館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

開拓の地・宮城県三住の神社は素敵だった。

2011-12-13 06:08:43 | 旅は続く


いやはや、蔵王に行っても、ばかみたいに沢に入っているので、観光らしきものは、あまりしたことが無い。4月末から9月末までしか行った事もないのだ・・・

それが、何と11月の終わりに行くことになって、お山の・沢の放射能の測定など行なって、何箇所も沢目指して回ったのだった。

季節はずれのこの時期・・・僕の頭の中は、魚・魚・魚・魚・山菜・魚・魚・キノコ・・などとなっていないので、風景や景観に思わぬ発見があるものだ。

ここは、白石市と蔵王町の境付近・・・白石市の中心部から約15キロ・標高456 mの地点だ。



ここに鳥居があるのは知っていた。(およそ僕の通常のシーズンでは、木が茂り・草が群れているので、気に留めないと確実ににのがすが)・・有るのは認識していたので、何度かは立ち寄ろうと思ったこともあったが、行きは魚・・帰りは露天風呂・・で頭の中が占められており、寄ったことは無かった。




その脇には、2つの石碑。
オラこれで、ピンときた。ここは、開拓の土地だよな~~とね。

いや、耕作地のたたずまい・牧畜・・と、女房の故郷・・戦後の満州開拓から逃れて、やっと故郷の土を踏んだ開拓者は、戻っても生まれ育った場所に、暮らす場所は無く、再入植をし、不毛と思われた原野をものすごい苦難を乗り越え新しい故郷にした。そんな開拓村のたたずまいだとは思っていたのだ。
そう、北軽井沢も、那須高原も、長野や北海道も、そんな開拓の村でいっぱいだ。



白石市・三住地区。

かろうじて追える文字を読めば、戦時中の食糧増産のため、不毛の原野に入り、人力で耕し、組合を作り・・土地は組合が皆で所有し・・やがて、生活が定まると、個人所有に変えて組合が解散する・・などの歴史が読めた。北軽井沢と同じような歴史だ。そこに様々な願いや祈りを込めて、この神社を建立したようである。

三住地区の歴史は,遠く江戸時代に始まり。当時3戸の家が炭焼きを営んでいたことが「三住」という地名の由来と伝えられている。戦前は3 4戸の集落であったが,戦後開拓者の入植により一時は戸数87戸を数えた。現在は戸数70 戸余り,人口は27 0近く数える。畑作及び酪農中心の農業経営者が多いが,近年になってペンションや食堂経営等の自営業者も増えているようである。




いや、静かで、凛として、霊験を感じるたたずまいである。

いいところだった。



この上に沢は無い・・・ここからは、豊富な湧き水が流れ出している・・・

きっと開拓の当時は、貴重な水源で、毎日、水汲みに皆がやってきたに違いないのだ。



道路を挟んで分校がある。

僕がここに通い始めた頃は、まだ生徒が居たように記憶するが、今は「休校」らしい・・・

人は職を求め都市に集まる時代・・・ましては少子化・・・

ここに子ども達の笑い声が響く時は・・・きっと戻らないだろう。


下り・そして上る・・神社への参道は、綺麗に掃除されていた。

地域の人が大事にしているのが分かる。

素敵な場所であった・・・・



ところで、この豊富な湧き水・・・・どこに流れているのだろう・・・そこにはイワナが・・・

この、ばか者の頭は・・すぐに現実にかえるのであった・・・・
コメント (4)
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