第二能変 所依門・「所依について広く解す」
「諸の心・心所をば皆有所依という、然も彼の所依に総じて三種あり。」(『論』第四・十三右)
(諸々の心・心所をみな(すべて)有所依という。そして心心所の所依には三種がある。)
・ 心・心所がそなえている三条件(有行相・有所依・有所縁)の一つです。
(所依の体について、初め因縁依(種子依)について説明する。)
「一には因縁依、謂く自の種子ぞ、諸の有為法は、皆此の依に託す、自の因縁に離れては、必ず生ぜざるが故に」(『論』第四・十三右)
(一には因縁依、自らの種子のことである。諸々の有為法は、すべてこの因縁依を依り所として生じるのである。諸々の有為法は自らの因縁を離れては絶対に生じることはない。)
(増上縁依(倶有依)について)
「二には増上縁依、謂く内の六処ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、倶有根に離れては、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・十三左)
(二には増上縁依である。それは内の六処(眼根等の六根)である。諸々の心心所は皆この依を依り所として生じる。諸々の心心所は倶有依を離れては絶対に転じることはない。)
(等無間縁依(開導依)について)
「三には等無間縁依、謂く前滅の意ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、開導根に離れては、必ず起らざるが故に」(『論』第四・十三左)
(三には等無間縁依である。等無間縁依は前滅の意である。諸々の心心所は皆この等無間縁依を依り所として生ずるのである。それは開導依を離れては諸々の心心所は絶対に生起しないからである。)
(三所依についての説明を結ぶ。)
「唯、心心所のみ三の所依を具せるをもって、有所依と名く、所余の法には非ず。」(『論』第四・十三左)
(ただ、心・心所のみが三つの所依を備えるので有所依と名づくのである。他の法は三所依を備えているということはない。)
- 因縁依(種子依)-
「初の種子依において、有るいい是の説を作さく、要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」(『論』第四・十三左)
(初めの種子依について有る人(難陀・最勝子)がこのような説を立てている。必ず種子が滅しおわってから現行の果が生起するのであると。)
-教証-
「種無くして巳に生ぜりと集論に説けるが故に。」(『論』第四・十三左)
(種子生現行の因果異時説を立てる難陀・最勝子が文証(教証)と理証を以て自説の正当性を論証する一段です。)
(種子がなくても、すでに現行が生ずる、と『大乗阿毘達磨集論』巻二に説かれているからである。)
-理証-
「種と芽等とは、倶有に非ざるが故にという。」(『論』第四・十三左)
(種と芽等とは、倶有ではないからである。)
- 護法等の説(正義を述べる) -
第二説、これが四つに分けられて説明されます。)
•(1) 前を破す。(難陀・最勝子の説を論破する。)
•(2) 理を立てる。(護法正義を説明する。)
•(3) 違を破す。(異説を会通する。)
•(4) 正に結す。(正義を結ぶ。)
(1)
「有義は、彼が説くこと、証と為るに成ぜず、彼には後の種を引生(いんしょう)するに依って説けるが故に」(『論』第四・十四右)
(有義(護法等の説)は、彼(難陀・最勝子)が証(『集論』の解釈)として説いていることを以て教証とすることは出来ない。その理由は『集論』には「後の種子を引生しないということによって説いている」ものである。種子生種子において説かれているのであって、種子生現行において説かれているものではないからである。)
(難陀・最勝子の理証を論破する。)
・「種の芽等を生ずるは、勝義に非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)
(種が芽等を生ずるのは、種子生現行の因果関係のような勝義の因果関係ではない。よって勝義の因果関係の例として「種が芽を生ずる」ということを用いる事はできないのである。)
