館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

あかんべ山2011・前日の出来事。

2011-02-04 07:09:31 | あかんべ山ログ
フィナーレを迎えたあしかけ31年・30回のコンサートの始末は、僕らが付けねばならない。
僕はこの文章を「取り組んだ仲間」や「支えてくれたお客さん」に向けて書いている。
長くなり・やや如実的でない文章になるだろう。
仲間やお客さんには、出来れば読んで欲しいと持っている。ちょっと読むにつらい人達は、どうぞ、斜めに読みなさってくださいまし。


大学を出て地元に帰ってすぐ、仲間と「何かしようぜ~」と、あ~だこ~だと、話し合い「んじゃ、グループ作ってフォークでもやろう!」と、ロストの前身「館林音楽集団」なるものを立ち上げた。やっぱり、女の子も大事だよな~などと、歌の上手そうな女性なども最恵国待遇で迎え、練習などに励んだ。
僕は、大学をでて、さらに小学校の免許を取るべく、埼玉の「教員養成所」に通っていた。1981年の春であったか・・・

が、

そのグループ・・・スリーコードがやっとのギター弾き・声だけはでかいボーカルが、泥舟に乗っていただけだった・・・それでも、独身の若者は集まるだけで、嬉しかった。

フォークはもはや、ニューミュージックに衣替えをしていて、政治や暮らしの矛盾など主張をひっさげたフォークなど「変な音楽ね」と思われていた。

もはや音楽業界では商品にならないフォークだが、あの伝説の「中津川フォークジャンボリー」を立ち上げた笠木透氏は「今こそフォークは本来の作り手・歌い手の民衆に帰ったのだ」と、提唱し、日本のあちらこちらに「アマチュアのフォークムーブメント」がゆっくりだが、少しずつ広がりを見せ始めていた。

練習するだけではいつか終わる・・・フォークは思いを人前で歌って完結する音楽であった・・・

僕らは、6ヵ月後にコンサートを開こうと、目標を定めた。そしてグループの名前もフォークらしく変えようと、僕の愛して止まない、アメリカのオールドタイムのグループ「ニューロストシティランブラーズ」をぱくって、「館林ロストシティランブラーズ」と決めた。

やがて1981年12月・「あかんべ山顔見世コンサート・第一回あかんべ山」が始まった。場所は、共同保育所「ももの木」のリズム室、ほとんど義理人情で100人近い人たちが集まった。



その後、コンサートは仲間も増え・お客さんも増え、ももの木では収容しきれず、場所を今の「郷谷公民館ホール」に変えて続いてきた。2011年1月29日、30年目のあかんべ山の準備が始まった。耐用年数は過ぎ、壁や天井も怪しいこのホールは、既に新館が隣にそびえる。昔学校の体育館だったここは、幾多の旅芸人を寄せたりの風格や、「村に文化がやってくる」・・・そんな趣があって、僕らのコンサートに全くふさわしい場所であった。



準備は着々と進む。30年の熟練の技である。
やがて、名物「リハーサルうどん」。



漬物は旨い。




もはや「ゆで卵」は無くてはならないのだった・・・体を動かすのでおなかが空くのだ。



なんやかや、11時開始で3時には目鼻が付く。4時からはリハーサルに30分刻みで、出演グループがやってくる。
トップは「ソウル・ジョイ」というゴスペルグループ。あかんべ山では、5年目の新人達である。上手になった。
若いお母様から、熟女まで・・束ねる先生は男性なのだが、この中に1人とは、恐ろしいことだ・・・その者どもの子供が、走り回ってリハ。
懐かしい光景である。
独身だった僕らも、やがて結婚して、子供を産み、その子供が騒ぎ走り回った時代があった。アンケートに「子供がうるさい!」と書かれ、実行委員会は論議を重ね、「およそ分からないであろうと思われる子供たちが、コンサートの帰りの車の中で、耳に残った初めて聴いたフォークを口ずさむと言います。そんな子供たちも、その親も参加できるコンサートにしませんか?」と、パンフレットで訴え続けた。

皆、独身だったんだよな~

長い30年には、止めてゆく仲間を、何人も見送ってきた。


淋しさや、個としての自立の不確かさは、若者を集める。
その若者、結婚・妊娠・出産が、音楽を続ける第一のハードルとして、立ちふさがる。第二のハードルは子育て・・・そして今、職場では、責任ある地位で仕事に悩殺され、昨今の不況が、賃金の目減り・人員が削減されながらも仕事が減らない・物を売る生業では売り上げの減少となって追い討ちをかける。ノウテンキに歌っているように見えるだろうが、その第三のハードルに立ち尽くし「音楽を愛する・続ける」のは大変だったりしているのだ。ハードルを越えるには、意思の力が大事なことなのである。

どんな状況だろうと「歌を捨てるな!」「お前が歌わず、誰が歌う!」と僕は、すっと吼えてきた。



ユキとチエ・・・乳飲み子の頃から親に連れられコンサートにやってきたユキ。
やがて育ち、音楽を愛し、10代であかんべ山デビューをする。
こんなコンサートを作りたいと、大学の仲間チエとグループを作り、学びの場に仲間たちと「コンサート」を開いた。歌いたくて、全国を回り、やがて自分のやりたい職業を見つけ、ユキは沖縄で焼き物の修行・チエは「音楽の出来る喫茶店」を開いた。そうして離れ離れになったが、「私たちはここで育った。終わるなら出たい」と駆けつけた。
歌に人生が乗って、さらに素敵になっていた。



我が朋友のグループ「ウッドランド・リンギング」。
音楽の質で、コンサートを引っ張り続けたグループである。



ウッドランドでは、サポートに徹していたベース弾きが、初めて「ボーカルデビュー」。
「歌わずにはいられなかった」とすれば、それがこのコンサートの価値だと思った。

この後。延々と9時までリハーサルは詰まっていたが、この後僕はロストのリハを終え、本日放免となった・・・

日本の真のフォークを作り続け・全国のアマチュアのフォークを鼓舞し続けた、笠木透氏と、嬉しいことに毎年同じステージに上がることが出来ているロストであった。

昨年暮れ、栃木の佐野でご一緒した。コンサートがはねて、僕らは控え室に挨拶に行った。

OH!と迎え。

「あかんべ山が終わるのか!終わるなら俺を最後に出してくれ」と、皆の手を硬く握った。(多分僕ら男より、ロストべーべーをしっかり握っていたようにおもふ・・・・)
そして、すかさず
「ギャラはいらん!いらんからな」とのたもうた。

僕は、みんなの顔を見た。

うれしさと、驚きで舞い上がっていると、僕は見た。

あかんべ山の関係者にすぐ連絡した。皆僕らのコンサートに「笠木さん自らが来たいということに、誇りを持った」返事が返ってきた。

プログラムの変更や、少しばかりの仕事が増えたが、なんのそのである。

来る条件が1つ付いた。

「ツブク君と、ゆっくり話す時間を取って欲しい」という条件だった。

そんなわけで、リハ半ばで、僕は中座し、笠木さんの所へ向かった。彼らはリハーサルや会場を少し眺め、僕らの用意したホテル(やす旅館)にいる。迎えに行って、どこかゆっくり出来る場所で、少しのお酒付きで・・・と、考えていた。

迎えに行く道すがらは、嬉しさもあり、不安もありであった。

「きっと、今後について、色々言われるのかな~」などとね・・・・

こうして、前日は過ぎたのだった・・・・

笠木さんとの3時間はあっと言う間に過ぎた。楽しかった。
笠木さんの話は、後で、特別に書きます。





コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする