唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

蟪蛄不識春秋、伊虫豈知朱陽之節

2013-07-06 10:43:33 | 信心について

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 「蟪蛄不識春秋(蟪蛄春秋を識らず)、伊虫豈知朱陽之節(伊虫豈に朱陽の節を知らん乎と)」

 今夏、蝉の第一声も聞かれ始めました、「いよいよ茹だるような暑さが本番となりますよ」という蝉からのメッセージですね

 蟪蛄不識春秋というのは、荘子の「逍遥に遊ぶ」の中の文章だったんですね?、意味としては、夏蝉は春秋を知らない。伊虫(こうろぎ)は真夏の季節を知っていようか、豈、自分の住んでいる季節をも知らないのではないのか、知ることもないであろうという自分の存在の意味をも知らないという喩なのですね。

 実は、松本曜一先生が、瑞興寺の報恩講で語られメッセージだったんですが、僕はこの言葉は幾度となく聞いていたはずだったのですが、本当は聞いていなかったんですね。ブログの中で、安田理深先生の『自己に背くもの』を紹介させていただいているのですが、「虚妄と実相」という中でこの問題を語られています(2011年12月11日のブログを参考にしてください)。

 三在釈の中で語られている譬えなのですが、出典は『浄土論註』巻上・八番問答ですね。親鸞聖人も『教行信証』信巻に引用されています、大切な言葉です。(真宗聖典p275)

 安田先生は、「八番問答」を締めくくるにあたって、「ひぐらしは、夏生まれて夏死んでしまう。蜩は春秋を知らず、従って夏も知らない。夏といっているのは人間である。十念もわれわれは知らない。十念は仏の知っていることである。」と教えられています。詳細はブログを開いていただいて、報恩講で語られたメッセージ、松本先生が私たちに何を語られようとしたのかを一考していただければいいなと思います。少しでかけます。 


「真宗におけるボランテイヤについて」の試論 (2)

2013-06-13 22:19:45 | 信心について

 親鸞聖人の姿勢は、一貫して機法二種深信によって貫かれています。私たちはややもすれば、二種深信の一方だけを見て、私から出る善行は、雑毒の善であり、虚仮不実の行である。如来廻向の行信に、自分から進んで行く意味合いはないのではないのか、という機風が漂っているように思えます。
 意識が意識として活動する時、必ず意識と倶に活動する心所(遍行)があるといわれています。それは、触・作意・受・想・思といわれるものですが、最後の思ですね。大変大事な箇所ですので少し述べます。「思と云うは謂く心をして造作せしむるを以て性と為し、善法等に於て心を役するを以て業と為す」と云われています。思は行動を起こす意思作用なのです。行為を為す、行動を起こすことの一番最初に思の心所が働いているということなのです。これは単に認識作用というより、私たちが何かを為す、行動を起こす時に意思作用が働いている、この作用を制御させるということは意に反することなのです。親鸞聖人は、『歎異抄』第十三条に「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」と、自力の執心を否定されています。執着心を自力として押さえられていますね。意思作用は善でも悪でもない無記性なのです。この意思作用を雑毒であり、虚仮であるとするなら、私たちには生きる術はすべて否定されてしまいます。意思作用により、悪戦苦闘の歴史が「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。」と。意志と行為の戦いの中で、「そこに困っている人が有れば助けなければならない」という精神が育まれ、豊かな精神風土が築かれていくのでしょう。ですから、私たちは行動の中から、親鸞聖人の生き様を学び、聖典に耳を傾けなければならないのでしょう。行動を起こしさえすればよいというわけではないのです。行動は果なのです。行動を起こさせる因が、命と倶に働いている、そこに「聞法」の意義があるのではないでしょうか。そうする時、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と頷けるのではないですか。私たちの一挙手一投足が業縁である、執着すべき何物もないと頷けるのです。


