あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

西武ハイキングで飯能から仏子へ入間川沿いを散策(埼玉・飯能&入間)

2021-06-04 12:04:51 | ウオーキング
 2021年6月2日(水)

 今日は西武鉄道のウィークデーハイキングに参加して、飯能(はんのう)駅から仏子
(ぶし)駅までを歩いた。


 西武池袋線下り電車に乗り、10時08分に飯能駅に着いた。南口のスタート受付で受
付を済ませて地図をもらい、10時25分にスタートする。


 駅前通りを南西に延びる美杉台通りを緩やかに下り、入間川(いるまがわ)の飯能大橋
を渡る。上流の堰堤(えんてい)の上の流れは最近の少雨で淀んでいて、緑色の藻らしい
のがいっぱい望まれる。


 橋を渡りV字状に折り返すように北西側の美杉谷方面に向かい、反時計回りに半円形に
上り坂を進む。


 上がりきった辺りは美杉台公園で、ヤマツツジが咲き残る。


 美杉台の戸建て住宅地を下る歩道沿いには、カエデかと思われる街路樹が続く。
     


 美杉台小学校バス停前の前に「生活の木 薬香草園」呼ぶ施設があり、道路際のヤマボ
ウシは花いっぱい。
     

 その先には「ひかり公園」があり、間もなく美杉台通りを美杉台入口交差点で横断する。


 ブルーベリー畑のブルーベリーは実が膨らんできていた。


 少し先で細道に入って下り、大蓮寺の前を過ぎる。



 南側に緑豊富な展望が広がり、眼下のクリ畑は花盛り。


         道路際のたわわに実る梅の実も大きくなっていた。
         

 近くの交差点際に、移設された天保5(1834)年造立の大きな庚申塔が立っていた。
     

 たくさんのソーラーパネルに覆われた浄化センター際に出ると、東方に駿河台大の建物
群が望まれる。



 入間川の支流、成木川の左岸に出た。上流には3段の小ダムが望まれ、流れを見ながら
左岸沿いに下流に向かう。





 浄化センター入口前で新大橋を渡り、右岸に近い道路を少し進んで成木川と入間川との
合流点に出た。この辺りが今日のハイキングの中間点のよう。



 入間川右岸に沿った緑豊富な遊歩道となり、鍛冶橋の下を東に抜ける。



 橋の先からは、桜並木の続く遊歩道沿いとなり、正午近くなったので流れを眺めながら
昼食をする参加者も。









 500mほどで桜並木が終わり、JR八高線(はちこうせん)の高架橋下を抜ける。橋
際には休憩舎が。


 川から離れてさらに進み、駿河台大キャンパスの北側を過ぎると、再び入間川右岸沿い
に延びる阿須運動公園で、草地の続く遊歩道となる。



 右岸には何本ものオニグルミの木があり、堅そうな実が膨らんでいた。



 気持ち良い草地の中を爽やかな向かい風を感じながら、遊歩道は緩やかに左カーブして
1㎞余り進む。



 昨日から解禁になったようで、流れにはチラホラと釣り人が。


     
 たくさんオニグルミの実る木の下を抜けると間もなく、2つの橋が近づいてきた。


      最初の橋は車道の上橋で、対岸の橋際には大ケヤキが望まれる。
     

 その先で河岸沿いからアジサイの咲く横を上がり、西武池袋線の鉄橋が近づく。


 2つの橋の間には河川敷に枝をいっぱい広げた木が茂り、いまは付け替えられた西武線
の古いレンガ積み鉄橋の下をくぐる。



 西武線の鉄橋を過ぎると再び桜並木の遊歩道となり、その下にアジサイが続き、幾つか
のベンチも設けられていた。







 見ごろになったアジサイの何色もの彩りや、流れを見下ろしたりしながら入間川遊歩道
をゴールに向かう。

 右岸沿いの遊歩道を離れると間もなく、ゴールの「文化創造アトリエ・アミーゴ」で、
12時50分に到着した。道路に面しているのは事務所のある本館。



 のこぎり屋根など幾つもの建物の奥は入間川を見下ろす広い草地の公園で、その一角に
ゴール受付が設けられていた。



 ゴールの周辺には、アミーゴの役割を紹介する繊維製品の製造器具や製品などを展示す
るテントが並んでいる。
     




 ゴールしたウオーカーの多くは、草地や円形建物際のベンチなどで昼食中。私も水の無
いせせらぎの石垣に腰を下ろして昼食にした。


 食事を終えてから、入間川の流れを見下ろす。上流の橋の上に奥武蔵の山並みが望まれ
るが、今日は曇天で山容は分かりにくい。


 ちなみに、ここ「文化創造アトリエ・アミーゴ」は埼玉県繊維工業試験場の跡地。試験
場は大正から平成へと地元に密着し技術・品物・人を育ててきたが、平成10(1998)
年3月に歴史を閉じたという。

 平成13年2月からは、入間市文化創造アトリエ・AMIGO(アミーゴ)として、市
民により運営される文化創造拠点となり、入間らしい文化を創り出す施設となっている。

 ここには7つの建物があり、事務所や多目的ルーム、スタジオ、サロン、ホールとギャ
ラリー、織物工房や染色工房等に活用され、広い草地は公園になっている。

 食事後、幾つかの建物を回り、多目的ホールや織物工房の内部をのぞいてみた。

 こちらはのこぎり屋根の中の多目的ホール

          
      織物工房では、体験できる織機やその製品の直売をしていた。
          


 円筒形の建物、スタジオ・パティオの内部は見えず、そばにスモークツリーが咲く。


 13時30分にアミーゴを後にして、駅に向かう。

 事務所前の交差点の南西側、スーパー・ヤオコーの敷地に平岡仙太郎の胸像があった。
     
 平岡仙太郎はこの地で織物業を営んでいた平岡家の長男。昭和4(1929)年にレー
ス生産が有望と考えて刺繍レースの生産を始め、「平仙(ひらせん)レース」として最盛
期には全国レース生産の3割を占め、日本第2位の生産高になったとか。
 
 後に県議会議員や所沢織物工業組合の理事長として業界の発展にも尽力し、昭和12
(1937)年にアミーゴの地に仏子(ぶし)繊維指導所を誘致するなどの業績を残し、
仙太郎と平仙レースは社会事業や子女教育にも貢献し、地域の発展に大きな足跡を残した
という。

 ここヤオコーの敷地は、平仙レース第2工場のあったところのよう。


 交差点から南へと緩やかに上がり、13時36分に西武池袋線の仏子駅に着いた。13
時39分発池袋行き上り電車に乗る。

 (天気 曇、距離 8㎞、地図 西武ウィークデーハイキング用地図(1/1万4千)、
  歩行地 飯能市、入間市、歩数 15,600)




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世界遺産登録が決まった青森・三内丸山遺跡と岩手・御所野遺跡

2021-05-27 22:48:22 | ウオーキング
 2021年5月27日(木)

