中野さなえ活動日誌

花には太陽を こどもらには平和を

私が初めて党と赤旗を知ったのは・・・・

2018年02月01日 20時47分27秒 | 活動日誌

今日は新聞あかはた創刊90周年の日です。

さまざまな分野で頑張っている方のお一人お一人のメッセージを読んで、あらためて、赤旗はジャーナリズムの正しい在り方を示している貴重な新聞になっていること、多くの方を励ましている新聞であることを確認し、誇らしく思いました。

 

1月28日の長野県党大会で特別決議できめたこの4日間の党勢拡大期間、最終日の今日も減らしてはならんと頑張りました。全県の頑張りで長野県は日刊紙も日曜版も前進して、ほっとしたところです。

 

私が党と赤旗を知ったのは、大学に入ってからです。

 

宮城県は高校3原則が守られておらず、私が入ったのも石巻女学校で、進学校のわりに良妻賢母教育でした。

受験勉強にあくせくすることに嫌気がさして、親しい友人に「おかしくないか」と言ったところ「すべてわきに置いて、今は勉強が第一」との答え。

 

回りの雰囲気になじめず、反発して勉強はサボりにサボっていた。2年生で、成績はびりっけつまで下がってしまった。そののち私が30才すぎてから、何かの折に、母に「高校に入ってから成績表を全く見せなくなったね」と言われて、ドキッとした。知ってたんだ!!それを私にずーっとわなかった母!!

 

それでも私は、家の財力では国立大学しかいけないことはわかっていたから、何とか合格には間に合わせられました。宮城教育大学に入りました。

国立でも、入学金の1万円も借金して入りました。当時、学費は年間1万2千円。寮費は朝晩2食付きで6000円でした。

 

特別教育奨学金を受けました。利息はありません。教員になったので、大学の奨学金は免除されました。高校の分は、就職したのち、1年に一回、誕生日に確か5000円ほど20年かかって返済すればよかった。

今とは全く違います。大変後退しています。

 

大学の入学式の時、門前で、学生がハンドマイクで演説していました。「佐藤首相が・・・」と言っていた。「なんで佐藤首相が私たちに関係あるの?」と違和感を感じた、政治音痴の単純な文学少女でした。

 

教育研究サークルに入った。すばらしい先輩がたくさんいました。

そこから、目の前がだんだん開けてきた。赤旗の存在も知り読むようになった。

 

大学寮の寮長選挙があって、薦められて立候補をして当選した。対立候補はトロツキストだった。大学の自治の何たるかを、この経験で知った。もう一つ言えば、寮長になったおかげで、東北大の寮にいた夫と知り合えた。最大の収穫!!

 

そのころ父が職場で機械に挟まれ右腕を失った。私が20才の時、父は66才の無年金者だった。労災が適応され、障害年金をもらえるようになった。

弟が二人、まだ高校生。父は「右腕一本で生活が保障された。ありがたい」と言った。

 

この理不尽さのからくりを私は知るようになっていた。戦争と貧しさは政治が作り出したもので表裏一体なんだ。それを無くそうとしているのが共産党、迷わず入党した。入党させてほしいと頼みに行った。

 

おかしいことは正さなくては。入党以来47年、ますます、共産党員であることを誇りにして生きています。

 

それが私の党との出会い、赤旗との付き合いの始まりです。我が家では日刊紙は2部、配達されます。私も夫も、朝に読むことが習慣でもあり、一日の仕事や活動に欠かせない日課ででもありす。だから取り合いしないように、2部、どうしても必要なのです。

 

赤旗をお勧めするのは、大変勇気の入ることでもあります。でも、本当に赤旗のすばらしさを実感するたびに、ああ、読んでほしい!とこころから思うのです。

赤旗発刊90周年、党創立95周年、この年月の重さよ。この年月を生きてきた先駆者の足跡を踏みしめて、また、私も明日を生きよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする