-28 22:32:00 | 第三能変 善の心所  第三の十二 三断分

 土井さん、昨日の記事をシエアしていただき有難うございます。

 この善の心所の後に、煩悩の心所についての所論が述べられるのですが、僕は煩悩の心所に先立って善の心所が述べられていることが大変重要なことだと思っています。

 善の心所は純粋経験だと思うんです。経験はすべて阿頼耶識に所蔵されるのですが、純粋経験がもとにあるのではないでしょうか。前六識は第七末那識の影響を受けて染汚されて、染汚された種子が阿頼耶識の中に熏習されると云われているのですが、第六意識の純粋経験が阿頼耶識を揺さぶる働きを持っているのではないのかと思うのです。

 第六意識が、第七末那識の自己執着心の隷属であったならば、永遠に第七末那識の染汚性からの解放はないのではないでしょうか。また、無慚愧の自覚を生み出す機縁、手がかりもなくなってしまうのではないでしょうか。

 無意識の領域には、純粋経験が熏習され、熏習された純粋経験が染汚され、染汚された経験が、種子として熏習されているという構造になる、この構造そのものが、私たちに、いかなる形にしろ求める、本当のものに出合いたいという催促が働いている。いうならば、私たちは常に純粋経験と染汚された経験の葛藤の渦の中で苦悩しているのではないでしょうか。

 善の心所は、私たちの生の基盤に純粋経験が働いていることを教えているのではないかと思います。親鸞聖人は、この純粋経験を廻向として読みとられたのではないでしょうか。

 

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 第三の十二 三断分別門

 「見所断(ケンショダン)には非ず、瑜伽論(ユガロン)に、信等の六種は唯修所断(タダシュショダン)なり、非所断(ヒショダン)なりと説けるが故に。」(『論』第六・十二左)

 (十一の善の心所は)見所断(見道で断じられるもの)ではない。何故ならば、『瑜伽論』巻第五十七に「信等の六種は、ただ修所断であり、非所断である」からと説かれているからである。

 疑問点は、善の心所を何故断たなければならないのかということですが、ここは、善の心所そのものを断ずるという意味ではなく、有漏の善の有漏を断ずるという意味なのです。有漏は煩悩を意味しますから、有漏の善の心所は、断ずるべきものということになります。善を有漏にしている煩悩ですね、煩悩・随煩悩・第七末那識の我執を断ずる、断ずることに於て有漏が断じられ、無漏になるわけです。その方法が、見所断ではなく、修所断か非所断であるということになります。  (詳細は明日述べます。)