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2週間の上野暮らし

2022-09-15 03:58:19 | 水彩画
   
朝の上野公園

  最初に書き加えることにしました。もう日にちもありませんが。水彩人展でわたしに作品評を聞きたい、と思う方は受付に申し出てください。毎日会場のどこかにいますので。

 石垣島から出てきて、2週間上野で暮らしている。上野の山で暮らしているわけではない。と言ってもうこの意味はいまは伝わらないだろう。戦後家を失って行くところのない人が、上野公園の山の中で沢山暮らしていた。

 上野動物園に行くときには、地下鉄を出てから路上生活者の沢山いる地下道の中を抜けてゆくのが、何となく怖かったものだ。白い服を着た傷痍軍人の募金集めの人も何人も見かけた。今そのころの怖かった気持ちを申し訳なく思っている。

 昼間は東京都美術館にいる。一日中絵のことを語り合っているのだから、これは楽しい。絵はいくら見ても飽きることがない。絵は見れば見るほどにいろいろのことが見えてくる。それはいい絵も悪い絵もない。昨日もパンと瓶たちというなかなかしゃれた絵のなかに、日本酒のびんがあるのを発見した。

 今回佐瀬さんとはずいぶん絵の話ができた。たくさん話せてよかった。佐瀬さんの描く気持ちがだいぶわかってきた。絵の本当のところなど、人にわかるはずもないと誰もが思っている。それでもわからないなりに、意見をぶつけ合うことは重要だと改めて思った。

 大原さんも珍しく自分の絵のことを語ってくれた。なるほどと思うことがいろいろあった。大原さんの絵からずいぶん技術を教えてもらってきたわけなのだが、今回の大原さんの絵からはあまり技術は感じられなかった。それは一歩前進なのか、一歩後退なのか。少し絵が変わり始めているのかもしれない。

 それぞれの人のわたしの絵の批評を聞いていると、実は自分の絵のことを語っているんだと感じることがよくある。人の絵で気になる点は実は自分の絵で、気がかりな点なのかもしれない。絵を描く人は自分の絵の問題をいつも抱えている。この点が評論家の批評とは違う。

 人の絵の批評をするときには、その人の絵が前進できるかもしれないということだけを話すようにしている。人の絵の欠点を探したところで無意味なことだ。できるだけ技術的なことではなく、絵に向かう気持ちのほうのことを話すようにしている。そこまで話せるのは仲間だからだ。

 上野はなかなか面白い。アメ横が特にいい。まるで台湾の夜市に行ったような気になる。台湾に行けない代わりにアメ横をさまよい歩くほかない。2週間の上野暮らしは結構楽しい。毎晩アメ横をぐるぐる回り歩いている。本当は店に入って酒も飲みたいのだが、怖くてそれでができない。情けない。早くコロナよどっかゆけよ。

 アメ横は外国人が極端に増えた。一時上野は町全体が、さびれた雰囲気があったが、今は盛り返した。アジアの上昇エネルギーが上野にはある。数年前まではなんとなく、アメ横に外国勢が割り込んできた感があったが、今はむしろアナーキーな無国籍な空気が、いい雰囲気を醸し出している。

 しかし、多くの店が客引きをしている。これは台湾の夜市ではないことだ。客引きに労力を割かないでも、店でのパフォーマンスが面白ければ人は寄ってゆく。なぜなのか日本では呼び込みでモノを売ろうという商いになる。実は私もそういう物売りをしてきた。

 上野には台湾のお店があってまるで台湾夜市そのままなのだ。ルーローハンが出ている。ルーローハンというのは台湾夜市の定番豚そぼろどんぶりというようなもの。ああ食いたい。と思ったが店に入れないままだ。今日は食べてやるぞ。

 台湾の夜市は人を呼び込むために、目立つような若い女性が店番していることが多い。上野の台湾屋台もまるで同じなのだ。しかし、若い女性は苦手なので近寄れない。ルーローハンは食べてみたい。台湾の味がするのだろうか。

 アラブ系の店も多い。客引きに脅かされているような気になってしまい、どんな料理を出しているのかもよくわからない。店が路上に張り出して路上のテーブル席で食べている。あれはコロナには安全でいい。ここにすわろうかとおもったのだが、いつの間にか、立錐の余地がないという状態だ。

 誰しも考えることは変わらない。楽しそうに盛り上がって飲んでいる。いい雰囲気なのだが、ここにも入れてもらえない。結局、大たこ焼き8個400円に決めて、長い列の後ろについた。20分ぐらいは待っただろうか。なんと、私の前で今日は終わり。終わり、終わり。とニコニコ言われてしまった。

 並んであたりに溶け込んでいられたから、少しも腹は立たなかった。並ぶこと自体が楽しいというのもおかしいがそんなものなのだ。結局もう一軒の並んでないたこ焼き屋で10個680円のところで買って食べた。銀だことは違って脂っぽくなくて悪くない味だった。

 夜はこうして毎晩アジアのお祭り屋台を楽しんでいる。そして昼間は都美術館で水彩人だ。これでは疲れるどころかどんどん元気が出てくる。朝は都美術館まで行く道すがら、上野公園を散策する。これもいいものだ。遠回りしてあちこち歩いてみるのも悪くない。樹木がたくさんあるので、散歩はなかなかいい。

 そして、上野公園の目立たない場所でゆっくりパンとカフェオーレの朝食を食べる。人が足早に通り過ぎてゆく。犬を連れた同じ人たちに毎朝あう。太極拳のような体操をしているグループもある。マラソンランナーも汗を流して走り去る。上野公園を日常の暮らしの延長に使っている人たちがいる。

 そういう中でのんびり朝の時間を過ごしている。早朝の上野公園も悪くない。来年もこんな時間が持てるだろうか。できれば来年の上野暮らしを楽しみたいと思う。毎日美術館に来て疲れませんかなど聞かれるが。まったく疲れるどころか、いい暮らしの休憩になっている。展覧会が終われば、翌日から稲刈りの予定である。

 考えてみれば上野の2週間は全くぜいたくな暮らしだ。農作業でみんなが忙しい中で、上野に旅行に出て来て、昼間は水彩人があって毎日楽んでいる。夜になって、上野の夜市を楽しく徘徊できる。結構面白い上野暮らしである。

 そうだ楽しいことはもう一つあった。毎朝サウナに入れる。サウナのある所に泊まっているから、夜でも朝でもサウナに入れる。サウナに毎日入っている。毎日入っているうちに光アレルギーが治った。汗をどんどかいている内に、汗腺の機能が回復したような感じがする。詰まっていた毒素が汗とともに出てくれたような感じだ。

 汗腺の詰まりが取れたというような感じである。最初のうちは汗が皮膚の外に出れないで水ぶくれができた。どうなるかと思ったのだが、繰り返しているうちに治ってしまった。これはよかった。光アレルギーにはサウナがいい。ということでもないが。

 まあ石垣よりも光が弱いから、治ったというのもあるかもしれないのだが、サウナ効果と思うことにしている。汗腺が大いに使われて修復されたと決めている。これも上野暮らしの恩恵かもしれない。来年もこの上野暮らしができるように健康で頑張りたいものだ。
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石垣島に相次いで台風襲来

2022-09-14 04:17:17 | 楽観農園
 台風12号は石垣島を直撃した。台風が過ぎ去って、のぼたん農園の様子が送られてきたので、写真を使わせてもらいます。写真はわたべさんが送ってくれたものです。 被害もほとんどなかったようでほっとしています。

 水彩人で会う人ごと、石垣島の台風は大丈夫なのかと言われていましたが。この通り大丈夫です。台風報道は被害探してだから、なかなか実際のところは伝わらない。


7番田んぼ。いくらか穂が飛ばされているかもしれません。ここの品種は石垣島の奨励品種ひとめぼれです。あまりがっちりした稲ではないので、ひこばえは少し弱めでした。風の影響はあったと思われます。

 それでも倒されたりはしていないので、大したものです。一目ぼれの様子を見ると、やはり、品種によってひこばえ農法向きのものと、向かない品種があるような気がする。

 
 5番田んぼの様子は台風前とあまり変わりがないように見えます。ここは稲刈りをしたのが最後で、ひこばえはまだ穂を余りつけていませんでした。水がほとんどなかったので、ひこばえの稲はあまり調子がよくはありませんでした。

 水がなくても稲が枯れないことにむしろ驚きました。稲にとって一番良い状態は湿潤土壌だという考え方が体感されました。石垣島の土壌の特性かもしれません。


 8番田んぼマンゲツモチの田んぼここは水がまったく行かない状態が続きました。その上に石が多くて岩盤まであり、土壌がよくないので、状態が悪かった田んぼです。水がとどいたので、これから回復するかもしれません。


 4番田んぼ。ここもあまり水が行かないので、調子はもう一つでした。台風の風では変化はあまりありませんでした。1週間前の台風後に転がしをしてくれました。この後もしかしたらよくなってくるかもしれません。


 3番田んぼはずいぶん実ってきていますが、穂がやられた形跡は見えません。ここは湿潤状態の田んぼでした。ある程度収穫がありそうです。そうなるとひこばえの田んぼの初めての収穫になります。どんな味でしょうか。

 この写真何か台風後の様子が迫ってきます。こうして田んぼ周りの草が残してあることで、かなり風の被害が防げたと思います。これは手抜きではないです。この草が田んぼの稲を守ってくれたのです。


  2番田んぼ。ここも直撃台風に耐えて、穂がついています。この田んぼがひこばえから始まっているとは見えないはずです。とよめきという品種の強さを感じさせます。この後かなり期待できそうです。どうなるのか楽しみです。     
        
 

 1番田んぼハルミの田んぼで、ひ弱なひこばえだった田んぼ。かなり穂がなくなったように見えます。ハルミは石垣島には合わない品種のようです。稲が目立たなくなった状態で、水面が見えるようになって現れてきたのが、アカウキクサと思われます。

 この浮草は石垣島の希少生物です。田んぼに除草剤が使われて、なくなりそうな浮草です。窒素の固定能力が高く。浮草緑肥農法に利用しようと考えています。徐々に広がってきましたが、まだ上のほうの田んぼだけです。

