10月28日から31日の旅日記さ~~~
今回旅は、まったく一人で行くつもりだった・・が。それを聞きつけた、ミネさんと女房が、同じ日に飛行機やらホテルやら独自手配して、結局一緒になっちまった・・
なので、旅の企画は、意見は聞かず、「マイ企画」に便乗してもらう事になった。
そのマイ企画その1は「核弾頭を積んだメースB」の発射基地が唯一残る施設の見学と、辛酸をなめた、朝鮮の方々の慰霊碑(こうした施設モニュメントはたった9つ「平和祈念公園・読谷・渡嘉敷島は圧巻だ・・」しかないのだ。日本人の慰霊碑は、犬も歩けば棒にあたるほどあるのに・・である。)の見学である。
そこへ向かうべく、名護西線(120番線)のバス旅が始まったのだ。2日目の旅は、バスに揺られ1時間40分が起点であった。
バス旅も良いものだ・・・車窓からの沢山の町や村の眺めは発見もある。
やがて、こんな場所に降り立つ。恩納村谷茶・・・あの民謡「谷茶メー」の海岸沿いである。長い坂を10分ほど登る・・・
広大な敷地が広がり、代表者の俺は、入門証がぶら下げられる。
沢山ある施設で、一般人が見学できる建物など説明を受ける。
庭からは、美しい海と、僕らが(おばぁスナック組)愛してやまない、伊江島の城山(タッチュー)が目に飛び込んできた時には、涙が出るほどうれしかった。
新種のランに、池田大作氏の奥様の名前が付けられたらしく・・・そのラン園など見学・・・外の温室では沢山の、このランが育てられていた(きっとそれなりの信者に配られるに違いない・・と、邪推)。
メースBミサイル・広島型原爆(15キロトン)のおよそ70倍の威力を持っていたミサイルだ(沖縄にはこれらが1300発あった)。恩納サイトに並ぶ8つの六角形の格納庫は、中国及びソ連に向いた核ミサイル発射口だった。米軍占領時代の負の遺産として、跡形もなく取り壊されてきたミサイル基地の中で唯一現存しているメース基地が、宗教団体の創価学会が所有することになった恩納サイトである。
当時の面影を残し、圧巻の存在感で迫ってきた。
内部は撮影禁止で、パンフ写真より・・・・
この事実は、ウクライナで核が・・と危ぶまれている時、覚えておくべき事実だ。
冷戦下の1962年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが3月14日、同部隊の元技師らの証言で分かった。2015年3月14日まで、日本人はこの事実を知らないのである。
発射寸前の核が日本に有ったのだ。
ここは、地下に続く入り口。シェルターに司令基地はある。報復の核の攻撃があっても、米軍はシェルターで守られ・・周辺の日本人は、核で死ぬという構造だ。
守衛さん、会館の職員も、おそらく学会員であろうが「辺野古に基地が出来ますが、基地が出来たら、真っ先に沖縄がねらわれるんです」と、真っ当なことを言っていた。
公明党の方々に、伝えて欲しいと思ったさ。
この施設の由来は学会の案内では以下のように説明されている。
沖縄研修道場は、かつての米軍「核ミサイルメースB基地」跡地に、1977年にオープンしました。当初はミサイル発射台を取り壊す予定でしたが、「基地の跡は永遠に残そう。人類は、かつて戦争という愚かなことをしたのだという、ひとつの証として」との池田大作先生の提案で、6体のブロンズ像が建つ「世界平和の碑」へと生まれ変わりました。
池田大作先生は1964年12月2日、戦争で最も苦しんだ沖縄の地で小説「人間革命」の執筆を開始されました。その意義をとどめて、研修道場内には「人間革命の碑」が建立されています。
だ・・そうだ。
受ける!
広い庭を西に向かうと、展望台もある。
美しい谷茶の浜が広がっていた。
僕らは、また120番線で読谷村に向かい、喜名バス停で下車。タクシーを呼んで、読谷の3か所を回った。
そのメイン「恨の碑」!!!!
沖縄戦で日本軍が朝鮮半島から強制連行した軍夫や慰安婦らを慰霊する読谷村瀬名波の「恨(ハン)之碑」だ。碑は2006年に建てられる。ブロンズ像の碑を彫った村在住の彫刻家・金城実さんである。あのチビチリガマの入り口に立つ像を作った方である。恨之碑の会共同代表の安里英子さんは「慰安婦や軍夫という非人道的な存在を生み出したのは日本だ。被害と加害を背負うオキナワ人の責任を自ら問わなければならない」と言う。
圧巻!圧倒する像の前で、僕ら3人は、マジに立ち尽くし、しばし言葉を失った。
碑は日本兵に連行され目隠しのうえ処刑台への階段を上がる若い韓国人軍夫と、息子の足にしがみつき泣き崩れる母親の姿をレリーフとして描いた。碑文には「あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ、地球上から戦争と軍隊を根絶することをこの地に果てた兄姉の魂に私たちは誓う」と刻まれている。同一の追悼碑は韓国でもっとも多くの軍夫が連行されたとされる慶尚北道英陽の公有地にも建てられており、共同の取り組みを表している。
慶尚北道の石が、置かれているのも、心を打つ。
沖縄兵站慰霊之碑 (沖縄本島 糸満市大里)
韓国人慰霊塔 (沖縄本島 糸満市摩文仁在 平和記念公園内)
平和の礎 (沖縄本島 糸満市摩文仁在 平和記念公園内)
青丘之塔 (沖縄本島 宜野湾市嘉数 嘉数高台公園内)
魂魄の塔 (沖縄本島 糸満市米須 平和創造之森公園近く)
アリランの碑 (宮古島 宮古市)
アリラン慰霊のモニュメント (渡嘉敷島 渡嘉敷村 里原)
留魂之碑 (石垣島 石垣市)
久米島在沖朝鮮人・痛恨之碑 (久米島 島尻郡久米島町)
沖縄戦の朝鮮人の慰霊碑(記載の中に朝鮮人についてがあるを含む)は沖縄ではこれだけだ。
12月おばぁスナックは、渡嘉敷の「アリラン慰霊のモニュメント」に向かう・・・・
長いやつ・・・読んでくれた方には、例によってわし・・頬刷りしたいのう・・・
3日の2m圏内接触者。
*打合せ・永・中・松・新・・4名。
*立ち話・吉・高・石・長・内・5名。
*濃厚接触・・女房。