 昨日、ユネスコの諮問機関「イコモス」から、「北海道・北東北の縄文遺跡群」につい
て、世界遺産に登録することがふさわしいとする勧告をまとめ、ことし7月の世界遺産委
員会で世界文化遺産に登録される見通しとなったことが報道されました。

 遺跡群は北海道、青森県、岩手県、秋田県にある17の遺跡から構成されています。

 こうれらの遺跡群は、人々が採集・漁労・狩猟で食料を得ながら定住を確立した過程を
示し、農耕文化以前の人類のあり方や精緻で複雑な精神文化を顕著に示す物証だとして、
政府がユネスコに推薦していたものです。

 私は、このうち2つの遺跡にJR東日本の「駅からハイキング」で近年訪れていたので、
その遺跡の模様を少しだけ紹介します。

 最初は、2014年6月28日(土)に訪ねた青森県の三内丸山(さんないまるやま)
遺跡で、駅からハイキングのタイトルは「三内丸山遺跡から縄文文化とその歴史を学ぶ」
でした。

 三内丸山遺跡は、17の遺跡群の中で「学術上の価値が特に高い」とされているよう
で、国の特別史跡です。
 
 駅からハイキングの出発地はJR新青森駅でした。駅構内に展示されていたねぶた。


 三内丸山遺跡の入口


 最初に「さんまるミュージアム」と呼ぶ博物館で、発掘された遺跡などを観覧します。












 観覧後、この場所から三内丸山遺跡に向かいます。


 三内丸山遺跡は、草原の広がる広いエリアです。




      三内丸山遺跡のシンボルともいえる大型掘立柱建物
     
 なお、この大型掘立柱建物は現在、長寿命化工事のため仮設足場に囲われていて、見学
できないようです。


 掘立柱建物が何棟も復元されています。










 竪穴式住居






 爽やかな晴天で、気持ち良く三内丸山遺跡内を一巡しました。

 --------------------------------------
 
 もう一つは、2018年6月26日(火)に訪れた、岩手県の北部、一戸町(いちのへ
まち)郊外にある御所野(ごしょの)遺跡です。

 出発地は、旧JR東北本線が岩手県内を第三セクター化した、いわて銀河鉄道の一戸駅。


 遺跡のある一帯は「御所野縄文公園」になっていて、縄文時代中期後半(4000~
4500年前)の大規模な集落跡です。

 御所野遺跡では、7万5千㎡に及ぶほぼ全面にわたり800棟以上の竪穴住居が見つか
っており、平成5(1993)年に国指定史跡になっています。

 御所野遺跡には、この御所野縄文博物館から入ります。




 遺跡の地図


 博物館で最初に、発掘された土器などを観覧しました。


     鼻曲がり土器
    

 愛称「縄文ぼいん」と呼ぶ土偶


 建物内から見えた近くの遺跡


      建物内の観覧を終えて、御所野遺跡に入りました。
     

 復元された幾つかの竪穴住居





 あちこちで、クリの花が咲き競っていました。


 ここにも掘立柱建物が。
















 この日は曇天でしたが、新緑がいっぱいの気持ち良い遺跡でした。




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西武鉄道のウィークデーハイキングで狭山丘陵を歩く(埼玉・所沢)

2021-05-16 12:24:38 | ウオーキング
 2021年5月12日(水)

 わが所沢市には「まん延防止等重点措置」が今日まで適用中だが、さらに月末までの延
長が決まった。

 したがって、引き続き不要不急の外出自粛が要請されているが、ほとんどが市内南部の
狭山丘陵で3密にはなりそうにないので、西武鉄道のウィークデーハイキング「自然豊か
なみどりの里山散策!」に参加することにした。


 西武狭山線の終点、西武球場前駅に10時09分に着いた。参加者らしい人が予想以上
に多い。


 駅の間近にあるのが埼玉西武ライオンズの本拠、メットライフドーム



 駅前のテントで少しだけ並んで受付を済ませ、10時25分にスタートした。


     
 まずは県道55号・所沢武蔵村山立川線を東北に少しで、並行する緑陰の側道へ。そば
のキショウブが見ごろ。
          


 西武狭山線の高架下をくぐり、折り返すように南への急斜面を上がり、戸建て住宅地の
南側にある狭山湖畔霊園沿いの山道に入る。
     

 木々の間から見下ろせるこの墓地のどこかに、尾崎豊の墓があるという。東側には所沢
中心街のビル群も望まれた。


      墓地の南端になる最上部には、休憩所と思われる変形の建物がある。
     

          
 その横で墓地と分かれて南へ、すぐに「トトロの森19号地」があり、近くにウツギが
咲く。
     



     
      少し先から「菩提樹池里山保全地域」の遊歩道へ。
          

 林間の道は間もなく下りとなり、下りきると菩提樹池のほとり出た。



 池の南東側から林間を東進すると林が途切れ、「菩提樹田んぼ」と呼ぶ谷地田(やちだ)
が広がる。


 北側に管理用の小屋があり、その周辺でまずはひと休みする参加者が多い。



 所沢市内には田んぼが少なく、このような自然に囲まれた谷地田はほとんど見られず、
貴重な場所である。



 東側のあぜ道を南に進んで再び山道に入り、椎茸栽培用のほだ木の並ぶ横など通過する。
     

               
 山道は少しで谷間の畑のところに出て、北に向かう下り道となる。路傍に咲く花。




     
     穂の出たビール麦や、花の咲き出したジャガイモ畑の横などを進む。


 林が途切れて道は右折して東に向かう。コース外だが、すぐ北西側に見えた寺に寄り道
することにした。


 参道にツツジの刈り込みが並ぶ密厳院で、無住らしい境内にも幾つかの花が咲き、新し
い六地蔵が迎えてくれる。


     






 南側にある宝形造りのお堂の近くに、この寺や当地、旧菩提樹村の由来を示す標石も立
っていた。

 境内は豊富な新緑にあふれている。



 少し離れた東側の民家には庭先にたくさんの花が咲いていて、ウオーカー3人ほどが立
ち寄っているので私も回って撮らせてもらう。







 これだけたくさんの種類の花を咲かせている家は市内でも少ないと思われ、花好きで丁
寧な手入れをされていることがうかがえる。

     
 細い水路沿いの細道などを東北東に進み、南東へと折り返したところに「ねこぐるみ
Garden」の小さな看板を出した民家があった。
          
 屋根掛けの狭い棚や庭先や柱などに植物の鉢植えが並び、ポットで発芽させた苗もたく
さんある。

 さらに南側、古くからこの地にお住まいと分かる民家の玄関先には、郵便ポストや鉄道
の転轍機(てんてつき)、バス停の看板などが並んでいる。


 庭の東南側、小屋がけの下にはバスらしいのが見えた。


 南進して狭山丘陵近くまで進んで左折し、大塚地区の戸建て住宅の中を東に抜ける。

 住宅地の東端で市道の山口城址通りに出て南へと緩やかに上がり、西武山口線の西武園
ゆうえん地駅近くで多摩湖自転車歩行者道に入って南東へ。


 少し進むと東京都民の水源の一つ、多摩湖(下湖)堰堤(えんてい)の北東端周辺の広
場がある。多くのウオーカーが立ち寄り、昼食をする人も多いので私も入った。


 多摩湖を一望できそうな盛土の上にアーチのあるところに上がると、堰堤の全景や取水
塔、北側にはいまは休園中の西武園ゆうえん地の大観覧車などが望まれた。




     