 石垣島崎枝にある、のぼたん農園では40mの強風が吹いたにもかかわらずそれほどの被害がありませんでした。品種によって被害の状態も違うようです。この後どんな変化があるか。これからの農園の稲作法の参考にしてゆくつもりです。

 水牛たちは何もなかったような顔をしています。水牛は台風などなんとも思っていないようです。むしろ水浴びの池に水が溜まって喜んでいるくらいはずです。強風の中平気で草をむしゃむしゃ食べています。豪雨の中、寝そべって反芻しています。

 枯れたヤシの木が倒れたらしいから、それなりの風は吹いたはずです。このレベルの台風で、穂をつけた稲が被害がないとすれば、今後の見通しはかなり良くなったと思われます。ソルゴーは倒されたようです。倒されながら、田んぼを守ってくれたのではないかと思います。また立ち上がってくるソルゴーもあるはずです。

 大豆も草の陰でしのいだようです。土手を作る風対策はかなり効果があるようです。台風もあきらめるのではなく、風対策でやることをやればなんとかなりそうです。こうして、強い台風の直撃にのぼたん農園は耐えました。冒険はまた一歩前進です。
                           
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水彩人展で絵を語る会を開催した

2022-09-13 04:18:08 | 水彩画
   
 
 水彩人展の会場で絵を語る会を開催した。会場で人が密になるのはまずいので、あまり案内もしないままに、開催することにした。一人も参加する人が居なかったらできないけど、まあそんなことはなかろうということで、一番人の少ない月曜日の10時からということにした。

 まず自分が何を語るかということをまとめておく。会場ではここに書いたことを話した。

 4点の絵を出している。大きさは中盤全紙である。最近描いた絵のなかから選択した。最近内部表現というより表現方法にとらわれているきらいがある。言い訳というか、その理由はもう少し先に目標を置いているということにある。今の段階では、水彩の必要な技術を確立しようと考えている。

 記憶の中の風景を描いている。記憶といっても、ぼんやりと霞んだというようなものではない。目の前の風景と同じように鮮明な世界だ。むしろ今目の前に見えている世界よりも明確なような気がする。自分の記憶の中に蓄積されてきた風景である。

 見ているのだけど見ていない風景。記憶の回路に残された風景を描きたい。記憶は勝手に種々選択をしている。記憶したいから記憶しているというより、その人間の中に刻印されてゆくような、根深いものが記憶に残るのではないだろうか。

 目の前にある生々しい現実の風景を見て描いてはいるのだが、記憶の回路を通過させて、自分の中の風景に熟成されてきたものを描きたい。目の前の風景を画面に写すのではなく、画面では自分が記憶の中から選んだ必要とする風景を創作して描きたい。そのほうが自分の世界観を表現できると感じている。

 自分の絵を描くという目的を達成するためには十分な技術がまだない。ああやれればということが水彩画ではよくおこる。できない表現というより、まだわからない多様な技術がある。しかもまだその技術は開発されつくされていないと感じている。やればやるほど、水彩画の技術は未開発だと思えてきた。

 水彩画は日本人の資質によく合っているとは感じているのだが、その日本人の水彩画はまだ確立されたとはいいがたいものがある。日本人の油彩画はあるとおもう。水彩人はその点では水彩画の幅を広げようとしているといえる。水彩人の一員として、水彩画の技術を学びたいと思う。

 自分の絵に至るためにはもう少し水彩画の技術の幅を広げる必要があると感じていることになる。それほど水彩画の表現は幅が広い。岩彩のような表現。テンペラのような表現。油彩のような表現。そしてそのどの技法でもできないような表現が水彩画には存在する。それはまだ誰も水彩画を開発できたとは言えないと考えている。

 記憶の回路を通り抜けた世界を表現することに、水彩画が一番向いていると感じているにもかかわらず、いまだそれが実現できていない。実現できない一番の理由が、その記憶にある独特の状態を十分に表現する技量がないということがある。

 多くの人が自己表現というと、表現主義的に自己表現すると、デクーニングのようなアクションペインティングのような、力仕事になりがちである。それも一方法ではあるのだろうが、それだけでは私は物足りないと感じてしまう。芸術は爆発だというわけにはいかない。芸術は静かな沼の底の世界でもある。

 絵画は総合だと思っている。爆発と沼の底の静寂が総合されている。そうした人間そのもののような世界を表現したい。それが描けない理由は私に技量がないということと、人間にその深みがないからだと思う。人間のほうは修行を続けるほかないが。水彩画の技術を極めるということは努力でできる。

 一日一枚を長く続けている。それをブログで公開している。これが自分の努力である。その先に自分の世界があるのではないかと思っている。精いっぱい絵を描く。それ以外に進む方法はない。技術はいつの間にか身体のものになる。身体のものになっていない技術はまだ技術ではない。身体に身についたものを身体に任せて描く。そこに自分の絵があるかもしれないと思っている。

 もう一つの絵を描くことが、美しいのぼたん農園を作り上げることだと思っている。風景を作るということである。人間が自然にかかわり、美しい景色を作る。その作り続ける景色が、私という人間を作る。景色の中に人間は生きている。

 どちらも好きでやっているのだが、それを力の限り行う。もし自分に時間が与えられているなら、達することができるかもしれないと考えている。たとえ届かないところかもしれないが、行けるところまで精いっぱいやりたいと考えている。
 
 参加者は以前からのの絵を語る会の10名くらいだった。それ以外に掲示を見て参加した一般出品者の方が一名。10時から、12時まで行った。一人12,3分ぐらいだった。それぞれが慣れてきていて、かなり自分の絵を語れるようになった気がした。

 語るということは自分の今の状態を言葉化することである。そのことが自分の絵を再認識することになると考えている。松波さんが反省はしないと、何度も言われていたのは印象に残った。松波さんはいつも自分を壊しながら次に行こうとする。勇気があると思った。

 語る言葉から、多くの人が表現主義的な考えになっているということを感じた。自分の感じていることを絵に表現したいということを言われていた。自分の中にある絵をそのまま出せばそれが自分の絵だ。というような考えのようだった。

 芸術は爆発だという影響か。私は内なる自分など大したことはないと思っている。爆発させたところでどうということはない。だから表現された絵が面白いかどうかは、その人間の絵画の深さと質になる。それぞれでいいことではあるのだが、少し考える必要があると思った。
 
 絵はもう少し科学性のある客観的なものだということ。技術がないものは爆発もできない。岡本太郎はいい例だろう。あの絵の具の付きでは絵とは言えない。爆発するだけの材料がなければ、爆発は人には見えてこない。表現したのだからそれでいいというものではない。やなりその爆発内容が問われる。

 今回の絵を語る会も大いに自己反省になった。爆発もいいけど、内容もな。つまらない自己露呈は絵ではない。ここからが難しいところだが。そのことに気づいただけでも良かった。


 
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石垣島で水牛の放牧成功

2022-09-12 03:59:48 | 楽観農園
 

 大きくなったのぼたんである。のぼたんはもうすぐ竹富島の水牛車を曳くことになりそうだ。のぼたん農園を離れることになる。写真はメンバーのデザイナーアッキーさんのものである。この人の写真はまさに見た通りなのだ。写真だから見たとおりに撮れるわけではない。

 写真よりも絵の方が見たとおりであることもある。しかし、ちゃんと見えている人の写真は見えているように写すわけだ。ここがすごいといつも思う。のぼたん農園の旗はアッキーさんのデザインである。ラインにあげてくれたので使わせてもらった。

 生まれた時弱くて立ち上がれないような危ういあかちゃん水牛だったのが、こんなにたくましく育った。水牛を飼った喜びである。石垣島に来るまでは水牛を飼う事が出来るなど思ってもいなかったのだが、シーラ原に水牛が来てから、もう1年と3ヵ月になる。


 のぼたんは6ヶ月になるのに、まだ授乳している。たぶん150キロ以上もあるのに、最近はどこにいてもよくお乳を飲んでいる。どうも夏で暑くて、のどが渇くので飲んでいるように見える。母親のワカバはノボタンにはなかなか気をつけている。普段は水牛の行動は何でも大雑把に見えるのだが、子供に関しては行き届いている。

 生まれて2カ月ほどはワカバの足元にまとわりついていたのだが、ワカバは人の足を平気で踏みつける。ノボンタンのことを踏んでしまうのではないかと心配でならなかったが、そんなことは間違ってもしない。アッ踏んでしまうと見えても、ちゃんとわかっていて足が踏まないようにそれる。

 人間の足の場合は関係ないとばかり踏みつけてゆくくせに、さすが自分の子供には気を使っている。水牛は大雑把に見えてなかなか繊細な動物だ。牛に比べると、野生動物の本能が強く残っているのだろう。今でも野生の水牛がいるそうだ。余り人間が手をかけるよりも、水牛に従った方が上手く行くようだ。

 

 雨の日は牧草地に出てくる。人が行くと何かあるかと思って出てくることもある。広い牧草地なので、草は当分の間食べつくすことはないだろう。日差しが強い時は奥の林の中に3頭で仲良く寝そべっている。つないでいた時は対抗心がむき出しだったが、序列が出来て以来もめ事がないどころか仲良しに見える。

 水牛は角でぶつかり合い強弱を決める。初めての時はあの体重でぶつかり合うからこれは大ごとだと思ったのだが、その後は2頭で顔の位置を比べる。身体が大きい方が上位という事のようだ。時々比べては納得しているようだ。

 下位のサクラは上位のワカバのお尻に頭を擦り付けて、おせいじを使っている。その内まったく立場が安定して仲良くなった。これなら一緒に牧草地に飼う事が出来て、ずいぶん楽だ。早く放牧の柵を整備してあげなければいけなかった。


 台風が通り過ぎた後の田んぼは特別の問題は起きなかった。最大風速40mぐらいはあったかもしれないが、上手くしのいでくれた。穂がある状態での台風だからどうなるかと思ったが、ほとんど風の被害はなかった。あれこれ風対策をしているのが生きた。