・「種滅して芽生ずというは、極成(ごくじょう)せるに非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)
(種が滅して芽が生まれるということは、一般に認められていることではないからである。)
・「焔と炷(しゅ)とは同時にして互いに因となる故に』(『論』第四・十四)
(焔と炷とは同時に存在して相互に因となるからである。)
(勝義の因果関係が述べられます。)
「然も種の自類の因と果とは、倶に非ず、種と現との相生は、決定して倶有なり。」(『論』)第四・十四右)
(種子の自類相生(じるいそうしょう)の因と果とは倶に存在しない。しかし種子と現行の相生の因と果は必ず倶に存在する。)
「故に瑜伽に説かく、無常の法いい他性が與に因と為る。亦は後念の自性が與に因と為るという。是れ因縁の義なり」(『論』第四・十四右)
(種子生現行が同時因果であるとどうしていえるのか、ということを論拠を引いて論証する。-故に『瑜伽論』巻五に説かれる、「無常の法(種子)は他性(現行法)の為に因と為る」という。または「後念の自性の為に因と為る」(前念の種子が後念の種子の為に因と為る)という。これらは因縁の義である。つまり種子がすべて親因縁(直接の因縁)である。)
「自性という言は、種子の自類の前のを後のが因と為るということを顕す。他性という言は種と現行との互に因と為る義を顕す」(『論』第四・十四右)
(「無常の法は無常の法の因と為るといえども、然も他性の與に因と為る。」という『瑜伽論』の文は『論』には「無常の法は他性のために因となる」といい、「亦後の自性の與にも因と為れども、即ち此の刹那には非ず。」という文は「後念の自性のために因となる」と述べ、「この刹那ではない」という一文は省略され、「後念の自性のために因となる」ということは、種子が自類において前の種子が後の種子の因となることを示している。種子そのものを自性と述べている。つまり種子生種子を述べているのであり、種子生種子は異時因果であることを述べています。)
「摂大乗論に亦是の説を作さく、蔵識と染法とは、互に因縁と為ること、猶束蘆(そくろ)の倶時にして有るが如しといえり。」(『論』第四・十四左)
(『摂大乗論』にまたこのような説が述べられている。第八識と七転識とは、互いに因縁と為ることは、あたかも多くの葦が束ねられて、相互によりあって同時に立っているようなものである、と。)
文献
「阿頼耶識と彼の雑染の諸法とは同時に更に互に因と為る、云何が見るべし。譬ば明灯の焔と炷は生じ焼くこと同時に更互なり。又蘆束は互に相依り持って同時に不倒なり。まさに此の中更互に因と為るを観ず、道理亦爾らず。阿頼耶識は雑染の為に諸法の因となるが如し。雑染の諸法も亦阿頼耶識の因と為る。」(『無性摂論』大正31・388a18~21)
(ア-ラヤ識が汚染の種子と同時に互に原因となるというのは、どのようなことか。たとえば、燈の炎と燈の柱は発生し、燃焼して、同時に互に原因となるようなものである。また、葦の束が同時に互に支えあうのでずっと立っていることができるようなものである。本識と能動的な薫習とが互いに原因となる、という意味もまたそのようなものだと知るべきである。識が汚染された存在の原因となるように、汚染された存在は識の原因となる。なぜそう言えるのか。この二つの存在を離れて他の諸存在の原因は見い出しえないからである。)
「又説かく、種子と果とは、必ず倶なりという、故に種子の依は、定んで前後には非ず。」(『論』第四・十四左)
(又、『摂論』無性釈に説かれている。「種子と果(現行)とは、必ず倶である」という。そうであるから、種子の依(種子依=因縁依)は必ず前後ではない、同時なのである。=果倶有)
「設い有る処に、種と果と前後なりと説けるは応に知るべし、皆な是れ随転理門なり。」(『論』第四・十四左)
(たとえある処に、種子と現行(果)とは前後の関係であると説かれているのは、すべて随転理門によって説かれているのである。)