 このアーチの下にあるのは、大正12(1923)年に堰堤を盛り立てる際、そこに流
れていた宅部川の水を堤の外に抜くために設置された、排水路トンネルの一部のよう。

 近年行われた堤体の補強工事の際ぶ掘り出されたので、当時の土木技術を後世に伝える
土木遺産として保存・展示しているという。

 
 そばの休憩舎の横に回ると多摩湖(下湖)が一望できるが、その先の奥多摩方面の山並
みは曇天のため霞んでいた。



 堰堤の北西端近くにある休憩所↑、ここや周辺の芝生地で昼食を始めたウオーカーも多い。




 ゴールの西武多摩湖線の多摩湖駅は、多摩湖自転車歩行者道を少し進んだところにある
が、ゴールの設定はないというので私はさらに自転車歩行者道を東進して、西武園駅まで
行くことにした。


 すぐ先に西武園ゆうえん地の入口があるが、現在はリニューアル工事で休園中。1週間
後の5月19日(水)にグランドオープンの予定のよう。



 西武ゆうえん地に沿って東進し、12時35分に西武 西武園線の西武園駅北口に着いた。


(天気 晴一時曇、距離 5㎞、地図 「西武鉄道ウィークデーハイキング 自然豊かな
 緑の里山散策!」用地図、歩行地 所沢市、東京・東大和市(わずか)、
 歩数 10,200)


 ここまででも、まだ普段の市内ウオーキングほど歩いていないので、さらに自宅まで歩
くことにした。

 駅の東側から南北に延びる市道を北へ、松が丘西交差点、光蔵寺、関地蔵尊、泉小、弁
天池の横などを通過し、約4㎞を歩いて13時50分に帰宅した。




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新狭山駅周辺の寺社や石仏などを巡る(埼玉・狭山)(後半)

2021-05-07 21:38:01 | ウオーキング
 2021年5月4日(火)〈続き〉

 梅宮神社のすぐ先で県道397号線・狭山環状道路を横断して南へ、上奥富集落に入り
瑞光寺へ。

 参道の両側にはよく整えられた植栽が並ぶ。


 瑞光寺は真言宗の寺院で、創建は大同2(807)年とか。本堂には室町時代かそれ以
前と推定される「紙本着色両界曼荼羅」2幅があり、市指定文化財になっているという。



 この境内も、よく手入れされた植栽が豊富で新緑がみずみずしい。
     






 境内西側には観音堂が祭られ、門の横には鐘楼もある。



 本堂前には弘法大師像や観音像が、さらにいくつかの立像が配置されていた。
     

 瑞光寺を後にして、国道16号線を横断すると南側は稲荷神社。境内西南側の斜面を上
がったところに浅間宮が祭られ、近くにツツジが咲く。
     



     
 正面に回り拝殿に参拝し、南側に並ぶ3本の鳥居をくぐって神社を出た。


 南東に進み、狭山ケーブルテレビ前で広い交差点を渡る。



 その先の民家の庭の一隅に、たくさんのハナビシソウが咲いていた。
         

          
 西武新宿線の踏切を渡って沢集落に入り、狭山環状道路から南に延びる県道126号線・
所沢堀兼狭山線を少しで、東側の深い森に覆われた天岑寺(てんしんじ)へ。

 参道の突き当たりにある惣門は沖縄風の様式。明治3(1870)年12月の火災を免
れ、創建当時の面影を留める唯一の建物とか。市指定有形文化財である。


 表裏の趣を異にした特殊な建造物で県下でも珍しいというが、中からの姿は撮り忘れた。

 天岑寺は、文禄3(1594)年に当地の旗本、小笠原安勝が開基したようで、安勝が
没した寛永18(1641)年の法要時には、朱塗りの華麗な七堂伽藍があったといわれ
ているという。

  
 僧門を入ると左手に、稲荷神社の小さい社殿や石造の五重塔、鐘楼などが続く。
      

         
          
 さらに先には「天岑寺月待供養の碑」があった。
     
 文明14(1473)年の造立で、高さ1.29m、秩父青石(緑泥片岩)で作った青
石塔婆(あおいしとうば)としては大きい部類に入るようで、市指定有形文化財である。


 大きな建物は正面の本堂のみだが、桜やケヤキ、モミジ、カシなど豊富な緑に囲まれた
広い境内が、七堂伽藍のあったという往時のことをしのばせてくれる。

 惣門に戻って天岑寺を後にして、参道の南側高みにあった法隆寺夢殿のような八角堂の
ところに回る。

 安穏寺(あんのんじ)の八角堂で、安穏寺は天岑寺の第6世 海峯碧州(元文4(1739)
年没)が隠居所として創建した曹洞宗の寺院とか。

 木像二階建ての八角堂は、宮大工界の最高峰という小川三夫棟梁による建立のよう。近
年の建築のようだが、説明パネルなどは無い。

     
 八角堂と天岑寺惣門との間の林を東に抜けたが、北側近くにあるはずの2つの神社への
道らしいのが見えない。その先に居られた方に聞くと、反対側に民家の間を下る市道があ
るとのこと。


 参道まで戻ると、下の車道に向かって下る草付きの土道があり、そばの畑にカキツバタ
がたくさん咲いていた。



 下った車道の北側は、茶畑と屋敷林などの新緑が気持ち良い。八十八夜を過ぎているの
で、そろそろ狭山茶の摘み取りも始まりそう。




 すぐ先のY字路の東側に、八坂神社と雷電神社の小さな社殿が祭られていた。

 八坂神社の鳥居をくぐった左手が雷電神社で、その名のとおり雷よけに祭ったと伝えら
れているが、咳(せき)止めに霊験あらたかとも言われているとか。
     

 正面突き当たりが八坂神社で、毎年7月中旬に「沢の天王様」と呼ばれる夏祭りが開催
されるという。
                          

 緩やかな坂を上がると新狭山小で、その先にはジャガイモ畑が広がり、もう花の咲き出
した株もある。
    

 信号のある交差点を通過して加佐志集落を進み、つぎのT字路を左折してすぐに羽黒神
社がある。


 境内は狭いが、拝殿の前に市指定天然記念物の大きな菩提樹が立ち、根元から上までや
わらかな新緑に覆われていた。
     
 幹回り約2.9m、樹高約20m、樹齢およそ550年と推定され、6~7月には淡黄
色の花をつけて芳香を放つようだ。


 当地の奥富家所蔵の古文書によれば、「この菩提樹は八幡太郎義家の家臣、伴蔵人一俊
(ばんくらんどかずとし)が羽後国柳川(山形県鶴岡市)に土着後、羽黒大権現の霊夢に
より当地にいたり土地を拓き、羽黒大権現を勧請して氏神としたときに神木として植えた」
となっているという。

