初日は午後から沖縄なので、ほぼ買い物で終了。2日目は前田高地。3日目の学びは「ひめゆりの歩いた道」がメインテーマだった。
1日タクシー貸し切り・・・運転手氏はいつもの大城さんを頼んだ。
まず、ひめゆり達の学び舎から出発した。
像などが建っている。
ひめゆり・・・敷地を同じくして、女子師範学校と県立第一高等女学校が有った。一高女は「乙姫」師範は「白百合」と呼ばれ、両行が合体した学徒隊は「ひめゆり」と呼ばれることになる。動員学徒222名・動員部隊は沖縄陸軍病院・第三十二軍司令部経理部である。犠牲者は123名に及ぶが、その内100人に及ぶ彼女らの死は、6月18日の解散命令以降である。組織的戦闘が終わるのは6月23日なので、1週間に満たない日々が、なんともやるせないのだ。
開発で戦跡はかなり破壊されいるが、まず経理部のあった津嘉山32軍壕があった小高い丘を望める場所に立つ。
南風原文化センター
ここに、陸軍病院壕に関する資料や壕その物の保存など行う、拠点の建物がある。ひめゆり達の多くの痕跡も表現されている。
ひめゆり達は、主に、負傷兵の看護、そして炊飯と食事の配膳であった。病院は外科・内科・精神科があったが、戦局が激しくなるとすべて外科になってゆく。
まずは、炊事の場・・ここ病院壕のあった山から結構離れた谷筋の場所にある(水の確保が山ではできなかったのだろう)。
ここで、おにぎりを作り、飯あげの道を通って、壕の医師や患者、看護の者に配られた。おにぎりはやがて、ゴルフボールくらいの大きさへと小さくなってしまったようだ。
この醤油樽におにぎりを詰めて、坂道を登ったのだ。
文化センターには、発掘整備された20号内部が復元されている。負傷兵の横たわるベッドは、コロナまえは「横たわってきてください」となっていたが、今回はコロナの配慮で、横たわることは禁止されていた。
軍の拠点には、慰安所がつくられる。軍の関与どころか、軍が作ったのだ。
いよいよ、飯あげの道を登る。
やがて、整備された、南風原病院壕20号がメインの施設として鎮座する。コロナ前はガイドがついて中に入ることが出来たが、今は入れない。この一帯に、24の壕が作られ、三角兵舎が8棟作られていた。首里決戦の後方支援のメインの場所である。
首里の司令部の南部撤退にあわせ、陸軍病院も南部撤退となり、現在ひめゆり平和祈念資料館周辺に移動する。ひめゆりの資料館は第三外科壕のそばに建てられているが、周辺の畑などに第一・第二などがある。
セイゴウちゃんとミッキーは資料館に入っていないので、1時間の別行動となった。俺とミネさんは周辺の学徒の碑や部隊の慰霊碑など巡った(そこについては後の記事で)。
畑の中にぽっかり空く、第一外科壕。資料館はおびただしい人々が訪れるが、ここはほとんど人は来ない。
が・・・整備されていない、当時をしのべる姿は圧巻で、こうした場所こそ来ると良いのにな・・と、いつも思う。
さて、本日のメイン中のメイン・・・・彼女たちが・岩がげに隠れ、砲弾におびえながらまた歩いた・そこはやがて絶壁の海となり、太平洋が黒く染まるほどの軍艦が艦砲射撃を行っていた。彼女らの絶望は、自決の他無かったようである。ひめゆり散華の地だ。
そこを歩く・歩いて荒崎海岸に行ってみるが、僕のひめゆり企画なのである。
皆、無言で歩く・・・・
防風の林を抜けると、荒崎海岸が広がっている。散華の地までは、鋭利に尖った琉球石灰岩の岩を歩く以外にない。
もはや、彼女たちの多くは裸足であったという。靴下を履いていても痛くて1m歩くのが大変な岩の上を歩いてみる・・のも、この企画に含まれている。見事に痛いのだ。これで、10mも歩けば、血だらけに違いないと実感できる鋭さ・痛さだ。
やがて、散花の地・自決の場所は、毎年の生き残ったひめゆり達、その関係者のお参りで、綺麗になってるのだ。
僕らは、各々の思いで、手を合わせた。
海岸手前100mほどの場所に、うず高い土砂の山が作られ始め、数年が経つ。
この土砂は、辺野古の埋めてに使われると知って、「遺骨の混じった土砂で辺野古を埋め立てるな」と反対運動が盛り上がっている。
ミッキー曰く「遺骨が埋まっていようがいまいが、辺野古は埋め立てるな」と叫んでいたが、まぁそうなのだが・・・
それでも、多くの住民の遺骨がいまだ見つかるここの土砂で埋めたてようとする、異常な行為は許すことはできない。
本土の多くの市町村議会が「反対の決議」を出している。沖縄から帰って、まず新聞に山梨北杜市の記事を見た。
群馬は1つの市町村も決議を揚げていないのが恥ずかしかったが、僕らが沖縄に向かった17日の新聞に、甘楽町議会が県内初の決議を揚げたと報道が有った(赤旗)。我が館林・・決議しろよ~~なのだ。
こうして3日目の学びは終わったのだ。
25日の濃厚接触者。
*女房・足つぼ最強べーべー・ロストメンバー・8人。