 と思っていたらまた台風12号が来ている。今日明日と石垣島は暴風域である。私が東京のほうに来たら、相次いでの台風である。田んぼが気が気でない。雨が降って水が十分になったのはいいのだが、風で稲が倒されてしまうと、ひこばえが心配だ。

 田んぼの北側に上の田んぼがあり、それが北からの風を防いでいる。東西には防風の為の月桃が植えてあるが、これはまだ役に立つほどには成長していない。今のところ雑草をのばして、防風の役目をしている。一部はソルゴーが風よけになっている。

 写真の田んぼは7番田んぼで、水不足である。それでもひこばえが再生して来て、収穫まで行けそうである。収量は多分少ないと思う。でも普通の2期作ぐらいにはとれる可能性はある。併せれば、畝取りにはなる。何か手間をかけたわけではないのだから、有難いことだ。

 水牛の牧草地が出来て水牛にも手がかからなくなった。これで水道が来れば、水やりも楽になる。今は家からポリタンクで水を運んでいる。田んぼごとに週一回の当番制で回っている。私が石垣に戻れば、基本的に私が水やりをしてもいいかと思っている。

 いよりよ畑の整備に取り掛かりたい。畑の整備も一年目の正月ぐらいまでには終わるつもりで、取り掛からなければならない。一年目でのぼたん農園の構想の土木工事は終わることが良い。ユンボが来たらさっそく作業に取り掛かる。

 田んぼの畔の畑を畑土壌にするために数年かかると見なければならない。腐植を増やすことを中心に考えてゆく。腐植はソルゴーの緑肥が良い。これを粉砕しては漉き込む。一年目はソルゴーの漉き込みに費やしてもいいだろう。2年目から、畑を始める。

 上の畑は1反ほどではないかと思う。やはり最初はソルゴーを撒き、漉き込む。ここでは麦を作りたいと考えている。出来れば台湾で開発された、熱帯向きの小麦品種を作りたいと考えているが、まだ手に入るものかがわからない。

 ミナミノカオリでもいいかもしれない。ミナミノカオリは日本のパン小麦で一番暑さに強い品種という事だ。九州で作っている。石垣では難しいとしても、暑さに一番強いという事は悪くはない。今年はこの品種を小田原でも作るつもりだ。

 大豆に関しては、小糸在来種がなんとか石垣島でも栽培で来ている。もし収穫まで行けば、小糸在来は美味しいからいいかと思うが、これも台湾の品種が手に入れば、そのほうが作りやすいのではないかと考えている。石垣の気候や土壌がどれほど厳しいものかはだんだんわかってきた。

 コメ、大豆、麦、この三つが自給の基本である。そしてあとはイモ類である。イモ類は里芋の類もあるし、ジャガイモ、サツマイモの類もある。作りやすいものを作るようにしてゆく。自給農業の合理性をどこまでも探してゆくつもりだ。

 

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第126 回 水彩画 日曜展示

2022-09-11 04:02:16 | 水彩画
第126 回 水彩画 日曜展示

10号ぐらいです。






883「夕雲」
2022.9






884「北岳」
2022.9






885「カイラギ沢」
2022.9







886「下田港」
2022.9






887「白保の牧場」
2022.9






888「鳥海山」
2022.9







889「伊豆の港」
2022.9







890「白い田んぼ」
2022.9







891「海と睡蓮池」
2022.9   

  水彩人展開催中に、自分の日曜展示を行うというのも何か変なものだが、これも自分の絵の成長のためである。水彩人展のそれぞれの、素晴らしい絵を前にして、様々な考えが頭の中を渦巻いている。大いに吸収しているつもりだ。
 
 そしてここに日曜展示を行い、改めて考えてみる。これからだ。これから前進してゆかなければ、今までやってきたことの意味がない。次の絵こそ、新しい地平だ。そう思って日々の一枚を続ける。必ず到達してやるという覚悟だけはある。

 今回の水彩人展も素晴らしい絵がある。私には指針となる絵がある。ついてゆこうと思う。仲間であることがうれしい。人生のめぐりあわせである。よい仲間がいる。いくらでも絵が描ける。こんな恵まれた条件はないだろう。力を振り絞って次の絵を描くつもりだ。





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第24回水彩人展今日から始まる

2022-09-10 04:34:51 | 水彩画



 今日から水彩人展が始まる。昨日一日かけて、絵の展示と目録などの準備が終わった。水彩人展はすべてを自分たちで準備しているので、展覧会の開催まで、なかなか準備作業が大変である。特に今年は新しい形で取り組んだので、良い面と大変な両面があった。

 特にすべての流れをパソコン化しようとしているので、前からの方式と二重化していて、整理が必要だった。仕事の流れはほぼ見えてきたので、来年はさらに短時間で作業が終わることになるはずだ。来年は25周年で記念事業を行うだろうから、併せて考える必要があるだろう。

 展覧会で絵を見てもらうという事も重要な目的ではあるのだが、水彩人の参加者が互いに絵の研究をするという事が一番重要なことだ。この一期一会の機械を生かして、何かを学ぶことがやるべきことだ。そうして、24回目の今回の開催になった。

 このやり方が良かったかどうかは24回前の私の絵と今の絵をを比べてもらう以外にない。たいして良くなっていないじゃないかとすれば、水彩人展のやり方がもう一つだったという事になる。少しは良くなったという事であれば、水彩人展が良かったのだ。

 絵は普通50歳過ぎれば下り坂である。多くの作家の作品を見ればすぐにわかることだ。しかし、世に残るような人は年齢とともに絵が良くなる。それは天才がすごい努力をした結果だからだ。普通の絵描きは40歳を過ぎれば下り坂である。

 50歳の下り坂入り口で水彩人展を始めた。このままでは下ってゆくと、周りの絵を描いている人を見て確信した。50歳を過ぎて絵がつまらなくなる人ばかりなのだ。ところが、年功序列の日本の社会では絵が下らなくなって、偉いつもりになる。

 これが嫌だった。才能はないのだが、努力は人一番してせめて平行線くらいではいたいと思った。そして水彩人を始めて24回目である。自分のことは冷静に見えないものだが、始めたころよりはいくらか良くなっている。60過ぎてからの一年一年もわずかづつましになっているのではない。

 否、そんなことはない。以前よりひどいという方がおられたら、是非ともそういう批判をお願いします。と言っても今の状態が状態なだけで、低すぎて、これ以上下りようがないという場合もない訳ではない。最底辺の平行線なら致し方ない。

 水彩人では今年も新しい参加者がいる。8名もいた。こういう状況がつづいていることを見ると、水彩人展を始めたことは間違っていなかった。実にありがたいことだと実感する。良い仲間が増えることは自分の絵に繋がっている。絵は一人で描いているわけではない。いつもそう考えている。

 一般に公募展はメンバーが減少している。老齢化で辞める人が増えている。もちろん死なれる人も多い。どこの公募展もあと10年したら様変わりになるだろう。それは大きな公募展も小さな水彩人も変わらないことだ。変化してゆく中で、水彩人らしい立ち位置を探したいと思う。

 水彩画研究会という姿勢を貫きたい。世間的評価とは関係なく、それぞれの制作者自身が作品を水彩画としてどこまで深めることが出来るかにかかっている。私自身の絵が10年間先でいくらかでも良くなっているかである。年々衰えてゆくようでは、話にならない。

 そして、水彩人展としては新しい作家の育成である。まだ日本の水彩画というものが生まれたとは言い難い。しかし、水彩材料の可能性から言うと、日本人の感性には向いている材料である。もう一息頑張れば日本人らしい水彩画を作ることが出来るのではないかと考えている。
 
 24回展の会場は今まで以上に水彩人展らしいものになっている。それだけ変わったものがなくなったということでもある。落ち着くところにだんだん落ち着いてきているということかもしれないが、よく考えてみなければならないだろう。

 まだ作品をじっくり見ていないので、会場で今日ゆっくり見たいと思う。学びたいと思う。自分の作品も改めてみてみたいと思う。物足りない気もする。進んではいるのだが、情感のような絵を描く喜びのようなものが、足りないような気がした。

 さあー今日から楽しみである。
 
 

 
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小田原農の会の畑 土壌の改善

2022-09-09 04:09:56 | 楽観農園
 

 上の写真の畑は舟原ため池上の大豆の会の畑である。今年で3年目になるのではないだろうか。大豆がだいぶ良くなってきた。あと2年すれば、土壌もさらに良くなるはずだ。有機農業の畑は耕作していることが、土壌を改善してゆく農法でなければならない。

 大豆と麦の輪作はその点優れている。大豆を同じ畑で連作しても問題なく収量が上がってゆく。この大豆から麦の輪作を指導してくれたのは、松本の石綿薫さんだ。大豆を連作しても、間に麦を入れることで、よりよくなってゆくという考え方だ。

 ため池上の畑は、山の斜面を削って、段々畑を造成した場所だ。造成は3回に分けて行った。造成の年度によって、良く出来る場所とできない場所がはっきりしていた。造成初年度の場所は全く出来なかった。それが耕作を継続している間に、写真のように改善される。徐々に削った場所と、盛り土した場所の差がなくなっている。

 腐植を増やす努力をする。耕作ごとに堆肥を入れること。これを繰り返している。渡部さんがそのほとんどの作業をしてくれている。有難いことだ。渡部さんは農の会の土壌改善の専門家と言える。農の会の畑の管理を担ってくれている内に、土壌をよく道筋を見つけたようだ。

 渡部さんの耕作法は高畝法だ。大抵の作物を高畝で作る。この高畝が1mにもなることもあるほどだ。多くの場合、そば殻と土壌を混ぜて高くしている。この土壌の状態が良いらしく。大抵の場合一番収量が多くなる。だからみんなが真似をして、最近高畝が目立つ。

 農の会の総生寺裏の畑で、炭素循環農法の試験を行った。4年が経過した。その畑では大豆と麦の輪作を行ってきた。最初に大豆を作った時に、余りの出来の悪さに驚いた。これほど状態の悪い畑は初めてのことだった。そこで、この畑の土壌を炭素循環農法で作り直すことになった。

 二宮で炭素循環農法を長年試みてきた中村さんが農の会のメンバーにいる。その中村さんにお願いして、どのように実験をしてみることにするか決めた。中村さんがトレンチャーを貸してくれて、1反の畑の半分に1m置きに、1メートル半の深さの溝を掘った。