 14時を過ぎたので、隣接する集会所らしい建物横に腰を下ろして昼食をする。

     
 昼食後、T字路に戻ってすぐ先、右カーブ際にある加佐志墓苑の入口横の地蔵堂へ。閉
じていた扉を開くと耳の長いお地蔵さんが祭られていた。
          
 「加佐志の耳だれ地蔵」と呼ばれ、元禄7(1694)年の造立で、耳だれの病に御利
益があるといわれているよう。

 地蔵堂の前にも、寛政11(1799)年、安永6(1777)年などと読める3体の
石像が並んでいた。
     

 昼食をした集会所の横を北に向かい、東三ツ木地区へ。もう新狭山駅南口に近いので新
しい住宅地が多く、その一角に薬師堂があった。

 薬師堂の敷地は、先ほど訪ねた天岑寺の所轄地のよう。堂内に祭られた本尊の木造薬師
座像は、14世紀に当地を拓いた三ツ木国重の守護仏といわれているという。

 ほかに日光・月光の両脇侍菩薩像や、薬師如来を守護する十二神将像の合わせて15体
が安置されているとか。

 薬師如来像は応永6(1399)年の造立、ほかも鎌倉時代後半から南北朝・室町時代、
日光・月光菩薩のみが江戸時代初期のもので、いずれも市指定文化財になっているが、中
を拝観することは出来ない。

 新興住宅地を東進して駅前通りを横切り、最後にさらに少し先の三ツ木公園へ。
     
 園内は豊富な樹木に覆われ、東南の一角に「三ツ木原古戦場の碑」が立っている。
          
 傍らには、当地で天文6(1537)年7月に小田原の北条氏と上杉氏が「三ツ木原の
合戦」と呼ばれる戦の戦場になったことなどが記されたパネルがある。


 新狭山駅南口には15時10分に戻り、15時14分発西武新宿行き上り電車に乗る。

 幾度となく西武新宿線で通過している新狭山駅周辺では、ホンダなど工業団地の四角い
建物だけが目に入っていたが、今回歩いたエリアには江戸時代やそれ以前からの歴史がた
くさん残っていて、新緑も豊富で予想以上に満足したウオーキングだった。

 (天気 快晴、距離 9㎞、地図 川越南部(1/2.5万)、「さやま観光マップ」
  中の「新狭山駅北口(奥富)&(東三ツ木・沢・加佐登・青柳)周辺コース」、歩数
  19,700)

  



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新狭山駅周辺の寺社や石仏などを巡る(埼玉・狭山)(前半)

2021-05-06 21:50:44 | ウオーキング
 2021年5月4日(火)

 わが所沢市は5月12日(水)まで、「まん延防止等重点措置」対象の埼玉県内15市
のひとつで、不要不急の外出自粛が求められているが、今日はゴールデンウィーク最後の
好天の予報なので、3密とは縁の無さそうな隣の狭山市内へのウオーキングに出かけた。

 西武新宿線の下り電車で新狭山駅に下車し、9時52分に北口をスタートする。


    
 駅前から真っ直ぐ北西に伸びる「すかいロード」を進み、交通量の多い国道16号線に
出て北東へ。


 川越狭山工業団地の西端にある、ロッテの工場前から延びる細いY字路に入る。

 すぐ近くの逆Y字路の入口に「大山道標」と呼ばれる石造りの道標がある。
     
 左側には「左大山道」、右側面は「はんのう子ノごんげんみち(飯能 子ノ権現道)」、
正面には「南無阿弥陀仏」と刻まれていて、寛政5(1793)年の建立という。

 ちなみに大山とは、相模国(神奈川県伊勢原市)の大山(おおやま)のこと。大山は古
代から信仰の対象となっていて、「大山詣り」として江戸の人口が100万人の時代に年
間20万人もの参拝者が訪れたと言われているようだ。

                         武甲山

 折り返して進む飯能方面への道は「赤間川通り」と呼び、少し進むと右手の展望が開け、
秩父のシンボル武甲山↑、さらに右手↓には外秩父の堂平山や笠山などが望まれる。
                    堂平山       笠山


 少し下り道となり、背後の新緑の大木が見えたところに小さな石仏が立っていた。
     

     
 「いぼ神様」と呼ぶ三面六臂(さんめんろっぴ)の馬頭観音像で、安永8(1779)
年の造立のよう。傍らにその説明パネルがある。


 すぐ先の交差点際高台には、八雲神社が祭られていた。

 八雲神社の創立は正徳5(1715)年で、当時は牛頭(ごず)天王を祭っていたよう。
明治5(1872)年に近隣の5社を合祀して八雲神社と改め、村社になったという。

 道路を挟んだ南側は、尖塔が目につく西武学園文理小である。


 その先、赤間川通りは三面コンクリート張りの赤間川に沿って南西へと進む。
    

 次の十字路の手前、南東側台地上は奥富神社である。

 明治初期の西南の役から日清及び日露戦争、大正年間の青島攻略やシベリア出兵、満州
事変、上海事変、太平洋戦争までの戦において、奥富から出征して戦死された英霊100
余柱を祭る神社で、社殿は昭和28(1953)年5月に完成したようだ。
     

           境内のモミジなどの新緑が気持ち良い。
          

 少し進んでから思い出し、そばの西方(にしかた)自治会館まで戻って背後に回ると、
「西方の石仏群」と呼ぶ古い石仏が10体余り並んでいた。


 一番大きくて目につく如意輪観音は正徳6(1716)年の造立。右手でほお杖をつく
姿から歯痛に効くとして信仰されているようだが、本来は六道にあって苦しむ衆生を救う
仏らしい。
     

 そばの交差点で赤間川通りに分かれて北西に少しで、西方集落の中心にある広福寺へ。

 独特の山門は2階に鐘楼を持つ竜宮造りの鐘楼門。完成は文化2(1805)年とか。

 幕末には、尊皇攘夷に身を捧げた清川八郎など多くの勤王の志士たちが、この山門をく
ぐったとも言われているという。

     
 山門を入った右側には紅梅の古木↑があり、徳川三代将軍家光が鷹狩りの際の休息の折、
その美しさを賞賛して「御詞乃梅」(おことばのうめ)と言われ、そばの井戸は家光にお
茶を入れたことから「梅ノ井」といわれたと伝えられているよう。





 境内は緑が豊富でシャクナゲも咲き、本堂南東側一角では回遊する池にコイが泳ぐ。


     




