笠木さんの出演が決まって「こりゃ~お客さんへのすごいお礼が出来るな」と思った。
ウィキの中の笠木氏
このコンサートの中心人物。
出演を知らせたら、人の波がもっと押し寄せ、コンサートは収拾がつかなかったとおもう。
最後なの?と、今まであまり来なかった人まで、コンサートに関心を寄せ、チケットの問い合わせがすでに配券して程なくの12月には舞い込んできた。
すぐ、あちこちに電話して、販売の感触や状況を聞いた・・
お客さんを立ち見で聞かせることは、避けたかった。長いコンサートになるのだ。
客席を通路など狭め広げて30か・・・
まあ、最悪は、出演者は出番が終わって聴く場合、立ち見・・と告げれば合計60は増えてもOKだが・・・・
そんな状況で、笠木さんの出演はくれぐれもオフレコ!と伝達した(まあ、関係者には知られるだろう・・とは思ったが)。
12月の末には「無理してチケットを売らないように」各グループや配券先にお願いする。
僕のブログでは、新年早々「前売り完売」と表紙に載せた。
その後も、問い合わせは続いたが、何とか少しの立ち見だけで済んだ。
僕が笠木さんに初めて会う下りは、笑えるのだ。もう、20年以上も前の話だ。
その昔、ある学童保育所が設立の10周年記念に、そのレセプションに「笠木さんに来て歌って欲しい」と頼んだ。
どうも、笠木さん(彼は、岐阜県中津川市に住んでいる)を呼ぶお金はあったが、バックのミュージシャンを付けるお金は無かったようなのだ。そりゃ、ん十万だもなぁ・・
で、(多分笠木さんの提案と僕は今もってにらんでいるのだが・・)楽器弾きは現地のアマチュアを調達で良いとなったようである。
で、主催者から、その友人へ、はたまた、僕の知り合いへ・・と「素人楽器弾き」探しが回り・・「ロスト」にお願いはやってきたのだった・・・
若いというのは、向こう見ずでもあった。そして「ロスト」は笠木さんの歌は大好きで、コンサートなどでも歌っていたのだった・・・
弾くことになった・・・・で、1ヶ月前に「やる曲・楽譜(読めないのでお守り)・キー」があれば、頑張れると伝え、それらが届いた・・・。
必死に一ヶ月練習しただよ。
で、当日。
笠木さんは1時間ほど前に到着。早速楽屋で打ち合わせが行なわれた・・・
まずは、自己紹介・・「館林ロストの**ですぅ~~」。
「何?ロスト!ロストシティーランブラーズか!(この場合僕らが、名前をパクッた、本家ニューロストシティーランブラーズを指す・・・彼は、本家ロストやその周辺のアメリカの古い民謡などのメロに載せ、彼のペンなる詞をかなりレパートリーにしているのだった・・・)」
「ロストじゃ、この曲も出来るだろう!」「あの曲も出来るな!」
と、まあ、一ヶ月は吹き飛んで、およそ70%の曲はその場で変更になってしまったのだった・・・・
その、僕らの演奏・・・・どんなにひどく、どんなに恐ろしい状況だったかは、皆さんも想像がつくであろう・・・穴があったら入りたかったが、大きな穴が僕らには必要であった・・・
やがて、僕らの仲間が、彼のコンサートを主催し、手伝ったり、前座を務めたりした。ここ数年は、お呼ばれのコンサートで同じステージに立ったり、関係は深まって行っていたのだった・・・。
その彼が、「ギャラはいらんから、俺をあかんべ山に呼べ」と言う。
すごい!俺は冷静だったが(と、書いておく)皆は、舞い上がった。
条件がついた・・・「ゆっくりツブク君と話す時間・・」だった。
酒はドクターストップの体の笠木さんだったが、飲んだ。今の笠木さんには無くてはならない楽器弾き(多分・色んな交渉ごと・・マネージャーの様な仕事も彼が面倒を見ていると拝察している)の増田さん、そして運転手フラット・のんべいアバウトと、僕の5人で、個室の飲み会が前日始まったのだった。
話し上手・聞き上手の笠木さんと増田さんに乗せられ、沢山話をした。
「俺の質問に答えて欲しい」・・・と、沢山のインタビュー(尋問)も受けた。
やがて、興ものり、話は佳境に・・・・
「あかんべ山にお願いが3つある」と言う。
1つは
*あかんべ山は全国的にも大事なコンサートだ。ぜひその1回1回を、もう1度皆で思い出し。話し合って、「あかんべ山の30年」を一冊の本にして欲しい。(僕は沢山本など出してきたので、安く出来る術は知っている。必要ならすべて教える)
2つは
*皆、自分達で歌を作ってきたのだろう。そのオリジナル、それを楽譜にし、一冊の楽譜集を作って欲しい。
3つは
*その音源も残っているだろう。是非それをCDにして欲しい。
であった。
これは、そのまま、関係した皆さんに、ここで伝えておきます。
写真・うれしい事に、何故かツーショット・・・・・♪
前日余話を2つ。
リハーサルにやって来た笠木さんと、増田さんは、ステージのロケーションを見るなり2つの注文をつけた。
1つは、ステージは舞台を背に客席と同じ高さの床にフラットに作られる。その背にする舞台下は、椅子の収納庫になっている。その扉、張られた板がはげ、穴まで空いていた。そこを何とか隠すべきだ!というのである。
そしてもう1つ。ステージの両袖はパーテーションで楽屋や袖への通路となり、裏側を見せないように仕切ってある。そのパーテーションの仕切りが足りない、あと2枚足せということだった。
仕上がっていると思っていたが、半分「しょうがね~なぁ・・」と、何とか繕ったのだった・・・
やってみると、不思議である。良い!
「お客さんを如何に、ステージ・演者に集中させるか。意識せず、自然と集中してもらうか・・だよ。」とおっしゃった。なるほどである。
フォークは時事を歌うのが好きである。
政治も、経済も、食いつく。
反戦も歌うが、反戦を実践するのは難しい。
反原発を歌うが、電気を消費し続ける暮らしを、少しでも少なくと、日々実践するのは難しい。
海や山の美しさ、自然の大切さを歌うが、生活の中で、それを大切にする生活をすることは難しい・・・。
笠木さんは、そんなことを、歌い、それを生活の中で実践しているように思う。
その笠木さん・・・最近は「歌った以上、そのように生きろ!」と、コンサートなどで叫んでる。
頭の痛い、テーマを突きつけるものだと、わりわりは思っている。
だが、言われてしまうと、僕らロストは、歌いながらも、その言葉が頭をよぎったりしてしまうのだった・・・・
すでに74歳であろうか。最近大病など患い、心配した。
まだまだ、全国のアマチュアを鼓舞し続けてほしい存在だ。
こんな出会いが出来て、僕らは幸せ者だった・・・・・・・・・・・・・。