 溝には樹木チップを一杯に詰めた。そしてすぐに麦を作った。そして前作通り何もしない半分とどう違うかを見た。明らかに溝を掘った方が良く出来た。窒素飢餓など起きないことが分かった。そこでもう半分は5m置きに手作業で縦穴を空けた。その結果、翌年には1反全体がだいぶ良くなった。

 そして4年目の今年の大豆は3か所あるどこの大豆畑よりも良いできになった。炭素循環農法の優秀性が実証実験で証明されたと言っていいだろう。樹木チップを大量に入れても、それを分解するために窒素が消費されてしまうという事は起きない。

 このまま順調に行けば、反収200キロの大豆は確実に採れそうである。一般に大豆の収量は慣行農法では150キロ程度である。ここでも有機農法の方が収量が多いいことが証明されたことになる。有機農法は植物の生理にあわせた栽培だから、収量が多くて当然のことだ。収量が少ない有機農法はまだ有機の土壌が出来ていないという事になる。

 品種は小糸在来種である。収量は100キロ程度とされている希少な在来品種だ。とてもおいしい品種なので農の会では長年作り続けている。この品種で200キロ採れれば、最高の出来ではないかと思う。こういうことは有機農業以外ではあり得ないないことである。ぜひ有機農業は手間がかかるかもしれないが、収量は多いという事を常識にしてもらいたい。

 炭素循環農法とは木材のチップを大量に地中に投入する農法である。良く聞く否定論が、入れた木質チップを分解するために窒素を消耗し、畑の土壌が窒素飢餓に陥るのではないかという意見だ。しかし、農の会の実証実験では初年度からそうしたことは起きなかった。

 大豆、小麦を輪作している畑はこのほかにも2か所ある。そこも輪作を継続することで徐々に畑は良くなってきた。ただまだ開墾して3年目の所と、2年目の所なのでまだまだ土が充分とは言えないが、それでも少しづつ良くなってきていて反収150キロぐらいは行くかもしれない。

 大豆の会はとても熱心に栽培しているから、年々畑が良くなってきている。小麦と大豆の残滓を畑に漉き込んで腐食が増える。麦を作ることでだんだん耕土が深くなってきている。土壌が深くなり大豆も良くなるという結果だと思われる。土の柔らかさが年々際立っている。
 
 有機農業は土壌を良くしてゆく農業である。土壌が良くなれば、病害虫も減り、農薬を使用しないでも作りやすくなってゆく。当然畑の周辺の環境も重要で、自然の豊かさが畑の作りやすさに繋がってゆく。その優秀な農法は収量においても慣行農法よりも多い。しかも永続性がある。

 農の会の農地はすべてお借りしたものだ。慣行農法で長年やっていた畑を借りることになる。畑の土壌は大抵の場合あまり良くない。お借りして耕作を続けている間に、段々に改善されてゆく。大豆畑のように大々的な改善を行わなくとも、普通に耕作を繰り返している間に、土が良くなってくる。

 それは他の畑でも同じことで、継続していることで土壌が良くなってきて、だんだん周辺の農家よりも収量が上がるようになる。有機農業塾の畑も随分土壌が良くなってきた。緑肥を上手くバンカープランツとして栽培して漉き込んでいる。

 有機農業は最初の5年かなり手間がかかる。しかし、毎年の循環の形が出来上がり、継続している間に徐々にやりやすくなる。腐植を加えることを心掛けている。今はそば殻が安くもらえるので、これを大量に入れているところが多いい。

 畑に1.5mほどの穴を掘りその断面を観察して、その畑の土壌の成り立ちをまず知ることから始まる。土壌の堅くなるところがどのあたりにあるかが重要になる。石綿薫さんのように、掘らなくても、畑の作物の状態で、土壌の成り立ちが見える人はめったにいない。

 大抵の場合は土壌成分に問題があるというより、土壌の物理性に問題があることが多いい。土壌分析をする必要もあるが、特別に何か資材を入れることをしないでも、落ち葉堆肥を入れて耕作を継続していれば、だんだん土壌のバランスは良くなってくる。

 5年耕作していったん土壌が出来上がれば、有機農業でもそれほどの労力は必要なくなる。大きな土壌の改善方法には炭素循環農法は良いようだ。縦の溝を掘り、チップを大量に入れることで、畑の土壌の浸透性が一気に解決する。

 
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年齢を受け入れ、前向きに生きる。

2022-09-08 05:00:54 | 暮らし


 中央の田んぼが9番田んぼでサトジマンだ。太田さん担当である。ここを少しだけ手伝わせてもらった。左奥が、マンゲツモチである。このさらに奥にもう一枚マンゲツモチがある。マンゲツモチの方が少し早稲である。マンゲツモチは今年とても出来が良い。

 一年歳をとることを前向きに考えることにしている。歳をとることを受け入れることにしている。自分の身体を内観し、それに合わせた行動をとる。無理に年寄りぶる必要もないし、若ぶる必要もない。ありのままを受け入れたいと思っている。

 その一日を生きることにすべてを投入して生きる。余力を残さず、明日のことに煩わされず生きる。それは自分の命が限りあるものだということを自覚することで、より明確なものになる。絵があと何日かけるかと思えば、今描いている一枚に力を注ぐことが出来る。

 73歳になったが、年齢は自覚している。100歳で死ぬことにしているので、あと27年だ。この27年をどのように使うか。今日がその一日であると考えて生きている。70歳くらいまでは歳のことは忘れていた。忘れるようにしていたのかもしれない。

 死を意識して生きることはあまり気分の良いものではなかった。然しそれは事実であるし、その前提で生きることが現実なのだから、死は当たり前のことと言える。一年歳をとるごとに死を受け入れるようになってきた。死によって一日を真剣に生きることが出来るなった。本来、生まれた時に100年後には死ぬという事なのだ。

 去年から光アレルギーになった。石垣島の光りが強いという事もあるが、やはり老化して、皮膚の対応力が落ちたのだと思っている。耳もだんだん聞こにくくなっている。どうもマスク越しの小さな声には困る。何度でも聞き返してしまう。疲労してくると余計に耳が悪いようだ。補聴器がいるほどではないお思うのだが、考えた方がいいかもしれない

 身体的な健康、健康につながる行動、心理的幸福との関係を調査した結果が掲載されていた。老化に対する満足度が最も高い人は、満足度が最も低い人に比べて、4年間の追跡期間中の全死亡リスクが43%低いというものだった。

 石垣島に暮らすようになったら、絵だけをかこうと考えていた。それがのぼたん農園を始めることになり、むしろ小田原に居たころより、やることがいつも前にある。生きていてやらなければならないことがあるという事は、死ぬわけにはいかないという事だ。

 それが石垣島で田んぼを始めた、この一年間のことだった。絵だけ描く生活を3年間やった後、田んぼを始めたことになる。これは悪いことではなかった。絵だけ描く3年があったから、のぼたん農園の冒険が始められたのかもしれない。

 のぼたん農園ではまだ日本ではやられていない農法を3つ試みようとしている。「水草緑肥」「ひこばえ農法」「天水田」そして(光合成細菌の増殖。)天水田については与那国島で行われていたものを参考にしている。天水田は初めての経験である。今まで整理して書いていないので、ここに書いておく。

 水の少ないところでは雨水を上手く利用して田んぼを作っていた。のぼたん農園はいくらか湧き水はあるが、水が少なくなる時には水道の弱め位の水量の湧き水である。このくらいの水で、日常維持できる田んぼの面積は2反程度である。

 この細い水を生かして、渇水期も乗り越えるためには田んぼには工夫が必要である。先ず田んぼの水が畔から抜けることを出来る限り防がなければならない。その為には通常よりも畔は太くしっかりとさせなくてはならない。これは修学院離宮の田圃も同様である。

 特に傾斜の下側の畔は4m幅ある。ここを畑として利用する。畑には大豆と麦を植えたいと考えている。畔と言っても畑だから無駄になる訳ではない。麦については水が多いいという事が問題になるかもしれないので、その時には作物を変えようかと考えている。

 本来10枚を傾斜に従って作る方が良かったのだが、のぼたんが下の方にあることが分かったので、のぼたんの原生花園として残したため、8,9,10番の田んぼは少しずれているために、水不足で耕作が困難になっている。

 そこで、果樹園の下に果樹園から流れ出る水を集めるため池を作ることにした。上の溜池の水が足りなくなった時に、そこの水を使う予定である。果樹園の上には7番田んぼがあり、果樹園全体にいくらか湿気が来るようにしてある。果樹園の水やりの軽減である。

 また、10番田んぼの下にも、排水を集める沈殿池があるので、そこの整備も行い、そこから水をポンプアップできるようにする。のぼたん農園に降った雨はすべて溜まるようにしてゆく予定である。それらの溜池は水牛の水浴びにも利用するつもりだ。

 天水田の作り方である。先ず畔を広くとること。次に田んぼが漏らないようにする。与那国島では6月には稲刈りを終え、その後は田んぼが水漏れしないように固める努力をした。水牛を5頭並べて田んぼの中を歩かせる。これを何十回も繰り返す。

 雨が降れば、夜中であろうと松明を炊いて、薄明かりの中、天水による代かきを続けたそうだ。それを繰り返している内に土壌が徐々に漏らないようになる。そして11月に種をまくという流れになっていた。のぼたん農園でも、雨を上手く利用して、トラックターで徹底した代かきを行う。

 こうして、わずかな水でも1番から10番まで水が入るようにしなければならない。一年中水が漏れないように、水は張り続ける。一度でも乾かすと、天水田んは少ない水では水は戻らない。これは水草緑肥農法でも通年通水が必要なので、共通の目標である。

 ひこばえ農法では、稲刈りの時水があっても問題ないと考えている。いくらか水は減らすが、土壌が乾くほどにはしないほうがいい。この点でも天水田と矛盾はしないだろう。そして通年通水で土壌を腐敗させないために、光合成細菌を投入する。

