館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

栃木県佐野市の井伊家の墓。

2018-05-21 04:19:24 | 旅は続く


井伊彦根藩はあの井伊直弼の藩だが、その井伊家3代の墓がある、しかも何と、栃木県佐野市の天應寺ってとこにあるらしってんで、出かけてみた。



当てにならないカーナビで、ちょいと迷いながら行きついた先は立派なお寺だった。佐野市の文化財に指定されているらしいが、佐野市はまったく案内さえ建てていない状態で、「なっとらん!佐野市!」であった。

佐野氏というのは、藤原秀郷の系統で、平安の頃下野国安蘇郡佐野庄に土着した関東武士である。
鎌倉の戦乱で、誰に付くかで浮き沈み、やがて北条の系譜に連なるが、豊臣の小田原征伐で没落するが、分家が豊臣についていたので、佐野の名と家が残ったようである。

やがて、徳川になって、慶長19年(1611年)に突然改易され、大名としての佐野氏は終焉する。

そして、親藩の井伊が飛び地で拝領するようである。



三代将軍家光の時、外様の佐野氏を江戸に近い佐野に置く事を恐れた江戸幕府は慶長19年(1614年)佐野藩の領地を没収。佐野氏に代わり彦根藩主井伊直孝が領主になった。佐野が越名・馬門河岸により江戸に通じていた事や、東照宮の修造や護衛の任務を負わせる事を考慮された。
このとき天應寺が井伊家の菩提寺になり、現在の位置に井伊直孝の手により建立された。
その為、井伊直孝は天應寺中興の祖としてあがめられている。(以上・ウィキ)



墓を眺めると、最上階に、門構えの墓地があり、あれだな!と、分かる。



井伊直弼・・・・賛否両論だが、欧米列強との戦争を回避したのは功績かな?



佐野市街の眺め・・・



門の中・・・





2代藩主・3代藩主遺髪の遺髪・・・そして井伊直弼の遺髪が納められたと伝わる墓がある・・・・

なんだか、直弼のみ立派!



多くの家臣団の墓が、ここにはあるのだろう。



彦根井伊家の家紋、丸に橘が、本堂には掲げてあった。

佐野の井伊家・・・・・江戸の時代をどのように生きたか・・・・興味は尽きないぜ!

調べてみるか・・・・
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