 墓地に抜ける西側には不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩など13仏が並ぶ。


     
 借用したトイレの前には元禄年間(1688~1704)建立の宝篋印塔(ほうきょう
いんとう)が、本堂前には武蔵国十三仏霊場のお地蔵さんが立っていた。
          

      道路を挟んだ西側は奥富小で、門の横に二宮金次郎像が目に入る。
     

 奥富小の南から西側一帯は広々とした田園地帯で、正門前からその中を南南西に延びる
幅広い通りを進む。

 耕されてはいるがまだ水入り前の田んぼが多い。その一角の小麦畑では、もう穂がいっ
ぱい延びていた。




      大岳山

 西側には奥多摩から奥武蔵、外秩父にかけての山並みが望まれ、奥多摩の大岳山、秩父
の武甲山、外秩父の堂平山や笠山などが認識できた。
                                武甲山


                堂平山             笠山


 道の中ほどを過ぎて2本の高圧送電線が横切り、道路が右カーブする辺りには色鮮やか
なツツジが咲いていた。
     

 右カーブしてすぐの右手、豊富な鎮守の森には梅宮神社が祭られている。

 梅宮神社は、平安時代に嵯峨天皇の第二皇子で武蔵守の源朝臣が五穀豊穣を願い、承和
5(838)年に京都の梅宮神社から分社されたという古社。


 2月に開催される「梅宮神社の甘酒祭り」は、県指定の無形民俗文化財のよう。

 京都の梅宮神社から分社された頃から始まったと伝えられ、関東には珍しい頭屋制と呼
ぶ饗宴形式の祭りで、2月10日の宵宮祭りと翌11日の大祭の儀式が行われるという。


 境内中央の拝殿は開け放たれていて、天井や背後などが望まれる。正面上部に並ぶ古い
掲額からは、当社の歴史の一端がしのばれる。








 木彫に飾られた本殿は覆い屋で守られ、境内は豊富な新緑に覆われていた。


     

          

 一の鳥居の横では明日の端午の節句を前に、こいのぼりが風をはらんで泳いている。
     


 南側から望む鎮守の森。                         〈続く〉
                                  



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もう一度多聞院と多福寺へ(埼玉・所沢&三芳)(後半)

2021-04-24 18:24:10 | ウオーキング
 2021年4月20日(火)(続き)

 多聞院から多福寺に向かうのに前回は車道を行ったが、車の交通量が多いので避けるこ
とにして、毘沙門堂の左手(西側)から背後に見えた墓苑の方に回った。

 広い墓苑だが墓地になっているのはまだほんのわずか。大部分は空き地になっていて、
その中のわずかに墓碑の並ぶ近くでピンクのツツジが咲いていた。





 そして墓苑の北東側、車道沿いにたくさんのツツジが植え込まれていて、何れも鮮やか
な彩りの花を咲き競う。




















 その横から東に延びる細道を入り、多福寺西北側の雑木林沿いに進む。


 最近伐採した大きなクヌギなどの材木が積んである。


 南側は多福寺境内からは少し離れた墓地で、その墓地の北東端の入口付近に並ぶ六地蔵。



 多福寺の南側、雑木林↑との間の墓地を抜けて本堂前に出た。本堂に参拝後、正面の山
門方面を眺める。


     本堂前のシダレザクラ、前回来たときには咲き残っていたが今は葉桜に。
     

 そばの大株のツツジはまだ咲いていた。


 本堂の南東側にあるお堂周辺の新緑。


 山門前ではフジが咲き出す。


     





 フジ棚の下のヤマツツジも見頃に。



 山門を抜けて東側の入口側に回り眺める本堂側。




      反対、東側の参道。
     

 山門を入ってもう一度境内に戻り、周辺の新緑あふれる植栽を。




      朱色の葉を見せるモミジが2,3本ある。
     







 反逆光で眺める大きなツツジ


 花は少ないが、新緑がみずみずしく気持ち良い。





 再び南側の墓地の方に回り、本堂背後の庭園に咲いていたフジものぞき見た。


     



     
 多福寺南側の林を東南に進んで、木ノ宮地蔵堂にも回り参拝する。


     地蔵堂西側のホオノキの若葉
    

 同じ道を折り返すことにして、多福寺南側の雑木林から西側の雑木林を戻り、多聞院の
西側から往路の砂川堀沿いの土道へ。

 西側、広大な畑の向こうに霞んで望まれる山は奥多摩の目印、大岳山周辺。


      砂川堀沿いの路傍には、クサフジがたくさん咲いていた。
     

          

 前回同様に県道126号線・所沢掘兼狭山線を下富駿河台交差点で離れ、再び食の駅所
沢店に立ち寄る。









 前回同様わずかの買い物をして新所沢駅方面に向かう。

 少し進んだ三差路際のうどん店でも前回同様に昼食後、畑の間の閑散な車道を南西に進
んで県道6号・川越所沢線に出た。

 花園バス停から西武バスで新所沢駅東口までバスを利用して疲労軽減を図り、さらに自
宅まで歩いて15時45分に帰宅した。

 (天気 快晴、距離 11㎞(途中バス利用は含まず)、地図 「ところざわウオーキ
  ングナビ④ 北エリア」)




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もう一度 多聞院と多福寺へ(埼玉・所沢&三芳)(前半)

2021-04-22 21:36:22 | ウオーキング
 2021年4月20日(火)

 4月7日(水)に、所沢市の東北部、中富にある多聞院(多聞院)と近くの三芳町上富
の多福寺(たふくじ)へ出かけたことは3~4回前に紹介したが、あれから2週間近く経
過し、多聞院のボタンも見ごろになったのでないかと思い、今日再訪することにした。

 今回は、西武新宿線新所沢駅西口から10時17分発ところバス北路線 富岡循環コース
に乗り、10時42分に前回と同じ多聞院通り西バス停で下車した。

 バス通りは車の交通量が多いので避けて、砂川堀左岸沿いの土道を進む。
     

           沿道の畑のビール麦は、もう穂が出ていた。
          


 近くにある橋を渡り、多聞院北側の雑木林を抜けると多聞院に接する毘沙門堂で、境内
西側にある「いも神様」にまず参拝する。


 その後、毘沙門堂に参拝した。



 境内南東側にある神楽殿↑と天満宮↓。背後は東側に接する多聞院の新緑。


 毘沙門堂境内中ほどから東へ、モミジなどの新緑に覆われた多聞院境内に入る。


 すぐ先の奥多摩新四国八十八ヶ霊場第36番青龍寺周辺の新緑。




 その先、「鬼の悟り」と呼ぶ石像の周辺にはアマドコロがいっぱい咲く。


         

 南側の正面入口に並ぶ多聞院の看板。


 多聞院の本堂にあたる毘沙門堂に向かう参道を進む。


 右手には、先日も咲いていた花がさらに見ごろに。






 毘沙門堂前に近づくと、周辺には幾つものボタンが咲いていた。


      

    

     

          

     