 光合成細菌の増殖を行えば、肥料を補う事になる。ひこばえ農法は2年に7回もの収穫をする農法だから、常に追肥をしてゆく必要がある。追肥を光合成細菌で行う事を考えている。それでも肥料が不足するようであれば、落ち葉堆肥や、水牛の糞を入れる。
 
 こうしてこの先の冒険を考えていると、未来に希望が湧いてくる。健康で一年でも長く、田んぼをやりたい。これは、日本の未来につながる自給農業の究極の形だと考えている。のぼたん農園の冒険は次に人間の生き方を示しているとまで考えている。
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小田原から金沢回りで石垣に戻る

2022-09-07 04:48:47 | 水彩画


 奥の色づいている田んぼが柿の下田んぼだ。18日19日が稲刈りの予定だ。早稲のハルミを作っている。その為に最初に実っている。手前は中生のサトジマンである。手前の田んぼはヌマッタだ。いつも水が湧いて居て固まらない。背の高い草は無くならないマコモタケ。

 全体に見てそこそことれていると考えていいだろう。直播をしたところもなかなかの出来だ。直播の実証実験は石垣島のぼたん農園でも成功した。小田原でも成功した。来年は直蒔き農法をもう少し広げて本格稼働したい。自然農法であるなら、直播が本来である。

 特に石垣島では稲の小さい初期段階の風の被害を無くすことが出来る。田植えをして、1週間ぐらいのあだに20mぐらいの風に当たると、イネは白化してしまう。風で水分が吸い取られ、根から給水できない稲は枯れてしまう。

 今回の小田原生活は、溜池の草刈り。柿の下の稲刈り。そして水彩人展の開催。とくにパソコンの仕事の作業の流れの完成。軽トラダンプとフレールモアの石垣への搬送。金沢で久しぶりに絵を描き、大学の美術部の同窓会に参加させてもらう。

 いつもあれもこれもで実におもしろい。元気でこんな暮らしが出来るのは有難いことだ。いつまでできるかわからないのだから、今を大切にしてできる限りのことをしたいと思う。ともかく昔絵を描いたところをもう一度描いてみたい。どう見えるのかである。

 おおよそ一ヵ月の小田原生活だ。小田原の方がさすがに早く夏が終わっている。これを書いている朝4時は暗い中、ひっきりなしに虫の音が続いている。朝の風が窓から入ってきて、爽快な、雄大な気分になる。夏の終わりはさみしい気分になるが、これから、水彩人展があり、稲刈りがあるのだから、緊張して張り切っている。

 久しぶりに小田原の街中へ車でプリンターのインクを買いに行った。ついでに少し車で移動してみたのだが、何か他所の街に来たようで、不思議な感触だった。もう小田原の住人ではなくなったようだ。大きな街というものはどうも合わないようになっている。

 水彩人の受け付け業務ではプリンターもうまく動いてくれてよかった。と言っても、どうも操作をみんなが覚えてくれない。コンビニのコピー機と同じだと考えている。紙のサイズが違えば、紙は入れ変えなければならない。設定も変える必要がある。ところがそれを理解していない。

 しかし、何をコピーするのかと思えば、全く無駄なコピーをしている。個人的な資料を作るためにコピーをしているとしか思えないことがある。無駄と思える郵送業務もある。昔はそうだったわけだが、見直しして要らなくなった作業は止めるべきだ。

 今年はパソコン業務はある程度作業が整理されてきた。打ち込んでくれる人が2名新しく加わってくれた。これで順調に間に合った。手紙のあて名書きもあっという間にできた。問題はそうした作業の合間に、コピーさせてくださいというものが割り込む。

 これらの作業をどのタイミングに行うか、事前に調整をしたい。受付日の午前中はそうしたコピーは基本的になくさなければならない。もし朝から必要な印刷物であれば、事前にコピーをしてくる。朝コピー機と3台のパソコンの連動を調整しなければならない。

 今年の小田原の作物の出来で驚いたのは、大豆である。総生寺裏の畑の大豆が素晴らしい状態だった。この畑は5年前に借りたときにあまりに土壌がひどい状態で驚いた場所だ。松本の石綿薫さんに畑を見て頂いた。石綿さんは尊敬する土壌の中の世界が見える人だ。

 しばらく畑を見ながら考えていた、そしてこの土壌は浸透性が悪い。穴を掘り浸透性をよくする必要があるとの診断だった。そして炭素循環農法の試験をするという事もあり、1反の畑の半分だけ、トレンチャーで1m以上深さの溝を掘り、樹木チップを入れた。

 翌年半分だけが見事に改善されて、そこそこの収穫になった。翌年に残りの半分には4mの間隔で穴を掘りチップを入れた。それから一年ごとに改善され4年目の今年は、他の大豆畑よりも素晴らしい畑になった。この畑は麦と大豆を交互に続けている。このやり方も大豆の連作障害を抑える、石綿さんの指導の結果だ。今年は反収200kは超えそうである。


10番田んぼ
 

9番田んぼ

 ことし手伝ったのは9番田んぼだった。なかなか良い出来だと思う。畝取り行くと思う。こちらは稲刈りまでいられないので残念であるが、田んぼ全体が良い状態だ。病気らしきものもない。台風も通過したのに倒れていないのは大したものだ。

 水管理も草取りも完全に行われている。きちっとした管理で有機農業が出来れば、普通の栽培のイネ作りよりも収量が多くなるという事が、証明されている。有機農業は農薬化学肥料は使わないが、イネの本来の力を引いだしている。だから収量が多くなる。

 有機農業で周辺農家よりも収量が少ない場合は、まだ有機農業の土壌になっていないからである。有機農業の土壌が完成するには5年はかかる。のぼたん農園の土壌はまだ1年もたっていない。これから徐々に土壌が良くなり、畝取りできるようになるはずである。

 水彩連盟展が終わったら、金沢に行き久しぶりで絵を描こうと考えている。金沢はどこもかしこも変わってしまったのだが、レンタカーを借りたので昔描いたところを廻ってみて絵を描きたいと考えている。そして大学の美術部の同窓会もある。

 21日には軽トラダンプを有明港から石垣に送る予定だ。早朝小田原を軽トラダンプで出発する。この日9時から有明港で積み込みが始まる。どのくらい時間がかかるかはわからないが、11時には間違いなく終わるだろう。そのまま東京駅に出て、金沢に向う。

 12:24分発のはくたか563号 金沢行 に乗れるだろう。15時19分に金沢着である。泊まるところは駅のすぐ裏のドーミーインを予約してある。ここにはサウナがあるからだ。サウナに入り、水彩人展の疲労から回復である。少々綱渡りだが、大丈夫だろう。

 そして最後になるのが、金沢からの石垣への帰りの飛行機である。先ず列車で名古屋に向う。25日朝7時48分のしらさぎ4号である。セントレア空港(名前が定着しない。)向う。尾張一宮駅で降りて、名鉄の一宮へ行く。そこから中部国際空港へ向かい、11時36分につく。飛行機は12時50分で石垣には15時30分には着く。

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水彩人の仲間たち

2022-09-06 04:35:41 | 水彩画


 台風の迫る石垣島を離陸した。飛行機は揺れていた。揺れても安全飛行に問題はありませんと、アナウンスされている。まあ、そうなんだけど。飛んでくれなければ、今日あたりにやっと東京に来たのかもしれない。危ないところだった。もう少し慎重に考えねば。

 水彩人の仲間とともに絵を描いている、そんな気分がどこかにある。だから迷わずやれるのだと思う。絵は一人で描いているようで、そうではないと考えてきた。ごく普通の人間が努力をして、自分の絵に至ろうとしている自覚がある。この先、良い仲間がいなければ、何処へ進んでゆけばよいかわからない。

 今年も水彩人には新しい仲間が10人も加わった。公募展が衰退してゆく中で、他にはないような素晴らしい結果ではないか。私たちの試みは間違っていない。水彩人を始めて良かったとつくづく思う。10回はやろうという約束で始めたものだったが、何と24回目を開催することになった。

 10人もいなかった仲間が、今は100人である。水彩を目指す仲間が集まり、水彩画の研究をしている。今年もすごい絵があった。すごい進歩を見せた人。変わろうとしてもがいている人。実に刺激的な絵の場面である。

 水彩人では公募展が始まる前に仲間の絵の互評会をしているのだ。都美館の地下室が白熱した場になる。まあ、全員ではないのだが、私は誰の絵でも本気で向かい合い、これだと思う事を発言することにしている。遠慮も忖度もない。

 こういう絵の会が他にあるだろうか。誰か偉いという事になっている先生がいて、指導をしてしまう会はあるかもしれない。それぞれが持ってきた絵を前にして、意見を交わす。くだらない意見を言えば相手にもされない。本気でお互いの作品のことを語り合う。この時間は尊いことだと思う。

 引き続き本展の会場でも大いに語り合いたいと思っている。その為に展覧会を開くのだ。お客様に見て頂くのに邪魔ではないかという意見もある。考え違いしてはならない、そうではない。そういう作家同士が議論をしている姿を含めてみてもらえばいいと考えているのが水彩人である。絵はそんな体裁のいいものである必要はどこにもない。

 水彩人がなければ、私の絵はどんな事になっていたかと思う。危ういところだった。だからといって、今の絵が良いと考えているわけではない。水彩人を作らなければ、きっと評価される絵を追い続けて、評価されないというみじめな事になっていたに違いない。

 何もないところから始めるほかなかった水彩人も、24回目を迎え曲がり角に来ている。やめて行く人が毎年いる。不思議に私にとって辞めてもいい人が止めてゆく、別段追い出しているわけではないのだが不思議なものだ。たぶん他所の会でも評価される人が、やめて行く傾向にある。

 特に他の有名な公募展の会員になり辞めるという人が多い。2つも公募展に所属することはないのだからそういう事になるのだろう。大きな公募展の方が名前が通るので、そちらを選択するのだろうと思う。当然のようだが、水彩人ほど絵を磨き合う事の出来る会は他にはないだろう。

 確かにある種の人には予備校水彩人は、良い大学に入る勉強の場であり、踏み台としては役に立っているのだろう。もしそういう役割だとすれば、それはそれで意味あることだから悪いことではない。水彩人の設立趣旨の水彩画の相互研究の場という事が、生きているとも言える。

