2022年6月1日(水) 〈②石神井城跡から3つの社寺へ〉
石神井池から三宝寺池の北岸を回り、三宝寺池の南岸を折り返すように東進して、三宝
寺池の南岸際にある石神井城址碑際へ。
傍らには石神井城跡の説明パネルもある。
その横から南側へ斜面を上がると、左手(東側)一帯はネットで囲まれていて、この辺
りが石神井城の中心内郭跡だという。
ここにも、詳しい説明パネルがあった。
周辺は緑豊富な森になっていて、その西側一角に抜ける道があり、氷川神社が祭られて
いるようなので、回ることにした。
境内や周辺を豊富な樹林に囲まれた氷川神社は石神井郷の総鎮守。室町時代の応永年間
(1394~1428)、この地を領していた豊島氏が石神井城内に城の守護神として祭
ったのがはじまりのよう。
社殿は本殿、拝殿ともに流造りと呼ぶ様式で、拝殿は1901(明治34)年の落成。
東側の神楽殿↓は1937(昭和12)年の建立とか。
境内は2,000坪あり、隣接する石神井公園とともにかなり以前から東京の風致地区、
禁漁区に指定されていて、正月三が日は地元の参拝客で賑わうという。
願いを記して奉納されたたくさんの絵馬
西側には2棟の摂社が並び、その手前に小さな水田がある。収穫された米は、秋の祭礼
に奉納されるのだろうか・・
南側の鳥居を出て、ケヤキどの並ぶ長い参道を進む。
参道には咲き残るツツジや、咲き出したアジサイも目につく。
参道の中ほどを都道25号・旧早稲田通りが横断しているが、参道の南端まで進み、左
折して東進し、三宝寺(さんぽうじ)の門前へ。
三宝寺は、不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺院で、室町時代の応永元(1394)
年の開山とか。文明9(1477)年に石神井城落城の後、現在地に移ったといわれてい
るようだ。
戦国時代には小田原北条氏、江戸時代は徳川氏から保護を受け、近くに数十の末寺を持
ち、府内八十八か所霊場の第16番札所だという。
山門は、三代将軍家光が狩りをした際、ここを休憩所としたことから「御成門」と呼ば
れるようになったと伝えられているようだ。
その御成門を入ると、右手の鐘楼堂と左手の大黒堂↓の周辺に、「ねりまの名木」に選
定されているアカマツ、サルスベリ、そしてイチョウが立っていた。
アカマツ
サルスベリ、樹高10m、幹の周囲1.5m
イチョウ,樹高26m、幹の周囲3.6m
大黒堂の前にはツツジも咲き残る。
まずは正面の本堂に参拝する。
本堂の西南、少しの階段を上がると根本大塔が、本堂の西側奥には大師堂があり、その
間の樹間には四国八十八か所の砂を埋めたお砂踏霊場がある。その説明パネル
根本大塔への石段の左手↑が第1番と2番札所、右手↓が一巡を終える88番になって
いる。
石段を上がって多宝塔に参拝。
さらにその背後には大きな平和観音像↑が。その間、北側は観音堂↓である。
根本大塔の背後、樹間に並ぶ八十八ヶ所霊場の間を抜けて大師堂にも参拝した。
大師堂近くに立つ弘法大師像
本堂近くに咲くタチアオイとツツジ
鐘楼堂の東南側の長屋門をくぐり、三宝寺を後にする。
ちなみにこの長屋門は、もと練馬区旭町の兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者
の明電舎の事情で取り壊し処分になることを知り、当時の須田操練馬区長の斡旋により、
1960(昭和35)年に解体移築したものだという。
蛇足ながら、その頃私は練馬区内に住んでいたので、須田区長の名は覚えている。
少し東進すると、次の交差点の土塀際にお地蔵さんが立っていた。
その背後が道場寺(どうじょうじ)である。
南側正面に山門があるが、山門の周囲は柵で囲んであり、境内には右手、東側から入る。
道場寺は曹洞宗の寺で、応安5(1372)年、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時
(北条高時の孫)が、豊島氏の菩提寺として建立したもので、石神井城が落城した際には
焼失したとともいわれているよう。
山門は室町様式で、山門を入った左手には鎌倉様式の三重塔が立っているが、アカマツ
やモミジなどに阻まれて全容は眺められないのが残念。
右手(東側)の鐘楼は安土桃山時代の様式で、総檜造りとか。
正面の本堂は1937(昭和12)年の改築、奈良の唐招提寺を模した天平様式で屋根
には鴟尾(しび)が目につく。
境内は豊富なモミジの新緑でみずみずしく、アカマツも多く、「ねりまの名木」のサル
スベリの高木もある。
本堂近くにはアジサイやスミダノハナビ、カシワバアジサイなどが咲き出しているが、
何れも白花である。
門前の所沢道↑を東進し、次の交差点で左折して北に延びる都道44号に入る。
石神井図書館横を進めば、今日の目的地、石神井公園ふるさと文化館は斜向かいにあり、
土手にはたくさんのツバナ(チガヤ)が穂を見せている。〈続く〉
