あるきメデス

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川越市北東部の寺社を巡るカントリーウオークへ(埼玉)

2015-10-11 22:31:57 | カントリーウオーク
 2015年10月10日(土)

 埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの、第227回例会に参加する。集
合地は東武東上線の鶴ヶ島駅。

 参加した12人は2組に分かれて、10時8分に駅西口をスタートした。

 == 東洋大構内を抜けて小畦川の北側を東進する ==

 線路沿いを東へ、最初の踏切を渡り、東洋大川越キャンパスへ新西門から入った。クヌ
ギやコナラなど武蔵野の雑木林を残した「こもれびの道」を抜けてキャンパス中心部へ。


 「学祖井上円了先生」胸像があった。井上円了(えんりよう)は、仏教哲学者で教育家。
多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、東洋大学の前身、哲学館を29歳の若さ
で明治20年(1887)年に創立したという。
        

 南側には、100m9秒台が期待される桐生祥秀(よしひで)選手も練習する公認陸上
競技場↓や、ラグビー場、野球場、テニスコートなどがある。


 日よけのフウセントウワタが延びた学生ホール食堂棟↓や、やはり食堂もある福利厚生
棟に近い、木のベンチで小休止する。学内を東端まで進んで、大越門から出た。


 道路を挟んで東側の、川越市民の森に入る。この森には、北側の下広谷から午後行く南
側の河越館跡近くを通る鎌倉街道が通っているとか。ここにも、豊富な武蔵野の雑木林が
残っていた。
     

 名細(なぐわし)中の東北端から県道39号を少し南東へ。

 東側の小さい森に八幡神社が祭られ、石段を下った段丘下の小さな池からは、きれいな
湧水が流れ出ていた。


 隣接してコンクリート造りの能満寺があるが、門は閉じられ入れない。


 東側は名細小、その北側の通りを北進して小堤(こづつみ)集落へ。少し西に迂回して
さらに北進する。

    
 畑の隅に何本かのムラサキシキブが色づき、コスモスが花盛り。民家の庭先のカキも色
づいていた。


 集落の北西端にあった白山神社に入る。慶長2年(1597)、加賀の白山山頂
(2720m)にある白山比(はくさんひめ)大神を勧請したもので、現在の社殿は、
昭和57年(1982)の再建という。境内は狭いが、社殿は堂々たる造り。


 社前の通りを東に向かう。2つの送電線の中間辺り、広いソバ畑の秋ソバの花が花盛り。


 広い工場の北側を通過し、標高21m地点の変則交差点を右折する。南北に走る道路と
の三差路際のコスモス畑がちょうど見ごろ。


 その先の十字路際には、キバナコスモスも咲き乱れていた。


 下小坂(しもおさか)集落の南端付近にある永明寺へ。堂々たる本堂で、境内の木々も
よく手入れされている。


 境内のお堂に祭られた六地蔵は、きれいな衣装で並んでいた。



 南側に見える清掃センターの方角に向かう。


 小畦(こあぜ)川の精進場橋を渡り、右岸堤防を清掃センター沿いに進む。

    
 センターの池にサギが1羽立ち、その先では男性が丹念に絵筆を走らせていた。
        

 清掃センターの西に接した、開園間もない「なぐわし公園」に12時40分に入り、東
北端の東屋(あずまや)の周辺で昼食にした。


 == なぐわし公園から河越館跡へ ==

 公園内には「PiKOA」と呼ぶ清掃工場の廃熱を利用した大きな温水利用型健康運動
施設が設けられ、温水プールや多目的ホール、会議室、軽食コーナーなどがあり、川越市
民の健康生活の支援をしていて、大勢の市民が利用していた。


 PiKOA内を少しのぞいた後、記念撮影をして13時42分に公園を後にする。


 公園の南西すぐ間近、鯨井集落の北端に、静かで落ち着いたたたずまいの青林寺があっ
た。本堂前に大イチョウが立つが、ギンナンは落ちていない。


     
 南側の通りの角の民家に、奇妙にねじれたアカマツが目を引く。近くの畑のホウキソウ
がよい彩り。
    

 その横から畑の間を進み、裏手の墓地から長福寺に入った。寺は、永享8年(1436)
に、雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)が開山したとのこと。


 本堂の前には、川越城を築いた太田道灌を曹洞宗に導いた雲崗俊徳と道灌の銅像がある。
         
 銅像は、2011年3月に、静岡県伊東市の彫刻家重岡建治氏により制作されたものら
しい。

    
 交通量の多い、南側の県道39号を西進する。民家の庭先のキクが見ごろに。近くの十
字路の先の八坂神社境内に入る。



 道路際には社殿より大きな東方薬師堂があり、その傍らに「鯨井のヒイラギ」と呼ぶヒ
イラギの古木が立ち、川越市指定天然記念物に指定されていた。

 すぐ先のY字路を左へ、川越西文化会館「メルト」に入り、15時までの30分近くを
休憩とする。


    
 ホールでは歌謡祭を開催中。展示場での地元のフォトクラブの写真展を観覧し、会場内
のソファなどで休憩した。


 すぐ近く、南側の上戸(うわど)集落には日枝神社がある。本殿と、室町時代製作と推
定される内陣の懸仏(かけぼとけ)は、川越市指定文化財である。

 日枝神社は、貞観(859~77)の頃、陸奥の修行僧が建立したと伝わる古社。永暦
元年(1160)、後白河法皇が京都東山に新日吉神社を祭ったことに伴い、翌年河越重
隆が河越三十三郷を後白河法皇に寄進し、以後法皇の御領地となり、新日吉山王権現と称
されるようになったという。


 東北東に進み、県道114号との交差点に合する。交差点の北側に、木の塀を巡らした
広い屋敷の門があり、巨木の柱の門柱と厚い横板に目をひかれた。


 上戸集落の東側に出た。入間川左岸に近い一帯は国指定史跡の河越館跡(かわごえやか
たあと)で、広々とした草地が残る。


 河越館跡は、平安時代末期から南北朝時代中頃までの約200年間、武蔵国で大きな勢
力を誇ったこの地の領主で、桓武平氏(かんむへいし)秩父氏の流れを汲む河越氏の居館
(きょかん)跡。

 河越氏は源頼朝が挙兵すると初め敵対し、後に御家人になる。だが義経と頼朝の仲違い
から、義経縁者であることから河越重頼(しげより)らは滅ぼされ、一時衰えたという。

 しかし、鎌倉中期、高野山に町石(ちょういし)を建てた経重の頃はかつての勢力を回
復しつつあったとか。鎌倉時代の後半、館の中に時宗常楽寺が開山され、大勢の人で賑わ
ったようだが、応安元年(1368)に鎌倉府に反旗を翻して破れ、以降、河越氏は政治
の舞台から姿を消し、河越氏と館の関係も幕を閉じたという。


 館跡の南東部に今も残る常楽寺に回ってみた。大釜や古い消防ポンプが保存され、2階
が鐘楼の仁王門をくぐると、正面に大本堂がどっしりと構えていた。


 入間川左岸沿いから上戸新町の住宅街を南西に抜けて、ゴールの東武東上線の隣駅、霞
ヶ関駅に16時に着いた。

(参加 12人、天気 晴後曇、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 川越北部、歩行
 地 川越市、歩数 19,600)




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