あるきメデス

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東海道品川宿や京浜運河緑道公園、大森貝塚遺跡などを巡る(東京)

2018-03-13 22:22:43 | 江戸・東京を歩く
 2018年3月11日(日)

 東日本大震災から7年の今日は、カントリーウオークグループの第251回例会に参加
した。集合はJR山手線、東海道線などの品川駅。10時01分にスタートする。


 == 東海道品川宿を鮫洲公園まで ==

 東側の港南口を出て、超高層ビルの並ぶ品川インターシティ東側の遊歩道を南へ、東側
一帯は中央卸売市場の食肉市場である。
     

 南端の道路を渡ると「しながわ百景」のひとつ、小さなお堂の稲荷堂がある。
    

 南側に天王洲運河の西端近くが延びていて、観光用の屋形船が係留されていた。


 運河の手前を西進して、運河の西端で八ツ山通りに入り南東へ。「品川浦船だまりと」
呼ばれるところで、ここにも幾つもの屋形船が見えた。


 少し進むと小スペースの品川浦公園で、背後の利田(かがた)神社には鯨碑(鯨塚)が
ある。


 利田神社は、寛永3(1626)年に近くの東海寺の沢庵(たくあん)が弁財天を勧請
(かんじょう)したのが始まり。当地一帯を安永3(1774)年~天保5(1834)
年に南品川宿の名主、利田吉左衛門が開発したことから利田神社と称されているようだ。

    
 鯨碑は、寛政10(1798)年5月に暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨の供養碑で、鯨
の体長は約16.5m、高さ約2mの大鯨で、江戸中の評判になり、ついには11代将軍
家斉が浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)で上覧する騒ぎになったという。

 次の交番のある交差点を入り、西側に平行する東海道に回って品川宿を南下する。

 東海道品川宿は、目黒川を境に南北の2宿で成り立っていたが、享保7(1722)年
に北品川宿の北に歩行新宿(かちしんしゅく)が加わり、3宿で宿場の任にあたったとか。

 日本橋を出て最初の宿場で、天保14(1843)年には北品川宿に本陣が1軒、南品
川宿と歩行新宿に脇本陣が1軒ずつあったという。


 少し進んだ品海公園の花壇には、北隣の民家に使われていた東海道品川宿の石垣石が残
っていた。石材は房総の鋸山産の凝灰岩(房州石)とのこと。

 近くのT字路際に東海七福神のひとつ、寿老人を祭る一心寺(いっしんじ)がある。創
建は安政2(1855)年で江戸三十三観音霊場第30番札所だが、境内はわずかである。


 T字路を西に入った突き当たりは、東海七福神・布袋尊の養願寺。創建は正安元(1299)
年と伝えられ、本尊の虚空蔵尊は「品川の虚空蔵さま」と呼ばれ、丑(うし)・寅(とら)
年生まれの守本尊として信仰を集めているようだ。


 少し先、東に伸びる細い歩道の入口に「品川宿本陣跡」の標石が立っていた。



 国道357号・山手通りを横断して品川宿交流館に入る。まちの有志の方々が運営する
無料お休み処で、懐かしい駄菓子を販売し、品川宿に関する展示などもある。


 すぐ南は目黒川の品川橋で、北品川宿と南品川宿の境になる。橋を渡らずに川沿いを上
流側へ。次の朱塗りの鎮守橋の北側が東海七福神・恵比寿神の荏原(えばら)神社である。
       


 和銅2(709)年創建の古社で、品川宿の総鎮守とか。天正19(1591)年には
徳川家康から神領を寄進され、明治元(1868)年の東京遷都の際は、明治天皇の内侍
所(ないしどころ・三種の神器のひとつ、神鏡を安置した所)になったという。
     


 鎮守橋を渡り、品川橋の南側で東海道筋に戻る。



 次の路地を西進して、突き当たりの海徳寺へ。



 境内にはヒカンザクラやミツマタが咲き、本堂近くにはハクモクレンに似た花も咲いて
いた。
       

    


 東海道浜松宿から贈られたという、黒松のある「街道松の広場」を過ぎる。近くには木
造2階建ての古い洋館が残っていた。


 都道421号・池上通りを過ぎ、京浜急行の青物横町駅を背にした東海七福神、毘沙門
天の品川寺(ほんせんじ)に入る。

 道路際に、都指定有形文化財で江戸六地蔵のひとつ、銅造地蔵菩薩坐像がまず目につく。
     
 この地蔵は、江戸六地蔵で最も古い宝永5(1708)年の造立で、像高2.75mあ
り、江戸中期の鋳造像では大作という。


 山門の手前に、亀かと思われるものに背負われた珍しい石灯籠がある。
     

 境内右手には、幹回り5.35m、樹高25m、推定樹齢約600年という「品川寺の
イチョウ」がまだ枯れ枝を高く伸ばしていた。
     


 品川寺は承応6(1652)年の中興、本尊の水月観世音菩薩は太田道灌の念持仏と伝
えられているとか。

 格天井(ごうてんじょう)に梵字など記された鐘楼に下がる大鐘は、明暦3(1657)
年の造立。高さ約1.5m、重さ約1トンあり、4代将軍家綱の寄進といわれる国の重要
美術品。
     