 大きなドウダンツツジも花いっぱい。




 その先にもたくさんのボタンが咲く。


 これはボタンではないようだ。







 毘沙門堂周辺にも、ボタンが咲き競う。
     





      毘沙門堂の左手、モミジなどの新緑
     




 回廊近くのモミジ




 クマガイソウも、まだ咲き残っていた。


     

 さらに、周辺のボタン群を見て回る。











 だだ、何年か前に来たときよりはボタンの株数が少ない感じで、300本といわれてい
るほどはなさそう。150~200本くらいではなかろうか・・

 見に来ていた方の中にも、「以前より数が少ないね」という方も居られた。

     









     




 笠地蔵の南側にはハンカチの木があり、たくさん花が咲き出していた。






 近くの木の下に咲き残るのはヒメイズイのよう。




     
 さらにいくつかのボタンを眺め、北側の墓苑の方から多福寺に向かうことにした。(続く)     




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新緑と緑あふれる多聞院と多福寺へ(埼玉・所沢&三芳)(後半)

2021-04-11 17:00:12 | ウオーキング
 2021年4月7日(木)〈続き〉

 多聞院を後にして東側の多聞院前交差点を通過し、三芳町に入り多福寺に向かう。東隣
の町とはいえ、所沢市外に出たのは1月7日(木)のさいたま市西区のスケッチ展以来な
ので、3か月ぶりになる。

 多聞院通りは相変わらずトラックなどの交通量が多いが、歩道は無いので注意しながら
進む。

 北側の畑の向こうには、古くからの武蔵野の典型的な風景である雑木林が広がり、紅白
のしだれ桜も望まれる。





 間もなく新緑萌える雑木林が近づき、その先が多福寺の南に接する木ノ宮地蔵堂である。


 木ノ宮地蔵堂は「富〈とめ)の地蔵さま」として古くから親しまれ、江戸時代の古文書
によれば延暦24〈805〉年に坂上田村麻呂が北国遠征の折、武蔵野で道に迷ったとこ
ろを地蔵菩薩に助けられ、その加護に感謝して地蔵堂を建立したと伝えられているよう。

 現在の地蔵堂は安永6(1777)年の再建とか。木ノ宮地蔵は縁結び、子授け、子育
てのお地蔵さんとして信仰され、4月と8月の縁日には多くの参拝者と出店で賑わうとい
うが、今年はコロナ渦で開催されるのだろうか・・・

 地蔵堂の東側にあるのは多福寺斎場の建物。


 斎場に接して小さいお堂もあり、そばのツツジがもう少しで見頃になりそう。




 北側に広がる雑木林は明るい新緑に。


     

 地蔵堂の背後には木ノ宮地蔵奥乃院があり、石地蔵が祭られているようだ。


      地蔵堂の西側に立つ「埼玉県指定旧跡 三富開拓地割遺跡」標
     

 側面には、「三富開拓地割遺跡は、元禄7年から9年(1694~96)に川越藩主柳
沢吉保の命を受け、重臣曽根権太夫の指揮により実施された開拓で、三芳町上富(当地)、
所沢市中富、下富の約400町歩(約1400㏊)に及び、開拓当時の景観をよく残す生
産性の高い農業地帯である」と記されている。

 そばの木はホオノキだろうか。


 地蔵堂背後の雑木林を抜けて、北西側にある広い境内の多福寺へ。山門は東向きに立つ。


 山門越しに望む本堂など


 山門をくぐるとヤマツツジが咲き出していた。


      北側には鐘楼がある。
     

 本堂前面の庭木は、新緑でみずみずしい。


     



 本堂前に咲き残るシダレザクラ。




     



 本堂に参拝し、新型コロナウィルスに感染しないよう、あわせて全世界からの早期終息
など祈願する。


 本堂左手前にあるお堂。


 本堂前に咲くミツバツツジやヤマツツジ




 本堂前から山門をふり返り見る。


 本堂前から南側の墓地への道。


 右手の庫裡(くり)前から鐘楼の方へ回る。これは「元禄の井戸」

 元禄の井戸とは、上富に元禄時代(1688~1703)に掘られた井戸のことで、三
富の開拓を行った際、一番大きな問題とされたのが飲用水だったという。

 そこで柳沢吉保は上富地区に4か所の井戸を掘ったが、完全に水は出ず、真夏などは竹
馬沢村(現在は同じ三芳町内)を流れる柳瀬川などから水を桶で運んで生活したことも幾
度かあったとか。

 現在、当時掘られた井戸で残っているのはこの多福寺境内のみで、ほとんどが崩れたり
埋めたりしており、この井戸水は当時「甘露水」と呼ばれ、住民ののどを潤したという。

 近くの鐘楼に下がる銅鐘は、三富新田の開発をした曽根権太夫が寄進したもの。作者は
江戸の鋳物師、椎名伊予守藤原良寛で、元禄9(1696)年8月の完成らしい。


 銅鐘に記された銘文の前半には曽根権太夫自身が三富に尽力したいきさつや多福寺の意
味づけが記され、後半には柳沢吉保の功績や銅鐘鋳造の経緯などが記されているようで、
歴史資料としても重要なことから、埼玉県指定有形文化財となっている。
     

 鐘楼付近から眺めた山門


     
 本堂の左手前には「伝承 狭山茶発祥の地」碑があり、『昭和4年刊行の「三富開拓誌」
に、茶は当寺を開山した洞天和尚が境内に茶を蒔いて、それから繁殖したのを三富各戸に
伝播して今日の狭山茶としており、三富の特産の一つである狭山茶は当寺が発祥の地とさ
れる』ことなどが記されていた。

 多聞院には20人前後の人が訪れていたが、この多福寺は誰ひとり見えず、静かな境内
であった。

     

 豊富な雑木林に囲まれた墓地の中から南側の道路に出て、境内西側から多聞院の方に向
かう。

 多福寺を取り巻く雑木林は多福寺の境内林として残されたもので、ナラ、エゴノキなど
の落葉樹にアカマツが混在しており、20~30年に一度の薪炭用の伐採や農業用の堆肥
を得る目的で行う伐採や落ち葉はきなど、人為的な管理で植生が保たれてきたという。


 途中に伐採されたところがあり、切られた丸太を見るとかなりの年輪を重ねていること
がうかがえる。


 最初に参拝した木ノ宮地蔵堂の西から北側の「花の小径」と呼ぶ樹林の中を北に抜ける。
     

     

 寺域の北側を流れる砂川堀沿いの細い土道に出て、帰路につく。流れに鵜の仲間かと思
われる黒い鳥が1羽だけ見えた。


 砂川堀にはナノハナが。


     
 雑木林の下を抜けて、調整池の横から往路の多聞院通りに出た。調整池沿いの土手のナ
ノハナ


 幅広く交通量の多い県道126号線・所沢堀兼狭山線を次の下富駿河台交差点まで進み、
左折して西に少しで、狭山茶の茶畑が広がる。

 狭山茶を直売している平岡園の茶園のよう。

 すぐ先に大きな建物があり、ビュフェレストランの看板もあった。まだ昼食前なので、
しめしめと「彩乃菜宴」の看板のかかる入口に回ったら、なんと新型コロナウィルスの感
染防止のために閉店中でガッカリ!