「是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依あり。」(『論』第四・十四左)
(このように八識と諸の心所とには、必ずそれぞれに種子の所依がある。)
「諸の心・心所をば皆有所依という、然も彼の所依に総じて三種あり。」(『論』第四・十三右)
(諸々の心・心所をみな(すべて)有所依という。そして心心所の所依には三種がある。)
・ 心・心所がそなえている三条件(有行相・有所依・有所縁)の一つです。
(所依の体について、初め因縁依(種子依)について説明する。)
「一には因縁依、謂く自の種子ぞ、諸の有為法は、皆此の依に託す、自の因縁に離れては、必ず生ぜざるが故に」(『論』第四・十三右)
(一には因縁依、自らの種子のことである。諸々の有為法は、すべてこの因縁依を依り所として生じるのである。諸々の有為法は自らの因縁を離れては絶対に生じることはない。)
(増上縁依(倶有依)について)
「二には増上縁依、謂く内の六処ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、倶有根に離れては、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・十三左)
(二には増上縁依である。それは内の六処(眼根等の六根)である。諸々の心心所は皆この依を依り所として生じる。諸々の心心所は倶有依を離れては絶対に転じることはない。)
(等無間縁依(開導依)について)
「三には等無間縁依、謂く前滅の意ぞ、諸の心心所は、皆此の依に託す、開導根に離れては、必ず起らざるが故に」(『論』第四・十三左)
(三には等無間縁依である。等無間縁依は前滅の意である。諸々の心心所は皆この等無間縁依を依り所として生ずるのである。それは開導依を離れては諸々の心心所は絶対に生起しないからである。)
(三所依についての説明を結ぶ。)
「唯、心心所のみ三の所依を具せるをもって、有所依と名く、所余の法には非ず。」(『論』第四・十三左)
(ただ、心・心所のみが三つの所依を備えるので有所依と名づくのである。他の法は三所依を備えているということはない。)
- 因縁依(種子依)-
「初の種子依において、有るいい是の説を作さく、要ず種いい滅し巳って現の果方に生ず。」(『論』第四・十三左)
(初めの種子依について有る人(難陀・最勝子)がこのような説を立てている。必ず種子が滅しおわってから現行の果が生起するのであると。)
-教証-
「種無くして巳に生ぜりと集論に説けるが故に。」(『論』第四・十三左)
(種子生現行の因果異時説を立てる難陀・最勝子が文証(教証)と理証を以て自説の正当性を論証する一段です。)
(種子がなくても、すでに現行が生ずる、と『大乗阿毘達磨集論』巻二に説かれているからである。)
-理証-
「種と芽等とは、倶有に非ざるが故にという。」(『論』第四・十三左)
(種と芽等とは、倶有ではないからである。)
- 護法等の説(正義を述べる) -
第二説、これが四つに分けられて説明されます。)
•(1) 前を破す。(難陀・最勝子の説を論破する。)
•(2) 理を立てる。(護法正義を説明する。)
•(3) 違を破す。(異説を会通する。)
•(4) 正に結す。(正義を結ぶ。)
(1)
「有義は、彼が説くこと、証と為るに成ぜず、彼には後の種を引生(いんしょう)するに依って説けるが故に」(『論』第四・十四右)
(有義(護法等の説)は、彼(難陀・最勝子)が証(『集論』の解釈)として説いていることを以て教証とすることは出来ない。その理由は『集論』には「後の種子を引生しないということによって説いている」ものである。種子生種子において説かれているのであって、種子生現行において説かれているものではないからである。)
(難陀・最勝子の理証を論破する。)
・「種の芽等を生ずるは、勝義に非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)
(種が芽等を生ずるのは、種子生現行の因果関係のような勝義の因果関係ではない。よって勝義の因果関係の例として「種が芽を生ずる」ということを用いる事はできないのである。)