「真宗におけるボランテイヤについて」の試論

2013-06-13 00:51:21 | 信心について

 試論に入る前に、善は何故大切な行為なのかを探ってまいります。
 善は私たちにとって大切な行為ですが、善の本質を知っておかなければなりません。本来、善は、涅槃に向かう道なんです。涅槃はニルバーナといい煩悩が滅した状態を指します。煩悩は私たちを悩ませ苦しめますから、涅槃は私たちが本来求めている世界なのだと思います。その世界を彼岸ともいいます。彼岸を拠り所にした生活が一番望ましい在り方なのではないでしょうか。ではどのようにしたら彼岸を拠り所に出来るのでしょう。それが「善」なのです。善は浄らかな心です。善の心に付随する法(心所有法)の一番最初に「信」が挙げられています。『正信偈』に「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり」(源空章・真聖P207)と述べておいでになります。「信」の定義は龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は信をもって能入と為し、智を態度と為す」と記されています。信は智と密接不可分の関係で捉えられています。親鸞聖人ははっきりと生死輪転の家は、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界と押さえておいでになります。これは仏法に疑いを持っていることから引き起こされる世界であるということです。そして涅槃を寂静無為の楽と、心澄浄の世界であると云われています。『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに(機の深信)、ただ念仏のみぞまことにておわします(法の深信)」と真実信心のみが「生死いづべき道」として指し示しておられます。唯識では第七末那識が我執(自我意識)として第八阿頼耶識に執着すると言われているのですが、その末那識に出世の末那といわれる働きがあるといわれています。無染汚の末那・已転依の末那ともいわれます。「審らかに無我の相を思量す」と、末那識は自分だけのことを思量するといわれているなかで、それだけではない無我という真理を認めているのです。これによって末那識が転依することが可能となるのです。そして「信」は「心をして浄ならしむを以って性と為し、不信を対治して善を楽ふを以って業と為す」といわれ、信によって心が浄くなることをいわれているのです。こころが浄くなるということは無我・無漏の智慧ですから自分のことがはっきりと見えるのです。「自己とは何ぞや」に答えてあるのですね。自覚・自らに覚めることを以って信を語らなければ、何を信ずるのかがはっきりしなくなります。信は不信というエゴイズムを払拭するものなのです。古代インド、唯識の行者は瞑想の中から人間の奥深くに横たわっている意識を発見したのでした。私たちが悩んだり、苦しんだり、争いを引き起こす原因は自分の中にあると見いだしのです。それが自我意識の発見です。限りなく自分に執着する意識です。また唯識の行者は自我意識を超える方法も見いだしたのです。理論ではなく瞑想の中から「善」も行い得る意識をも見いだしたのです。それが「出世の末那」といわれるものです。私は、大胆に「仏性」と位置付けしたいのです。そして清沢満之師がいわれる宗教的要求、「人身の至奥より出る至誠の要求」が「善」に向かわすのではないかと思うのです。全ての人が持っている本能です。これを「一切の衆生は悉く仏性あり」といわれる所以ではないかと思います。私たちは今は眠った状態かもしれないが、必ず目覚めを待つ存在である、といえます。親鸞聖人は仏性について「信心仏性」といわれます。「信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり」(浄土和讃)「信」が心澄浄といわれるこのは、そこにはエゴイズムがはいる余地がないからです。『成唯識論』には「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治し善を楽うを以って業と為す」と言われているのです。私の中には不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような,さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。その入り口が「信」なのです。「信」は生きて働いているものであり、信があってはじめて一歩一歩、私たちの生活の歩みが始まるのです。善の心所でいわれる「信」は仏教に入る入口といえましょうか。親鸞聖人の他力回向の信心と言いましてもその入り口は、親鸞聖人が歩まれた仏道、浄土真宗を信ずることから始まります。信ずることなく信心の獲得はありえません。信心獲得の徴が「すでにあたえられてあった」という恩徳なのです。話は元に戻りますが、仏教でいう「信」は「チッタ・プラサーダ」といいます。チッタは「心」・プラサーダは「澄む」という意味を持っています。仏教を信ずるということで、心が澄むといわれているのです。心の浄らかさですね。信ずるということは信心という意味なのです。仏を信じ・仏教を信じ・仏法を信じる、ということです。なぜ信じるのかということは「この現前の境遇に落在する」ことができるからである。そして深信自身・深く自身を信ずることができるということなのです。そうとしたならどうなるのかといいますと「豊かな人生をいただく」ということになり、空しくすぐることのない日々が約束されるということなのです。仏教では「現生正定聚」・「現生不退」といいます。私たち日常の「信」はどのようなものなのでしょうか。「信頼」とか「信用」という意味で使用しています。英語で言う「Belief」ですね。この言葉は人間関係において使われます。「私は~を信用する」とか「私は~を信頼している」という時に使います。この「信」は、私は日常の信の二重構造と言っています。いつでも「私は裏切られた」「信頼していたのは間違いだった」という裏構造が隠されているからです。いつでも「私が」という主語がつくのです。いわゆる自己中心の物の考え方です。簡単にいえば日常で使う「信」はBeliefです。人間関係に於いて使っています。信仰とか信心という宗教に関しての「信」とは違うのです。これははっきりしておかなくてはならないと思います。信心とは依頼心ではないのです。依頼する時は何かを期待するわけです。信頼も人間関係にとっては大切な要素ですし、これなくして社会は成り立ちません。しかし信頼も時に裏切られることがあります。また裏切る時もあります。これが世間なのでしょう。「世間虚仮・唯仏是真」とは聖徳太子のお言葉ですが、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と『歎異抄』(真聖P640)に述べておいでになります。世間は信頼関係で維持されているのです。その信頼関係は二重構造に成っているということです。緊張関係で成り立っているといってもよいのではないかと思います。ですからいつも心が解き放たれない、「疲れたなぁ」という状態が続いていきます。信頼という重荷を背負っている限り、心休まるということはないのでしょう。何故そのようなことになるのかといいますと、「道理」を主にしていないからです。道理とは「法」です。法則といってよいのでしょう。「諸行は無常であり、諸法は無我である」というのが道理ですね。因縁所生の法ともいわれます。縁起によって起こってくるものです。今、私が書き込みをしているのも縁起の理によっているのです。一つでも縁がなければ(条件が整わなければ)、書き込みをすることはできません。私が今何かをしているということはすべての条件が整っているということなのです。「宗教」は利用するべきものではないのです。よく聞く話ですが「信心のおかげで病気が完治した」ということ、このようなことは宗教でも何でもないのです。ただの give and take です。「ご都合主義」といってよいのではないでしょうか。世間の闇とはこのようなもでしょうか。宗教は「~のためのあるものではない」のですね。 religion という言葉を使うのですが信仰というときには、faith (キリスト教をさします)という言葉を使うのですね。神を信じ仰ぐということです。この原点は罪という問題を孕んでいると思います。罪というのは自他の分別を持ってしまったということです。そこに神の許しを願うという信仰が起こってくる所以があるように思います。仏教も罪ということを言いますが、自覚において認識するのです。それが「信」です。道理に背いてしか生きていけない存在(反逆者)であるという、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」の自覚です。この自覚が心を豊かにし、心を浄化する働きをするのでしょう。