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石神井池から三宝寺池の北岸を回り、三宝寺池の南岸を折り返すように東進して、三宝
寺池の南岸際にある石神井城址碑際へ。
傍らには石神井城跡の説明パネルもある。
その横から南側へ斜面を上がると、左手(東側)一帯はネットで囲まれていて、この辺
りが石神井城の中心内郭跡だという。
ここにも、詳しい説明パネルがあった。
周辺は緑豊富な森になっていて、その西側一角に抜ける道があり、氷川神社が祭られて
いるようなので、回ることにした。
境内や周辺を豊富な樹林に囲まれた氷川神社は石神井郷の総鎮守。室町時代の応永年間
(1394~1428)、この地を領していた豊島氏が石神井城内に城の守護神として祭
ったのがはじまりのよう。
社殿は本殿、拝殿ともに流造りと呼ぶ様式で、拝殿は1901(明治34)年の落成。
東側の神楽殿↓は1937(昭和12)年の建立とか。
境内は2,000坪あり、隣接する石神井公園とともにかなり以前から東京の風致地区、
禁漁区に指定されていて、正月三が日は地元の参拝客で賑わうという。
願いを記して奉納されたたくさんの絵馬
西側には2棟の摂社が並び、その手前に小さな水田がある。収穫された米は、秋の祭礼
に奉納されるのだろうか・・
南側の鳥居を出て、ケヤキどの並ぶ長い参道を進む。
参道には咲き残るツツジや、咲き出したアジサイも目につく。
参道の中ほどを都道25号・旧早稲田通りが横断しているが、参道の南端まで進み、左
折して東進し、三宝寺(さんぽうじ)の門前へ。
三宝寺は、不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺院で、室町時代の応永元(1394)
年の開山とか。文明9(1477)年に石神井城落城の後、現在地に移ったといわれてい
るようだ。
戦国時代には小田原北条氏、江戸時代は徳川氏から保護を受け、近くに数十の末寺を持
ち、府内八十八か所霊場の第16番札所だという。
山門は、三代将軍家光が狩りをした際、ここを休憩所としたことから「御成門」と呼ば
れるようになったと伝えられているようだ。
その御成門を入ると、右手の鐘楼堂と左手の大黒堂↓の周辺に、「ねりまの名木」に選
定されているアカマツ、サルスベリ、そしてイチョウが立っていた。
アカマツ
サルスベリ、樹高10m、幹の周囲1.5m
イチョウ,樹高26m、幹の周囲3.6m
大黒堂の前にはツツジも咲き残る。
まずは正面の本堂に参拝する。
本堂の西南、少しの階段を上がると根本大塔が、本堂の西側奥には大師堂があり、その
間の樹間には四国八十八か所の砂を埋めたお砂踏霊場がある。その説明パネル
根本大塔への石段の左手↑が第1番と2番札所、右手↓が一巡を終える88番になって
いる。
石段を上がって多宝塔に参拝。
さらにその背後には大きな平和観音像↑が。その間、北側は観音堂↓である。
根本大塔の背後、樹間に並ぶ八十八ヶ所霊場の間を抜けて大師堂にも参拝した。
大師堂近くに立つ弘法大師像
本堂近くに咲くタチアオイとツツジ
鐘楼堂の東南側の長屋門をくぐり、三宝寺を後にする。
ちなみにこの長屋門は、もと練馬区旭町の兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者
の明電舎の事情で取り壊し処分になることを知り、当時の須田操練馬区長の斡旋により、
1960(昭和35)年に解体移築したものだという。
蛇足ながら、その頃私は練馬区内に住んでいたので、須田区長の名は覚えている。
少し東進すると、次の交差点の土塀際にお地蔵さんが立っていた。
その背後が道場寺(どうじょうじ)である。
南側正面に山門があるが、山門の周囲は柵で囲んであり、境内には右手、東側から入る。
道場寺は曹洞宗の寺で、応安5(1372)年、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時
(北条高時の孫)が、豊島氏の菩提寺として建立したもので、石神井城が落城した際には
焼失したとともいわれているよう。
山門は室町様式で、山門を入った左手には鎌倉様式の三重塔が立っているが、アカマツ
やモミジなどに阻まれて全容は眺められないのが残念。
右手(東側)の鐘楼は安土桃山時代の様式で、総檜造りとか。
正面の本堂は1937(昭和12)年の改築、奈良の唐招提寺を模した天平様式で屋根
には鴟尾(しび)が目につく。
境内は豊富なモミジの新緑でみずみずしく、アカマツも多く、「ねりまの名木」のサル
スベリの高木もある。
本堂近くにはアジサイやスミダノハナビ、カシワバアジサイなどが咲き出しているが、
何れも白花である。
門前の所沢道↑を東進し、次の交差点で左折して北に延びる都道44号に入る。
石神井図書館横を進めば、今日の目的地、石神井公園ふるさと文化館は斜向かいにあり、
土手にはたくさんのツバナ(チガヤ)が穂を見せている。〈続く〉
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