 水彩人としては止めて欲しくはないが、それは受け入れるほかない。残念なことだがそれが現実である。と同時に止めてくれてよかったとも言える。社会的な立場を求める上昇志向の強い人はあまり水彩人には合わない。水彩人はどこまでも自分の絵の研究をしようという場であって、社会的に評価されるような絵を模索しているという訳ではない。

 一般に公募展では絵を研究し合うという事はない。多くの公募団体を知っているわけではないが、いろいろ見聞きしてきた範囲では、絵の研究が自由に行われている公募展は聞いたことがない。どうやって確かめたかと言うと、その会の代表的な人の絵を、その会の人にあなたは代表の方の絵を批評したことがありますかと聞いてみた。一人として批評したことがあるという人に会わなかった。

 偉い先生がいて、その先生の絵は別格に置かれるのだ。初出品の人が水彩人の同人の絵を、自由に自分の考えで批評できるような水彩人を目指してきた。もちろん、水彩人でもそういう考えの人ばかりではないとは思う。だから合わなくなってやめて行く人もいるのだろう。

 水彩人のように水彩画を学ぼうという場所は他にはないと思う。内から作ったのだからそれは間違いはない。辞めた人の絵をたまたま見ると、水彩人にいた時とは絵が変わる。上手にばかりなっている。上手は絵の外。下手は絵の内。熊谷守一仙人はそう言っていたそうだ。

 絵を世間で受けるように模索している。こういうことはどうなんだろうかと思うが、それぞれの道であるかってにすればいい。絵のことだけを考えれば、水彩人にいた方が良かったのにと思うが、絵を描いてゆくというのは、あまりに厳しい道なので、他人がどうこう言える話ではない。

 やめて行く人もいれば、新しく加わる人もいる。今年も10人もの初出品の人がいた。コロナ下で出品者自体は減少しているが、素晴らしい初出品の人が現れている。水彩人の場で各自の絵を成長させてもらいたいものだ。それが私の絵の為でもある。

 今いる水彩人の仲間には本音で絵のことを言ってもらえる。これが素晴らしいことだと思う。あの人がああいってくれた。あの人はあんな指摘をしてくれた。心にいつまでも残り、蘇る言葉がある。私自身がなんでも言いやすい人間である必要がある。

 それでなければ何も言ってもらえない。歳をとればとるほどそういう事になる。石垣島に暮らしていて、浮世離れしかねない。この3週間水彩人の仲間と切磋琢磨して、気分一新してまた描いてゆきたい。10日から17日まで会場に必ずいますので、来ていただいた方は受付で笹村居ますかと聞いてください。


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カルト集団と日本人

2022-09-05 04:01:06 | 地域


 世の中が不安定化して、カルト集団が現れる。統一教会問題が今は騒がしいが、オウムのようなさらに過激な集団がいつ現れても不思議ではないような社会かもしれない。オウムも相変わらず存在がなくなったわけではない。

 今は知られていないカルト組織が、日本に存在する可能性が高い。今日は政治を諦めたと言いながら、あれこれ不満やるかたない気持ちを書く。もう、止した方がいいかと思いながら。

 何故カルト集団が登場するかと言えば、社会が方向性を失ったからだと思う。日本の社会はその意味で安定していたと言えるのは江戸時代まで200年もさかのぼらなくてはならない。鎖国して経済を停滞させて安定化した。江戸時代は現代の感覚からすれば、身分制度のある封建社会という不愉快極まりない社会であったわけだが、カルト集団が登場する余地は少なかった。

 社会が安定するためには地域社会において共通の基盤があり、誰もが受け入れている社会通念がある状態が必要だ。社会倫理が成立している社会かもしれない。正しい人間がいた社会と言えるかもしれない。親が子供にこんな人間になりなさいと言えるような次の時代を信じられる社会と言えるだろう。

 今の社会は地域というもの自体の成立が弱くなっている。個人に分散した社会。個人が孤立しても生きて行ける社会。人間が個人に分かれた時に、一人一人が安心立命して生きることは出来ない。そこに反社会的な、つまり社会に損害を与えるようなカルト集団が登場して、その孤立し未来を見失しなった人間を悪用しようとする。

 安倍氏が不愉快であった理由はこの所にある。つまりカルト集団の張りぼてだったからだ。統一教会はその暗闇の正体の一つに過ぎない。日本会議のような組織もいわばカルト組織と考えてもいいだろう。右翼革命を目指している集団である。そのほか、パソナグループや電通に象徴される企業だって、ある意味カルトと考えておいた方がいいのかもしれない。
 
 杉田水脈氏が政務官に就任したことにはさすがに驚いた。杉田氏は炎上議員である。わざわざ問題発言を繰り返し、自民党極右派アイドル議員の座を狙っている人だろう。政務官に就任したという事は、その意味では杉田氏の炎上作戦は功を奏して自民党の黒い組織に支持されたのだ。

 岸田氏に見る自民党の劣化は日本の劣化である。統一協会と関係を持った議員を今内閣に入れることは、統一教会問題に間違った方向を作ることになる。安倍氏の国葬も同じことだ。日本の政治の葬式になりかねない。おかしいことをしても、選挙に勝てばすべて許されるという話になりかねない。

 様々な組織が倫理を失い、反社会的な行為を行う。その象徴的な位置に安倍氏は置かれた。だから、自分で行動していたとは思えない。一番の長期政権と言うが、病気を理由にして総理大臣を2度も辞めさせられた。しかも、その後も自民党を裏で支配しようとして暗躍させられていて、テロで殺される結果になった。

 その安倍氏が国葬というのだから、日本は完全に倫理を失っている。安倍氏が日本のために行動したことなど全くなかったではないか。北方領土問題や、北朝鮮との拉致問題。中国仮想敵国。何も解決できなかったどころか。より悪化させたのが安倍氏ではないか。

 アベノミクスは企業優先の経済政策である。黒田氏が誘導している円安は確かに企業に利益が出て、庶民は生活が苦しくなる。税金とは違う形の、国民から絞り上げる方法である。日本では所得の増加が物価に追いつかない。企業は利益を出している。

 政府のコロナ患者の把握方法が迷走している。こんなことすら、判断できなくなっている。患者数の把握方法を変えるべきと言い出したのは全国知事会だったかと思う。保健所や医療機関の負担が大きすぎるから、負担の軽減を図るということだった。それなりに理解できることだ。

 ところが、軽症患者をコロナ感染者の登録から外すと、コロナ患者ではないのだから、コロナ対応の薬が使えなくなると言う。軽症だと思って自宅待機していたら、死んでしまったという人が後を絶たない。何しろ一日300人超えの死者がいる状況なのだ。

 政府は各自治体の判断に任すとしていた。4つの県が医療機関の負担を現ずる方法に変えたのだが、朝令暮改で政府が全国統一の方針を出すことになった。又戻すというのか、新たな軽減策が出てくるのか。はっきりしているのは政府にコロナ対応能力がないという事だろう。

 コロナ対応は自助でお願いしますというのが、日本政府はあらゆる場面で自助でお願いしますなのだ。政府と官僚に距離が生まれたのだろう。アベスガと人事で官僚支配をしていた。出世したいだけの佐川局長のような人は、ひたすらアベ忖度をして、報告書の改ざんまで支持していた。

 しかし、確かに官僚や検察はアベスガの言いなりに動いていた。日本の官僚は人事操作以外では政府の言うとおりには動かないという証明かも知れない。岸田内閣はコロナ対応でも、まともな方針すら見失った。もう政府がどれほど無能でも驚くこともなくなった。それを選ぶのは日本の有権者なのだ。

 官僚の扱いが出来ないのだろう。コロナの総数把握の方針はそもそも政府が考えるようなことでは無い。コロナ対策の専門委員と医療系の官僚が考えるべきことだろう。たぶんその中で意見が分かれていても、まとめる能力のある人がいないために、良い方針が出せなくなっているのだろう。

 官僚と政府の関係の実際の所はまったく分からないが、岸田氏の原子力不拡散の外交も話にもならない。日本は被爆国として、非核保有国として、もっと核保有国に対して主張して良い。そうでないとすれば、北朝鮮の後を追うと言うことになる。それで世界は終わりになる。

 日本に平和外交があるとするなら、核不拡散で動くほかないはずだ。小さい、弱い、核を持たない国も、核保有国に脅かされて良いはずがない。ロシアのように、核保有国が核を持たないウクライナに核爆弾で脅しをかけるなど、世も末だろう。

 北朝鮮の選択が正しいと言うことになる。世界中が核保有を始めるだろう。当然日本もそういう選択をする。つまり、世界はおわりだ。どこかの狂気の独裁者が核のぼたんを押すことになる。想像もしたくないが、プーチンの行動を見ると、無いとは言えないことになる。

 書かなない方が良かったかもしれないことを書いた気分だ。社会が危ういところに来ている気がする。人間はこのまま悪い方に行ってしまいそうだ。
 
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第125 回 水彩画 日曜展示

2022-09-04 04:34:21 | 水彩画
第125 回 水彩画 日曜展示

10号前後の作品が続きます。






872「白保の羊小屋」
2022.9






873「ヘゴと海」
2022.9







874「宮良川田んぼ」
2022.9






875「白い田んぼ」
2022.9






876「宮良川田んぼ」
2022.9






877「蘇我富士」
2022.9








878「松超えのやま」
2022.9







879「忍野の馬牧場」
2022.9






880「与那国岬の海」
2022.9







881「のぼたん農園」
2022.9

 
 改めてこうして絵を並べてみると、少し粗い描き方になっている。意識したわけではないのだが、結果的にこうなっている。少し気持ちに焦る所があったのかもしれない。暑すぎたせいなのかもしれない。

 水彩人展を今準備している。今日も都美術館で準備の仕事をする。出品作を昨日見て、もっと丁寧な仕事をしていた。中判全紙になると丁寧になるかもしれない。大きな絵は細かい仕事、小さい絵は大きな仕事。どこかでこういうことを考えている。