 隣接するさらに大きな建物は「食の駅」所沢店。


 食の駅とは、体験農園を併設する民営の直売所のようで、地元・所沢産の野菜をはじめ
埼玉県産の米や地酒なども扱う大型店舗で、所沢地区名産のサトイモ、ごぼう、お茶、に
んじんなどが人気商品という。
 
 入って中を一巡する。














 なお、食の駅については、こちらのサイトをご参照ください。
 
 3品を購入して食の駅を出て南西方向へ、西武新宿線の新所沢駅方面に向かう。途中に
あった所沢で創業され県内に店舗の多いうどんのチェーン店に入り、そばを注文して遅い
昼食を済ます。

 新所沢駅を通過して、自宅には16時02分に帰宅した。

 好天で気温も19.1℃まで上がり絶好のウオーキング日和だったが、最近は7㎞前後
しか歩いていないので、やや疲れた。

 (天気 晴、距離 2㎞+バス利用後10㎞、地図 「ところざわウオーキングナビ④
  北エリア」 歩数 24,400 )




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新緑と花あふれる多聞院と多福寺へ(埼玉・所沢&三芳)(前半)

2021-04-09 18:42:41 | ウオーキング
 2021年4月7日(水)

 春本番となり、ここ2,3日続いた低温も解消されそうなので、久しぶりに所沢市と三
芳町境周辺にある多聞院(たもんいん)と多福寺(たふくじ)を訪ねることにした。

 以前は往復とも歩いて行ったのだが、加齢に伴い疲労と歩く速度の低下を考えて、往路
はバス利用することにした。

 西武新宿線航空公園駅まではいつものように歩いて行き、東口から9時55分発のとこ
ろバス北路線富岡循環コースに乗る。

 バス待ちの間に眺めた駅前の通りのハナミズキ


    

     
     ケヤキの新緑が気持ちよい彩り、1本だけのムラサキモクレンも咲く。
 

 バスは、航空公園駅や新所沢駅周辺をかなり迂回してから東北へと進む。10時45分
頃、多聞院通り西バス停で下車した。

 そばの交差点から北東に延びる多聞院通りを、交通量の多いトラックなどに注意しなが
ら進み、5分ほどで多聞院の西に接する富(とめ)の神明社前に着いた。


 富の神明社は、元禄9(1696)年に川越藩主の柳沢吉保が、三富(さんとめ)新田
(上富・中富・下富村)を開村した際、開拓農家の祈願所で鎮守の宮として毘沙門社(多
聞院)を創建したとか。

 明治2(1869)年の神仏分離令により西側の境内は当神社とし、東側は多聞院とし
てそれぞれ独立し、今日に至っているという。


 ケヤキなどの新緑に覆われた境内右手の舞台↑前を進み、正面の拝殿に参拝し、いつも
のように新型コロナウィルスに感染しないよう祈願する。


 拝殿の左手には小さい神社が祭られていた。


 「いも神さま」と呼ばれる「甘藷乃神」で、前面にはサツマイモの大きな模型があり、
「なでいも」だという。
     
 
 江戸時代の当地、南永井村の名主・𠮷田弥右衛門がが寛永4(1751)年にサツマイ
モを試作し、のちには江戸の焼き芋用の芋として作られるようになり、農家の貴重な収入
源になり暮らしが楽になったことから、弥右衛門の功績を称えるとともに、関東のサツマ
イモ作りの元祖・青木昆陽とあわせて祭っているよう。

 「なでいも」は、いも神さまのご恩に感謝するとともに、サツマイモのたくましい生命
力にあやかり、健康・家内安全・子孫繁栄などを祈願するために撫でて、神の力をいただ
くようつくられたという。

 境内にある絵馬の一部


      境内中央部東側に、隣の多聞院への通路があるのでここから入る。
     

 多聞院は、前述の通り元禄9(1696)年川越藩主・柳沢吉保が三富新田の祈願所と
して毘沙門天社を建立し、その別当寺として創建したもの。

 明治維新後は、神仏分離令により毘沙門天社を毘沙門堂と改めており、毘沙門天は武田
信玄の守り本尊と伝えられているよう。12年に一度の寅年には本尊の毘沙門天が開帳さ
れており、来年、2022年が寅年なので開帳されるものと思われる。

      多聞寺境内はモミジなど樹木が多く、やわらかな新緑に彩られて
      いる。      
     

 境内には、奥多摩新四国八十八ヶ所霊場の第三十六番 土佐之国 青龍寺の小さなお堂が
祭られていた。




 その先から東側正面に回って、境内中央部参道を進む。


 参道中ほどに咲く白いトキワマンサクのような花。




      そばのしだれ桜はまだ咲き残る。
     



      その先には真っ白な花も。
     

         

 大株のドーダンツツジが咲き出していた。




 周辺にはモミジが多く、その新緑がみずみずしい。




 新四国霊場の先の参道交差部際には。

 「鬼の悟り」と呼ぶ石像で、 近年に信徒の石工が奉納した鬼の我慢している姿だという。
 


 正面の毘沙門堂に参拝し、ここでも新型コロナウィルスに感染しないよう祈願した。 


     
 本堂前の狛犬や、拝殿の階段、濡れ縁などにおびただしい数の小さな寅が並んでいる。




    
 「身がわり寅」で、毘沙門さまの使いである寅に「身にかかる災い」を託して納めるの
だという。

 毘沙門堂周辺に咲く黄色のカタクリ。


         

 こちらはクマガイソウ。





 近くには力石が並び、その先には笠地蔵が立っていた。 

 
     

 こちらにも咲き残るシダレ桜が。      


     

      何か所かに咲いていたミツバツツジのひとつ。
     


 シャクナゲやツツジはまだつぼみだった。


 ホウチャクソウはほぼ咲き終えたよう。


       境内に300本以上あるというボタンも、まだほとんどがつぼみ。
     

  
 ボタンの多い回廊の近くには、お地蔵さんが3体立っていた。
     

 そばのモミジにはおみくじが。


 多聞院にもたくさんの絵馬が奉納されている。


 あちこちにあるモミジの新緑が気持ち良い。




 その下に1輪だけボタンが咲いていた。




    

 あふれる新緑と花を楽しみながら境内を一巡後、多聞院通りに出て東隣の三芳町に入り、
近くの多福寺に向かう。                          〈続く〉

 



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初歩きは 富士山の見える荒幡富士へ(埼玉・所沢)

2021-01-08 21:21:54 | ウオーキング
 大変遅ればせながら新年のご挨拶を申し上げます。新型コロナウィルスの感染拡大は止
まず、1月8日(金)から首都圏1都4県に緊急事態宣言が発令されました。

