3日目は「峯さんレンタカーで行く観光のような1日」であった。ホテル近くのオリックスレンタ、レンタカーの場合はいつもここだ。
近いし、そつがない。大手の安心感もある。峯さんの運転は、安定感がある。しかし、ナビの俺がここからずっと左車線な、と言っても時々右に行ってしまう、属性がある。
このメンバー、昼はしっかり学習ばっかりで、観光のようなものは実は初めてなのだ(観光もいいんじゃない?とは、峯さんの提案)。
高速道路を始点(首里)から終点(許田)まで走り、名護・本部・今帰仁と回って、帰りは読谷で学習が日程だ。高速の伊芸SAでは、世界一美味い「アメリカンドッグ」を食うのは、お決まりなのだ。
2時間強・・本部にやって来た。俺がまさにお勧めの場所、備瀬!ここの福木並木と備瀬の海岸。
絶景の海岸を歩く・・・ひたすら美しい海・・・遠くに城山(タッチュー)そびえる伊江島。沖縄本島で一番美しい海岸かもしれない。
潮に強く、分厚い葉が火事にも強い「福木」という屋敷林に囲まれた部落が碁盤の目のように鎮座する。その中でも備瀬の福木並木は、流れる時間が違うのだ。今も、それなりの屋敷は福木で囲まれている。
次にやって来たのは世界遺産「今帰仁グスク跡」・・僕らは、名護市から北西に突き出た本部半島を時計回りに観光中なのだ。
皆が学校で習った歴史年代・・・旧石器・縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安・・こんな歴史区分は沖縄では通用しない。
旧石器の後ずっと1万年以上も貝塚時代と呼ぶ、縄文のような時代が続く・・日本の平安半ばまで続く。そして11世紀になって突然グスク時代という、航海術と鉄器を持った人々がやってきて新しい時代を開くのだ。
ここ今帰仁城は世紀は確定が難しいが、おそらく12・3世紀にはこうした航海術と鉄器を持った人々が、(おそらく九州から南西諸島を通って)渡る。航海術は貿易の基礎・そして鉄器は大きな生産力の源だ。
今まで木や貝で出来ていた農耕の道具の革命で、多くの耕作地、その生産力は多くの人々を囲めるってわけだ。
今帰仁城は多くの按司(まぁ在野の権力者)を淘汰し、やんばるを勢力圏とする北山王の拠点となった場所である。やがて15世紀には中山の尚王朝に滅ぼされることになる。
東シナ海の眺めも美しく、見事な曲線を描く城壁は、まさに世界遺産にふさわしい姿だ。本丸には立派な拝所が鎮座。
3年ぶり、多分4度目だが・・・発掘が続いて、新しい見学場所も増えていた。さらにもうすぐここも御開帳されるかという場所もあった。
あそこは行ったよ・・・なんて数年前は、今は昔になるかもしれない。
本部半島を回り終え、名護。ミッキー&せいごうが許田の道の駅を所望。笠木さんから聞いた、ハワイ由来のお菓子「チョコもち」を買うらしい。
移民の島沖縄・・ハワイにも沢山の人たちが移民した。ハワイのお菓子をヒントにしたお菓子がこちららしい・・・。水を一滴も使わず、材料はもち米、チョコレート、ココナッツミルク、卵だけらしい。
なんだか、2人とも沢山買い物していたぜ。土産らしい・・・
許田からしばらく58号線を走り、読谷村にやって来た。ミュージシャンは訪ねなければならない場所。
歌・三線の祖と言われる「赤犬子(あかいんこ)」の墓参り。
近くには、あのベニヤ板の特攻艇隠匿の穴がぽっかり開いている。
比嘉恒敏・・疎開船対馬丸で長男と父を亡くし、出稼ぎ先大阪で空襲に遭い、妻と次男が目の前で防空壕ごと押しつぶされる。やがて再婚し7人の子供に恵まれる。そして飲酒運転の米兵に激突され妻が死に、自身も娘たちの名を呼びながら息を引き取る。享年56歳。これほど戦争に翻弄される悲惨があってよいのだろうか・・・
比嘉さんは亡くなったが、「艦砲ぬ喰えー残さー」の名曲と、娘たちのコーラスユニット「でいご姫」を残したと言われる。
その碑を訪ねる。ボタンを押すと歌が流れてくる・・・切ない名曲だ。
旅の終わりは「恨の碑」。強制連行され、軍の下働きさせられ、飢えや砲弾で死んでいった犠牲者たち。
その慰霊と平和への祈りの詰まったここにやって来た。
「恨」は韓国語では日本語の「うらみ」だけを意味せず、悲しみ・不満・怒り・後悔など長い間しこりとなった感情を意味するらしい。
彫刻家「金城実」さんの彫った碑は、生々しい・・・・
こうして、観光のような1日は終わったのだった・・・