館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2021冬の沖縄・ミッキースペシャルあげいん・・・その3・戦跡に立つ、そして首里城。

2021-12-28 04:41:22 | 旅は続く
最終日は燃えてしまった首里城の現在確認と、その首里城に掘られた、第32軍司令部壕を見学なのだが、その記事と、2日目3日目に回った、寄り道の記録などが、今回の記事となる。



セイゴウちゃんとミッキーは行ってなかった「対馬丸記念館」に連れて行った。
対馬丸は太平洋戦争中の1944年8月、疎開船として民間人や児童ら計約1,700名を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、アメリカ海軍からの魚雷攻撃を受け沈没した。最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡し、このうち対馬丸の乗組員は西沢船長以下24名が対馬丸と運命をともにした。一方で、生き残った児童はわずかに59名だった。関連資料によっては60人とされることもある。対馬丸の生存率は学童7%、一般(疎開者)14%、軍人48%、船員72%とする資料もある。対馬丸の沈没は軍によって極秘にされたこともあって、その隠ぺい体質が数字の齟齬を生んでいるのかもしれない。海を漂い、助けられた人たちの証言が、いくらかの事実を伝えている。記念館は官立で、運営は公益財団法人だ。





3日目、道中寄り道・・・本土と同じく流産する民主主義革命の1つの運動「自由民権運動」、その中心人物、謝花昇の像を訪ねた。
この沖縄自由民権運動は、今後の僕の課題・・このあばぁスナック組の課題でもある。




セイゴウちゃんミッキーがひめゆり平和祈念資料館に行っている間に、ミネさんを案内した慰霊碑などが続く。
私立昭和女学校学徒隊(梯梧学徒隊)の慰霊碑だ。動員数17名・犠牲者数9名。第62師団野戦病院配属だ。
現在なら「商業学校」であった。
ひめゆりと隣り合わせに敷地にあるが、訪ねる人は少ない。ひめゆりは生き残った学友達が、生き残ってしまったしょく罪の念と、死んでしまった学友への慰霊でまとまり、声を上げ続けたことが、知れ渡ることに大きく貢献したのだ。他の学徒隊も、かなり遅れたが声を上げ始め、徐々に慰霊に訪れる人も増えたようである。
ひめゆりと男子の鉄血勤王隊の声が、沖縄の学徒隊を知らしめるに大きな力になったように思う。ひめゆりの資料館も行政に頼らず、紐付きでない浄財で、今も運営されているのは天晴だ!



資料館から100mほどのところに、県立首里高等女学校(ずいせん学徒隊)の慰霊碑がある。先の昭和女学校と一緒に、介護の訓練を受け、同じ部隊に配属された。動員数61名・犠牲者は33名だ。



敷地を同じくして、こちらの慰霊碑がある。

久留米 久士海上挺身隊 十五柱霊位 の慰霊顕彰

碑文

「学徒出陣霊位に捧ぐ」
 祖国の命運をかけアジア民族解放の大東亜戦争は昭和十九年半ばには戦局暗雲立ち込め本土決戦の起死回生策としての船舶特攻隊員として選ばれし十五柱の汝命等、久留米第1陸軍予備士官学校より第10船舶教育隊に転属、江田島の幸之甫基地にて猛訓、昭和20年沖縄戦激化するや沖縄海上26,27戦隊員として奮戦、嘉手納沖や中城湾にて敵艦に体当たり自爆なされしは8柱。米須、首里、真栄里、湊川の陸戦にて7柱散華され給う。痛恨の極みなれど、汝命等は大和益良夫の道を全うされたと申し上ぐべきか。英霊諸兄の魂魄とその勲は永久に御遺族は勿論の事私達同期並にその子孫の胸中に焼き続けて止まない。
 汝命等安らかにお眠り下さい。
 平成5年5月12日
   花田 惟忠
久留米第一陸軍予備士官学校 第十一期生有志 建立

小舟で艦隊体当たり・・・こんな特攻の姿を表現してるな。しかしまぁ・・アジア民族解放などと、およそどの慰霊碑も、あの戦争の美化は、見苦しい。



魂魄の塔(こんぱくのとう)・・沖縄本島南部の糸満市米須にある慰霊碑・慰霊塔。沖縄戦終結間もない1946(昭和21)年2月、島尻郡真和志村(まわしそん、現在の那覇市の一部)の住民によって建てられた。「周辺に散乱していた遺骨3万5千余柱」の遺骨を納めたとされ、終戦後の最も早い時期に建てられた慰霊碑でもある。沖縄戦跡国定公園内にある。米軍は「敵である日本兵を祀り称える」動きにならないか警戒して遺骨の収集に難色をしめしたが、拾い集めないと農作業もできないありさまで、何度かの折衝で許可されたのだ。揮ごうは、翁長前知事のお父さんだ。僕は、ここへ連れてゆくことが多い。







ミッキーの希望で、沖縄のバンザイクリーフと呼ばれる「喜屋武岬」にも行った。追い詰められ、崖から落ちるしかなかった住民たち。海から吹き上げる風の音は、沢山の住民の怨嗟のごとくだ。写真ではわからないかな・・すごい絶壁なのだ。


「崖」          石垣 りん

 戦争の終り、

 サイパン島の崖の上から

 次々に身を投げた女たち。


 美徳やら義理やら体裁やら

 何やら。

 火だの男だのに追いつめられて。


 とばなければならないからとびこんだ。

 ゆき場のないゆき場所。

 (崖はいつも女をまっさかさまにする)


 それがねえ

 まだ一人も海にとどかないのだ。

 十五年もたつというのに

 どうしたんだろう。

 あの、

 女。          

(詩集『表札など』・1968年刊)



そばに「平和の塔」が建つ。兵士・住民一万柱が収まっている。ここに背を向け真南に腕を揚げる。腕の右は東シナ海・左は太平洋だ。



運転手氏が、少し離れているがここに、連れてきてくれた。

 喜屋武埼灯台に設置された説明板によると、灯台は地上高15メートル(海面から灯火まで47メートル)、光が届く範囲が34キロという県内最初の大型灯台。戦後に現在地から約120メートル東の荒崎に、米国が「荒埼灯台」を設置したが光が弱かったため、現在の喜屋武埼灯台が新設された。





僕はここの賛助会員なのだが、期限が切れる2月に来れるかどうかも不確か故、速めに会員の更新を行った。




空港に一番近いビーチが売りの「波の上ビーチ」ここにも軽石が流れ着き、除去作業が行われている。



沖縄師範学校男子部・・現在は県立芸大になっている。




首里城の真下を貫く、第32軍首里の司令部壕の入り口、現在3か所ほど口が見える。内部は傷んでない箇所も多く、保存と整備・公開の運動が始まり、熱を帯びている。沖縄の知事が、自民にならずオール沖縄ならば、実現するだろう。公開されたら、ぜひ入ってみたいものだ。




お決まりの図。修学旅行の一団がやってきた。多くの高校は沖縄をやめているようだが、天晴!帰りの飛行機も修学旅行生と一緒だった。茨城の高校だった。



城壁は戦争で残った部分と、復元部分がはっきりわかる。残った部分は、砲弾の跡がおびただしい。



首里城正殿はすっかり焼けてしまい、広場が閑散としていた。




復興の進み具合などの展示が有った。2026年復元予定らしい。

瓦・・・・欲しかった。な!

27日の濃厚接触者。

*女房・・・だけ。
コメント
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