自他を分別することは駄目なのではないのです。私たちは分別してしか生きていけないのですから分別が駄目だと言ってしまえばどのように生活をしたよいのかわからなくなります。自己中心的に他を支配するあり方が迷いを生む根源であるといっているのです。信頼は人間関係にとっては大切な社会生活を成り立たせるうえでなくてはならないものです。信頼関係なくして私たちの世界は成り立ちません。これも私益・国益のためにということであったら結局は核の問題・環境の問題・平和の問題についても、対立を深めることになります。社会にとっていかに信頼が重要であるということが、イギリスのレガタム研究所が発表した「繁栄指標」を見ても明らかです。「信頼できる人間関係と堅固なコミュニテイー」が必要であると定義しています。日本はこれが手薄であると指摘しているのです。地域の付き合いや連帯が濃いと政治が活性化し、信頼を通じて経済活動も効率的になる。とも指摘しています。このような指摘を受け私たちはどのようにして信頼関係を築いていくのかが課題となります。仏教はこのテーマに仏智という形で応えてきているのです。分別や信頼も真の智慧がなければ我他彼此になり、我を満足させようとするエゴイズムになってしまうのです。仏教では真の智慧のことを無分別智といいます。真理を見る心の働きです。「諸法は無我であり、諸行は無常であり、涅槃は寂静であり、一切は苦である」とは仏陀釈尊が見出された真理なのです。唯識の行者は「唯識無境」といい、ただ識という働きだけがあって、境という外界・環境世界は存在しないと指摘しました。要するに自分の外に他者という実体的な存在はないという真理を提言したのです。この智慧が根底にあって、はじめて分別や信頼が生き生きと輝きを見せるのではないでしょうか。人間存在の根拠となるものが仏智なのです。「仏智うたがうつみふかし/この心おもいしるならば/くゆるこころをむねとして/仏智の不思議をたのむべし」と親鸞聖人は私たちの仏智を疑うことの罪について述べておいでになります。自力の心を頼みにして善本・徳本を修する仏智疑惑の罪に楔をうちこまれたのです。また仏智を疑惑することの罪は智慧もなく、三宝を見聞しないため有情利益はできないのだ、と指摘されています。私たちは他者を利用するという関係ではなく、他者によって「支えられている命」の事実に目を開くべきだはないでしょうか。私はいつも「支えられてある命」の恩徳を忘れ、自分が生きていると思っています。誰にも迷惑をかけず、私は私の力で生きているのだと自負しているのです。そうとしたのなら満足をして生活をしているのかといえば愚痴や不満といった、やるせなさを伴った生活をしているのです。これは「支えられてある命」に反逆している相であると思うのです。反逆者の自覚が慚愧を生み出してきます。この慚愧が非常に大切な心のあり方なのです。「慚」というのは「自と法との力に依って賢・善を崇重する」「自」とは自身、「法」とは仏の教え。私たちの中にある善を求める心と仏の教えに依って恥を知るということです。「慚」も「愧」も恥じること、という意味です。「愧」というのは「世間の力に依って暴悪を軽拒する」「世間の力」とは世間体です。世間の人は自分の事をどのように見ているのか、よく見せたいという力に依るわけです。自己の問題と、世間体とに依って悪行を止息する、悪いことをしない、そして乱暴な行いや、軽はずみなことはしないということになるわけです。自己の内面に依って「慚」、自己の外面に依って「愧」、ともに恥じる心です。これが人として人を継続していく力になるわけです。その逆が無慚無愧で「人と為せず」といわれる所以なのです。「大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。乃至 王の言うところのごとし。(『涅槃経』・真聖P257)
愚かでない心とは事と理を深く理解することによって生まれてくるといわれています。私たちが迷っているのには理由があるのです。迷わないということは諸法は縁起であること、そして世界は実体的にあるのではなく私の六識によって捉えられたものである、ということを如実に知ることであるのですね。不如実が迷いを生むのです。ただ単に迷っているわけではないのです。愚癡の癡はおろかという意味です。痴の旧字体ですね。?(やまいだれ)の中に疑が入っています。これはじっと立ち止まってためらうという意味だそうです。物事にうまく対応できない病気で、おろかの意味を表す。ということなんですね。愚痴は、事と理に明らかでないということが引き起こしてくる病気ということになりましょうか。迷うには迷うだけの理由があるのですね。縁起の理に迷っているわけです。縁に依って変化する、刻々と変化する様を「恒に転ずること暴流の如し」といわれます。瞬時に変化しているのです。そして世界を実体的に固定化して捉えてしまうのです。私が生きている。私が捉えた世界という認識です。一人一人の世界なのですね。私が生きているということは身と環境をもっているということでしょう。身と環境を持っているということは公のものなのですが、私たちはいつの間にか私有化して、私のものであると執着を起こしているのです。身をもっているという事は根ある身ということです。ただ身体ということではないのでしょう。世界(環境)も私との関わりに於いて有るのですが、私の外に実体的に有ると錯覚しているのです。事実は私の意識が捉えた世界なのですね。命は私と共に歩みつづけるものであって、私の自由になるものではないのです。命根といって「根」は非常に強い力を持っていると言われているのです。「根」の原語はindriya(インドリヤ)といい、古代インドの神様であるインドラ神の力強さを形容したものだそうです。私は「根」とはあらゆる働きを持った根元の機能であると位置づけています。命は根によって生命を維持しているのです。にも拘らず私たちは私の命と執着を起こしていますから、愚痴が出てくるのです。私たちが何かを認識する時、何によって認識をしているのでしょうか。まず身体を有しているということですね。感覚器官を有した身です。この身体に於いて認識が成り立ちます。認識は「知られるもの」と「知る心」の二つの領域によって成り立つのですが、「知られるもの」とは対象です。山とか、川とかといった認識されるものです。これを所縁と言います。そして 「知る 心」は認識されるものを知る働きですね。山を見て川という人はいませんね。しかし私が見る山と、他の人が見る山の認識は異なりますでしょう。これはお一人お一人の心の状態や働きが異なるからです。見られる対象は同じ(同一所縁といいます)であっても、それを受け止める私の心はお一人お一人、異なります(不同一行相といいます)でしょう。認識は、このように所縁と行相という二つの領域によって成り立っているということなのです。私たちの認識は無意識の裡におこなわれているのですが、認識は幻想なのか(主観が勝手に描いたもの)、錯覚なのか(ありのままに認識しているのですが誤っている)、ありのまま(主観の受けることのない対象)、の何れかに分類されます。これは深層意識で私の意識にのぼらないうちにまずおこなわれているという事を忘れてはならないと思います。私たちが苦悩している現実は過去からの汚染の行為を積み重ねてきた結果なのですが、深層意識は汚染されていても純粋性を保っているのですね。現実は苦悩しているという問題を抱えているのですが、そのことがそのまま許されてあるという事に私たちの救済が約束されているのです。凡夫が凡夫のままで許されているのですね。そのように、深層意識の主である阿頼耶識は私たちに語りかけているのです。『成唯識論』に「所変を以って自の所縁と為す」という大変有名な言葉が記されています。認識する働きは識の所変(心に変えられたもの・心の働きに依って現れ出されたもの)に由るのであるということです。私が対象に向かって見ているのは、私の心が作り出したものであるということなのです。如実には(ありのまま)見ていないということを教えています。見ているのは自分の心が演出したものなのです。自分の心で捉えた対象しか見れないのです。無意識の中で変為(へんに)したものを見ているのです。そして大事なことは、諸の種子と有根身(執受といいます)についてです。有根身とは身体のことなのですが、押さえかたが厳密ですね「謂く諸の色根と及び根依処となり。この二(種子と身)は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為し安・危と同じくするするが故に。」「執受」は与えられたものを心にしかと受け止めることなのです。ここでは人格にかかわることを謂っています。執は維持することです。受は受け止めることです。人格を維持し、しっかりと受け止めることになります。過去の経験が種子となり、身体に影響を与えるのですね。この二つが深層意識である阿頼耶識と一体となってはたらくのです。安危同一といわれます。安らかなときも、危ないときも一体となって動いていくのです。私たちの意識で「安」は受け止めることが出来るが「危」は嫌うというわけにはいかないのです。ここにも私たちの意識がいかに汚染されているかが伺われます。  (つづく)