 小さい絵を繰り返し書くことで、次の仕事への突破口にならないかと考えている。10号くらいをまだ続けるつもりだ。あらゆる出てくるものに従って描いてみる。次に進むためにはそれしかない。

 
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第24回水彩人展準備が進む

2022-09-03 04:17:01 | 水彩画


 台風の近づく石垣島を飛び立ったところ。飛行機はさすがに揺れている。

 小田原に来ている。今日明日と台風11号が石垣島を直撃しそうである。風速70メートルと報道されている。家はまず大丈夫だと思うが、のぼたん農園は果たしてどうなるだろうか。ひこばえのイネは実り始めたところで、強風にやられてしまうのだろうか。

 台風を避けるように石垣島を離れることができた。運よく飛行機は飛んでくれたので、幸運だったと思う。前日も、翌日もダメで唯一迷走台風が沖縄から離れてくれた日だった。もし飛行機が飛んでくれなかったら、絵の搬入はどうなっただろうか。

 都美術館にはプリンターを運ぶ予定だったので、水彩人展の仕事に危なく支障をきたすところだった。水彩人展の出品作の方は小田原に置いてある、4つの額に無事額装で来た。渡部さんが手伝ってくれたので、何とか出来た。一人でやることはあまりないので、何かと不安ではあったのだ。

 今回水彩人展では総務係である。展覧会開催の責任者という立場である。水彩人の組織の構造としては代表がいて、事務局があるが。それとは別に24回水彩人展覧会自体の運営を取り仕切る総務係というものがある。都美術館への対応とか、来場者の対応。お弁当はどうするかとか、椅子はいくつ居るかというような具体的な作業もある。

 ところが、新代表の考えで24回展から事務局が複数態勢で進むことになった。その為に直接的には私が動くことは無くなり、事務所がすべてを進めてくれている。楽をさせて貰った。しかし、今日から始まるもろもろの仕事については、いろいろやることがあると思う。

 こういう都美術館での展覧会準備ももう40年やっていることになる。一年に一回とはいえ、40年やっているとさすがにだいたいのことは覚えている。よくもまあ40年かと思う。それでも始まる前は変わりなく緊張するものだ。

 絵のことがある。自分の絵がまな板の上に乗るのである。40年経験したとしても、初めての時と変わらず落ち着かないものだ。水彩人の仲間に絵を見てもらえるという事は、やはりこの機会を除いてない。この一年の自分の制作が問われることになる。

 9月10日が水彩人展の初日で9時30分が開展だ。9月17日が最終日で2時までだ。この間は上野に泊まり、都美術館に通う予定だ。常に会場にいなければいけないという訳ではないのだが、いつも展覧会の間は会場に詰めていることにしている。

 それが絵を学ぶことにもなると考えている。何百点の水彩画の中に自分の絵が置かれているという状況はまたとない機会だと考えている。あらゆる角度から自分の絵を考え直してみる。何時もそれなりの成果があり、これから絵を描く上で大切な時間になっている。

 確かに絵は一人で描いているものだが、一人では成長できないものである。人間は一人で生きているわけだが、一人で人間になる訳ではない。人は人と接することで、人に成ってゆく。社会の中で人間になる。絵も全く同じだ。良い仲間がいなければ、まともな絵になることはないと考えている。

 良い仲間を探すために水彩人を始めた。水彩連盟から始まり、水彩人を今やっている。水彩人展が24回という事はもう水彩連盟よりも長くなったという事になる。水彩人を始めて良かった。ここでは絵のことが充分に話せる。本音で絵のことも批評してくれる仲間がいる。

 考えてみれば24年前と同じ仲間が残って続けている。10回はやろうという事で始めたものが、いつの間にか24回である。間違った選択ではなかった。本気で絵のことを話せる場を作ろうということで始まり、今もその精神は変わらず続いている。

 他のことはどうなろうと、そういう真剣な絵の切磋する場がなければ、絵を描いてゆくという迷いに満ちた行為は、つまらないところで凝り固まる。だから偉くなった人の絵は成長が止まる。褒められてダメになるものなのだ。何でも言いやすい人間にならなければだめだ。

 今日は水彩人で審査を受けようという人も全国から絵を搬入してくれる。例年だと100名前後である。昨年もそうだったが、コロナで行動が制限されている。さすがに出品者は減るだろうが、それでも昨年のような年でも初めて絵を出してくれた人が何人もいた。

 水彩人展では初めての人も、24回目の私も何も変わりはない。絵を前にして同じ立場である。絵を前にして互いの絵のことを話したいと思う。そういうまたとない機会の場を作るために、水彩人を立ち上げたのだ。水彩人そういう人を求めている。

 その点他の公募団体展とは全く違う。偉い先生など一人もいない。もし偉そうな態度の人がいたら、言ってほしい。必ず態度を改めるようにしてもらう。絵に真摯な気持ちで集まって始めた互評会なのだ。しかし、時間が経過して忘れたり、知らなかったという人もいるかもしれない。

 小田原を5時ごろには出るつもりだ。道が空いて居れば2時間で着く。混んでいれば、4時間かかることもある。9時15分から展覧会の準備が始まるから、5時に出ればまず大丈夫である。例年のことなので、様子は分かっている。早くついて、大抵は朝ごはんを食べてゆっくりしている。

 いよいよ時間が迫ってきて、自分の絵のことを考えている。昨日額装をしながら思ったのだ。明るくなったような気がした。額には以前それなりに良かったと思った絵が入れてあった。それと較べてみての感想である。その絵は震災後1年経った頃の絵だ。あの頃の辛さが得て出ている。一年絵がかけなくて、やっと描いた絵だ。

 その絵を再出発の絵として、小田原の家に飾っておいた。それを今回外して石垣島で最近描いた絵に変えた。良くなったとまでは言えない訳だが、変わったことだけは確かだ。絵は変わった。悪い方向ではないように見えた。さてこれがみんなの前でそういえるのかどうか。緊張する。

 絵がいくらか明るくなり、陽気になった気がする。これは一枚の絵の人に言われた言葉が影響しているかもしれない。ある時の一言がずーと心の中に残ることがある。その時は明るくなったと言われたのだが、もうひとつピンとこなかった。気が付いて居なかったのだ。

 それで石垣で描いているときに、そうか明るくなったのかとその言葉を思いだしたのだ。そうかもしれないと改めて思った。そこで意識したことが、わずかづつ絵に浸透していったかもしれない。自覚があったわけではないが、今回額装して何となくそんなことを感じた。

 もし明るくなっていれば、悪いことではない。明るい気持ちでのぼたん農園を作っている。前向きな気持ちが絵に反映していれば、暮らしている実相が絵に現れてきたという事になる。あの原発事故後の絵と較べて改めてそういう事かと思った。
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身体で覚えたものが重要だ

2022-09-02 04:03:44 | 暮らし


 義務教育に作務を加えてもらいたい。人間が必要なことを身につけるためには頭で覚えることより、身体で覚えたことの方が重要だと考えるからだ。自分の体験から体で覚える重要性を考えている。身体で覚えたことは人間の成長にかならず繋がる。

 現代教育は身体的訓練が教育から抜け落ちている。このことが社会に悪い影響を与えている。頭でだけ考える、頭が良いと言われる人達が、功利的で競争主義の社会を作ってしまった。身体で生きている人間は、自分の則を身体が知っている。

 身体的訓練とはいわば九九を覚えるのと似ている。九九は繰り返している内にいつでも出てくるようになる。一度覚えてしまえば、いつでも必要なときに使うことが出来る。身体で覚えることは歩き方とか、座り方と言うような所作から始まり、生活に必要なことすべてである。

 掃除が作務の代表のようなものだが、現代の学校教育で掃除の指導を徹底して行っているだろうか。日本の教育の長所は掃除を教育に取り込んだところにある。掃除の教育的意味を伝えられる教師がどれほどいるだろうか。曹洞宗では掃除を読経や座禅と同じ行としてとらえている。

 昔は家庭に於いて農作業の手伝いが行われていた。だから、学校教育に於いて農作業の作務が必要がなかった。先祖伝来の農地で、親が子供に農業の技術を伝えていた。環境と調和して、土壌を育てることが、生きて行く基本だと伝えられた。

 改めて、教育の中に農作業の時間を設けなくても、大多数の生徒が家に帰れば一人前の労働者として、仕事があった。そうしなければ暮らして行けない生活だったからだ。家の仕事の農作業を通して、身体が何が大事かを覚え込んだ。

 今では児童労働は禁止されて、子供を労働者として働かせれば、児童虐待とか言われるのではないだろうか。世界には子供の強制労働のような、ひどい虐待もあるから、一概には言えないのだろうが、子供が働くことで身につけるものは沢山ある。教育として作務を復活させなければ、日本人が育つことがなくなる。

 たぶん身体ですべてを身につけたような人は、政府にとっては扱いにくい人間になるのだろう。頭でしか理解しないような人は政府の扱いやすい人達なのだ。善悪の判断を身体で行う人間は、財力や権力は騙しにくい存在だろう。

 農作業は人間が育つためにとても良い。子供にもやれる相応しい仕事が沢山ある。両親が大変な仕事をこなしているのを見ながら、共に働くと言うことに意味がある。自分も少しでも役立つと言うことを子供自身が学ぶ必要がある。農作業にはそういう子供向きの仕事がいくらでもある。

 家でやらされる子供労働者としての仕事が人間を育てていた。江戸時代であれば、85%くらいの家が農家であった。農家でない例えば武士であっても、その半分以上が食糧の自給はしていた。それは商家でも同じことである。大半の人が農業に関わった。いずれにしても子供にも仕事はあった。

 今では子供の仕事は勉強に限定されることになったわけだ。頭に知識を大量に詰め込まないと、社会で生きてゆける義務とされる教育の量がこなせない。小学生が無意味な英語までやらされるのだからひどいものだ。これが甚だ問題なのだ。知育と呼ばれる部分が肥大している。その分だけ身体で覚え込まなければ身につかないようなことが、欠落した。学校では作務を取り入れる余裕がない。