 慶応3(1867)年のパリ万博、明治4(1871)年のウィーン万博に出品後行方
不明になり、その後ジュネーブの美術館に保管されているのが分かり、昭和5(1930)
年に返還されたという。


 都道420号を横断し、南東側近くにある昼食地の鮫洲(さめず)運動公園に12時05
分に着いた。温かくなった日曜日とあり、園内は子ども連れの家族などで賑わう。


 == 京浜運河緑道公園から品川歴史館や大森貝塚遺跡へ ==
 
 昼食後ミーティングをして、 12時46分に鮫洲運動公園を後にする。東海道の東側
に並行する道を500m近く進んで東へ、勝島運河のカーブ地点に出た。


 すぐ北側に新しい公園があり、河津ザクラだろうか見ごろになっていたので、桜を背に
記念撮影をする。



 ナノハナの咲く勝島運河を少しで都道316号・湾岸通りの鮫洲橋を渡る。


 橋の南側に、たくさんのユリカモメが飛翔していた。


 湾岸通りが首都高1号・羽田線の高架下を抜けたところで東へ、京浜運河の右岸から車
の通れぬ斜張橋・かもめ橋を渡って左岸に回る。
     

 橋際のヤナギが早春の淡い彩りを見せ始めていた。



 左岸に沿って松などの植栽が続き、岸辺にはナノハナが咲く京浜運河緑道公園が伸びて
いる。小休止してから緑道を南下する。



 流れにはバンが泳ぎ、対岸の高架を東京モノレールの車両がひっきりなしに通過するの
が望まれた。

 次の勝島橋際まで進んで緑道公園を離れ、橋を渡って西に向かう。



 大井競馬場の北側や勝島運河の南端を進み、京急立会川(たちあいがわ)駅に近い南大
井一丁目の天祖諏訪神社へ。

 ここも東海七福神の福禄寿を祭るところ。北側の弁天池には厳島神社も祭られていた。


 境内の左手裏手に抜けて立会川を渡った北浜川児童遊園に、坂本龍馬像がある。
     
 ペリー来航の嘉永6(1853)年、19歳の龍馬は江戸で剣術修行中で、土佐藩は立
会川河口付近の下屋敷警備のため江戸詰の武士を動員し、龍馬もその中に加わっていたと
か。いわば龍馬の幕末の出発点ともいえる地のようだ。

 京急立会川駅際の高架下を通過して国道15号・第一京浜通りを横断し、アーケードの
ある狭い商店街を西に抜ける。


 立会川右岸沿いを少しで左折して浜川小前を過ぎる。校門には、東日本大震災7年を追
悼する弔旗が掲げられていた。

 JR京浜東北線のガード下を西へ、大井六丁目で都道421号・池上通りに出た。


 近くの品川区立品川歴史館に14時25分頃入館し、常設展示室で品川宿を中心に、区
内の原始・古代から現代にいたるまでの多くの歴史資料などの展示を観覧する。




 さらに企画展「災害と品川」の展示などを見て、14時50分に退館した。


 池上通りを南下して鹿嶋神社前を過ぎ、大井六丁目の大森貝塚遺跡庭園に入る。

 大森貝塚は、アメリカの動物学者モース博士が明治10(1877)年に貝の研究で来
日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から発見し、発掘したところ。この発掘は日本初の
学術的発掘で、大森貝塚は「日本考古学発祥の地」だという。
       
 園内にはそのモース博士像をはじめ、縄文の広場を中心にモースの広場、貝塚学習広場、
縄文体験広場などあり、北側の線路側には貝塚跡が、東北側には発見当時の貝塚を復元し
た貝塚展示ブースなども造られていた。




 以前私は、NTT大森山王ビルのそばにある遺跡を見たことがあるが、この場所は初め
てだった。

    
 池上通りを南下して大田区に入る。そのNTTデータビル前には、貝塚発掘125周年
記念の、石を用いた展示物がある。

     
 ビルの横をJR京浜東北線の線路際まで下ると、「大森貝墟」碑が立ち、下る途中には
「モース博士と大森貝塚」の紹介パネルと、貝をデザインした「モースゆかりの地」碑が
並んでいた。


 ゴールのJR京浜東北線大森駅はすぐ近く、15時26分に着いた。

(参加 12人、天気 晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、歩行地
 品川区、大田区、歩数 18,900)

 なお、この日の夜、NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」の、ドラマ後のゆかりの地
紹介は品川宿だった。




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