館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

2019梅雨明けの沖縄のはずだった怪しい4人旅・その1・初日そして最終日。

2019-06-30 05:07:39 | 旅は続く


いままで、6月23日・・沖縄の慰霊の日は雨が降ったこと無し!ってわけで、満を持して22日からの計画を組んだ。
やつは、30年ぶりに・・・・もう言うまい・・・

飛行機は空港混雑でやはり到着が遅れ、計画のやんばる急行も出発時刻が10分早まっていて乗れず。111番線を待つ我々。



なんせ、8時に朝飯食って、このままでは名護に着くのは2時・・それからレンタカーの手続きとなれば、昼飯は2時半過ぎだんべ。
ってわけで、高速バスの運転手氏に「伊芸SA」で休憩してほしいと頼み(ここら融通が利くのは島ならでは)1時過ぎに「今のところ日本で一番うまいアメリカンドッグ」にありついた。




手続き・昼飯(記事は後日)を済ませ、日程1の「津嘉山酒造」見学だ。昭和2年から4年(1927~1929)にかけて建設された酒造所は、現存する赤瓦葺き屋根を有する木造建築としては最大規模であり、戦前の姿を今に残している。こうした建造物は他の地域にもあるが、敷地と建坪の大きさで、国の重要文化財に指定され、修復工事も終わって、昨年8月から見学も可能になった。




酒は別の工場で作っているが、工場長とこのガイドしてくれた千葉出身の従業員のみで製造している小さな蔵である。
酒つくりの話がもっと聴きたかったが、良くしゃべるガイド氏は建物の話が多かったぜ。



米軍は中部読谷村に上陸する。迎え撃つべく、大本営を首里城に置き、前線を嘉数を通る西海岸から東海岸へと敷いた。
この読谷以北の広大な場所には、守備隊程度のわずかな兵隊たちしか配置されず、何をか言わんやなのだが、法律まで改定して、15歳から18歳の少年たちを「護郷隊」として組織し、戦争に駆り出すのであった。あのスパイ学校の「陸軍中野学校」の軍人が指揮を執り、山中でゲリラ戦を展開するのだった。もちろん、被害多く、ほとんどその成果は無かったのである。
少年兵の集められた、名護小学校脇の、小高い丘に、碑は建っているのだった。




610名招集され、91人が死亡している。



中野のスパイ学校のこの村上隊長が中心人物・・・・
彼は、生き残り、後に自書で「其の後約束通り毎年慰霊祭を執行している。体調不良等悪条件が重なっても慰霊祭を執行することが、自分に課せられた責務であると共に、生き甲斐と考え続けている」と書いている。
犯罪と言える行為を戦争のせいにする兵士も多いが、まだ、ましか?



この後、やはり北部山岳戦に動員された、県立第三中学校の学徒碑をめぐるべく八重岳を目指したが、途中の怪しい看板に翻弄され、山中で右往左往することになる・・・
そして(そのおかげで)俺のリストにまったくない、こんな案内看板の出くわすのだった・・・・



ガマであったか?わずかに残る石垣などとともに、怖いような「気」の漂う場所。
八重岳野戦病院跡に建つ説明版は朽ち果てる寸前・ほとんど読むことは不可能なほど、放置状態であった。

傍らの柱のようなものに、わずかに読めるのは「なごらん(県立第三高等・・・・」
僕はすべて氷解した。ここは、あの県立第三高女「なごらん学徒隊」が動員された場所であった。北部の「ひめゆり」と形容したら、分かる?かな?
*第三高女学徒は、名護の「南橙慰霊之塔(三中健児の塔)に一緒に祭られている。

今回の僕にとっての最大の出来事だったように思う・・・



山中をさまよいつつ、やっと、三中鉄血勤王隊の碑にたどり着いた。





碑文にはこうある・・・

太平洋戦争も末期の昭和二十年三月米軍の烈しい砲爆撃の中を、沖縄県立第三中学校生徒数百名は、軍名により通信隊要員または鉄血勤皇隊員としてあるいは繰り上げ現役入隊の形で、郷土防衛の戦烈に馳せ参じた。

四月一日、米軍の沖縄本島に上陸するや、陸上戦の火蓋は切って落とされ、我が三中の生徒はここ八重岳・真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し数十名が、あたら十代の若き生命を無残にも散らしてしまった。

彼等の三十三回忌を迎えるに当たり、学業半ばにして斃れ、諸々の思いを残して逝った彼等の霊を慰めるとともに、平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え、二度と再びかかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう、我等はもとより、子々孫々に至るまでの永遠の戒として、ここにこの碑を建立する。

こうして、初日の昼の日程は終わったのだった・・・夜の名護については、別項の特集で!




翌朝、名護の海岸を散歩・・・・1日中雨の予感・・・・島は本当に猫が多い。



朝食の後、65番線で本部港目指し、バスを待つ我々・・・・




本部は大雨だった・・・土砂降り!!ミネさん!!



最終日は12時までしか時間は無かった。フライトは1時15分なのだ。
そこで、ミネさん・せいごうさんの見ていない世界遺産に行った。



王朝時代の別邸「識名園」だ。




日本庭園に学びながら、どこか建物が中国風・・・
ここは、琉球王朝時代中国からの使者が来ると、招いて、接待した場所なのだ。




植物園などあって、南国の植物がみられ、名前なども覚えられるから結構好き。バナナの花も綺麗だぜ!



さて、ガイドの僕にせいごうさんは(小声で・・)女房に土産はなにがよかろかのう、と尋ねるので・・・
やちむん通りに案内。
珈琲が好きな奥様に、コーヒーカップ!(海の青さを表現した、新垣さんとこのいい品を買っていたぜ!)



さらに、この商売上手なネーネの店で、パチモノ・まがい物でない、伝統工芸士作の「紅型」のハンカチ!
(何故かミネさんも・・・・誰にあげるんだぁ?)




昼飯を食べ、いつもの「楽園カフェ」・・・つい、2時間ほど前は、呑みすぎで下痢だったのに、最後にまたビールを飲むミネさん・・・恐るべし!

こうして、悲しい最終日は、僕を哀愁が包むのだった・・・・帰りたくない・・・雨でも、雨の島でも、ずっとここに居たい・・・



悲しい・・・・



2時間半強・・・・・眠るにはアルコール・・・・

こうして、最終日は終わったのだった。

コメント (2)
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