・「種滅して芽生ずというは、極成(ごくじょう)せるに非ざるが故に。」(『論』第四・十四右)
(種が滅して芽が生まれるということは、一般に認められていることではないからである。)
・「焔と炷(しゅ)とは同時にして互いに因となる故に』(『論』第四・十四)
(焔と炷とは同時に存在して相互に因となるからである。)
(勝義の因果関係が述べられます。)
「然も種の自類の因と果とは、倶に非ず、種と現との相生は、決定して倶有なり。」(『論』)第四・十四右)
(種子の自類相生(じるいそうしょう)の因と果とは倶に存在しない。しかし種子と現行の相生の因と果は必ず倶に存在する。)
「故に瑜伽に説かく、無常の法いい他性が與に因と為る。亦は後念の自性が與に因と為るという。是れ因縁の義なり」(『論』第四・十四右)
(種子生現行が同時因果であるとどうしていえるのか、ということを論拠を引いて論証する。-故に『瑜伽論』巻五に説かれる、「無常の法(種子)は他性(現行法)の為に因と為る」という。または「後念の自性の為に因と為る」(前念の種子が後念の種子の為に因と為る)という。これらは因縁の義である。つまり種子がすべて親因縁(直接の因縁)である。)
「自性という言は、種子の自類の前のを後のが因と為るということを顕す。他性という言は種と現行との互に因と為る義を顕す」(『論』第四・十四右)
(「無常の法は無常の法の因と為るといえども、然も他性の與に因と為る。」という『瑜伽論』の文は『論』には「無常の法は他性のために因となる」といい、「亦後の自性の與にも因と為れども、即ち此の刹那には非ず。」という文は「後念の自性のために因となる」と述べ、「この刹那ではない」という一文は省略され、「後念の自性のために因となる」ということは、種子が自類において前の種子が後の種子の因となることを示している。種子そのものを自性と述べている。つまり種子生種子を述べているのであり、種子生種子は異時因果であることを述べています。)
「摂大乗論に亦是の説を作さく、蔵識と染法とは、互に因縁と為ること、猶束蘆(そくろ)の倶時にして有るが如しといえり。」(『論』第四・十四左)
(『摂大乗論』にまたこのような説が述べられている。第八識と七転識とは、互いに因縁と為ることは、あたかも多くの葦が束ねられて、相互によりあって同時に立っているようなものである、と。)
文献
「阿頼耶識と彼の雑染の諸法とは同時に更に互に因と為る、云何が見るべし。譬ば明灯の焔と炷は生じ焼くこと同時に更互なり。又蘆束は互に相依り持って同時に不倒なり。まさに此の中更互に因と為るを観ず、道理亦爾らず。阿頼耶識は雑染の為に諸法の因となるが如し。雑染の諸法も亦阿頼耶識の因と為る。」(『無性摂論』大正31・388a18~21)
(ア-ラヤ識が汚染の種子と同時に互に原因となるというのは、どのようなことか。たとえば、燈の炎と燈の柱は発生し、燃焼して、同時に互に原因となるようなものである。また、葦の束が同時に互に支えあうのでずっと立っていることができるようなものである。本識と能動的な薫習とが互いに原因となる、という意味もまたそのようなものだと知るべきである。識が汚染された存在の原因となるように、汚染された存在は識の原因となる。なぜそう言えるのか。この二つの存在を離れて他の諸存在の原因は見い出しえないからである。)
「又説かく、種子と果とは、必ず倶なりという、故に種子の依は、定んで前後には非ず。」(『論』第四・十四左)
(又、『摂論』無性釈に説かれている。「種子と果(現行)とは、必ず倶である」という。そうであるから、種子の依(種子依=因縁依)は必ず前後ではない、同時なのである。=果倶有)
「設い有る処に、種と果と前後なりと説けるは応に知るべし、皆な是れ随転理門なり。」(『論』第四・十四左)
(たとえある処に、種子と現行(果)とは前後の関係であると説かれているのは、すべて随転理門によって説かれているのである。)
「是の如く八識と及び諸の心所とは、定めて各別に種子の所依あり。」(『論』第四・十四左)
(このように八識と諸の心所とには、必ずそれぞれに種子の所依がある。)