 日本では家庭で子供が役割を持って働くと言うことがなくなって、3世代ほどが続いた。73歳の私はまだ子供の頃畑仕事をさせられた。人間力に必要な身体的な訓練で身につけるべきものが、弱まっているにちがいない。理屈抜きの身体運動の繰返しによって身についてくる能力は、脳の力量まで上げる。

 日本が開発力を衰退させ、新産業の創出が出来なくなった理由は作務教育が失われたからだ。掃除をしている時間より、補修授業の方が効果が上がると考える先生が多いのではないだろうか。それが小学生にまで英語を教えるという馬鹿げたことになった。

 70を過ぎて動禅を毎朝行うことにした。一通り覚えることに、1年はかかった。そして、覚えたことを行うのではなく、何も考えないで動作が出来るようになるのに、もう1年かかった。そしてそれを正しい動きで行うために1年を見ている。

 今その3年が経とうとしているが、やっと動禅が身についてきて、脳の働きまでに影響を始めた気がしている。身体が学んできたようだと思っている。身体が身につけ、自分のものにするためには少なくとも3年はかかると言うことのようだと実感をしている。

 頭で考え、ビデオでも使って行えば、1週間も勉強すれば覚えて、やれるようになるのだろう。しかし、それでは動禅にはならない。そういう入り方ではどうにもならないところがある。身体が1日ごとに体感して身につけるすべてを重ねて行く。

 こうして身についたものは、自分のものと言えるものになる。自転車に乗れるようになれば、何年乗っていないでも又自転車には乗れる。歩くのだってそうだ。どうやって歩くのかを覚えているわけではない。身体が身につけている。

 身体で覚えるとは身体のすべての感覚が連動している。鼻も使えば、眼も使う。手の感触で覚えていることもある。こうした訓練を繰り返すことでまっとうな人間になる。身体が何も覚えていない人間だけの社会に日本は成りつつある。

 身体が身につけると言うことの重要性を考える必要がある。身体を動かす労働から人間は離れている。日本では肉体労働者は減少し、海外の労働力に依存している。下り坂の国日本では、後数年で、海外から日本に働きに来て貰える時代も終わるだろう。

 その時身体的な記憶のない人間ではたぶん身体の動かし方が分からないはずだ。身体の動かし方は出来れば子供の頃に身につけることが一番である。言葉を覚えるためにはその適切な年齢がある。ものを見る眼を養うためにはやはりその適切な年齢がある。

 身体の合理的な動きを身につけるための年齢がある。それがないものには、頭から入る肉体労働はよほどの苦しい物になる。実は絵を描くというのはまさに身体的体験である。頭をどうやって切り捨てるかが重要になる。やはり、絵を描くということでも、子供の頃、身体で覚えたものは重要になってくる。

 子供の頃、自然の中で働く子供だったことを深く感謝している。あのわくわくする感触を今でも思い出す。あの感覚を身体が覚えているので、昔の記憶の絵が描けるのだと思う。私を働かせてくれた向昌院のお爺さんお婆さんの御陰である。
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水草緑肥の経過観察

2022-09-01 04:39:14 | 楽観農園

 写真では分かりにくいのだが、ひこばえが育っている水のある1番田んぼの水面は、アカウキクサで覆われている。この状態であれば、肥料としてもかなり期待できる。草を抑える効果はかなりのものではないかと期待できる。水草緑肥構想が上手くゆきそうな方向が出てきた。

 アカウキクサを継続的に大量に発生させることが出来れば、肥料と腐食についてはかなり解決しそうである。アカウキクサは石垣でも急速に消えつつある絶滅危惧種である。この状況でもアカウキクサを雑草と考えて、除草剤で除草している。

 アカウキクサで本当に困ったことなど無いはずである。ともかく余り観察もせずに、除草剤である。これほど魅力的な草を何故そんなことをするのか私に理解できない。抑草効果の高いアカウキクサを除去して、改めてコナギやヒエを除草するために又除草剤をまく。それがJAの指導と言うことはなんとなく分かる。2重に利益が出る。

 アカウキクサは石垣島の自給農業の確立の第一歩である。のぼたん農園ではできる限り持ち込まず、最小限を持ち出す循環農法の確立をしなくてはならない。
1,当初から考えてきた、「水草緑肥農法」
2,スマトラ島のサリブ農法、山岡先生の「ひこばえ農法」
3,光合成細菌の増殖

 この3つの方法を確立させることが出来れば、継続可能な自給農業が確立できる。まだ始めて、8ヶ月というところで、「水草緑肥法」は展望が見えてきたことになる。提供してくれた下地さんの御陰である。農法が完成すれば、日本産の純粋種のアカウキクサを全国に提供できるようになるかも知れない。

 水草が水面を覆うことで、物理的に草を抑える効果があると言うことは誰の目にも明らかなことだ。光が田んぼの地面まで届かなければ、雑草の発芽はかなり抑えられることになる。石垣島であれば、年間を通してアカウキクサは存在する。水面を覆い草が生えない状態を常に作り続けることが可能となる。

 昔から日本のイネ作りでは、ウキクサを雑草として考える人と、ウキクサを草押さえに使おうという人の二通りあった。ウキクサがあると稲が分ゲツをしない。水が冷たくなると言う当たりを問題にしたのだろう。ウキクサが風にふき寄せられ、稲苗が倒されると言うことを嫌った。

 今までの体験ではそのようなことはない。5葉期の大苗で行うからだと思う。稲はウキクサに水面を覆われていたとしても分ゲツは変わらない。稲は根元に日が当たるから分ゲツをするというような性質ではない。分ゲツへの影響は田植えした土壌の含有肥料分が大きい。

 水温が下がると言うことはあるだろうが、石垣島では問題になるとは思えない。のぼたん農園では直播き栽培をするつもりだ。11月に播種することになる。発芽して、苗が完成するまでの1ヶ月ぐらいは水草の問題はないとみている。まだアカウキクサも広がらない時期である。

 年を明けた辺りから、アカウキクサも出現してくるのではないだろうか。2月3月と水面を覆うだろうと想像される。12月1月がコロガシを行う時期になる。コロガシながら、土壌にウキクサを漉き込んで行くことが良い。5月頃が稲刈りになるだろう。稲刈りの時期も田んぼは完全には水を引かないでやろうと考えている。手刈りだから可能だ。

 水草緑肥農法に関しては、通年通水で可能となる。アカウキクサを利用した緑肥による窒素固定である。これは合鴨農法で展開されたアゾラ農法から考えたものである。栄養価の高いアゾラを合鴨に食べさせ、それを肥料にするという考えである。アゾラは窒素を強力に固定する植物である。

 アゾラ自体が窒素を固定するのではなく、アゾラに共生する藻の類が窒素を固定するらしい。その仕組みは私にはよく分からない。しかし、合鴨農法の方から、アゾラがある田んぼでは肥料がいらなくなったという話は聞いた。鴨の糞の肥料分が大きいのだろう。

 アゾラは禁止された特定外来植物なので使うことが出来ない。石垣島には存在する、アカウキクサを使うことにした。石垣島にはアゾラが存在しないので、アゾらではなくアカウキクサである事は間違いがない。アゾラより窒素固定能力句は低いとされているが、それなりには窒素固定するはずだ。

 アカウキクサの増殖ができる方法はすこしではあるが見えてきた。アカウキクサは浮遊しているというよりはどこかにいくらかとりついて増殖をする。ある程度窒素分のある水の方が良いようだ。化学肥料を入れれば、アカウキクサはすぐに増えるそうだ。それでは意味がない。

 アカウキクサは水漏れからでも他の場所に広がるところを見るとかなり細かな胞子のような物で増殖をしているようだ。増殖させてコロガシで土に戻してゆく。こうしてゆけば、収穫による持ち出し分をアカウキクサが補充してくれるのではないかと思える。

 アカウキクサは水がない田んぼでも完全には枯れてしまうことはない。田んぼに湿り気があれば、むしろ増殖をするようだ。田んぼ干したからと言ってすぐに枯れてしまうような物ではない。田んぼの水が減り、地面と接触した状態はアカウキクサにとっては良い状態なのかも知れない。

 アカウキクサだけでは肥料分が足りないと思われる。溜め池にミズオオバコを繁茂させる。ミズオオバコが世代を繰返しながら肥料となり、田んぼには肥料分を含んだ水が入る。ミズワラビもあるので、二つの植物で溜め池は水が見えない状態である。かなり富栄養化した水ではないだろうか。

 この溜め池に水牛の糞を入れ込むというのも試みてみたい。水牛の糞が徐々に入水と共に、田んぼに入って行く。これが肥料になることは間違いがない。いずれにしても、稲の様子を見ながら、来年は堆肥を購入しないで、やりたいと考えている。

 藁や籾殻はそのまま田んぼに戻して行く。石垣島の気候では水面に戻した藁は稲に悪い影響がないまま、一月ほどで姿を消して行く。分解が早い。籾殻も同様である。クン炭を作り戻すようにすればさらに良いと思っている。さらに良いのは落ち葉を集めて入れることだろう。

 これも山にかなり積もっている。今は落ち葉を集めるような人も少ないようだ。ダンプが来たら、落ち葉集めもかなり楽になる。11月に代掻きをする前に落ち葉集めもしたいものだ。落ち葉をとることで山も良くなるはずだ。

 光合成細菌に増殖をしたい。水が淀みがちなので、光合成細菌を入れて、水を活性化することが出来れば、田んぼの水環境が良くなるはずだ。光合成細菌は今年もやってみたのだが、今のところ効果があると言うほどでもなかった。2畝の田んぼに月に1回1リットルぐらい入れる必要がある。

 出来れば溜め池当たりで、のぼたん農園に生存している光合成細菌を探してみたいと考えているが、これは出来るかどうか分からない。やってみる価値はある。石垣の気候に適合した光合成細菌があるはずだ。光合成細菌もEM菌騒動で偏見もあると思うので、要注意である。

 そしてサリブ農法と水草緑肥である。これはサリブ農法が通年通水と言うことだから、互いに特徴を生かせる物になるだろう。現在のひこばえ農法は水不足になり、ちょっと良くない状況だ。それでも、普通の2期作よりは収量が多いように見える。これで水があれば、普通に1期作並に取れたかもしれない。
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