中野さなえ活動日誌

花には太陽を こどもらには平和を

長女はどんなに多くの人の応援で生まれた子か

2018年02月04日 21時39分54秒 | 活動日誌

松戸の知り合いから、流山時代にお世話になった妹尾七重さんの訃報が入りました。突然のことで驚きました。私より少し上、残念で残念でなりません。

 

看護婦さんをして、保育士になって、共産党市会議員で活躍して、国政選挙でも頑張り、現在は千葉県の生健会会長としても活躍されていました。

 

ご自分が看護婦として働き続けるため、当時なかった産休明け保育を行う無認可保育園運動で頑張るうちに自ら保育士になった人です。

私は初めての子を、産休明けで妹尾さんたちががんばっていた無認可の「松の実共同保育園」に預かっていただき、保育運動をともにやってきました。29才の私が、ゼロ才児保育はとても大事なんだと、初めて学んだところです。

 

妹尾さんは新米ママの私をサポートしてくださった。夫は研修医で、早朝出勤、帰宅が夜中という暮らし、私はヘロヘロ。見かねて、成績表をつける時期に子どもを預かって泊めてくれるなど、応援してくれました。

 

その以前に、妊娠中には、妹尾さんは私が(女性が)働き続けるために奮闘してくださった。決して忘れることができない出来事がありました。

私は切迫流早産で結果的には、約1年間、病気休暇で仕事を休むことになってしまいました。

 

初めは切迫流産の診断書が2週間づつしか出なかったので、担任していたクラスは、学年の先生方、教頭先生が交代で入ってくれていました。

 

それが何度にもなってきたので、病気休暇を取ることになりました。

しかし、代替の先生が配置されない。病休と産休の先生は予算の出所が違い、病休の分は市の単独予算で、もう使い果たしてない、というのです。

 

入院中、クラス保護者会が何度も開かれたそうです。保護者のみなさんの不安は想像に容易です。

 

当然、様々な意見が出ます。「これだから女の先生は困る」「女の先生だから、母親の気持ちが分かるし、子どものことも理解してくれる」「担任が来なかったらどうするの」・・・・そんな大混乱の中、クラス長だったKさんは入院中の私に「先生、大丈夫ですよ。安心して、私たちが何とかしますから」と励まして下さって、私は涙が出ました。

 

妊娠中は夫がまだ学生だったので、私と夫は流山と仙台に分かれて暮らしていました。夫と一緒に暮らし始めたのは、長女が生まれて3か月後のことでした。二人だけのお甘い新婚時代はなし、突然3人家族。長女が生まれた5月に、夫も医師国家試験に合格したのです。

 

夫がそばにいなくても、励ましてくれる皆さんがいました。

 

妊娠中の騒ぎの時、妹尾さんはPTAの本会の役員をしていました。クラスをまとめる努力をしてくださって、結果「女の先生が安心して働ける学校にしよう」と意見が一致し、クラスのお母さんと一緒に教育員会に何度も交渉に行ってくださったのです。

 

そして、代替えの先生が配置されました。学校や保護者の皆さん、妹尾さんらPTAの皆さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。長女は、そうした多くのみなさんの応援で生まれた子なんです。

 

 

私が国政選挙に出て何回目だったか(忘れるほど出ました!)、千葉から出ていたのが妹尾さんでした。あの時、何かの用事で流山に行き、妹尾さんと会いました。お互い国政の候補者として再会するなんて、あの時も巡り合わせにびっくりでした。

それが最後でした。

もういちど会いたかった。妹尾さん、ありがとう。がんばり続けましたね。合掌。

 

 

 

 

 

 

 

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