  このような現況から、今年も限られたエリアで巡ったことなどをアップしたいと考えま
す。どうぞよろしくお願いいたします。

========================================

 2021年1月1日(金)

 最近の新年は、2日に東京都ウオーキング協会主催の都内の七福神巡りに参加していた
のだが、新型コロナウィルスの感染拡大が止まらぬ現況では都心に行くのがためらわれ、
今年は参加しないことにした。

 その代わりに、今朝は昨年末から続く好天で風も無く穏やかな新春となったので、市内
にある富士山に上って富士山を眺めてみようと考えた。

 10時36分に自宅を出た。まずは近くの普門院に初参りとする。普門院は武蔵野三十
三観音霊場第12番と狭山三十三番霊場第7番霊場である。

 門前は市内ウオーキングでいつも通っているが、山門を入るの久しぶり。

 昨年は武蔵野三十三観音開創80周年で総開帳の年だったが、巡ろうとした頃に緊急事
態宣言が出されて出鼻をくじかれ、とうとう回ることが出来なかった。


 本堂前には小さい観音様が立ち、子どもたちが小さかった当時は4月の釈迦祭の日には
甘茶がふるまわれたことを思い出す。
         

 知らなかったが、門を入った左手に「ぼけ除け地蔵尊」が祭られていた。
     

 門前には、西国三十三観音霊場第14番三井寺の本尊、如意輪観音座像の等身大石像が
ある。
         

 1.7㎞ほどだけ開通中の県道4号・東京所沢線バイパスの梨子の木戸(なしのきど)
交差点を横断して南に下り、弁天池の畔へ。



 池の西北に岩崎弁財天が祭られているが、氏子の方々が集まり新年祭が始まったところ
だったので、道路際から拝礼するのみに留めた。


 西武狭山線の上山口駅東側の踏切を渡り、柳瀬川の橋を過ぎる。住宅地が途切れ、南側
の稜線に向かって上がると東南側に樹林が近づく。


 さらにその上には、この後回る予定の「ドレミの丘公園」の芝生地や背後の荒幡(あら
はた)小の校舎が望まれる。


 右手は市の特別緑地保全地区「荒幡富士市民の森」中の「学習の森」と呼ぶ樹林である。


 さらに上がった右手に、県の「狭山丘陵いきものふれあいの里センター」の建物がある。


 上がりきった正面が今日の目的地、「荒幡の富士」である。

 荒幡の富士は、旧荒幡村と近隣の村々の有志により明治17(1884)年から明治
32(1899)年まで16年かけて築き上げた、富士講のシンボルである大きな富士塚。

 近郷近在では最大級の富士塚で高さは12mほど。山頂の標高は約119mになる。


 登山口には鳥居があり、その右手には大正10(1921)年に文人・大町桂月の撰文
になる「荒幡富士築山碑」が立っている。
     

 登山路は、数m~10m前後で左右にジグザグ状に折れ曲がりながら上がり、曲がり角
には1合目から9合目までの標石が置かれている。


     
 山頂には小さな祠(ほこら)が祭られている。その周囲には10数人の人が上がってい
て、少し密なので注意する。



 西南方には大山から丹沢山塊の山並みが、さらに右にお目当ての富士山も左側に少し雲
をまとってはいたが望まれた。




 さらに右手間近には埼玉西武ライオンズのホームグラウンドのメットライフドームが。


 一方、東方には都心の超高層ビルなどの中に東京スカイツリーも。



 北側には地元山口の民家やマンション群、西武池袋線小手指(こてさし)駅周辺のマン
ションなどが望まれ、小手指の背後の山並みは上州三山のひとつ赤城山かと思われる。




 眼下の登山口横に祭られているのは富士山には欠かせぬ浅間神社で、氏子会のテントも
設けられている。



 10分足らずで登山口を下り、浅間神社に参拝して新型コロナウィルスに感染しないよ
う、あわせて早期の終息を祈願した。

 そばの「狭山丘陵いきものふれあいの里センター」に回ってみたが、閉館していた。


      浅間神社を出て、北北東へと稜線上の遊歩道を進む。
     

          
 正面に荒幡小の校舎が見え、その手前を左に回り込み、校舎の背後に広がる「ドレミの
丘公園」と呼ぶ芝生地際へ。





 北側一帯の展望が開け、西北には奥武蔵や日本二百名山の武甲山などの山並みが。

 北側一帯には、眼下に山口地区の家並みや小手指駅前の高層マンションなどが望まれた。



 荒幡の住宅地を東に下って光蔵寺へ。

 昨年正月から開創された所沢七福神の寿老人の寺で、新しい寿老人像は山門を入った右
手に祭られている。
     

 その隣には耳を傾けた「聞くぞう地蔵尊」が、悩みごとや困りごとを聞いてくれる。
          


 そばの信号を渡って東側の台地に上がる。市の西部浄水場横の北側を回って東に延びる
樹林帯の中の遊歩道へ。少し進むと「トトロの森2号地」がある。



 狭山丘陵の豊かな自然環境を保護するナショナルトラスト運動「トトロのふるさと基金」
により1996年に取得したエリアで、面積は1712㎡という。

     
 さらに広葉樹林を主体に構成される鳩峯公園の落葉した樹林内の遊歩道を進み、右手の
久米水天宮に参拝する。

 久米水天宮は北側にある鳩峯八幡神社の摂社のひとつ。安産の神様として市内の人々の
崇敬を集め、毎年1月5日の例大祭にはだるま市が開かれて初詣客などで賑わうが、今日
は3~4組の参拝客のみ。拝殿には小さなだるまが並んでいた。


 石段を上がり、北側の林間に祭られた鳩峰八幡神社に回る。

 鳩峯八幡神は、延喜21(921)年に山城国(京都)の石清水八幡宮を分祀し勧請し
たと伝えられる古社。

 元弘3(1333)年5月、新田義貞が鎌倉討伐の折に参拝して戦勝を祈願したと伝え
られるとか。天正19(1591)年には徳川家康から朱印5石を寄進され、以後代々の
将軍から寄進を受けているという。

 慶長13(1608)年に修復された社殿は、一間社流れ造り見世棚形式と呼ぶ建築で、
県内では数少ない室町時代以前の古社建造物として、埼玉県有形文化財に指定されている。

     
 境内には、新田義貞が参拝の時に兜をかけた「兜掛けの松」の何代目かの松があるが、
枯れてしまっていた。

     
 林間を東に延びる参道を進んで鳥居を出て、鳩峯八幡宮を後にした。

 東側にある幼稚園も豊富な樹林に囲まれていて、広い園庭には落ち葉が積もっていた。


 北に下って久米の住宅地を進み、一部開通中の県道4号・東京所沢線バイパスの東端に
なる北久米交差点に入る。

 バイパスを北西に進んで県道55号と交差する岩崎交差点を通過し、西武狭山線を山口
陸橋で越えて梨子の木戸交差点で往路に戻った。

 (天気 快晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 所沢、歩数 14,400)



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