FBより転載

 「存在」、英語では beinng 或は existence であるという指摘が正厳寺住職から提起されました。存在すること<wbr></wbr>、他によりかかることなくそれ自体としてあるもの(実存)という<wbr></wbr>意味であるそうですが、唯識は、識は識それ自体で存在する(八識<wbr></wbr>別体)といいます。そして根本識である阿頼耶識は、「摂為自体共<wbr></wbr>同安危」である。安危同一としての存在が実存としての存在を言い<wbr></wbr>当てている、そのことは自体(自証)とは安危同一としての存在を<wbr></wbr>示し、自体が自体をもって自証する。その事実に背いている自体は<wbr></wbr>非実存(not beinng)としての存在、この存在を仮有として押さえられて<wbr></wbr>いるのではないかと思うのです。仮有が仮有として自覚された時に<wbr></wbr>実有としての自己が真の存在者としての名告りをあげくるのではな<wbr></wbr>いでしょうか。それがexistenceとしての存在という意味<wbr></wbr>になるのではないかと思うのですが?


『唯信鈔文意』に聞く (45) 第五講 その(6) 最終講

2011-08-07 18:03:58 | 信心について

     『唯信鈔文意』に聞く (45)

         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「しかし、これが方便なんです。因より果に向かうというのが方便。衆生は、常識的にはこれでないとうなずかんからです。さしあたってまず自分がいま忙しくて、しかも苦しんでおる問題があるんだと。この苦しんでおる問題がどうしたら解けるかという場合に、これは利他では通らんのです。自分の利を求めておるのですから。その場合には、まず自分のこころというものを、こういうふうに持ちかえていくべきだとか、こんな気を起こしていくべきだとか、あるいはこういうふうに朝は早く起きるべきだとか、あるいは仕事の合間には、心を落ちつけるためにお守りをいただくべきだとかというようなことでしょう。

 そういうようなことで、まず自利からはじまるわけです。しかし、それが果たして成り立つのか。そのようなことが成り立つかというわけです。そういうことがどうして成り立つのか。理論的に求められたらですね、理論的には『法華経』にいうところの理論。一乗というところの理論です。一切の諸法はこれみな実相である。あるがままにみな仏なのだという、そういう理論から出せるわけですから、今日の創価学会でも、立正佼成会でもそういう意味においては、極めて大胆にご利益があるというわけです。朝晩、あるいは常日頃題目を唱えるならば、必ずご利益があるのだと。競馬に行っても、競輪に行っても題目を唱えるならば必ずもうかるんだと、こういうのです。そうするともうけたい一心で題目を唱えながら札なり馬券なりを買うんでしょう。やがて題目を唱えながら待っておりますと当たらん。当たらんでも、どうも嘘ではないかと思わんのです。当たらんのが当たり前ですから、別にそういうことはもともと思わんのです。当たったらご利益と喜ぶんです。当たったらご利益。当たらねばもともとで、本人はそう思って買うておるのです。一方でまた、競輪・競馬よりも、たとえば商売などですね、一生懸命にやった結果、商売はうまくいかなんだ、病気は治らなんだというときにはどうするか、というのがあります。けれども理論としては、それは治らないんだと思う方が悪いんだと、ちゃんといえるんです。「治らなんだとお前は思うておるけれども、治っておるんだ」と、こういうんです。「治っとるんだ」と。「でも、治っておりません」。「それは、お前の目から見れば、まだ治ったように見えんだけであって、本当はとうに治ってしもうておるんだ。病気も何もないんだ。それを、お前自身の心の業で、治らんと思うておるだけの話なんだ」と。ちゃんとうまいこといえるのです。「お前の心の業のなせるわざで、病気は治っておるけれども、心の方が苦しんでおるんだ。病気は治っておるんだぞ」と。そういわれたら治っておらんといえなくなってくるんです。「じゃその心の業はどうしたら治りますか」。「それは、これからもっと熱心にやらにゃいかん。もっと会員を増やして来にゃいかん。あと十人増やしてくれば、心の業も治って完全に病気は全快するんだ」と。これは、根本は『法華経』に説くところの諸法実相という原理です。この原理で押しまくるわけです。ですからいつでも迷信の原理になりやすいのです。

 それに対しまして、十七願の方はどこまでも仏力より衆生に働くところの道が仏陀の教えであると。したがってその仏陀の教えというものによって、仏道を我々は自覚できるのである。ここへ自利が出てくるんです。利他によって自利というものが立ってくるという、こういう行き方です。自利によって利他というものを進めるのに対して、利他によって自利が立つ。ですからこの場合の自利は自覚です。自覚というてよろしいのでございます。自覚という言葉ですが、「覚」という字は使わないで「信心」と、こういうふうにいわれております。したがって十七願も十八願も願が二つあると思いますけれども、願は一つなのです。願は一つであるけれども、信心を誓われた願としては、十八願としてお説きになり、それから行を誓われた願としては、十七願としてお説きになったと。なんでも十七願と十八願の二つの願を起こされたというふうに考えてしまった。これは文字の筋道だけを基礎としたからです。それが 「一乗大海の誓願」 という意味でございます。その意味で一乗という言葉は、宗祖は特に聖徳太子の教え、ともうしましても特に聖徳太子が真宗のことを教えられたというような、そういう文字の上で真宗のことを教えられたなどということをいわれるのではないのです。聖徳太子の教えられたことは、ただ残されたもので、書いたものだけでなく、その行積、あるいは仏教を受け取られた相は、やはりこの十七願をもとにして、そして仏教を人々に勧められたのであると、こういうふうにいただかれたわけであります。なにもお書きになったもののなかから、聖徳太子は本願を勧められたんだと言うようなことをおっしゃたわけではありません。『太子和讃』などを見ますと言うと 「聖徳皇のおあわれみに 護持養育たえずして 如来二種の回向に すすめいれしめおわします」  とありますが、別に 「如来二種の回向」 などということを聖徳太子はおっしゃったわけではありません。ありませんが、聖徳太子ご自身そのものが、仏教というものは、利他の教えであるということを自ら身をもって証明せられたのだ、と。こういうふうにご覧になったわけであります。

 いわゆる仏教ともうしますと、釈尊がインドにおいてお説きななった、それが中国・朝鮮・日本と伝わってきたと。こういうふうに考えるのが常識であります。ところが、宗祖によりますというと、十七願によって仏教はひろく伝わったのだという立場です。十七願がなかったならば、仏教というものは、どこにもなかったのだと。新興宗教なり、いろんな宗教となって出てきたけれども、仏教としては出なかったのだ、と。インドにはインドの宗教があり、ヨーロッパにはヨーロッパのキリスト教ありです。南方には回教あり、原始民族には原始民族の宗教ありです。未開の種族の中にもやはりなにがしかの宗教というものがあるのでしょう。そういうものとしてしか、仏教は出なかった。仏教がこの世にあらわれたということは、十七願によってあらわれたのであるということです。聖徳太子が仏教というものを取り上げられて、これを人々に勧められた。自らもこれに基づいて生活をせられたということは、十七願というものによって仏教とぴうものがひろまったからだということでございます。日本に仏教というものがすでに十七願によってあまねくひろまっておったのだ、と。こういう意味でございます。

 「十方世界普流行」 とありますように、十方世界に普く流行しておるというたのは、日本にも聖徳太子によって正しく仏教というものが興ってきたのだ、と。そういうわけですから、和国の教主といわれるわけです。釈尊と同じくご覧になるという。日本の釈尊だというような意味ではないです。日本の仏陀という意味です。釈尊を仏陀というのも、仏教を説かれたから仏陀であって、他のことで仏陀というわけではありません。釈尊は釈尊。偉い方は偉い方です。けれども教主といわれたときには、ちゃんと成仏せられておるということがあるわけでしょう。聖徳太子はやはり成仏せられておるのだという意味があるのです。それでなければ教主とはいわれません。何によって成仏せられたかというと、十七願によって成仏せられたのだ、と。十七願によって仏となって出世せられたのである、と。こういう意味になるわけです。

