蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

対岸の彼女

2009年08月11日 | 本の感想
対岸の彼女(角田光代 文藝春秋)

角田さんの本をいままで読んだことがなかった。ふと、立ち読みした、あるムック誌に掲載された「旅と日常」(という題だったと思う)という短いエッセイが抜群にいい内容(立ち読みしながら泣きそうになるくらいよかった)だったので、代表作といってよさそうな本書をよんでみた。

私は、自分が貧乏くさい性格なので、貧乏くさい話を読むのが好き。

子育てにちょっと飽きが来た主婦(小夜子)が仕事をさがすがなかなかみつからず、やっと見つけた職場は旅行代理店っぽい見かけだったが、実際の仕事は家事代行(掃除)だった。就職先の女社長(葵)は自分と同期で大学も同じ。しかし、華麗なキャリアウーマンというわけではなくて、事務所はマンションの一室だし従業員のつきあげと資金ぐりでアップアップの毎日。
と、いうのが本書の設定で、貧乏くささ満点なので、初めはあそこが気に入っていた。

しかし、読み進むにつれ巧妙な構成と骨太な主題が次第に明らかになって、久しぶりに読み応え満点の小説らしい小説を読んだ気分になった。

上記の設定の小夜子と葵のエピソードと、葵の高校時代の思い出が交互に語られる。

葵は高校時代、いじめにあって転校し、転校先でナナコという風変わりな同級生と仲よくなる。
ナナコは学校では特定の仲良しグループに属さない。ナナコは、葵にいじめを恐れる必要はないといい、その理由として「そんなところに私の大切なものはないから」とさらりと言う。

しかし、ナナコは育児放棄同然の家庭に育ち、家にも学校にも「大切なもの」はないかに見えた。

葵とナナコは夏休みに二人でペンション手伝いのアルバイトをし、そのまま夏休みが終わっても家に帰らず横浜あたりをさまよい歩く。金が尽きかけて二人は自殺をはかる。

小夜子は変化のない日常といやみったらしい主婦グループとの関係に嫌気がさして就職したが、いいかげんだけどエネルギッシュで細かいことに捉われない葵と出会って、生きていくことの意義みたいなものに目覚めていく。
掃除の仕事にやりがいを見出したあたりで葵が突然その事業を止めるといいだして、いったんは会社をやめてしまうが、退屈な日常に戻ることはやっぱりできなくて、会社へ(というか、葵のもとへ)まいもどる。

二つのエピソードに共通しているのは、主体性があって何が大切なことなのかがよくわかっていそうなキャラと、迷いがあって依存性が高いもう一つのキャラの友情を描いていること。

小説として面白いのは、高校時代のエピソードにおいては葵が依存キャラなのに、現時点エピソードでは葵が主体キャラに変わっていること(現時点エピソードの葵は、実はナナコが葵の名前を使って“なりすまし”をしているのではないか、というミステリっぽい想像をしたのだが、違っていた)。

また、高校エピソードにおいては葵の視点で描かれるのに、現時点エピソードにおいては葵が見られる側として描かれるというのも、趣に富んだ構成だった。(両行とも依存キャラの視点で語られるが、片方のエピソードは依存キャラの視点で、もう一方は主体キャラの視点で描く、というのも面白そうだと思った)

日常生活にこれといった不足も不満もないけど、何か煮詰って追い詰められた感覚にとらわれてしまう、というのは今の日本社会における典型的な「不幸」の形だと思うけれど、そうした「不幸」を感じてしまうことのつまらなさ、みたいなものが上手に表現されていたと思う。
コメント
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