館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2021冬の沖縄・ミッキースペシャルあげいん・・その1前田高地~シュガーロフ・・首里決戦。

2021-12-25 04:20:23 | 旅は続く
前回「ミッキースペシャル」では、米軍最初の上陸地・座間味そして、本土上陸の地読谷村(2つのガマ)・現在の嘉手納、最後は沖縄戦最大の攻防(16日におよび、日本人5・6万米軍2万余が亡くなる)嘉数の戦いの地を巡り、その嘉数高台から、現在の普天間基地を見た。

今回はいよいよ首里城決戦。首里を守る戦いの場、前田高地・米軍がその地形をシュガーロフ・・・ハーフムーンと名付けた地を巡るが、2つのテーマの内の1つなのだ。この地が落ちて、いよいよ首里は陥落するのだが、ここで司令部が白旗を上げれば、沖縄戦が終わり、南部敗走による数万の住民や学徒隊の無駄死には無かったのである。



前田高地に向かうべく、延長されたゆいレールの浦添前田駅に降りる。ここから、足で稼ぐ学びだ。
最前線嘉数の後方2キロに第2陣前田高地(ハクソーリッジ)がある。第4陣は首里だが、守備隊は首里西方の小高い丘に3陣を展開する(ハーフムーンおよびシュガーロフと米軍が呼んだ場所です)。ここが敗れれば、首里は全く孤立するのだ。今回は、この前田高地から首里大本営跡までの沖縄戦跡を巡るのが大きなテーマなのだ。。



前田高地は、元々あった浦添のグスク(首里の王朝が確立するまで沖縄の歴史の中心であった浦添)に築かれた陣地である。グスクは、民衆の祈りの場・聖域であるとともに城でもあったとも言えるので、歴史的遺構も多い。激戦前田高地の戦い(米軍はその小高い絶壁を、ハックソーリッジと呼んだのだ)の前に、歴史散策をまず行った。

写真・浦添中学校。いつも花壇が綺麗!



街の指定文化財・・火の神様。



水の確保が大変だった島は、どこでも「井戸」「湧き水」を大事にしているが、13世紀から延々と流れ続ける、水の神様の場所を見学。



12世紀に英祖という王様がこの地を収める・・やがて下剋上で第一尚氏の代になり、14世紀にまたまた下剋上で明治まで続く第二尚氏の時代になる。女性に太陽が入り込み受胎して生まれたのが英祖(太陽の子・テダコ)などの伝説など事実ではないが、その墓とされる「浦添ようどれ」を見学。墓が英祖の墓であるというのは、ある程度信頼できるかも?



ようどれ館という、展示施設では墓の内部が復元されていて、入ることが出来る。



第二尚氏の時代国王が普天間宮を参拝するのに整備された古道が一部復元されている。当山の石畳である。





歴史を感じられるスポットで俺のお気に入りである。



さていよいよ本編・前田高地の戦いだ。遠く北に最大激戦地「嘉数」と普天間基地が見える。(写真真ん中左の青い建物が嘉数に建つ展望台である)
南を見れば、はっきりと首里城が見える位置だ。



地下にはおびただしい数のトンネル(壕)が日本軍によって築かれた。ほとんどの壕は砲弾や手りゅう弾で埋まるが、あちこちに入り口が空いている。
その壕の入り口を眺めるの図。



写真では表現できないが、絶壁、まったくの絶壁・・ハクソーリッジに立つ。崖をよじ登る米兵と迎え撃つ日本軍の攻防の崖だ。
後方支援部隊含む米軍総戦力45万人(ベトナム戦争では50万)に対し、男女学徒を加えても122000人が迎え撃つ日本軍の兵力だ。
「ありったけの地獄を1つにまとめた」という、激しい戦いが展開される。12日間に及んだ戦闘で、やがて陥落する。
アメリカ映画で、「ハクソー・リッジ」というものが作られている。数年前なので、興味がある方は見てみると良い。
我々は、この映画は必ず見るが、宿題であった。




当時の崖の様子・そこに立つ米兵の生々しい写真と共に、ここは北海道の兵たちが多く、また死に、北海道の慰霊碑が崖の中腹を平らにした場所に建っている。手を合わせ・祈る。

現地に立ってみるというのは、写真や文章では感じられない「何か」が体の中に入ってくる。



戦いの崖は北面・・・その南面には、日本軍が掘って守っていた、食料の壕があり、一部入り口が保存されている。
カンパンそして、糞尿を保管した一斗缶などがあった「カンパン壕」である。






偶然大学の研究者が調査をしていて、話を聞くことが出来た。奥にもう1人の方が居て、壕はほとんど破壊されないで現状をとどめているらしい。
中をのぞくと、人は立って歩け、車1台はゆうに入れる大きさだと分かった。



美味そうなバナナが悲しかった。



バナナの奥には「缶詰壕」の入り口が公開されている。他に幾つかの壕があるが、入り口が埋まっていて、立ち入ることもできない。




浦添からおもろまち駅に戻り、第三陣「シュガーロフとハーフムーン」の戦地後の痕跡を訪ねて、今回の学び初日は終わる。

5月4日に総攻撃が始まり、首里攻防の最後の戦いの場だ。ここが落ちて、27日から首里の32軍・大本営は南部に撤退を開始するのだ。やがて、首里城に星条旗が建つのであった。

4日からの1週間に及ぶ攻防では、シュガーロフの丘は持ち主(米軍か・日本軍かだ)を11回も変え、ハーフムーンに至ってはアメリカ軍に主導権が渡ることは1度も無かったという。この戦いで海兵隊側は2662名の戦死者・1289名の戦争神経症患者を産んだという。日本軍については統計が無いので不明だが、米軍の数倍と言われているようだ。

ハーフムーンでは、語り部が若い人に話をし、それを現地メディアが取材している場に遭遇した。



ハーフムーンから北の方角に、今は水道の塔になっている丘が見える。そこがシュガー・ロフだ。




長く急な階段を登り、現地に立つ。手を合わせた。

長い文章を読んだ皆さんに、感謝申し上げる。

最後に、本文中幾つかの数字が出てくるが、皆、アメリカの公文書が期限を過ぎて、一般公開されたものからだ。

翻って、我が国・・・今になっても、公文書を平気で処分したり、書き換えたりするありさまだ。沖縄戦の記録の多くが、アメリカ軍の記録・公文書・写真・フィルムからである現実から、21世紀に生きる僕らは学ぶべきことが多いと思う。

森友加計もしっかりした記録がどうなったことやら・・・だ。


24日の濃厚接触者。

*女房・・・1名。

コメント
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