 そういう意味で 「一乗」 という言葉は、決してそういう経典によって決めたりするのではないのです。 『無量寿経』 というお経だからというのでもなにのです。ただ、この十七願というものがあって一乗ということが、具体的に利他の教えとして証明を受けられるということでございます。十七願がなかったならば、仏教も新興宗教も変わりはないのです。十七願一つあって真実の教と仰せになるのであります。まあ、こういう意味で 「一乗大海」 ということは、非常に大事なことでございますので、少し長くなりましたけれども申し上げておきたかったのであります。 (了)

 次回からは『浄土論註』の八番問答について「自己に背くもの」と題して講義をされました安田理深先生の講義録を学んでいきます。


『唯信鈔文意』に聞く (44) 第五講 その(5)

2011-08-01 23:07:43 | 信心について

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   横堤校下納涼盆踊りが昨日(土曜日)と今日(日曜日)の二日間、横堤小学校校庭で開催されました。振興町会や小・中のPTA、そして先生方の屋台が大いに盛り上がっていました。(お詫び・昨日の書き込みが一日ずれこみました。)

        ―  『唯信鈔文意に聞く』 (44) 第五講 (5)  ―

「昔は、何かというと、まずはじめの説教はこういうような説き出しであったわめです。わたしら子供の頃、無理に説教をさせられた時に、いうことがない。高座に登って何をいうんだと。そうしたら西行法師の話が一番よかろう。話ですからこういうのは覚えられる。西行法師が鳥辺山の麓を通ったら人を焼く煙がみえた。そして、「ああ、今日も人が死んだなあ」というて通りかかった。友達と二人で家に帰った。そうすると、あくる朝、友達のところから知らせが来て、昨夜、うちの主人が死んだ。あの一緒に帰った友達が昨夜にわかに死んでしまったという。世の中の無常というのは計られんものだと驚いて、それから自分もこうしてはいられんと出家をした、というような話をはじめにするわけです。その時分、何で死んだかというようなことは考えなかった。盲腸でもおこしたのか。どうして死んだのか。少し大きくなれば考えたのでしょうけれども、子供のときですから、どう死のうと劫死のうと、こっちが高座の上で十分か二十分、とにかくしゃべっておるだけが精一杯である。そして、子供をけとばして出家をしたというところまでいうて、「ありがたいことにはご当流は妻子をけとばさなくても、『なんまんだぶ』でなんどき死んでも極楽へまいられるのであります」というて下りてくる。それで参っておるひとが満足して、ありがたい、ありがたいと念仏を称えて、そうしてお賽銭を一銭づつおいていったわけです。そういうようなことがあります。

 やはり自利の道です。なんぼ一乗というても、自利を逃してしまったんではだめです。それでは利他をどうするかということになるわけです。自利を成就してから利他なのか。そういうことになったのは権大乗です。自利を成就して利他に入る。まず自分がさとりを開いて、それから衆生利益に赴くのだ、と。

 それから、一乗ともうしますのは、自利利他。自利のままが利他なのだと。こういうのです。これは原理がそういわせるわけです。自利のままが利他なのだと。しかし、自利のままが利他なんだというて、何もしないのですから、利他ということでですね、結局のところは人から施しを受けるだけしかできないいんです。人が施せばつまりそれが利他であるということになってしまうのです。

 ここに、自利と利他ということがいわれるわけでございます。因より果に向かうというときには、衆生より仏へは自利なんです。利他というのはおのずから、それが他の衆生を利益するのに働くというので副産物です。それに対して十七願というのは全く利他。利他が成就しておる。仏より利他が成就した。仏より衆生に向かうところの道であるということをあらわしたのがこの十七願の意義でございます。ですから、因より果に向かうというのは、これを基礎として成り立つ。事理をきめれば自然に副産物になるけれども、本当は利他を基礎として成り立つ。

   (つづく ・ 来週は最終講になります。是非お読みください。)


『唯信鈔文意』に聞く (43) 第五講 その(4)

2011-07-24 17:39:35 | 信心について

P1000440_2  今日も真夏日ですね。ここ鶴見緑地では多くの子供たちが朝早くから水遊びに興じていました。

 暑い暑いと愚痴をこぼしているのは大人だけかもしれません。子供たちは暑さと共存して自然と水遊びを楽しんでいます。

 あるがままの姿、それを南無阿弥陀仏と表現したのでしょうか。南無阿弥陀仏とは言葉ですが言葉を縁として、あるがままの自己に目覚めよという呼びかけを内実としているのでしょう。生きとし生きるものすべて、存在のすべてに呼びかけている如来の名告りですね。

               -    ・    -

       『唯信鈔文意』に聞く (43) 第五講 その(4)

                     蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 ですから、十方の諸仏がみなわが名を称揚・讃嘆しなければ、ほめたたえて、わが名を称えなければさとりを開かないという誓願を立てられたのだと。いつかというたら、いつかわからない。そんなことはいつかわからない。いつかわからん昔である。そうして、その誓願が成就をした、と。いつ成就したかということになりますと、誓願を設けられたときに成就したわけです。

 誓願を設けられて、永劫の修行をして、そして十劫の昔に正覚を成就せられたと、こう説いてあるのですが、それは従因向果に合わせたのです。従因向果に合わせなければ分からんからでしょう。因から果に向かうという、そういう人間の常識に当てはめなければ理解ができませんから、永劫のあいだ修行して、そして弥陀の名号に万善万行を摂めて、一声称えた人に満足が摂まる、成就するということを誓われて、そしてそれが出来上がったのが十劫の昔であると、こういうふうに『大経』に説かれているわけであります。

 これは、従因向果の頭しかないものですから、お説きになるときはそういうふうに説かなければ説明にならないわけです。するとこんどは説明にひっかかるわけです。永劫のあいだ修行をしたということにひっかかったり、それからどういうわけで一声称える念仏に万の徳が摂まるなどということがありうるのか、そういうことが出来るのかというようなことにひっかかったりするのです。いずれも本願にひっかかったわけではない。自分の常識にひっかかっているのです。自分の常識にひっかかるのでございます。常識上で理解しようとして理解できないからひっかかるのです。

 本願が永劫の修業をして成就したということは、何をいおうとするのかといえば、十七願というものを設けられたということが、すなわち名号の成就である、と。つまり「一乗大海」というものが成就しておるということをいわれるのでございます。つまり、仏教というものは、もともと一乗の教えであり、したがって男女貴賎・大小の区別なく、みな等しく成仏するに足る教えなのだということでございます。いまさら人間の常識で考えるような、一を積んで十にして満足するようなものじゃないんです。ですから、十七願から因に向かってくるわけです。因に向かうわけです。因に向かうというのは、いわゆる因は衆生でございます。衆生に向かう。衆生を利するために向かうということを十七願をもってあらわされる。十七願をもって仏教というものの意義をあらわされておるわけです。こちらからですと、因は衆生から仏に向かうんです。衆生から仏に向かうわけでしょう。果は仏果です。そうすればまずここにどうしても自利。どうしてもこれは自利になるわけです。自らさとる。自らの煩悩を解脱する。自ら利する。まず自分を利するということです。そうすれば当然、声聞・縁覚という道に入らざるを得ないのです。人のことをかもうておったら仏道は求められません。西行法師みたいなものです。

 西行法師が無常を感じて出家しようとした。そうしたら妻子がまとわりついた。妻子のことをかわいそうと思ったら出家なんかできやしない。それよりも自分がいま無常を逃れようとする方が大事だ。急いでも無常を逃れねばならんと思うた。妻子をけとばして出家をしたというわけです。

                     (つづく)


祝日雑感 「提言」  原発を考える

2011-07-18 12:21:50 | 信心について

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 地元の夏祭りのクライマックスを飾るだんじり競演が昨夜鶴見神社前の車道で繰り広げられました。

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 古くは五穀豊穣を祈願し、民の平安を祈る日本独自の風習ではあったようですが、そのなごりを地元の地車保存会の人たちが今にその伝統を伝えています。

 日本は農耕民族ですから、夏の風物詩として全国で神を讃え、秋の収穫が豊かであり、民が元気で平安に暮らせるように祈願したのでありましょう。

 今、日本列島は原発問題で揺れていますが、その問題提起の視点は今の生活が維持できるのか、あるいは原発無しでは企業は海外に拠点を移行せざるを得ない状況になるのではないのか、その結果国内が空洞化になるのではないかという不安ですね。この問題の視点が人が人として生きるという原点を忘れているように思えてなりません。夏祭りから教えられることは、私たちの祖先は大地と共に生きてきたのだということです。そこから自然と共生し、自然から教えられ、自然に感謝してきたのです。そして「今」、私たちは大地と共にという大地性という私たちの居場所を忘れ去ってしまっている、ということなのではないでしょうか。

 1986年4月26日午前1時23分、ウクライナの首都キエフから北約150キロの同原発4号炉が、出力調整実験中に大爆発を起こしました。いわゆるチェルノブイリ原子力発電所事故です。二週間の火災で大気中に放出された放射性物質は、広島・長崎の原爆で放出された量の二百倍とみられ、風に乗り旧ソ連から欧州全域にまで達し、被爆者は五百万人といわれました。そして「死の灰」の十年として1996年4月27日~29日まで中日新聞に検証記事が掲載されています。またチェルノブイリからもんじゅへという国のエネルギー政策に疑問を呈した記事も掲載されました。その中で、「過去のプルトニュウム被害の実態がまだ解明されきっていないのに、今度は安全性が世界のどこでも実証されていない高速増殖炉の建設。ここが第二の チェルノブイリになる恐れもある。」と警告をしていました。何故、教訓が生かせず、事実を隠蔽してきた背景には国家主義、もしくは大国ロシア復活をもとめる国論の高まりがありました。その結果新原発計画を宣言したのです。福島原発についても情報の開示が国民に伝わってきません。このことはすでに「事故についてなんお情報もなかったからなの。一年くらいして突然、息子はおかしくなった。覚えたことばも、すべて失った。」と、原発から南西に百四十キロのジトーミル市で四十二歳の女性は語っているということです。原発事故の恐ろしさはすべてを破壊するということ、そしてその影響が半永久的に残るということです。原発事故から十年経過したチェルノブイリ十キロ圏内の放射線量は通常0.1マイクロシーベルトの百倍を超える10マイクロシーベルト超だということです。

 秘密主義ということはなにもロシアに限ったことではありません。中日新聞には「 チェルノブイリ事故から十年を目前に起きた動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の高速増殖炉「もんじゅ」の事故。地元・福井県や関係市町村への連絡は一時間も遅れた。そして、事故現場のビデオ隠しや改ざん。原子力開発に付きまとう「秘密主義」を浮き彫りにした。」と記されています。そして当時の橋本首相は「原子力安全サミット」において「原子力利用には公開性と透明性が重要。もんじゅ事故を機に情報公開の大切さを再認識させられた。」と述べました。しかしこの教訓は全く生かされたてはいません。なお秘密主義は横行しています。これはとりもなおさず、私たちの行き着く場所が鮮明ではなく「豊かになれば幸福がやってくる」という幻想と妄想のなかに身を置いているからですね。一つの欲望が次の欲望を引きずり起こしてくるのです。便利さと快適さを追い求めてきた結果の闇が露呈しているのです。闇がすべてを覆い隠してしまっているのです。私たち一人一人が足元を見つめなをさないといけません。そうでなかったならば、やがて原発容認に動かざるをえないでしょうね。それは「天然ガスも石油もロシアから十分買えない現状では、原発は止められない」というところに落ち着いてしまうのではないでしょうか。日本でもこの当時から「省エネで脱原発を目指すべきだ」という声が高まっていたのです。「低コストより、省エネ対策が急務」だと。しかしその後の対策は、コストと安全性を強調して限りないデメリットを公開してこなかったのです。原子力は人も環境もすべてを破壊するのです。いうなれば、全破壊兵器です。「生命の尊厳」を第一にする人間は原子力の安全性を高める努力をするのではなく、全世界が一丸となって自然エネルギーで共生できる枠組みを作ることを一刻も早く実現し、脱原発を推進し、すべての原子炉を廃炉にすべきなのではないでしょうか。

        「ああ もったいない

         もったいなし

         この手は

         どちらにあはせたものか

         今 日がはいる

         うしろには月がでている」

                  山村暮鳥  「ある時」

                                                          


『唯信鈔文意』に聞く (42) 第五講 その(3)

2011-07-17 15:10:53 | 信心について

B5c0b1e0bad7a4eaa3b1  真夏の風物詩 祇園祭の山鉾巡行が今日の午前九時頃から四条川原町~八坂神社へと繰り広げられました。京都テレビはライブでその様を放映していましたが歴史と優雅さを感じました。ちなみに私の地元も昨日・今日と夏祭りで賑わっており、だんじりの曳きまわしが町内を祭り一色に染めています。午後八時頃からは隣町の鶴見神社とのだんじりの競演が繰り広げられ、一気にボルテージが高まり、今月二十四日からの天神祭りへと夏本番のステージが移行していきます。    

    『唯信鈔文意』に聞く (42) 第五講 その(3)

         - 「一乗大海」 (2) -

                         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「そういうわけで「一乗」ということも、一乗を説いた『法華経』というお経が一乗のお経だと。それを説いていない他のお経は一乗のお経でないんだ、と。浅いお経だ、方便のお経だ、価値の無いお経だ、と。こんなふうに考えられました。つまり「もの」のように考えられるんです。

 で、いま一乗・二乗・三乗というこの見方に対して、十七願を基礎にして一乗といわれたその立場の違いは、これは難しい言葉を使わなければなりませんが、因より果にむかうという立場において、二乗とか、三乗とか、一乗とかいうてきたものであるということです。『法華経』が一乗というのは、やはり因より果に向かう道。この『法華経』を信ずるならば本当のさとりが開かれるんだと。こういう意味では、京都へ行ったら、新幹線に乗れば、終点の東京に着くんだという立場に立った道なのです。これが三乗とか、一乗とか合わせて四乗道と。四乗道によって四乗道の果を得るというわけです。

 いま宗祖のいわれる「一乗大海」というのは、逆で、これは「従果向因」と昔からいうております。果より因に向かう。そういう意味です。果より因に向かうということと、因より果に向かうということは、両者関係がないんじゃないんです。因より果に向かうということはどうして成り立つかといえば、果より因に向かうということを基礎として成り立つわけであります。果より因に向かうという基礎がなかったならば、因より果に向かうということはありえない。ですからここに十七願という意義があるわけです。十七願というのは何かというと、諸仏称名の願。諸仏とは何かというたら、従果向因の道を成就して、仏になられたのが諸仏でございます。いわゆる声聞の道を極め、縁覚の道を極め、それから菩薩の道を極めて等覚、妙覚のさとりを成就せられたのが諸仏です。

 それは、無限の時間というもの、無量の時間というもの、無量劫という間を考えてみれば、いま地球の生命などは一瞬にも足らんわけです。地球上においては、釈迦が仏になった、と。釈迦一仏であるけれども、しかし無量劫という時間を考えたならば、星のまばたきですね。その時間は流星の消える間にも足らんという比較もできるわけです。我々の頭ではちょっと比較もできませんけれども、しかしそういう比較もやはり否定できない。無限ですから。はじめなど探すことのできないほどの遠い遠い昔。それなら地球がいつごろできたかというと、いまの科学者ならば大体地球がいつごろできて、どれくらい経つかということぐらいはおよそ推定します。こんなちっぽけな地球ができるのに、それくらいしか時間がかからなかったのか、というようなものです。ですから、そういう意味で無限の時間の中にどれくらいの生物が、またどれくらいの、こういう地球なり、天体が出来て消え去ったかわkらないという、そういう無限の時間に比べたならば、一瞬のまばたきにも足らんと。それすらも比較できないというほど短い時間だということになれば、諸仏ということも考えることができる。ただし、地球の尺度だけでは考えられんでしょう。月へ行くのに苦労しておるような頭では考えられません。小さな頭では考えられません。それで世界で一番大きな頭と思うておる、あの電算機などを使うてやっておるのです。大きくもなにもないです。あんなもの筮竹(ぜいちく)をふっておるのとかわりないです。 

                           (つづく)

 語句注

  筮竹 - うらないに用いるめどき。五十本で、長さ九寸。上をまるくして天にかたどり、下を四角にして地をかたどる。元はめどはぎの茎で作った、占いの具、後世は竹で作り、筮竹という。


『唯信鈔文意』に聞く (41) 第五講 その(2) 「一乗大海」

2011-07-10 20:20:11 | 信心について
 『唯信鈔文意』に聞く (41)

     第五講 教行証の歴史のもとに その(2) 「一乗大海」

         蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「「一乗大海」ということは、弥陀如来の誓願、特に第十七願に名づけられておるわけであります。一乗ともうしますのは、これは一つの乗り物ということです。一つの乗り物であっても、小さくては駄目ですから、大きな乗り物。仏の教えというのは一つの大きな乗り物である。一切の衆生、男女貴賎、善悪の衆生をわかちなく、罪悪深重のものも、それから大乗の聖人もすべて隔てなく成仏せしめるところの乗り物という意味が、一乗という意味であります。ですから、二乗・三乗に対して「二乗あることなし」と。それで『行巻』には「一乗海釈」というのがあります。そこに「『一乗』は大乗なり」といわれています。「大乗」というのはどういうことかともうしますと、「無辺不断」であると。無辺というのはほとりなし。不断はたえない、と。無辺は無辺の衆生です。無辺の衆生を、ほとりなき生死の衆生というものを救うということであります。不断ともうしますのは、それがたえないと。いわゆる一時的じゃないわけです。いつまでもその利益がたえないということです。

 すなわち大乗とは仏乗である。「二乗・三乗あることなし」と。「ただこれ誓願一仏乗なり」ということをいわれております。あるいは「究竟一乗」という言葉がそこにあったかと思います。この一乗という意味は、大乗ということなのでありますけれども、大乗といいますと、小乗に対することであります。小乗に対する大乗ということになりますと、いわゆる菩薩ですね。声聞・縁覚に対する菩薩乗ということになりますから、それで三乗と。その上に仏乗を加えると四乗となるわけです。四乗道と。それに対してさらに、三乗の中の菩薩乗でもない。三乗を否定した上にさらに仏道としていわれた一乗でもないという意味であります。それが「誓願一仏乗」という表現になります。誓願一仏乗という意味です。これは第十七願、諸仏称名の願という誓願を基礎として述べられるのであります。

 普通は、一乗と申しましたら、『法華経』です。『法華経』が一乗教といわれるものであります。『法華経』は日蓮宗のおはこですけれども、いわゆる「四十余年未顕真実」という言葉ですね。そういうことを盾に取りまして、『法華経』以外はすべて方便、『法華経』だけが真実と。そして内容は火宅の喩「えです。火のついた家の中に子供が遊んでおる。長者が帰ってきて、「早く出よ」という。「火事だから早く出よ」というけれども。子供たちは遊び戯れていて出て来ない。それで、門の外には、羊・鹿・牛の三車ですね。羊と鹿と牛との三つの車があるから、それに乗って遊ぶと、家の中で遊ぶよりもずっとおもしろいというわけです。それを聞いて子供たちがようやく家から出て、もんの外へ出てみたところが、羊・鹿・牛という三つの車はなかったけれども、一つの大きな白い牛の車があった。その車に子供たちがみな乗り込んで、そして広いところへ遊びに出た。そのために火事で焼け死ぬのを免れた。こいう喩です。

 羊・鹿・牛の三車というのが三乗です。声聞・縁覚・菩薩という、三乗の教えに迷うておるものだと。だからそれを捨てて、そして『法華経』という大白牛車ですね。白い牛の車一つにみんなが乗って救われるのが『法華経』である、と。そうすると、ここで昔から三車家・四車家の争いがあるというのです。おなじ『法華経』でも、法相宗の方で、『法華経』というものは、べつに法華宗のお経というわけにいかんわけです。仏の説いた教えを「これは我々のお経だ」なんていうのは、勝手にいうておるんです。いや、これもわが家のお経だと、他のものをいうたっていいわけです。みんな日蓮宗や天台宗とか、法華宗とかいうものだけが『法華経』の専売特許でもあるような気になっておりますけれども、なにも専売特許はどこにもないんです。仏の説いた仏説であったならば、どこの誰が用いてもいいわけです。ですから、その大白牛車というのは、つまり羊・鹿・牛という三つの車のある、その牛車というのがそれなのだと。其れはつまり唯識の教えで、法相の教えである、と。こういうふうに法相家ではいうわけです。そうするとそうじゃない。それを捨てるんだと、別に白い牛の車があるんだと。それを四車家といいましてですね、そういう争いをしておったものだそうであります。

 こういう争いも文字です。文字にこだわるともうしまうか、先程もうしましたように、仏のこころよりも経典の文字を主として見るからでございます。常識的に見たら文字だけがたよりですから、文字に書いてあるということが大事でしょうね。借金の証文のような気になるんです。借金しても証文が書いてなければ払わんでもいいと。そういうときには書いておかんならんわけでしょう。しかし借金したら払わなければならんということがあるならば、別に証文なぞいらんわけです。しかし証文がないと、「いや、あれはいつか払ったはずだ」といわれたら仕方がなくなりますから、一筆かいて確かに借りました、と。書いたものがものをいう。世の中というのは書いたものがものをいう。そういう世の中になりましたから、お経にも書いてあることが、書いてあるということだけがものをいうということになるんです。そうしてお経に書いてあることだけを種にするわけです。書いてあるもの自体がこんどは偽物だとなったら、書いてあることさえ当てにならんのです。これが現代における宗教の問題です。書いてあるから確かなんだと昔はいうておった。書いてあるもの自体が誰かが造ったのであった、本物でないんだというような考えですね。ですからお経というようなことを誰も信用しなくなった。信用しなくなったかわりに人間どうしも信用しあうということがなくなって、証明書類ばかり書かにゃならん、と。問題はつまり、言葉の上、文字に基礎をおいた結果なんです。そういうことがわからないんです。だんだんわからなくなったのです。

 ですから、こういう宗祖の文章もなかなか分かりにくくなった。それは、文章がわからんのでない。こちらの方が書いた言葉の意味だけしか理解しないという、筋書きだけしか理解しないという立場におるからです。したがって小説でも、小説と事実とを混乱して、書いてあるというだけで、小説も事実も一緒にしてしまうわけです。新聞に書いてありさえすれば本当だと思うようになってしまった。新聞に書いてあることは大方嘘なんですけれど、日本中に配られるものですから本当になるんです。あれは大体嘘ばかりなんでしょう。嘘に間違いない証拠には、昨日のことが新聞というてあるのが大体嘘です。済んだことなのです。済んでしまって、もう無いことが有るようにいうてあるのですからね。そういうようなものの上に立っての人間の考えですから、それで仏教も次第に形だけのもになり、人間というものの最も大切なこころという問題を離れていったわけであります。  (つづく)

 


『唯信鈔文意』に聞く (40) 第五講 その(1)真宗の教行証

2011-07-03 17:00:13 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (40)

     第五講 教行証の歴史のもとに その(1)

                 蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「短い偈文の中から、真宗の教行証ということを述べられておられますが、この『文意』の意味であります。したがって文字の解釈ではないわけです。文字の解釈であると思って読みますと大変難しいのであります。文字の解釈は、常識上の理解を目的といたしますので、常識ができるということで目的が達せられるわけです。

 例えてもうしますと、ノーベル文学賞というのが川端康成氏に贈られた。そうすると、川端康成という人はどんなものを書いたかということになります。その場合、日本人でもあまり知らん人が多いわけですが、早速川端康成氏の著書というものが売れるわけでしょう。売れて読んでわかるのは川端康成の文学が分かるんじゃない。書いてある物語の筋書きが分かるわけですね。常識上は。文学となったら、常識の世界では分からない。むしろ常識の世界からいうたらいかがわしいといわれることが、文学という意味では立派なことだというふうにいわれる。まあ姦通というような問題もそうです。常識的には姦通というようなことは立派なことじゃない。文学上は、姦通の文学が立派といわれると、姦通が立派だということになります。これが常識上、認められると、一般にはやることになるでしょうね。そこからよろめきということが流行する。常識というのは大体そうですね。

 それに今一つ加わってくる問題が、仏教などはもとは翻訳ですから、やはり中国の筋書き、中国人の考えに叶うた筋書きでなくちゃならんということになるでしょう。あわないものは理解が出来にくいわけです。日本人には日本人の考える考えに叶うたものが取り入れられる。あわないものは受け入れにくいということになるわけです。それ以外には受け取られる道はもう形でしかない。形は変わったものであるという意味において受け取られるわけです。便利であるとか、変わっておるとか、人の目につくとかそういうことで受け取られるというようなことがあるわけです。それで肝心の仏教そのものは、そういう面からしか理解できないということになります。そういうわけがありますので、中国・日本へ仏教が渡ってきましたとしても、やはりインドからは、そういう経典というもの、「もの」です。仏像なり、そのほかいろいろな生活用具でしょう。あるいは坊さんの生活様式、そういうものが受け取られるわけです。経典そのものは、文字に写さんなりませんから、どういうことなのだということで当てはめられる。ものならば、大体向こうにあるものと、こちらにあるものと同じものならば、すぐ当てはめられるが、向こうにあって、こちらにないものがある。そういう場合には困るわけでしょうね。そういういろんな条件というものがあって、仏教というものが翻訳されるのであります。ですから、文字の上だけで理解せられるというときには、非常にそのこころというものが取り逃がされるのであります。

 こういうわけがありますから、いま宗祖の『文意』というのも、そうしたこころですね。文字の上だけで解釈してしまえば、特別な意味だけになります。特別な範囲のものになります。特別な意味は特別な範囲だけです。

 「来迎」ということが、特別な人の来迎ですね。特別な人のご利益としての来迎です。まあ出家人のなかでも、生活も立派な生活をしておった人が命が終わりになるときに、来迎の利益にあずかるという意味で受け取られることになります。それが称名だけで来迎のご利益にあずかるのだということになりますと、称名ということで広くなるわけです。が、その称名が誰でもそうかというと、こんどは来迎ということが条件になるわけです。来迎があった人が救われるというふうに、来迎は念仏の利益であるのに、かえって来迎の利益によって往生が得られるということですから、念仏は来迎を助けるための助業になるわけです。こういうふうに狭くなります。文字の上から受け取っていけばそうなるわけです。

 ですから、こうした偈文によってあらわされておる仏のこころ、ほとけの教えのこころを述べられたのが、宗祖の言葉になるわけです。そういうことで、ここに「一乗大海」の利益ということを述べられるわけであります。

         (つづく・次回は「一乗大海」のこころです。)